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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto (http://www.tkchurch.comhttp://www.tkchurch.com)
Subject   イエスに出会った人びと(22)――エマオの途上で
イエスに出会った人びと(22)――エマオの途上で
                    
ルカ24:13−35

 あたたかい出会いです。よみがえったイエスさまが、クレオパともう一人の弟子に出会っておられます。この二人は、福音書に一度も登場しもしたことがないに違いありません。私たちがはじめて聞く名前です。名前も知れていない、存在の薄い二人に、主が現れてくださったのです。しかも、15節に始まりますように、イエスご自身で近づいて、気がつかないうちに二人といっしょに道を歩いておられました。ペテロでもない、ヨハネでもない、この二人の近くにきて個人的に教えてくださったのです。
 この出会いは、二人を絶望から希望へ、悲しみから喜びへ移し替えていきます。17節には「暗い顔つき」をしていた二人が、32節では「心はうちに燃えていたではないか」、と変えられていくのです。失意のどん底にいた二人が、顔をあげていきます。暗い顔つき、足取りの重かった二人が、輝いて走っていきます。情熱を失っていた心が、あつく燃えていきます。
 イエスさまとの出会いが、どのようにして彼らの心を変えていくのでしょうか。

1)まず、主は彼らに尋ねます。19節「どんなことですか?」
 イエスさまは、この出来事の中心におられたのですから、エルサレムに近ごろ何が起こったのか、隅から隅まで御存知です。しかし、それをこの二人の口から聞いているのです。二人が話しているのは、事実関係だけではありません。二人のは自分の気持ちを、イエスさまに話しています。とても大切なことです。
 「どんなことですか? 話してみなさい」
 この会話の中で人間同士のつながり、交わりが生まれていきます。
 以前、ある神学校で特別講義を担当していましたときに、最後にレポートの課題を出して、成績をつけて返しました。そのレポートをもって、私のところにやってきました。なかなか視点のレポートで、「A」がついていて、にこっと笑ってやってきました。それは、私が短い期間に見た初めての彼の笑顔でした。
 「先生が帰る前に、ぜひ一度個人的に話しがしたい」と 思って、と。
 そうして、信仰をもった証しや、召命を受けるに至ったいきさつ、またこの先、貧しい人びとへの伝道にいのちをかけたいという話をしてくれました。神学生の話は、だいたいこのあたりで終わるです。「じゃあ、お祈りしよう」ときっかけを作ります。
 すると彼は、「いや、来たのは、実はこのことではないのです」と、そこから本論が始まります。
 「先生、ぼくは神学校に入ってから、自殺をしようと思ったことが何度かあります」。
 「えっ? いったい、どういうわけで? 友人はいるのか? 他の先生に相談したことがあるのか?」
  もうこちらがパニックです。気を取り直して、「じゃあ、はじめから話してみなさい。どんなことか、ゆっくり説明してちょうだい。「いつ、何がきっかけで……」
 はじめて、人前でそのことを話したというのです。どうして死にたいと思うのか、自分自身でも、もやもやとして、よくわからない。私も、問題の急所がつかめません。何をやっても思い通りになかなか行かない、大丈夫だと思った試験が落ちる、劣等感もあるのでしょう。彼は、そこから1時間、2時間と話して、それは自分の心を整理しているようでした。
 イエスさまは、この二人に言いました。
 「あなたがたの暗い顔の原因が何か、私に話してみなさい」
 イエスさまは、そうして祈りの中で日常の場面で私たちの心を開いてくださるのです。この暗いムードを変えようと思ったら、暗い心の内側を打ち明けなければなりません。口に出して話すことは大切です。それを、じっくりと聞くことはさらに大切です。私たちは、イエス様に話すつもりで、家族に話します。友人に打ち明けます。牧師に相談します。

(2)それから次に、イエスさまは、聖書の言葉を説明してくださいます(27節)。
 御言葉をもって、説明してくださいました。
 「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自身について書いてある事柄を彼らに説き明かされた」
 二人の心が熱くなりはじめたのは、この辺りからでしょう。主は、御言葉をもって二人の心を変えていかれます。
 昨晩、この説教を準備しているときに、教会の青年からメールをもらいました。以前彼から相談を受けました。彼は人生、AかBかで迷い疲れていました。
  「先生、迷ったときに、選ぶべき選択肢がわかる御言葉をください」
  私の返事は、「そんな御言葉があったら、ぼくが教えてほしいよ。君が迷っている問題は、人生そのものだから、そんなに簡単に、こうだ、という解決が与えられるものではない。そしてそうやって迷っている君に、ぼくはそんなに心配していない。ぼくの大好きな詩編にこう書いてある(1篇)
 「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
 「何をしても栄えるんだよ。主の教えを喜びとして、イエスさまという水路のそばに自分を植えていれば、何をしても栄えるんだよ。時が来ると、神様が結果を出してくださる。それで良いよ。」
 彼のメールにはこう書いてありました。   
 「心の葛藤はずっと続いても、僕は人生の土台にイエスキリストをおいています。前に先生が詩篇1編の話しをしてくれました。先生はこの聖句が好きだって。
 「あれからその聖句を何回も読みました、でこう考えました。ああ、先生は主の川のほとりに植わった樹なんだな、だからこんなに自然体でいられるんだなって。僕もそうなりたいんです、心から。」
 いや、私はそれほど信仰的に立派ではありません。そんなことではなく、私は彼のこの告白に惹かれました。
 「あれから、その聖句を何回も読みました。」
 同じ詩篇を何回も何回も読んで、味わって、そして自分を主の川のほとりに植えようとしている彼の姿です。聖書は、イエスさまの水路です。すべてを生かす水のほとりです。御言葉は私たちを生かします。信じる者に希望を与えます。なぜなら、御言葉には、神ご自身の力が込められているからです。主は私たちに出会って、御言葉を教えてくださいます。

(3)28-29節
 しかし、彼らの心はまだ閉ざされたままです。やがて道の果ては夕闇に包まれ、夜がやってきます。二人は自分たちが泊まろうとしていた宿に、イエスさまとは知らずにお迎えします。
 「いっしょにお泊まりください」(29節) 
 そうして、主は彼らと共に夕食の食卓につかれたのです。「どんなことですか、あなたの心を悩ましているのは?」そう尋ねて、彼らの心の中を探られました。彼らはその重たい気持ちをそのまま主に話しました。次にイエスさまは、彼らの気持ちを変えるために御言葉を開いてくださいました。
  そして、最後に、イエスさまは、食卓でご自身をお示しになります。
  「わたしだよ。わたしは、あなたと供にいる。」
 とうとう二人の弟子は気がついたのです。知らないうちに後ろから近づき、道を共に歩いてくださり、御言葉を開いてくださった方がイエスさまであることに気がついたのです。いったい、どこで、どんな瞬間に? 主が食卓について、いつものようにパンを取り、祝福して裂いて、渡してくださった時です。
 不思議ではないですか。主が聖書全体の中からご自身の復活について説明されているときも、彼らはそれがイエスさまだとわかりませんでした。いっしょに歩いているときも、聖書を詳しく学んでいるときも、わからないのです。ところが共に食卓について、裂かれたパンにあずかったとき、「ああ、イエスさまだ。ここにイエスさまが共にいて下さる」ということがわかったのです。
 プロテスタントの世界で、神学的な表現で、教会はどういうふうに定義されているのでしょう。教会とは? 教会とは、キリストを信じる者の集まりで、そこで聖書が説き明かされ、洗礼式と聖餐式が正しく執行されるところ。
  教会とは、聖書のみことばから神の語りかけを聞くだけのところではない。その教会に託された奥義は、聖餐の恵みで、このテーブルを主ご自身がもうけてくださり、パンと杯を祝福し、私たちの目を開いて、ご自身が共にいて下さることをわからせてくださるのです。これが聖餐の恵みです。聖餐の恵みは、暗い顔つきで途上にたたずむ、疲れた失望におとしめられた私たちのために、主が開いてくださるのです。主は、私たちの前でパンをさき、私たちの目を開き、「わたしが共にいるではないか」とおっしゃってくださいます。
 ローランド・ベイントンという有名なルター研究家がいます。イギリスのクエーカー出身で、エール大学の大学院を出た後、ルター研究に没頭して、しばらく前になくなりましたが、その畑の第一人者。晩年、奥さんが亡くなってから、一度日本に講演に来たときの証しを先日読んでいました。
 「私の妻は、15年ほど前になくなりました。妻の死後、私は一冊の本を書いたときに、妻に捧げました。「彼女の心には愛があり、唇には優しさがあり、目にはほほえみがあった」と献呈のことばを書きました。妻は骨髄ガンで死にしました。闘病は3年でした。
 「3年間、エール大学のニューヘーブンの病院に入院しているときは、毎日、妻の所へ行きました。いっさいの講演を断り、ひたすら付き添いました。
 「そうしたある日、妻から離れて、私は2時間ほど用事を足しに出かけました。その帰りに、ふと、小さな教会の戸が開いているのに気が付きました。のぞいてみると聖餐式が行われていたので、私は中に入って、それにあずかりました。
 「これは、私にとって、すばらしい慰めでした。妻は、今も、私の心の中に生きています。
 
 奥様の闘病という大変な試練の道での途上の出来事です。通りかかった教会の戸口から見えた聖餐式でした。見知らぬ教会の聖餐式でした。しかし、そこに確かに復活の主がいらっしゃいました。人生の途上で死を迎えようとしている奥様、介護しながらその悲しみにうちひしがれる先生を励ましてくださったのは、復活のイエスさまとの出会いです。 
 「私の生きてきた道」と題された彼の日本における講演の最後の部分にこれが記されているということを、私は象徴的に捉えています。私が一人のクリスチャンとして生きていく道の途上で何度も何度も、復活の主は現れて、わたしだ、わたしはここにいっしょにいると、疲れて、気持ちが重くて、暗い顔をしている私たちをなぐさめ、励ましてくださるのです。復活の主と出会うことで、暗い、思い、閉ざされた私たちの心に、いのちがよみがえっていくのです。そういう出会いができるのが、礼拝です。そういう出会いを備えているのが礼拝です。

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DATE: 2006.06.09 - 13:43

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