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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto (http://www.tkchurch.comhttp://www.tkchurch.com)
Subject   イエスに出会った人びと(17)長血の女
イエスに出会った人びと(17)長血の女

マルコ5:25−34
 24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
 25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
 26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
 27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
 28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
 29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
 30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
 31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
 32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
 33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
 34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」


 今朝は、みなさんがよく知っておられる福音書の記事を取り上げました。話の背景も流れもわかっておられるでしょうが、簡単に復習しておきましょう。
 ある女性が12年間、出血が続いて止まらないという病を患っていました。古代の世界で一番避けられている病が、皮膚に関するものと血液に関するものです。人目に触れるという感じ方もあるかもしれませんが、感染を恐れていたのでしょう。特に旧約聖書の世界では、決定的です。家族との接触さえ、禁じられていました。宗教的にも、神殿にはいることができません。ですから、27節にあるように人混みに紛れてはいけないのです。誰かと接触して、感染するといけません。
 マルコの福音書を見ますと、この女性は、いろんな医者にかかって、財産を全部使い果たしたとありますが、様々な療法があったことでしょう。迷信的なもの、民間療法的なもの、よくわかります。何をするにも、お金がかかります。治るどころか、ますます悪くなっていたと記されています。
 それが、ある日、イエス・キリストが町にやってきたというニュースを耳にした。人々は、イエスさまの後をぞろぞろ付いていきます。遠くから見ていたことでしょう。真っ暗な部屋で見つけた、わずかな光です。彼女は、どさくさにまぎれて、イエスさまに近づきました。わずかに見えた光の方へ、咄嗟に手を出した。彼女は、「イエスさまの着物にさわることができれば、きっと直る」と思ったのです。

さて、見ていただきたいのは、ここからです。
1)「群衆の中に紛れ込み、後ろから、イエスの着物にさわった」(27節)
 彼女の信仰に、さまざまなことが含まれています。まず、遠慮です。紛れ込む、後ろから、ということばに、あるいはこの方の着物の端にでもさわる、という表現の中にこの女性の何とも言えない遠慮があるではないですか。声をあげて叫ぶこともできない、振り向いてくれるかもわからない、だから後ろからさわるだけなのです。だれかが彼女の存在に気が付いたら、厳しく責められるところです。
 そして、そこにあるのは勇気です。仮に彼女がお着物にさわることができるなら、きっとわたしは直る、と建物の陰から何千回行っていても、直らないのです。勇気を振り絞って、前に第一歩を踏み出す、という行動に、何とも言えない勇気を感じます。おそらく咄嗟の行動でしょう。しかし確かな行動でした。人を押しのけてまで、主のところに行くのですから。
 そして、その信仰は謙虚でした。お着物にさわることでもできるのなら。ルカの福音書では、「着物のふさ」と記されています。イギリスの建築家に、ジョン・シンプソン卿という有名なクリスチャンがいます。ビクトリア女王からナイトの称号を受けたと聞いています。特に病院建設に力を注いで、ロンドンを初め、イギリス中に大きな病院を建設していきました。
 彼が年を経て、死が近づいたとき、友人が彼に尋ねます。「もうすぐだよ。イエスさまの腕に抱かれて、天国で憩うんだよ。君は」。かすれた声でシンプソン卿は言いました。「いや、それはわたしにはあり得ない。主のお着物のふさにでも触ることができるのなら、それこそが私にとっての最高の栄誉だ」。
 私たちも様々な問題にぶつかるたびに、この女性の口に上った言葉を借りていいます。繰り返し、繰り返し、主よ、あなたのお着物のふさに触るだけで、私はいやされるのです、この問題は解決されるのです。私の前を通ってください。私がいくつもの障害を乗り越えてでも、あなたに触れる勇気をください。

2)「イエスの前に出て……真実を余すことなく告げた」(34節)
 イエスさまは、力が抜けていくのを感じました。そして、誰が触ったのか、回りを見渡して探されます。ここで、女性は33節にあるように、「イエスの前に進み出て」いきます。動きは明確です。後ろから近づいた女性は、ここでイエスさまの前に進み出るのです。
  そして前に来るように、主は探しておられました。わたしの恵みを受けた人は、だれだ、どこにいるのか、と。私たちを捜しておられるのがわかります。
 ルカの福音書8:47「女は、隠しきれないと知って、ふるえながら進み出て、御前にひれ伏した」。マルコの福音書では、「真実をあますことなく打ち明けた」と、どちらの表現も感慨深いです。何を告げたのでしょう。
 私はある牧師先生からこんな話を聞かされたことがあります。ここに登場する女性と似ているのかもしれません。その教会では、洗礼を受けるときに、自分が一番恥としている罪を一つ紙に書いて、それを十字架にピンで留めるということを習わしとしていたというのです。一人の女性が洗礼を受けた後に、その先生に手紙をくれたそうです。
 私は、あのときの恐怖を忘れません。紙切れにものすごく小さな字で、私が一番後悔している罪を書きました。小さな字で、「中絶」って。もし誰かが、あの紙を開いて、その字を見て、それが私だって知られたら、どうしようって、もう恐くて恐くて仕方がありませんでした。紙に字を書いてから、それを握りながら、席を立って、礼拝堂から出て行こうかとも迷いました。
 私の番がきて、十字架に向かって歩いて、紙切れをそこに留めました。洗礼を授けていただくために先生の前に立ったとき、先生は私をじっと見ておられました。きっと、この先生は、私が長い間秘密にしていたことをみんなの前でおっしゃるのだ。
 しかし、先生の目は違いました。先生の洗礼を通して、神様の愛が私に注がれました。「わたしはあなたを愛する。あなたの罪はゆるされた。安心して、生きて行きなさい」。先生の目は、そういう目をしておられました。
 イエスさまに真実を告げて、拒まれることはありません。それが、この言葉に表されています。34節「娘よ。あなたの信仰があなたをなおしたのです。安心して帰りなさい。」 

3)「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです」(34節)
 病気が治ったのです。しかし、ここで使われている言葉は、もっと大きな言葉で「救った」「救われた」とイエスさまはおっしゃいました。それは、続いてイエスさまは、「安心して帰りなさい。病気にかからず、健やかでいなさい」とおっしゃいます。
 病気の問題だけではないのです。安心してという言葉は、新約聖書のギリシャ語では「エイレーネー」、旧約聖書のヘブル語では「シャローム」です。それは平安とか、安心と、いわゆる心の問題ではなく、神の恵みがあなたの人生を包みますように、ということなのです。
 この女性は、神の子どもとされました。祝された人となれ、健やかであれと主はおっしゃいます。いや、主のこの「命令」が、彼女の人生をその方向へと導いていくのです。あなたは、祝された、幸いな人となる。あなたの病がいやされただけではない、あなたは神の御前に出て、真実を話し、わたしの救いを受け入れたのだ、と。

 私たちは、イエスさまとそういう出会いをしていなければいけないですね。こんな話を聞いたことがあります。昔の病院で、ある患者さんが精神的に正気かどうかをこんな方法で試したというのです。患者さんを洗面台の付いている病室に連れて行って、それから洗面台の蛇口を思いっきり開きます。
  水がざーっと流れていきます。洗面台の排水口に栓をしまう。それから、患者さんにモップを持たせて、水が洗面台からあふれて、床に流れ始めたところで医者は部屋を出て行きます。やがて、水は、洗面台からあふれて、床にどんどん流れていきます。
 そこで、患者さんが手にしたモップであふれてくる水を一生懸命拭き始めたら、その人はアウトです。もし、患者さんが、蛇口の栓を閉めて、それから床に流れた水をモップで拭いたら、正常と見なすというのです。
 私は実話ではないと思います。いや、実話かもしれません。しかし、正気でいる私たちにとっては、教訓めいていることは事実です。私たちに蛇口の栓をしめることはできるのでしょうか? それは難しいのでしょう。ともかくあふれてしまう水にびっくりして、あわてて、それをモップで拭くことに全神経が行ってしまうのです。
  そういう状態で私たちはイエスさまのもとに来ます。何とか、その御衣のはしにさわることでもできるならと必死です。そんな私たちの人生に、主は出会ってくださり、まずあふれるほど心配の水が流れ出る蛇口を閉めてくださいます。娘よ、平安あれ。わたしが蛇口の栓を閉めた。あなたの信仰を見た。
 わたしがあなたを幸いな人にしよう。すこやかでいなさい。主を礼拝するたびに、主はそのように私たちと出会ってくださるのです。

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DATE: 2006.03.31 - 23:15

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