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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto (http://www.tkchurch.comhttp://www.tkchurch.com)
Subject   イエスに出会った人びと(21)――トマス
イエスに出会った人びと(21)――トマス 

ヨハネ
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
 20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
 20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

 20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

 20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

1)信じたいけど、信じられないトマス
 トマスはどのような意味で疑っているのでしょうか。実証主義的に、25b「私は、その手を槍でつかれたイエス様の脇に差入れるまでは信じない」と言っているのでしょうか。彼は、完全に疑って、そんなたわごとなど信じたくもない、といって、跳ね除けているのでしょうか。
 いいえ。そうではないと思うのです。私は、トマスは信じたかったと想像するのです。できたら、その場に自分もいあわせて、信じてしまいたかった。しかし、その場に居合わせることはできませんでした。そして単純に信じるに至らせない、何かが心の中にあったのでしょう。
 クラレンス・マッカートニーという学者が、トマスの疑いをこんな風に分析しています。すべての疑いの中で、最も深いのは、我々の人生経験から生まれた疑いだ。批評家の書斎で生まれる疑いなど、たいしたことはない。宗教学の論争で生まれる疑い、科学の発達の過程で宗教にかけられる疑いも、深いものではない。信仰の妨げとなる疑いは、科学の実験室や、思想家の研究などで生ずるものではない。すべての疑いの中で、最も深いのは、そして信じる妨げとなる疑いは、人生と呼ばれる奇妙な体験の中で生まれてくる。
 キリストの処女降誕が生理学的に行って可能だろうか、そんな疑いは神がいれば可能であり、神がいなければ不可能である、という単純なものに過ぎない。しかし、初めて与えらえれた愛する子供を亡くした母親の疑い、果して神などいるのだろうか、果して子供は天国へ行ったのだろうか、という疑いは、はるかに深く深刻である。
 創世記に書いてある天地創造が真実かどうか、それもまた神がおられれば、天地創造となるし、神がおられないと言う人には進化論を信じるしかほかはない。だが、子供の頃から父親にけなされ、踏みにじられ、そんな体験をしてきた人が、天には限りなく愛に満ちた父なる神がおられる、そんなことは信じられないという疑いは、はるかに深刻なものがある。
 すべてのこと、あい働きて益となる、本当だろうか。何億という人間の一人、その私を愛し、私の最善を願っておられるとは、心のどこかで信じたい。でも、それをためらわせるような要因が、そこら中に転がっているではありませんか。
 私たちほとんど、どのような思いで、教会に通い、家庭集会に通い、求道していたのでしょうか。おそらく、教会に通いながら、キリスト教の誤りを発見しようとか、キリスト教に挑戦しようとか、そんな思いで椅子に座る方は、数から言えば少ないでしょう。本当は行きたくない教会に、無理やり行っていたのでもないでしょう。いつも、信じたい、何とか信じたい、信仰をつかんでみたい、と思いながら通っていたのではないでしょうか。そう思いながらも、疑いも、躊躇も、ためらいも心の中でうごめいているのです。信じたい。しかし、踏み切ることができない。
 そういう思いがトマスにあったと思うのです。トマスは言いました。「みんな、私は信じないよ。もう信じられないよ。私が生命をかけてきた主は、あのゴルゴダの丘の上で、みんなにののしられながら、裸にされて、無力に、無抵抗に、なさけなく、はりつけになったんだ」。それでも、心のどこかで信じたいものです。その信じたいという思いが、祈りのようになって出てきます。――「私は、その手に釘の後を見、私の指を釘のところに差入れ、また私の手をその脇に差入れてみなければ、決して信じない」。

2)イエスさまは、トマスにどのように出会ってくださったのでしょうか。
 まず、心の扉をすり抜けるように、不思議に入ってこられます。トマスの心は、26節の「戸は閉じられていた」という言葉にあるように、固く閉じられていました。その中へすり抜けるように、突然イエス様の方で入ってこられたのです。そうして、一言「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいます。イエスさまは、トマスのためらい、トマスの躊躇を理解しておられました。ためらっているトマス、躊躇しているトマスをきびしく叱って、「不信仰者・頑固者」と主はおっしゃっていません。
 もしかしたら、弟子たちの間では、そのような批判が出たかも知れません。
  「私たちは、本当にみた。あれは、主だ、イエス様だ」
 「みんな信じたのに、おまえは、何という頑固な」
 「トマス、おまえは、素直じゃないね」
 しかし、イエスさまは、そうはおっしゃいませんでした。
 26ー27a「平安が、あなたがたにあるように。さあ、あなたの指をここにつけて、私の手をみなさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい」。
 トマスが、自分の手を脇の槍の傷跡に差入れるまで、信じない、と言ったとき、イエス様はそこにはおられませんでした。しかし主は、トマスの言葉を聞いておられました。心の中のためらいを知っておられました。主は、「信じたい」と思いながらも、ためらっている人の気持ちを理解して、そして助けてくださいます。
 「トマス、ほら、これが見たかったのだろう、手の傷をさわってごらん、脇に手を差入れてごらん。まちがいなく私だ。あなたを愛して、あなたを導いてきた私だ」
 そうして見せられた傷跡は、十字架の傷跡でした。トマスは、十字架の傷跡を見せられ、それに触れるように言われます。「疑っていないで、確かな証拠に触れてご覧」と、でも、それだけではないでしょう。しかし、「十字架の傷跡に触れる」というのは、更に深い意味があるのではないでしょうか。この十字架は、主がトマスを愛しておれれるということのしるし。この傷跡は、主がトマスの罪を背負われたということのしるし。この傷跡は、彼の罪が赦されたことのしるしです。
 そして、トマスに出会ってくださった主は、おっしゃいます。27c「信じないものにならないで、信じるものになりなさい。」生活の中で生じてくるためらい、苦難の中でフツフツわいてくる疑い、試練の中で信仰が揺らぐ、疲労の中で賛美が消えてしまいます。イエス様は、私たちの閉じられた心の中に入ってきて、おっしゃいます。
 「信じないものにならないで、信じるものになりなさい」

 「神が私たちの味方なら、誰が私たちに敵対できるでしょう」――信じないものにならないで、信じるものになりなさい。

 「神を愛する人々、すなわち神のご計画にしたがって召された人々のために、すべてのことがあい働いて益となるのです」――信じないものにならないで、信じるものになりなさい。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われるのです」――信じないものにならないで、信じるものになりなさい。

 「みよ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」――信じないものにならないで、信じるものになりなさい。

 「私の恵みは、あなたに十分である」――信じないものにならないで、信じるものになりなさい。

 「主の山には備えあり」――信じないものにならないで、信じるものになりなさい。

 「あなたの神、あなたの主である私が、あなたの右の手を堅く握り、恐れるな、私があなたを助けるといっているのだ」――信じないものにならないで、信じるものになりなさい。

 「信じないものにならないで、信じるものになりなさい」
 そのイエス様の命令が、トマスの心に入ったとき、彼は変えられました。トマスは、そこにひざまずいて、「私の主、私の神」と叫びました。イエスさまが救主であること、自分を愛して、自分の心を変えてくださったことを知ったのです。

3)私たちへの招き・挑戦です。
 最後に主は、トマスと、私たちにおっしゃいました。29節「見ずに信じる者は幸いです」。私たちに対する、信仰への招きです。挑戦です。
 確かに、心を変えるのはイエスさまのお仕事です。主が扉のように閉じられたこの心に入ってきてくださらなければ、どうしようもないのです。しかし、それでも「信じる者になりなさい。見ずに信じる者は幸いです」と、ご自身を信じるようにイエスさまは、招いておられます。
 私たちが、お店に入って、ぶらぶらしていると、微妙な視線を店員さんから感じるときがありますよね。アメリカですと、「May I help you?」と近づいてこられます。不要でしたら、間単に「いや、けっこうです。見ているだけです」とすませればいいのです。
 私は日本でなかなかそれができません。「何かお探しですか?」といわれると、なかなか逃げられないものですから、店員さんと微妙な距離を取ってしまいます。店員さんの視線を見ながら、捕まらないように店の中を逃げまわります。声をかけられると、途端に、けっこうです、買いません、となってしまうのです。本当は買いたいものがあるのに。
 イエスさまが近づいてこられる。しかし、いつでも逃げる準備をしておく、これでは復活の主と出会うことはできません。トマスは、信じたい、信じられない、でも信じたいという苦悩を主の前に投げ出しているのです。そして、主が心の中に入ってこられたとき、主の胸に飛び込んでいるのです。微妙な距離を取りながら、いつでも逃げる準備をしているのではありません。いのちをかけて、キリストに向かうのです。
 トマスの心をすり抜けるように入ってこられたイエスさまを描いた使徒ヨハネが、やがて黙示録で、イエスさまの有名な言葉を受けます。
 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(三・二〇)
 ホルマン・ハントという画家による「世の光」と題された作品が、ロンドンの聖ペテロ大聖堂に掲げられています。それは、この戸の外に立ってたたいているイエスの姿です。祭司であり、王である主は、祭司の装束の上に王のガウンをまとい、頭には王冠を戴いて、「世の光」というタイトルにふさわしくランプを手に提げています。
 しかし、主が叩いている扉には取っ手がついていません。イエスの方からは開けることができないのです。ツタが扉全体にからまって、長い間、いえ、かつて一度も開けられたことがないことを物語っています。それでもイエスさまは、扉を叩いておられます。
  信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

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DATE: 2006.05.18 - 23:16

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