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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto (http://www.tkchurch.comhttp://www.tkchurch.com)
Subject   イエスに出会った人びと(16)――主が心を開かない人びと
イエスに出会った人びと(16)――主が心を開かない人びと              

ヨハネ2:23−25
 22それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
 23イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
 24しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
 25また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

    
 先週の月曜日でしたか、ニュースで5歳の青木鈴花ちゃんが東大和市の保育園にお父さんに連れられて投稿している映像が映っていました。息を吸うときに気管がふさがる病気のため、定期的に吸引器で痰を吸い出すことが必要ですから、入園がむずかしかったのですね。私はその日大阪の神学校で講義をして、くたくたになってホテルに帰ってきました。
 そして、自分の疲れ切った顔から笑顔が出てくるのがのがわかりました。それは、テレビを見ている方々みながそうだろうと思います。鈴花ちゃんが、家から出てきて、報道陣に向かってあの笑顔で「おはようございます」と頭を下げる姿。「保育園で何が楽しみなの?」と聞かれて、にっこりと「おままごと」という姿。日本広しといえども、あれほどの笑顔があるのでしょうか。
 そして、心から保育園に行きたいんですね。金曜日に帰ってきまして、今度は難病と闘う子どもたちの特集を見ました。みんな学校に行きたいのです。病気の問題もさることながら、みんな学校に行きたいのです。学校に行きたいというのは、正確ではないかもしれません。みんな、他の子どもたちとお友達になりたいのです、いっしょに勉強して、いっしょに遊んで、いっしょに遠足に行きたいのです。子どもは、子どもが好きですね。
 私たちは、人間が好きでしょうか? いやそれほどでもないかもしれません。しかし、私たちが子どもを見て、勇気づけられるのは、子どもたちが基本的に人間を信頼し、人間が好きで、人間に愛されたい、愛したいと心底思っているからではないでしょうか。それを逆手に取る犯罪が、いちばん凶悪です。子どもたちも、現実の厳しさを学んでいくのでしょう。しかし、どこまでも、人間が好きでいたい、人を信頼したいとも思います。
 イエスさまがそうでした。初対面で,当時の社会でははみ出し者であった取税人ザーカイに対して、「今日、私はあなたの所に泊まりたい」とおっしゃるのです。誰も好きこのんで、ザーカイといっしょの屋根の下にいたくない、食事もしたくない、そう思っていたことでしょう。しかし主はよろこんでザーカイの所にいらっしゃいます。
 もっと典型的なのは、パリサイ人シモンの家で食事をしていたときのことでしょう。一人の罪深い女性が、イエスさまの所に泣きながら入ってきて、ひざまずいて、イエスさまの足をぬらし、それを髪の毛でぬぐっています。その時周りの人たちは言いました。「あのイエスは、何にも知らない。知っていたら、あの女にあんな事をさせるはずがない」。いや、イエスさまはご存じでした。世間知らずではないのです。しかし、小さな子どもが人間が大好きであるように、胸元を開いて受け入れて、笑顔を持って暖かく迎え入れてくださいます。
  イエスさまの、この人を裁かない姿勢、温かい心の故に、日頃人目を避けて生きていた人びとがイエスさまの所にやってきます。多くの貧しい人びとが、病気で苦しんでいる人びとがやってくるのです。それほど、イエスさまは人びとにオープンな方でした。
 さて、そのように考えていきますと、イエスさまがさまざまな人びと出会ってゆかれる中、この記事は興味深いではありませんか。24節に「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかた」とあります。別の訳では、「信用しなかった」となっています。もともと、この動詞は、その前の23節と呼応して、同じ動詞なのです。つまり、人びとはイエスさまを信じました。人びとはイエスさまに身をゆだねたのです。信用したのです。しかし、イエスさまは彼らを信じませんでした。信用しませんでした。だから、ご自身を任せることも、ゆだねることもなさいませんでした。イエスさまは彼らに心を開かなかったのです。

私たちは、この記事をじっくり考えてみなければなりません。

1)この、いつもとは違うイエスさまの態度を決定しているのは、23節のイエスさまを信じたと言われている人びとの信仰のあり方でしょう。彼らがイエスさまを信じたのは、「その行われたしるしを見て、信じた」と記されているからです。
 しるしとは、奇跡のことです。奇跡は、信仰への入り口になることは間違いありません。しかし、私たちの思いがしるしそのものに留まっているなら、それは信仰とは呼べないのです。
  ヨハネの福音書では、特にこのことが警戒されています。6:24−26「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」。イエスさまは、奇跡をもって何千人という人の空腹を満たされました。それ以来、多くの群衆がイエスさまの回りに集まってきます。しかし、イエスさまは距離を取られます。
 群衆がイエスさまを信じて、後を追い回しているのは、イエスさまを求めてではない、しるしを求めて、奇跡を求めて、追い回しているのです。「パンを食べて満腹した」という言われているように、要は、自分の願望が満たされたからです。
 信仰といっても、もし私たちの信仰が、自分の願望が満たされていることに依存しているのなら、願望が満たされる限りイエスさまについて行きますが、いったん自分の思い描いた願いが退けられたと思うと、イエスさまのもとを去っていきます。それが群衆であり、それがユダだったのです。
  それは、一言で言えば、イエスさまを利用するだけの信仰です。身を任せると行っても、それはイエスさまに利用価値があるときだけです。しかもその利用価値は、自分が勝手に造り出したものです。ユダは、イエスさまがローマ帝国に反乱を起こして、イスラエルの回復を実現してくれるものだと、思いこんでいました。ですから、思い通りに行かなければ、イエスさまの無力に失望し、イエスさまのもとを去っていきます。

2)イエスさまは、信用できる信仰を探しておられる、ということです。
 信用できる信仰に、ご自身をゆだねようとされているということです。そのような信仰に、ご自身を任せようとされるのです。これは実に貴いことではありませんか。ご自身の思いを、ご自身の愛を、ご自身の力を、この人にゆだねよう、という人を探しておられるのです。
 そういう人は、誠実な人なのでしょうか。真実な人なのでしょうか、できる人なのでしょうか、人並みはずれた人なのでしょうか、熱心な人なのでしょうか? そうかもしれません。でも、この箇所を裏返しに読んでいくとわかるではないですか。
  イエスさまがご自身をゆだねる人とは、イエスさまが信用されてご自身を開いていく人というのは、自分を願いを果たすためにイエスさまを利用するだけの人ではなく、子どものようにイエスさまが好きな人、イエスさまイエスさまと、にこにこしながら、イエスさまのことを慕う人なのです。
 主がご自身をおゆだねになる、という表現で深い洞察を得ることができるイメージがあります。それは、クリスマスの時、生まれたばかりのイエスさまは、ご自身を馬小屋の飼い葉桶におゆだねになりました。しめった、暗い馬小屋です。そして、きれいなゆりかごとはほど遠い、飼い葉桶です。飼い葉桶には心はありませんが、イエスさまは、その中にご自身をゆだねることを由とされたのです。
 私たちの心は、私たちの人生は飼い葉桶のように暗く、汚いものかも知れません。しかし、主をお迎えするために、この心を開くのです。主は喜んで、その中にご自身を横たえて、なんと私たちの内側で休んでくださいます。寸でくださるのです。
 私は、あの保育園に行く鈴花ちゃんの笑顔を見てつくづく考えてしまいました。あんな顔で、礼拝に行けたらいいな。教会に行ったら、何をしたいの?って聞かれたら、単純に賛美したいの、お祈りしたいの、神の語りかけを聞きたいの、って言えたら、イエスさまは、「そうか、そうか、よく来たね。わたしの懐にいらっしゃい」、そう言って、私たちを迎え、またご自身を私たちにゆだねてくださると思うのです。



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DATE: 2006.03.31 - 23:06

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