名前検索
メール送る

名前検索
名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
ホームページへ戻る

名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 2033 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   fujimoto
Subject   教会(5) 礼拝の心
教会(5) 礼拝の心         

     詩篇95

 教会のシリーズを語ってきました。そしておそらく、この5回目に考えることを、もしかしたら第一回目に考えなければならなかったのかもしれません。教会とは、礼拝する群れです。私たちは一人で礼拝しません。共同体として礼拝します。民として礼拝します。それには、この詩篇の95にあるように、礼拝の心をみなで共有し、みなで礼拝の姿勢を学ぶべきなのです。教会にきて、兄弟姉妹と共に礼拝を献げるとは、自分の人生にあってどういうことだろうと。
 おそらく詩篇一五〇篇のなかで、この95編がもっとも鮮やかに礼拝の心を描いているでしょう。それは、まず呼びかけで、1節「さあ」(実際は、来たれ、です。この言葉は、訳されていませんが、2節の冒頭にもあるのです「来たれ、感謝の歌をもって、御前に進み行き」。そして6節に「来たれ。私たちは伏拝、ひれ伏そう」
 礼拝に、私たちは招かれるのです。呼びかけられ、引っ 張られるのです。当番の人が笑顔で迎えます。司会者や奏楽者や聖歌隊が、私たちを引っ張ります。引き上げます。「来たれ」と言われて、共に賛美し、共に祈る喜びの中で、自分の沈みがちな信仰が持ち上げられるのです。

1)礼拝は、賛美にはじまります。
 私はオルガンのことはよくわかりません。しかし、賛美の心を一番あらわしているのが、この楽器だろうと思います。9世紀の修道院で制作がはじまり、修道院のポリフォニーという楽曲の伴奏楽器でした。ですからメロディーが2重に3重に展開できるように鍵盤が何段もあるのですね。
 今現在、世界最大のパイプオルガンは、アメリカのアトランティック・シティー・コンベンションホールにありますが、手の鍵盤だけで7段、パイプの本数は3万2千本。小指のように細いパイプもあれば、柱のように太い長いパイプもあります。スイッチを入れると、そこに風が吹き込まれる。
 私たち一人ひとりがそのパイプなんです。高音を奏でる細いパイプもあれば、低音を奏でる太いパイプもあります。そこに聖霊という風が一斉に吹き込まれます。それが礼拝です。
 青山学院で、キリスト教を教えているとき、・1年に一度、パイプオルガンを見学する時を持っていました。オルガニストに説明していただくだけでなく、前もって学生に弾いてみたい人を二人募ります。パイプオルガンを聞く機会でさえ、そうそうない。それを弾かせてもらえるんだよ。
 ある時、一人の男子学生が手を挙げて、ちょっと楽しみにしていました。忘れもしません。彼が弾いてくれたのは、「メリーさんの羊」だった。クラス全員が、ちょっとがっかりです。それから、先生にお願いして、何か一曲といったら、というのをお願いします。それでは、と弾いてくださったのが、トッカータとフーガ二単調。といわれても……
 「たらら、たらららー」――そうはじまる。その辺は知っているでしょう。それから、10秒、20秒もしないうちに聖堂のドーム、建物全体が鳴り始めます。すべてのパイプが結集したとき、教会堂は、賛美を奏でる楽器のためにあるのか、と思うほどです。鳥肌が立ちます。
 そして、わかるんです。
 わが魂よ、主をほめよ。そのうちなるすべてのものを、主をほめよ。
 全地よ、主の御名を賛美せよ。
 すべてを結集して、主を賛美するというのは、オルガンだけではない、賛美だけではない。それは、私たちの教会のすべてが礼拝に注ぎ込まれるのです。みんなやってくる。遠くから近くから。そして言葉にできない問題課題を抱えながらも、小さな細いパイプも太い大きなパイプも、聖霊の息吹を吹き込まれ、主ご自身が私たちを一つにして、建物全体が鳴り出すような礼拝を導いてくださる。 
 そう感じる礼拝が多々あるではないですか。クリスマス礼拝がそうでした。元旦礼拝もそうでした。座る私たちも、奉仕する私たちも、一つとなって主を賛美するのです。

2)ひざまずこう
  3節「主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である」。神さまがいかなるお方であるのか、この世界を、私たち一人ひとりの人生をその御手の中に納めておられる方です。
 ですから、礼拝への招きの2番目。6節「来たれ、ひれ伏そう、ひざまずこう」。天地万物を支配されている神、それだけでなく、私たちのために、人としてこの世に住まわれ、私たちの罪を背負い、十字架の上で私たちの罪の裁きを代わりに引き受けてくださり、その愛を教えてくださった主の御前で、あのトマスはなんと言って、ひざまずきましたか。「わが主、わが神」です。
 神への恐れ、畏敬の念、というものを私たち、礼拝者はどのように現しているのでしょうか。姿勢でしょうか、服装でしょうか、静まる心でしょうか、祈る心でしょうか。
 以前、ニューヨークの知事として名を馳せた、アルフレッド・スミスという人物がいました。彼は高学歴でもなく、政治家の血筋でもなく、しかし努力して州知事まで上り詰めた人物でした。ある時、晩餐会に呼ばれ、言ってみると、想像した以上にカジュアルな雰囲気といいますか……彼は一人の酔っぱらった男に壇上に上がるように紹介され、その男に肩を組まれ、みんなから拍手され、中にはブーイングされ、スピーチを頼まれました。
 彼は、もちろん、フォーマルな退屈なだけの政治家のパーティは嫌いです。別に知事としての威厳を誇るような人物ではありません。しかし、スピーチを頼まれた彼は、こう話を始めました。
 こんばんは皆さん。私が少年だった頃、ある日、父に連れられて、州のパレードを見に行きました。軍隊や警察の行進するときには、背筋を伸ばして、父と見ていました。腰のサーベルが輝いていて、胸の勲章も立派でした。やがて、知事の車が通るとき、父は私の腕をくっと引っ張って、言いました。「おまえ、帽子は脱ぐもんだぞ。こういうときは」。少年の私は、身体が硬くなるほど緊張しました。
 お楽しみの皆さん、ニューヨーク知事がご挨拶もうしあ げます。「おやすみなさい」――そういって、彼はその場を立ち去りました。
 私たちには礼拝の態度というのがあります。教会に来る、姿勢というのがあるのです。7節「主は、私たちの神、私たちはその牧場の羊、その御手の羊である」。もし私たちの態度が、その羊の姿勢を表していなかったとしたら、どうでしょう。
 私は私の羊飼いではない。私は乏しいことばかりだ。いつも囲いの外にいて、囲いの中の緑の牧場をうらやましく眺めている。のどは渇き、この魂は荒れ野のようにすさんでいる。道を踏み外して、失われ、死の陰の谷で恐れ、私は一人だ。なぐさめもない。敵を前にして、食卓は乏しく、私の杯はからっぽだ。確かにわたしのいのちの日の限り、悪と憎しみが私を追いかけてくる。私は永遠に主の家から追い出された。
 いや主は私たちの羊飼いです。私たちは、その牧場の羊なのです。ですから、羊飼いの前で、帽子を脱ぎます。姿勢を正します。

3)御声を聞こう
 7c「きょう、もし御声を聞くなら……心を頑なにしてはなりません」
  メリバでの時のように、荒野のマサでの日のように。いったい何が起こったのでしょう。この地名は出エジプト記17:1−7に出てきます。奴隷のエジプトを出て、約束の地に向かっていたイスラエルの人々は、荒野でつぶやき、不平を言うようになります。
 レフィディムと呼ばれる場所に宿営を張っていたとき、人びとは渇きます。水を求めてモーセに不平を言います。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れだし、ここで飢え死にさせるのですか。私や、子どもたちや、家畜を渇きで死なせるためですか」。物語は、7節にこうあります。それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。
  マサは試みるという意味です。メリバは争うという意味です。ただ一度の出来事ではありませんでした。イスラエルの人々を象徴していたのです。どこまで行っても、神さまを疑います。身勝手に、神さまを信頼しません。
 もちろん、荒野をさ迷うイスラエルは大変でした。少々のつぶやきも不平も当然でした。しかし、根本的な問題は、詩篇95:9によく言い表されています。彼らはどんなにかつて神さまに助けれてきたとしても、新たな問題が生じると、その信仰がどこかに行ってしまうのです。
  エジプトを脱出するとき、海が二つに割れて、海の底が乾いて、その中を歩んだことも、神によって守られてここまで来たことも、すべて忘れてしまいます。神さまの恵みが、人生の中にいつまでたっても組み込まれていきません。数々の祝福があっても、信仰は以前として幼いままです。
 10節、以前として彼らは「心が迷ったままです」。「神さまの道を知らない」民なのです。心がかたくなである、ということはそういうことなのでしょう。
 「きょう、もし御声を聞くなら……」。礼拝に来るとき、いつも私たちに与えられる挑戦ではありませんか。もし御声を聞くなら、その御声は私を励まし、私を戒め、私を導き、私を変える、神の声です。それを聞く私たちは、御声に聞き従い、かえられていきます。
 10節「私は40年の間、その世代の者たちを嫌った」。40年間、民はまったく変わりませんでした。神さまがどんなに語っても、どんなに事をなしても、かわりませんでした。それでは、御声を聞いたことにはならないのです。きょう、御声を聞くなら、教会はそのことに集中するのです。

 アヒルの教会、という話があります。アヒルの牧師の話を聞きに、アヒルがぞろぞろ、クワクワッと言いながら、大きな水かきで歩いて、お尻を振りながら教会に入ってきます。よーくかんがえよー なんとかは大事だよー。心を込めて、賛美歌を歌います。
 アヒルの説教者は、神はアヒルに大空を飛ぶ翼を与えて くださった、と雄弁に語りました。くちばしで講壇を叩きながら、愛する兄弟姉妹、この翼があれば、私たちにいけない世界はありません、自由に空を飛ぶことができます。これこそが、神さまが私たちに与えてくださった使命です。この翼を使って、自由に高く舞い上がるのです。会衆は、「アーメン」と声を合わせます。
 説教者は、感極まって、「そうです、飛ぶのです、高く舞い上がるのです」と翼をその場で羽ばたかせます。それを見て、みんな口をそろえてアーメンです。
 アヒルはみんな、恵まれました。口々に、今日の説教は良かったね、と礼拝がおわります。そして、アヒルはみんな、もと来た道を、大きな水かきをぱったんぱったんさせて、お尻を振って、家路につく、という話です。
 あのアーメンは、なんだったのでしょうか? やっぱり、お尻を振って歩いて帰っていくのです。口々に恵まれたと言って、今日の礼拝は良かったと言って、でも何にも変わらないのです。うーん、考えてみなければなりません。神さまは、イスラエルの民に言いました。あなたがたは、40年変わらなかった。私たちが違います。礼拝は私たちを変えます。心を柔らかくして、主の恵みを吸収していくからです。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2007.04.01 - 00:34

221.114.25.27 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; .NET CLR 1.1.4322)

田代 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 125.170.226.227
謙遜に柔らかい心で主を崇めみ言葉によって代えていただきたいと願いました。
2007.04.10 - 22:14 
Name   E-Mail   Password

 前文 教会(6) 礼拝者を求める神
 次文 教会(4) 箱船
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
166Simple view *^^*憂いを後にしてて立ち上がる [1] fujimoto 2007.09.04 7912
165Simple view *^^*聖餐式・彼らはみなその杯から飲んだ [2] fujimoto 2007.07.23 3600
164Simple view *^^*Uサムエル11:1−15(ダビデの罪と罪... [1] fujimoto 2007.07.07 4280
163Simple view *^^*Uサムエル9:1−13(あなたに恵みをほ... fujimoto 2007.07.07 5850
162Simple view *^^*Uサムエル7:18−29(祈る勇気を得た... [1] fujimoto 2007.07.07 9865
161Simple view *^^*Uサムエル7:1−17 はかりしれない... fujimoto 2007.05.14 6371
160Simple view *^^*畏れを欠いた信仰 [5] fujimoto 2007.04.26 1157
159Simple view *^^*教会(7) 教会と信仰告白  [1] fujim... 2007.04.01 12529
158Simple view *^^*教会(6) 礼拝者を求める神 [2] fujim... 2007.04.01 32136
157現在参照中の文章です...教会(5) 礼拝の心 [1] fujim... 2007.04.01 6837
156Simple view *^^*教会(4) 箱船 [1] fujim... 2007.04.01 5357
155Simple view *^^*教会(2)キリストの身体の建て上げ [692] fujimoto 2007.01.26 18925
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
本頁が先頭ページです前へ戻る 11  12  13  14  15  16  17  18  19  20 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*