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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto (http://www.tkchurch.comhttp://www.tkchurch.com)
Subject   十戒(2)神を神とせよ
十戒(2)神を神とせよ        
  出エジプト20:1−6

 十戒は「あなたは···してはならない」という禁止文句が十項目並んでいます。・・・してはならない、その連続です。なるほど律法だ、という印象になります。しかし、その始まりは、神の戒めではありません。その始まりは、救いの事実です。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」。
 長い話です。ヨセフがエジプトに売られ、やがてその父の家族がすべてエジプトに住むようになり、四百年。やがて、イスラエル人は奴隷にされ、ピラミッドの建築のために煉瓦を焼く人生を送るのです。その苦しみの叫びを、神に発します。そうして始まる出エジプト記。
 3:7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
 3:8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
 こうして始まる壮大な救いの御業。それは、私たちのちっぽけな人生にも当てはまります。神が私たちを叫びを聞き、悩みをご覧になり、私たちを救い出してくださり、私たちを天の御国に連れ上ってくださる、その途中で、この十戒を聞くのです。これが、あなたの生き方だ、と。私たちは神の民、その牧場の羊です。贖われて、子どもとされた私たちが、どのようにこの世で生きるべきなのか、どのように神の国で生きるべきなのか、それを語っているのが十戒です。そして、戒めのすべてに、救いの恵みがあるのです。

1)他の神々があってはならない
 詩篇には、「神はなんか存在しない」と愚か者は言っているという表現がありますが、しかし、聖書によれば、私たち人間に無神論の可能性はないのです。人は癒しがたいほど、宗教的だと言うことは、聖書が繰り返し教えていることです。
 ロマ書を見ますと、天地万物を創造された神から目を背けた人びとは、神を人の形に変え、動物の形に変えて、偶像を拝むようになったと記されています。別に古代の話だけではありません。ヨーロッパの至る所で、キリスト教会とその弊害が及んでいた頃、1789年フランス革命が始まります。革命派はキリスト教会の礼拝を撤廃します。しかし、その代わりに、自由と理性と合理主義の女神を作って、それを礼拝することを強要します。
  聖書が提示しているのは、無神論か有神論かではなく、誠 に神を拝むか、自分の都合をかなえてくれそうな人が創り 上げた神々を拝むか、という違いです。マルチン・ルターの言葉があります。「ですから、心がしがみつくものは何であったとしても、あなたの心が依り頼むものが何であったとしても、それがまさにあなたの神です」。心がしがみつくもの、依り頼むもの。この「もの」は、人生の様々な選択の助けとなります。それは、人生の動力となる価値観を与えてくれます。それは、人生の決定要因となり、私たちは、徐々に、無意識のうちに自分が崇拝する神のように変えられていきます。
 社会学者一般は、現代の神々の中で一番強いものは、「性」だと言うでしょう。古代の祭りごとは性を神格化し、性をあがめ、ある特定の神や女神を崇拝する手段として性を用いてきました。現代はもっと露骨かも知れません。「性」という偉大な神は、広告から私たちに向かって流し目をし、テレビを通して私たちを手招きします。かつて、マリリンモンローは言いました。「私が何かのシンボルにならなければならないとしたら、ほかの何者よりも『性』のシンボルになりたい」。やさしい、しかし悲しげで、その性をもちいて、映画界の頂点に上り詰めます。もう50年も前の昔の話ですが、彼女はその頂点で自らのいのちを立ったことで、さらに有名になりまた。
 性も財も、才能も成功も、神が与えてくださる貴重な贈り物です。しかし、私たちが神からの賜物を取って、賜物を与えられた御方を忘れ、あたかもそれが神の代わりであるかのように賜物だけに縛られていくとき、最後は、そうしてできあがっていった偶像が私たちの人生を砕くのです。
 聖書には無視論はありません。人は必ず、何かを神として生きていくのです。クリスチャンドラマの分野で開拓者的存在であるハロルド・エーレンスペーガーという人物がいます。彼は、宗教ドラマの実感を体験しようとドイツのある村に有名な受難劇を見に出かけました。彼は、敬虔なルター派の家庭に滞在しました。
 受難劇の俳優たちは、地域のコミュニティーから選ばれます。ドラマの監督は人々をよく観察し、その人の人柄と最も類似していると思われる新約聖書のキャラクターを選びます。エーレンスペーガー氏が滞在した家に、ジョンという名の十代の青年がいました。ある日、この敬虔な少年は、先生に話しをしたそうです。「大きくなったら受難物語でヨハネ(英語でジョン)の役をもらいたいな」――彼が言いました。
 「ぼくは、イエス・キリストの役を演じるようにはなれないよ。でも、一生懸命がんばって、ヨハネが愛したようにイエスさまを愛するようになれれば、もしかしたら弟子ヨハネに選ばれるかもしれない」
 エーレンスペーガー氏とジョンは友だちになりました。彼がアメリカに帰ってからも、数年間文通が続いたそうです。それから大きな変化がドイツに起こります。ヒットラーが権力を握り、国の若者は、この「新しいメシア」に従い始めました。ジョンの手紙もまばらになり、とうとう途絶えてしまいました。
 数年間、ジョンからの便りは途絶えていました。そして戦争です。ある日、一通の手紙が届きました。それは、一九三三年一〇月、ポーランドの消印でした。彼は喜んで封筒を明けるものの、中に手紙はありません。代わりに、ドイツの新聞の切り抜きが入っていました。大きな写真が載せられています。写真の中央で、笑顔で勝利に酔っているのは、手を高く挙げ、側近に囲まれたヒットラーです。
 エーレンスペーガー氏は、写真をじっと見つめました。「あり得ないことだ……。いや、確かにそうだ」。疑いはありませんでした。ヒットラーの隣りに立っているのはあのジョンです。背の高い、成長したハンサムな青年でした。そして親衛隊の制服を着ていました。
 エーレンスペーガー氏は、その写真をじっと見て、それからペンを取り、写真のヒットラーに矢印を付けて、英語で「イエス・キリスト」と書きました。そしてもう一つの矢印をジョンに付け、同じく英語で「彼の愛する弟子ヨハネ」と書きました。
  どんな神々を信じるかで、人生がそれほど変わるのでしょうか。もちろんです。それは、生と死ほどの違いを生み出します。ですから、十戒の第一は明確です。「わたしは、あなたの神、主である。あなたには、わたしの前にほかの神々があってはならない」。

2)二番目の課題は、クリスチャンにとって、より大きな課題かも知れません。それは、神を、真の生ける神を「神とする」ということです。
 それは、果たして私は、私の救い主イエス・キリストを、その父なる神を、聖霊を本当の意味で、私の人生の「神」、私の「神」としているのだろうかということです。なぜなら、私たちは、しばしば真の神様と出会ったにもかかわらず、神を神として王座に迎えず、心においても生活においても神をより低い位置にとどめているからです。
  私たちは、唯一の神に仕えるのです。イエスさまはおっしゃいました。「だれも、二人の主人に仕えることはできません」。このとき、イエスさまが取り上げたのは、神と富です。その二つに仕えることはできない。主人は神のみ、神様だけが私の人生の主人なのです。
 しかしながら、私たちは、これを何度も試みるではありませんか。実際、多くの人が二人以上の主人に仕えているのです。結果は、内的な分裂と破滅です。神を信仰という引き出しの中にしまって、神は私の家族のことにも仕事のことにも日本のことにも世界のことにも関係がない、ということが往々にしてあるのです。神を神とするとは、人生の中心に神様を据えることです。
 スコットランドの町で、ある人が地方紙に不思議な広告を載せました。広告の前のページに大きな字で、読者がそのページの裏を見るように書かれています。読者がページをめくってみますと、なんとそこは真っ白です。しかし、目を凝らしてみると、右の端に小さな文字でこういう言葉が書いてありました
 「あなたはまさか、こんなところに神を置いてはいませんか」。
 神を神とする、とは信仰者の最大のテーマです。神を神として恐れる、神を神として尊ぶ、神を神として愛する。

3)その時、神はあなたを尊ぶ 6節 
 「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」
 映画「炎のランナー」の主人公、エリック・リデル。1924年のパリ大会、百メートル走の英国代表でした。彼は、礼拝を重んじるために日曜日に開催された百競技への出場を断念します。代わりに4百メートルリレーのアンカーを走って、最下位でバトンを受けたのに、トップに躍り出て優勝してしまいます。・金メダリストは、すべてのキャリアを捨てて、中国に宣教師となって、生涯を捧げます。
 彼がスタートラインに並ぶ前、ジャクソン・シュルツというアメリカの代表が、エリックのところにやってきて、一枚の紙切れを渡します。メモ書きに、聖書の言葉が書いてありました。
 「主の御告げ。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」(1サムエル2:30)
  エリックは、その紙を手に握りしめて走ります。主の御告げ。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。それは、エリックが100メートルをあきらめてでも、神を礼拝することを優先した、神を第一としたことに対する、同じクリスチャンランナーからの励ましだったのです。
 そして、神はその栄誉をエリックに授けます。

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DATE: 2006.08.12 - 16:24

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