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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   教会(7) 教会と信仰告白 
教会(7) 教会と信仰告白        2007.3.4
     マタイ16」:13−20

 教会のシリーズ(3)で、教会とはイエスに従う者たちの群れだ、という話をしました。イエスさまを先頭にして、先の者たちがいて、後の者たちがいて、やがて後の者たちが、先の者たちに入れ替わるように教会を担うようになり、一つの人の群れを作って主の後をついていくのです。
 イエスさまの働きの中には、いつも弟子たちを中心として、こうしたイエスさまについていく人々の群れがありました。彼らはいったい、だれなんでしょう。イエスさまに従う人々の、最もさえたる特徴はなんでしょうか?と問われたら、私たちのはこの聖書の箇所に目を向けざるを得ません。
 イエスさまに従う人々の、最もさえたる特徴は、イエスを、生ける神の子、救い主キリストであると告白する人々です。この信仰告白こそ、教会の中心にあります。

 物語は、ピリポカイザリヤ地方に行かれたとき、とはじまります。そこでイエスさまは、一つの質問を投げられました。13節「人々は人の子をだれだといっていますか?」「人の子」とはご自分のことです。「世間の人々は私のことを誰だと言っているのか」 と尋ねておられるのです。
 この質問は、今の世界でも同じです。大きな書店の宗教のコーナーに行けば、キリストについての本も並んでいます。その切り口や角度はさまざまですが、もっともさまざまなのは、いったいイエス・キリストはだれなのか、人々の意見は昔も今もさまざまではありませんか。
 14節「バプテスマのヨハネが生き返ったのだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者だ、道徳家だ、思想家だ、活動家だ、偉大な人生の教師だ、愛の模範だ」。イエスさまは、黙って聞いておられます。そして、実はそんなことはどうでもいい、といわんばかりに、二つめの質問を投げてこられます。15節「では、あなたがたは、わたしをだれだといいますか」。イエスさまは、こちらに関心があるのです。世間の人たちがいろいろと言っているのはわかった。それでは、あなたがたは、わたし、主イエスのことを、何者だと思っているのか。

1)この問いにどう答えるか、それが私たちの信仰なのです。
 それは、私たちが通常抱いている信仰についてのイメージとは違うかもしれません。私たちは、キリスト教の信仰とは、キリストの教えを聞いて、それに従って生きることだ考えてしまいます。あるいは、キリストが共にいて下さることを信じて、そのキリストに寄り頼んで、慰めや励ましを受けることが信仰だと思っているかもしれません。
  もちろん、それは間違えではありません。しかし、信仰の中心は、主イエスが何者であるのか、がわかることです。ピリポカイザリヤに至るまで、イエスさまは多くの教えをなし、奇蹟を行われました。律法学者とは違う権威をもって教えを語り、悪霊を追い出し、嵐を静め、病を癒し、わずかなパンと魚で1万人もの空腹を満たし、湖の上を歩き――それらの出来事があるたびに、人々や弟子たちの反応が記されています。いったい、この方はだれなんだろう? 嵐や湖までも、この方のいうことを聞く。
  イエスさまが共にいてくださるのがその通りだとしても、このイエスさまが何者であるのかがわかっていなければ、ほんとうの慰めや励ましにはなりません。ですから、多くの教えを聞き、多くの御業を見てきた弟子たちに、一番大切な質問をされます。あなたは、わたしをだれだと思うか。問いかけです。イエスさまが答えを出してこられたのではないのです。あなたは、その目でわたしを見て、その耳でわたしを聞いて、あなたは、わたしをだれだと思うか。
 「あなたはわたしをだれだと思うか」という主イエスの問いは、私たちが主イエスとどのような関係を持とうとしているかを明らかにします。イエス・キリストなど、自分にとって何者でもない、一つの生き方だ、一つの考え方だと思っているのか。あるいは寂しい時、悲しい時に話し相手になってくれ、慰めてくれる友人のような者としているのか、それとも、主イエスを自分のまことの救い主として、神として信じ、そのみ言葉に聞き従っていこうとしているのか…それが、あなたの人生の最重要課題だ、と主はおっしゃているのです。 私たちは、教会の礼拝で共に使徒信条を告白します。さまざまな信条の中で最も古いと言われます。紀元後の100年にすでに礼拝のプログラムの中に入っていました。使徒信条を見てください。そのほとんどは、キリストについての告白です。
 教会とはなにか? イエスを、生ける神の子、救い主と告白する人々の集まりです。主の祈りは、「天にまします我らの父よ」と「我ら」です。しかし、使徒信条は「我は……信ず」。でも、私はこれが意味があると思うのです。あなたは、わたしをだれだと思うか、というイエスさまの問いに、私たち一人ひとりが答えなければなりません。しかし、答える私たちは、声を合わせて、心を合わせて答えることができる――それが教会です。  
  私の答えが、他の人の答えを励まします。励まされます。小さな告白が何十と、何十億とあつまります。強められます。そしてあらためて、私たちは自分が心から信じていることを確認するのです。ああ、私が礼拝し、信じているイエスさまは、こういう方なのだ、と。 

2)イエスさまは、このペテロの信仰告白に対して、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです」とおっしゃいました。
 「あなたの答えは正しい、正解だ」ということではありません。主イエスをメシア、生ける神の子と信じることはいったい何が幸いなのでしょうか。それを信じれば、何かいいことがあるのでしょうか。病気やその他の苦しみ悲しみが癒されるのでしょうか。
 主イエスがここで言っておられる幸いとはどんな幸いなのでしょうか。マタイの福音書で、この幸いだ、ということばは、あの山上の垂訓で、イエスさまが八つおっしゃった「幸いなるかな……」と同じ言葉す。心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものです。心の清い人は幸いです。その人は神を見るからです。
  そういう幸いが、天からの祝福が、この告白ができた者に与えられる、というのです。あなたは幸いだ、天国はあなたのものだ、と主がおっしゃるのです。人生で成功することも幸せだろう。健康であることも幸せでしょう。思い描いていた夢が叶うことも幸せでしょう。しかし、覚えておきなさい、とイエスさまはおっしゃいました。たとえ、全世界を得ても、あなたのたましいを失ったら、それが何の益になるのだ。もっとも大いなる幸いは、この信仰を告白することだ。「アーメン」と言える幸せだ。
 そう考えるとわかって来るではありませんか。その幸せとは、イエス・キリストに対する信仰告白をもって教会につらなることです。イエスさまは、おっしゃいました。18節「では、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。私はこの岩の上にわたしの教会を建てます」
 ペテロの上に教会を建てるのでしょうか。確かにそうです。ペテロは初代教会が立ち上がっていくときに、指導的な立場にいました。しかし、ペテロという人物を指しているだけではないでしょう。なんと言っても、ペテロの信仰告白です。
 教会はその上に建てられています。「あなたは、生ける神の子、キリストです」。この信仰告白が集められて、教会ができ、そして、イエスさまはおっしゃっいました。18節の最後「ハデスの門もそれには打ち勝てません」 
 ハデスとは、死者の行く所、死の力が支配する所です。私たちの人生を脅かす様々な苦しみ悲しみ、その最後究極的なものが死です。その死の支配が「ハデスの門」において見つめられています。
 イエスさまがおっしゃったことは、そのハデスの門でさえ、教会には対抗できないのです。なぜでしょうか。それは教会に特別に力があるからでも、教会に集う人々が立派だからでもありません。それは教会が、生ける神の子であり救い主である主イエス・キリストを信じる信仰を告白する群れだからです。
 まことの神であられる主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。そして、その主イエスを遣わして下さった父なる神さまは、主イエスを死者の中から復活させ、死の支配を打ち破って新しい命を与えて下さったのです。
 主イエスを、生ける神の子、救い主と信じるとは、この神様の、死の支配を打ち破って下さった救いを信じることです。教会は、この信仰を共に告白して生きる者の群れなのです。

 私たちは玉木芳一兄のために祈ってきました。先日、欽也兄から、お父さんが天国に召される日は、そんなに遠くないと思う、とお話しをうかがいました。私はお見舞いに行くたびに、この方は幸せだと思います。元気な奥様に助けられ、子どもたちはいつもそばにいて、北海道から、大阪、川崎へとこられましたが、どこにあっても家族に囲まれて。末期ガンですが、それほどの痛みもなく、しかし、この方は死を見つめておられる、というのは厳粛なことです。
  昨年の夏に末期ガンだと知らされて、それ以来、ずっと死を見つめておられるというのは厳粛なことです。別に口に出して、毎日そんなことを回りに言うわけではないでしょう。しかし、私と会いますと、そのことをおっしゃいます。独特な柔らかな口調で、ご自分が死を見つめていることをおっしゃいます。
  そして、そういう兄弟ですから、ほんとうの幸せがどこにあるのか、身をもって私たちに教えてくださるのです。ほんとうの幸せは、イエス・キリストの救いにあずかり、天国に国籍をもっていることです。その国籍を確かめるように、聖餐にあずかり、その国籍を証明するかのように、アーメンとおっしゃる玉木兄は、幸せな人だと思います。聖餐に涙を流し、祈りに真実な「アーメン」を言う兄弟は、ご自分が高津教会に属していることを誇りに思っておられます。 お会いして、最後には必ず、高津教会の皆さんによろしく、とおっしゃいます。信仰告白をもって教会に連なっている限り、ハデスの門は、玉木兄に近づくことがないのです。こそれこそが、ほんとうの幸いです。

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DATE: 2007.04.01 - 00:52

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田代 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 125.170.226.227
あなたこそ生ける神の子キリストです、と私も告白いたします。
2007.04.16 - 22:35 
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