ホームページへ戻る

名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


162 414 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   fujimoto (http://www.tkchurch.comhttp://www.tkchurch.com)
Subject   元旦礼拝:イエスと共に船出する
元旦礼拝 イエスと共に船出する     2006.1.1
    
マルコ4:35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。
 4:36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
 4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。
 4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
 4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
 4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
 4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 私たちはこの元旦の朝、2006年に船出をしようとしています。私たちにとって、それは紛れもなくイエスさまと共に船出です。それは高津教会全体のことでもあります。この舟は古来、教会を象徴するものとして理解されてきました。教会とは、主イエスと共にこぎ出し、向こう岸へ渡っていこうとしている舟なのです。この船はまた、私たちの人生でもあります。主をお乗せして、私たちは2006年に船出をします。
 正確には、主をお乗せして私たちの2006年が始まるのではありません。35節には、イエスさまの方で、弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」といわれたのです。つまり主イエス自らが進んで舟に乗り込み、船出しようとされたのです。それが私たちにとっての、新しい年なのです。時間は、2005年から2006年へと流れていきました。しかし元旦に主の御前に立つとき、教会はいつもこの挑戦を聞くのです。「さあ、向こう岸へ渡ろう」。
 そして、その舟が、嵐に遭うのです。沈みそうになるのです。弟子たちの舟を「激しい嵐」が襲ったとあります。この「嵐」と訳されている言葉は、「地震」という意味の言葉です。湖の上ですから「嵐」です。地震でも嵐でも、難しい言い方をすれば、存在の基盤そのものが揺り動かされてしまう、人生が土台から揺るがされてしまうという恐ろしさです。人生を土台から揺さぶり、崩壊させていく力を、弟子たちは湖に浮かぶ舟の上で体験したのです。私たちの2006年にも、きっとあるに違いないこの嵐を考えながら、3つのことを心に留めておきましょう。


1)信仰とは?
 主イエスは、この嵐の中で眠っておられました。信じられないですね。間違いなく疲れておられことでしょう。しかし、それ以上に、主は安心しておられたのです。父なる神様の守りと導きに身を委ね、父なる神様が必ず共にいて支えて下さることを信じている姿です。
 それに対して、40節で「どうしてそんなに恐がるのです。信仰がないのはどうしたことです」と言われている弟子たちは、うろたえます。しかしそのように言いますと、あたかも、人生の様々な苦しみ、荒波の中で、主イエスを信じ、父なる神様を信じて、どんな状況においても平安を保ち、安心していることこそ、まことの信仰だ、ということになってしまいます。嵐が吹いて、船が沈みそうになってうろたえる、それでは、人生やっていけないぞ、と叱られているように思えます。
 しかし、ここでよく考え見てみますと、信仰というのはそういうことではないでしょう。嵐に翻弄される舟の中で、全員が主イエスといっしょにぐっすりと眠っていればいいのでしょうか?そんなことではないはずです。絶対に船は沈みます。あるいは、こういうのはどうでしょか。眠っている主イエスを起こしては申し訳ない、そこで必死に舟をあやつり、水をかき出し、嵐と戦っていく。やっぱり船は沈みますでしょう。
 嵐の中でも大丈夫だから、イエスさまといっしょに寝ていようと言っても、私たちだけで何とかなるから、頑張ろうと言っても、人生の基盤が揺り動かされるような嵐です。何にもしなかったら、それまでです。自分たちの力だけでも、まったく太刀打ちできません。
 主イエスはそのどちらでもなく、嵐を鎮められたのです。それは、そうしなければこの舟は助からないからです。主イエスが嵐を鎮めてくださることしか、彼らが助かる道はなかったのです。と考えていくと、信仰ってなんだったのでしょうか。それは、「イエス様がおられるから大丈夫なんだ」などと痩せ我慢ではありません。うろたえて、恐怖に包まれながら、イエスさまに助けを求めて叫ぶことです。それこそが信仰です。「主よ、救ってください。私たちは滅びようとしています」と叫ばずにはおれない――それでいいのです。

2)では、不信仰とは?
  そう考えていくと、弟子たちが不信仰と呼ばれたゆえんがわかってきます。それは、この言葉にかかっています。38節「先生、私たちが死にそうでも、何とも思われないのですか」。この「何とも思われない」という動詞は、ヨハネ10:13に出てきます。雇われの羊飼いは、オオカミがやってくると自分で逃げてしまう。羊は自分の所有ではないので、「何とも思わない」。弟子たちからすればそれは、この大事な時にイエス様は眠り込んでおられ、私たちのために何もして下さらない、ということだったのではないでしょうか。彼らが死んでもどうってことない、何とも思わない。眠って、手伝いもしないのですから、そう思ったのでしょう。

 愛香が乗り込んだフロリダ発ロス行きの飛行機が、乱気流でものすごく揺れたというのです。飛行機の中は、きゃーきゃー、叫び声でアメリカ人はすごかった、と。飛行機事故を耳にしますから、恐怖も当然でしょう。私は船は乗りませんが、飛行機は乗りますので、この福音書の箇所は、飛行機だとしたらよくわかります。
  5年前、直樹といっしょにアメリカに行きましたときに、ミシシッピーのジャクソンから飛んだ、小型ジェットがヒューストン近くでものすごい嵐に巻き込まれました。飛行機というよりは、ジェットコースターです。雷の中につっこんで、着陸するのですが、滑走路で1時間も動きませんでしたよ。バケツをひっくり返したような雨でした。
 あのとき、どうしてみんな冷静でいられたか不思議です。気分が悪くて、叫び声も上げられない、というのが実際でしょうが……パイロットは、穏やかな声で、現状をずーっとアナウンスしてくれました。自分の判断も、管制塔の指示も、丁寧に。
 そのうち思いますよ。ああ、このパイロットだって、無理はしないだろう。なにしろ、同じ飛行機に乗っているんだから。彼のいのちと、ぼくらのいのちは、一つにつながっているから、いい加減な判断をするはずはないって。

 イエスさまは、この船に乗っておられるのです。この教会という船は、私たちの人生という船は、イエスさまのものです。もとをたどれば、私たちにいっしょに乗ろうと、招かれたのはイエスさまです。それがクリスチャン人生です。そして、私たちは主のものです。ヨハネ10:14「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものはわたしを知っています。わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」
  何とも思わないどころか、私たちのためにいのちを捨てて、わたしたちをオオカミから守ってくださる主に対して、「何とも思わないのですか」「私のことなどどうでも良いのですか」と考えることが不信仰なのではないでしょうか。
 信仰とは、主に叫ぶこと。不信仰とは、主の愛を疑うこと。

3)嵐の体験を通して、弟子たちはあらためてイエスさまを見つめなおします。
 41節「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
 数分前まで、荒れ狂う嵐と湖に恐怖をいだいていた弟子たちが、嵐を沈めたイエスさまを前に、この方に驚きと恐れを抱いているのです。
 状況に対する恐れが、神に対する恐れに変わります。そしてあらためて、「いったいこの方はどういうかたなのだろう」とキリストを見つめ直しているのです。驚きと共に、恐れおののきながら、この方の力と恵みを見つめ直しているのです。
 そうでなければ、嵐の体験は意味がありません。私たちが信じて、信頼している主イエス・キリストを何度も見直すために、主は私たちを招かれるのです。さあ、新しい年へと船出をしよう。

ユージン・ピーターソンというカナダの神学校の先生が、こんなことを記しています。
 彼の知り合いに、ロッククライマーの青年がいるのです。絶壁を上りながら、ロッククライマーは、ピトンとかハーケンと呼ばれる、金具を岩に打ち付けて命綱を固定しながら、上っていきます。ピーターソン先生は、そのたとえを使って、私たちが体験する勝利や試練、喜びや悲しみにおける祈りがすべて、ハーケンとなって、私たちの命綱を支えるというのです。
 信仰を込めた祈りを、人生という岸壁に打ち込みながら、私たちは天の御国へと上っていく、というのです。そのようにして上りながら、絶壁の厳しさではなく、むしろキリストの愛の確かさ、その力強さ、憐れみの深さに驚くような信仰者でありたい。
 絶壁のものすごさではなく、その絶壁を登ることを可能にしてくださる主の力に恐れおののく者でありたい。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2006.01.05 - 15:13

221.114.25.28 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1)

Name   E-Mail   Password

 前文 一冊の聖書が……
 次文 アドベント3 わたしを迎えなさい
文章投稿 *^^*削除修正返答を書く検索目録を見る。... *^^*

チェックされた全文書を見る
126Simple view *^^*「二人のかくれた弟子」(棕櫚の聖日) [1] fujimoto 2006.04.16 13346
125Simple view *^^*救いの衣に被われて(聖餐式) [1427] fujimoto 2006.04.16 653527
124Simple view *^^*イエスに出会った人びと(19)――ペテロ fujimoto 2006.04.16 5446
123Simple view *^^*イエスと出会った人びと(18)――ヤイロ... fujimoto 2006.04.16 5548
122Simple view *^^*イエスに出会った人びと(17)長血の女 fujimoto 2006.03.31 5358
121Simple view *^^*イエスに出会った人びと(16)――主が心... [2] fujimoto 2006.03.31 1446
120Simple view *^^*イエスに出会った人びと(15)――イエス... fujimoto 2006.02.08 5902
119Simple view *^^*水を汲むしもべ fujimoto 2006.02.08 6136
118Simple view *^^*イエスと共に湖の上を [4] fujimoto 2006.02.08 1847
117Simple view *^^*一冊の聖書が…… [1272] fujimoto 2006.01.28 2723
116現在参照中の文章です...元旦礼拝:イエスと共に船出する fujimoto 2006.01.05 323
115Simple view *^^*アドベント3 わたしを迎えなさい [5] fujimoto 2005.12.16 181
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
前へ戻る 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*