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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   「二人のかくれた弟子」(棕櫚の聖日)
「二人のかくれた弟子」(棕櫚の聖日)


 今日からはじまります受難週・・・クリスチャンにとって、最も意義深い1週間です。一日、一日を、確認するように黙想を使っていただきたいと思います。福音書は、このイエスさまの最後の1週間に多大な紙面を割いています。マタイは28章中、8章。マルコは16章中、6章。ルカは24章中、6章。ヨハネは21章中、なんと10章(半分が、この1週間のために)です。
 しかも、その記述は、一日、一日です。朝になると、その日の夕方になると、その夜、と一日を追いかけていきます。十字架の金曜日になれば、時間刻みで、記述が進められます。受難週は、一日一日を聖書の記事のように大切に主の御前を歩みたいと思います。
 今朝、私はこの受難週の最後の出来事にスポットを当てるように導かれています。それは、イエス様の体の埋葬。正確に言えば、遺体・死体の埋葬です。旧約聖書の中には、埋葬の記事が幾つも登場します。きちんと埋葬される、それは人間の尊厳にかかわることです。埋葬されないとは、大変な屈辱を意味します。地獄にたとえられるゲヘナがありますが、もともと葬されない死体の捨て場所であったようです。
 旧約聖書では、身内や友人が遠くの国で戦争で死んだとすれば、その遺体を捜しに出かけます。どんな犠牲を払っても、正式に葬ってあげたい。それは、旧約聖書のユダヤの人々の感覚でも同じでした。私たちの日本人の埋葬感覚と非常に似ているといってもいいでしょう。海で遭難し、山で遭難し、遺体が上がらない。きちんと葬れない・・・それは遺族にとって、痛恨の思いです。
 ところが、その反面・・・死体を忌み嫌う感覚が、ユダヤ人にも日本人にもあります。死体に近づく、触れるとは、汚れを意味します。民数記19:11「どのような死体でも、触れる人は7日間汚れる」。汚れるという言葉は使わなくても、死んだ体に触れることを、私たちは嫌がります。お医者さんや看護婦さん、葬儀屋さん・・・本当に貴い仕事だなと感じるのは、こういう時でもあります。身内の私たちでもなかなかできないことを、代わりにやってくれるのです。
 その仕事を、二人の男たちが行いました。背中には鞭うたれ、茨の冠をかぶされ、顔中血だらけのイエス様。手の釘後からは、骨が見えていたでしょう。わきは、槍でつかれ、その後が生々しく残っています。この二人は、十字架から下ろされたイエス様の体を抱えます。自分の衣服にも血がつきます。次に、イエス様の体を拭きます。それから、埋葬の準備にとりかかります。

今朝は、ここを2つの点からご覧いただきたい。
 1)この埋葬の仕事の中に、どのような意義が隠されてい  るのか。
 2)だれが、この仕事をしたのか。
     ・・・聖書をじっくりと見ていただきたい。

1)死体の埋葬について、もう一度、このヨハネの福音書から考えてみたいと思います。これが、ユダヤ人の感覚にしてどんな仕事だったのか、もっと深くとらえて見ましょう。
 18:28。金曜日の明け方、イエス様を死刑に決定したユダヤ人の全議会は、その刑を求刑するために、ローマの総督ピラトの官邸へと、イエス様を連れて行きます。ところが、ここに興味深い記述があります。祭司たちは、「汚れを受けまいとして」、これに最新の注意を払っていた。特に、この晩の過越の食事が食べれなくなってしまうのです。
 異邦人の官邸にはいることが、なぜ汚れとなるのでしょうか。その官邸では、ユダヤ人が汚れているとみなしていた食べ物や習慣ががあります。総督の邸宅にさえ、入ろうとしないのです。それほどまで、神経質でした。
 もう一つ、ヨハネは注目します。19:31。「備え日」・・・安息日の前の日、金曜日。金曜日の夕方6時には、安息日がはじまります。死体を十字架に残しておかないように。申命記21:23に「木に吊るされた者は、神に呪われた者」としるされています。これをパウロはとって、ガラテヤ人への手紙の中で、こう言います。「キリストは私たちのために呪われた者となって、私たちを律法の呪いから贖いだしてくださいました。」律法の書には、罪人はすべて呪われると書かれています。罪ある者は、一人として神の祝福を受けることができない。その私たちに代わって、イエスさまは十字架にかかり、呪いをうけ、私たちに祝福の道を開いてくださった、とパウロは説明しているわけです。
 あらためて、ユダヤ人の感覚がわかります。ローマの習慣では、十字架はさらし者の刑です。さらすことに意味があるのでしょう。しかし、ユダヤ人の感覚では、十字架の上に遺体があるというだけで、大きな問題です。それが、安息日にあるとしたら大変です。しかもヨハネ19:31「大いなる日」・・・過越の祭の安息日です。
 死体に関するユダヤ人の感覚をあえてあげているのは、ヨハネの福音書だけです。そして、その後で、二人の弟子たちが、イエス様の体を埋葬した記事をヨハネは詳しく記しています。そこにヨハネは、大きな意義を見いだしたからです。
 モツヤクとアロエを合わせたものを、30キロも。モツヤク:死臭を消すための強烈な薬草のブレンドです。それに香料:同じ役割です。二人は、それをこねて、体に塗ります。40節。二人は、死体にさわります。あれほど、死体の接触を嫌うユダヤ人の中で、この二人は、備え日に、イエス様を葬ったのです。なぜでしょうか・・・イエス様を慕い、イエス様を愛していたからです。
 モツヤクの臭いは、全身につきます。遺体を墓に納めた返り道、回りの人は彼らを避けたはずです。「うっ、これはモツヤクの臭い」。回りの視線が、この二人に集まります。「死体にさわったな」。手を洗っても、簡単に消えないモツヤクの臭い。しかし、この二人は、別に恥じる様子もなく、モツヤクの香りを運んで、帰って行きました。
 モツヤクの香りは、十字架の香りです。それは福音の香りです。それは、キリストの十字架を誇りとし、十字架に触れた人の人生から、自然にただよう香りです。どんなに隠して、隠しきれない。イエス様を愛するとき、私たちの内側のどこからかもれてくる、十字架の香り、キリストの香りです。

2)さて、二番目の点をご覧ください・・・イエス様を葬るという勇気ある、愛の行動をとったのは、誰かということ。
 アリマタヤのヨセフは、ここではじめて登場します。ヨハネの記述38節では、「隠れた弟子」となっています。ルカの福音書では彼がユダヤの全議会の議員であったと記されています。彼は、神を恐れ、議会の計画や行動には同意しなかったと記されています。しかし、その立場上、彼は、自分がイエスさまの弟子であることをいままで隠してきました。
 もう一人がニコデモです。「前に夜イエスのところに来たニコデモ」、それは3章の出来事です。彼は、ユダヤ人の指導者の一人です。彼もまた、回りの状況からみて、自分がイエス様を信じていることをひた隠してきました。
 アリマタヤのヨセフとニコデモ、二人とも、イエス様の隠れた弟子でした。隠れた弟子でありながら、確かな信仰をもっていました。そして、なんと他の弟子たち全員が逃げてしまったとき、この二人は、自らの信仰を明らかにして、イエス様を葬ったのです。この二人が、血だらけのイエス様を十字架から下ろして、だかえて、イエス様の体を拭いて、モツヤクをぬって、墓に納めたのです。隠れていましたが、この二人は真実に主を信じ、主を愛していました。
 信仰というのは、時に隠れていてもいいのです。状況によりますが、社会にあって、家庭にあって隠れキリシタン、というケースもありましょう。しかし、信仰は、たとえ隠され、人目につかなくても、確かなものであってほしいのです。必ずいつか、それを現すときが来ます。そのときがきたら、恥じることなく、大胆に、勇気をもって、十字架の香りを運ぶものでありたいと私たちは皆願っています。
 ある大都会の片隅に一人の新聞売りの少年が立って、とあるショーウィンドウの中を眺めていました。中には、十字架の場面を描いた一枚の絵が飾ってあります。ふつうの十字架の絵とは違います。それは、救い主が十字架につけられる寸前の、暗い空気を伝えていました。地面には、荒削りの十字に組まれた木がおかれています。そして、ハンマーと太い釘がおかれています。兵士たちは、処刑の命令が降るのを待っています。イエス様はの御顔は、拷問でやつれ、しかし天を仰いでいます。
 少年がふと横を見ると、いつの間にか、たくましい大きな男の人が横に立って、同じ絵をじーっと眺めていました。少年の口から、思わず、言葉が出ました。「ほら、あれがハンマーだ。そばに釘がある。あれが十字架だよ。あの人がイエス様だ。そして、ほら、あそこの兵隊が、イエス様を釘で十字架につけようとしている。」
 男の人は、こらえきれなくなって、顔を背けて歩きだしました。少年は、思わず彼の後を追いかけて、その顔をのぞき込んで言いました。「おじさん。どうしてイエス様があの人たちにあんなことをさせたのか、知っている?ぼくたちを、愛していたからだよ。ぼくたちを救うためだよ。ね。」
 はたして、私たちは、どうやって、この十字架の主に答えるのでしょうか。これを考えずに、受難週を過ごしても、全く意味のないことです。地味な信仰でも、主に誠実を尽くすことはできる。隠れた信仰でも、それを確かに表すことができる。あの十字架の香りを恥じとせず、あの十字架に背を向けず、それが神の力であることを証しできますように。

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DATE: 2006.04.16 - 23:10

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