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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   十戒(4)みだりに主の名をとなえるな。
十戒(4)みだりに主の名をとなえるな。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。(出エジプト二〇・7)

だからこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」(マタイ六・9)

 十戒の第一は、神を神とする、第二は偶像を刻むな、そしてこの二つを神様は、ねたむほどにこだわっておられる、という話をしました。そして、今日は十戒の第三です。
 「主の御名を、みだりに唱えてはならない」
 十戒の中で、有名なものは、後半に出てくる6つだろうと思います。殺すなかれ、姦淫を冒す亡かれ、偽証を立てるなかれ、隣人の妻をむさぼるなかれ。私たちは、十戒と聞くと、最後の6つの倫理的、社会的戒めを思い浮かべることでしょう。しかし、十戒はなんと言っても、大切な順番に並んでいると言っても間違いではありません。第一、第二が大切であることはわかっていただいただろうと思います。
 イスラエルが、そして私たちが、神によって救い出されて、神の民となるからには、神を神とすること、他の神々を心の中に刻まないことが、どんなに大切なことでしょう。そして、第三の戒めは、主の御名をみだりに唱えてはならない、です。

1)旧約聖書の人びとはこれにこだわりました。
 たとえば、ユダヤ人は、神の御名を口にすることを非常に恐れました。主の御名を書かなければならないとき、特別な注意を払います。まず沐浴をし、ユダヤ教の装束に身を固めてから取りかかります。神の御名を書いている最中にペンをインク壷に浸してはなりません。その途中に、たとえ王からお呼びがかかろうとも、それを無視するように教えられていました。
 いや、もっと現実的な問題も引き起こしました。ヘブル語で、主の御名というのは、モーセが神様に「あなたの名前は何でしょうか?」と尋ねたときに、神様が「私は有りて有るものだ」とおっしゃいます。それが、主の御名です。新改訳聖書では、太字で「主」と書いてあります。
 あの部分、昔の文語訳聖書では、エホバとなっていました。いま、一般的にヤハウェ、ヤーベーとなっていると思います。エホバ、という発音が間違いだとわかってきたからです。そもそも、何でそんな間違いを犯してきたのでしょう。それは、読み方がわからなかったからです。どうして、そんな大切な言葉の発音がわからないのでしょう。聖書の中に、たくさん、主の御名が出てくるではないですか。
 理由はこうです。旧約聖書の人びとは、主の御名をみだりに唱えない、ということを厳格に実践したのです。ですから、その言葉が出てくると、彼らは「アドナイ」「主」と読み替えて、何百年も経過していきまし。そうして、いつのまにか読み方がわからなくなってしまった、というわけです。ヘブル語の表記は、子音があって、その下に母音がつきます。
  子音は、アルファベットで言えば、Y H W H
    ・・・エホバというのは、YeHoWaH
    ・・・ヤハウェというのは、YaHaWeH:こちらが正しいと    いうことになりました。
 こんな独特な混乱があるのだろうか?と思うくらい、それほどまでに旧約聖書の人びとは、この戒めを守ったのです。神を恐れる、ということは、大切なことです。神を信じる、神を愛する、それと同時に神を神とするということのなかには、神を畏れかしこむ、という姿勢は抜きにしては考えられません。その意味で、第三の戒めは、第一と第二の戒め、の続きです。

2)御名を汚さない生き方
 第三の戒めは、神の名前の問題だけではありません、これは生き方の問題です。この戒めは、神の御名を汚してはならないという禁令ですが、それは具体的に、レビ記一九・一二につながります。「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない」。
  これは、誓いの問題ではなく、生き方の問題にかかわります。人はどうして神にかけて誓うのでしょうか?どうして、誓うとき、神様をもちだしてくるのでしょうか?それは、その人物が神と親しく交わっているからでしょうか。常に御名を求めることの現れなのでしょうか。
 いいえ、まったく逆です。神の御名を誓いの言葉として使う人は、現実には、神との交わりの中にはいません。誓うときに神様の名前を持ち出さなければ行けないのは、基本的に自分の誓いに信用がないからです。人はあまりに頻繁に偽るので、だれも日常の言葉を信頼しません。信じてもらうためには、人は誓いの証人として神を持ち出さなければならないほどでした。信じてもらえない、だから神を持ち出してくるのです。
 教会におもらいさん来る、という話を時々いたします。私も昔はだまされて、部屋に通して、長々と話まで聞いてしまったこともありました。若かったなあ、と思います。会社がつぶれた、夜行バスで出てきた、宮大工をしていた、もういろいろです。泊まるところがない、帰りの電車賃がない。教会に上げたらおしまい、最後までその話を聞かなければならないのですが、昔は、だまされたこともありましたね。あちらは必ず言います。「お返しします。絶対にお返しします。」一度だけ、言ったことがあります。「いや、それは止めた方が良いよ。たぶん、君は返しに来ない。破るのを知ってて、神に誓うと、天罰が下るって聖書に書いてある。ねっ、返しに来ないつもりでしょう? いや、絶対に返します。神にかけて……」。未だかつて、返しに来た人はいない。ただの一人も。その後は消息不明(本当に天罰が下ったのかも、と 思わず考えてしまう)
 人が「神に名にかけて誓う」と言えば言うほど、あやしく聞こえます。そこで、イエスさまはおっしゃいました。

マタイ5:34−37 
「決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」
 どういうことでしょうか?生き方です。人間性です。あの人が「はい」と言うなら、それは「はい」だ、あの人が「いいえ」と言うなら、それは「いいえ」だ、と思ってもらえるような、誠実な人になりなさい。誠実な人、真実な人は、別に誓う必要がないのです。
  御名を汚すというのは、生き方の問題なのです。特に主の御名をおびえている私たちは、この生き方をもって、御名を汚すことのないように、気をつけたいものです。

3)さて、この戒めを、イエスさまは取り上げて、より高い次元に上げられます。
 旧約聖書では、御名を汚してはならない、と消極的な次元に留まりました。しかしイエスさまの教えでは、「天にまします我らの父よ、御名が崇められますように」、とさらに高い次元に戒めが上げられています。御名が汚されるのを避けるだけではありません。「あなたがたの光を人びとの前で輝かせ、人びとがあなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようにしなさい」。積極的に、御名が崇められますように、そういう生き方ができますように、です。
 考えさせられます。なぜなら、私たちはクリスチャンとしてキリストの御名を背負っているからです。私たちがクリスチャンであるとき、自分の名の上にキリストの名を背負います。キリストのプレミアがついていると言っても良いでしょう。
 有名な会社が、その総事業を一〇億で売りに出したとしましょう。しかし、その会社がこうつけ加えます。「この会社の名前をそのまま使用したいと思うなら、一〇億ではなく、二〇億になります」。なぜでしょうか。それは、市場でのその会社の持つ名前の意味は、上乗せされた一〇億の価値があるからです。名前の持つプレミアです。私たちには、キリストのプレミアがついています。聖書の表現を使えば、キリストを着ているのです。
 よく考えておこうではありませんか。奴隷が、自分の仕える家の名を汚すようなことがあるでしょうか。いいえ。家の名を汚すのは、家の者がそのような愚かな行為をするときです。私たちは、キリストの名で呼ばれる神の家族の一員です。私たちは神の家族であり、「キリストとの共同相続人」です(ロマ八・一七)。
 キリストの御名にふさわしく生きる。こんなにおそれおおいことはないかも知れません。思わずひるんでしまいます。自分では、キリストのブランドに耐えられない。おおよそ、無理でしょう。だれもが無理でしょう。しかし、その基本を考えてみることです。それは、神を神とする、ということです。偶像を取り払って、神を神とする、私たちにできるのはそれだけです。神を仰げば、その光が私たちに反映されます。自分では輝くことはできなくても、自然に光が輝くことができるように、それ以外にありません。

 今年、福音文書刊行会の創立50年で、デニス・キンロー先生の365日のデボーションを10月に発行します。すぐれた日々のデボーションです。昨日、宮本兄によるデザインが仕上がってきました。今、私の方で翻訳の監修をしている最中です。

「ほとんどの皆さんがご承知の通り、私はクリスチャンの家庭、しかもかなりしっかりしたクリスチャン・ホームで生まれ育ちました。出身はケンタッキー州のウィルモアという町です。それで、ごく幼い時から、キリストについて教えられました。七歳の時、母が一緒に祈ってくれて、私はキリストを心にお迎えし、主に出会う経験をしました。それから二、三年の間、毎日の生活の中でキリストが一緒にいてくださるという思いがあって、とても貴重な記憶となっています」。
 「しかし……」と彼は続けます。「思春期という、劣等感が渦巻く大きな裂け目の時期に差しかかります。のど仏は大きくなるのに、思うように体の筋肉がつきません。そうこうしているうちに、私はキリストに代えて自分を人生の中心に置くようになり、主を人生の余白部分に位置づけるようになってしまいました。大学に入学した頃には、キリスト教も世界に数多くある宗教の一つにしか過ぎないと確信するようになり、もっと大きな大学に進学した時には、密かに自分が無心論者である事実を誇りとしていたものです」
 「私は、大学に入れば、何ものにも捕われない自由で開放的な教師や仲間たちがいるんだと信じていました。ところが、何とも幻滅したことに、そこにいたのは自由でも開放的でもない人々でした。ある日、クラスに座っていると、一人の学生が、宇宙の創造には自然を超えた何かの力が働いていたのではないだろうか、と発言したことに対して、教授がその学生を嘲笑し、物笑いの種にしたのです。その時私は、彼らもまた自分たちの思惑や偏見に捕われていることに気づいたのです。そして彼らが私を引きずり込もうとしているのは、家族が教えてくれたことでもなく、自然界について自分なりに学んで来たこととも違う、おかしな視点であるのに気づかされたのです」
「それで、私はキリストのもとへ帰り始めました。もちろん、キリストご自身が、私の方向転換のために働いておられました。やがて医学部を卒業し、研修医としての生活が始まりました。その時、仮眠なしでも、人は三六時間ぶっ通しで働けるものだということを発見しました。同時に、自分の方からキリストに語りかける時を持たないと、主も語ってくださらないこともわかりました。主を人生の余白部分に追いやると、心に大きな空白状態が残ります。しかし、その空白状態を感じたのもほんの束の間で、食欲を始め様々の欲求がすぐにキリストに取って代わります。徐々にそれらの欲求をコントロールできなくなり、ついには逆に欲望に振り回されるようになってしまうのです。神が私の人生に奇跡を行ってくださらない限り、自分はいつまでもその欲望に負け続ける以外にない、と自覚しました。ある日、私は休暇を取り、断食をして祈りました。この方法は、本気で何かを変えようという覚悟ができるまでは、皆さんにはあまりお勧めしませんが……」
  「それから六週間後のことです。同僚の一人が手術中に手を滑らせ、一緒にいた私の手術用手袋を切り裂いてしまいました。そのために、私は残りの研修期間を棒に振りました。重度の肝炎を患って床に就くことになったからです。おかげで、聖書を読み、祈る時間がたっぷり与えられました。他にすることがなかったのです。大きな痛みと不安と失望を味わう期間でした。ところが不思議なことに、振り返ってみると、ほとんど何も覚えていないのです。思い起こすことといえば、その期間中に、主イエス・キリストが私の生涯の中心に、生けるお方として帰って来てくださったという実感だけです。そして、主の臨在の記憶が、その他の辛い記憶を拭い去ってくれました」
 「それから、主イエスは私に奇跡的な形で触れてくださり、病を癒してくださいました。元気になった時、私は考えました。きっと、主は病の再発の可能性も取り除いてくださるに違いない……。しかし、意外なことに、主はその保証を与えてくださいませんでした。困惑しました。主に尋ねると、答えはこうでした。『使徒パウロにもそんな保証は与えなかったのに、あなたにそれを与えるべきだろうか』。神は将来に関する個人的な保証を約束なさらないとわかって、私の生き方が変わりました」
 「何事に関しても、あって当然と思うことをやめたのです。妻がいるのが当然、子供たちがいるのが当然、仕事があるのが当然、新しい日を迎えるのが当然、ではないのです。すべてを当たり前と考えることを止めました。よく私は、早朝の仕事に向かう途中、地平線から顔を出し始めたばかりの太陽に向かって立ち止まります。すると、新しい一日を与えてくださった神に対する感謝の涙が、いつの間にか自分の頬をつたっているのに気づくのです。今日という一日は、私がそれを楽しみ喜び、主の栄光のために用いるように与えられた、愛の神の特別な賜物です」
 「皆さん、いかがでしょう。生き方としては悪くないのではないでしょうか」。
 
 はい、生き方として悪くないです。神を神とする生き方です。そうしていれば、御霊の働きが自然に内側からあふれて、私たちは、主の御名にふさわしい生き方をすることができます。

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DATE: 2006.09.29 - 08:57

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