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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   ふじもと
Subject   元旦礼拝・1タラントの教会
08元旦 1タラントの教会
  マタイ25:14−31

 14節「天の御国は……のようです」と始まります。神の国を生きる私たちの姿が描かれています。私たちそれぞれが神からタラントを託されています。タラントというのは、英語のタレントということばが、ここから派生するように、「神から授かった賜物」です。私たちはみな、そしてこの教会は、タラントを神から託されているというのが、たとえ話の表現です。 
 あずけられたタラントの種類や量はそれぞれ違いますが、それを用いることが期待されているのです。そしてやがて、それがどのように用いられたかを、主人の前で、神の御前で問われるときが来ます。
 そして登場するのは3人のしもべです。一人は5タラントあずられ、彼はもう5タラント増やします。もう一人は2タラントあずけられて、もう2タラント増やします。ところが、1タラントをあずかったしもべは、その 財産を地に埋めて、増やそうともしませんでした。宝を授かっていながら、期待されていながら、残念にもそれを生かすことができないのです。注目すべきは、このしもべです。このしもべの少々歪んだ生き方に心を留めます。そこに多くの信仰生涯の教訓が秘められているからです。

1)1タラントをどう見るか?
  自分が1タラント預けられたしもべだとして、この1タラントをどう見るか?1タラントというのは、6千デナリです。1デナリが日当にそうとするといわれていますから、仮に1万円と考えれば、彼には6千万円もの大金が預けられたことになります。最初は有頂天だったに違いありません。よほど主人から信用を得ていなければ、そんな大金預けられるはずがありません。
 ところが、向こうから歩いてきた仲間と話しているうちに、「えっ、君もか。いやー、ぼくも任されたよ。それで額は?」
「うん、2タラント。1億2千万だよ」。
「えーっ、そんなにたくさんか?」
「いや、ぼくなんかたいしたことないよ。鈴木さんは5タラントだよ。3億だよ」
 1タラントをあずかったしもべは、なんだか気持ちが暗くなりました。「なんだ、平等じゃないんだ……」平等じゃないですよ。これは覚えておかなければなりません。神さまは私たちを同じに作っておられません。私たちには違いがあります。身体能力、音楽的完成、計算する力、記憶力、家柄、才能、教育。何一つとっても平等ではありません。そんなこと、重々承知しています。
 イエスさまはおっしゃいました。15節「「主人は、おのおのその能力に応じて(能力にふさわしく)」、タラントを託したのです。5タラント扱える人には5タラント、2タラント扱える人には2タラント。それは神さまの配慮であり、当然のことでした。
 しかし、1タラントを託されたしもべは、他のしもべと比較することで、不平等に憤り、自分の能力に卑屈になり、人生が急につまらないものに見えてきたのです。「たった」1タラントか……。
 しかし、14節にあるように、私たちはみな「神のしも べ」なのです。タラントの種類や量は違っても、主の信頼と期待は、同じなのです。人よりも賜物が少ないと感じている自分が、神様に愛されていない、軽んじられている、ということではありません。そもそも、なにがしのタラントを任されていることに感謝して、喜んでそのタラントを用いることがで、できるなら、私たちは良い忠実なしもべに、なることができます。
 昨日、ある教会の先生が、一年の感謝、と訪ねてこられました。先生は、大教会の出身で、神学校を卒業してその教会に副牧として仕えて20年。昨年、ぐっとさな群れに転任になりました。最初はとまどいを覚えられたでしょう。以前の教会と比べたら、教会堂が教会堂らしくない。教会員が何か違う?とおっしゃっていました。恵みと愛に生かされていない、と。一年間、いっしょにいろいろなことを考え、祈り、学びました。昨日いらっしゃって、この一年で教会がどんなに変わったか、という喜びを話してくださいました。そして、自分がどんなに変わったか、と。
 私は感謝してお話を伺いながら、変わったのは教会である以上に、この先生だ、と実感しました。私が拝見したのは、1タラントを喜んで、1タラントに集中するしもべの姿を取っておられる先生です。それがどんなタラントでも、いくらのタラントでも関係ありません。神からタラントを授かっているとき、それが1であれ、2であれ、5であれ、それに熱中する喜びを、良き忠実なしもべは、知っているのです。

2)主人である神さまをどう見るか
 このしもべの神を見る目が歪んでいました。
 24節「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私は怖くなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。」
 この男の心にあったことは何でしょう。怠慢だったのではありません。むしろ彼はまじめで、それが故に、冒険をしないで、無難に持ちこたえることを考えたのです。それはそれで賞賛されることでしょう。しかし、彼は主人を信頼していませんでした。
 イエスさまがここで描いているのは、当時の律法学者パリサイ人の生き方に違いないのです。落ち度なく律法を守り、まじめに生きることをします。人から批判されないように気をつけます。神さまからあずかったタラントを大事に埋めて守ります。しかし、そこには神への信頼はありません。彼らが抱いていた神のイメージは、失敗や間違いを厳しく追及する、怖い厳しい神です。そんな厳しい神におびえて、恐れの中に住んでいたのです。
 私たち1タラントを預かっているしもべが、集中しなければいけないのは、この1タラントだけではないのです。これを預けてくださった、神の信頼です。タラントの違いは、「それぞれの能力に応じて」できた違いです。信頼の違いではありません。主人は、この三人のしもべを同様に信頼していました。
 私たち一人一人は、同じ信頼のまなざしを神さまから受けています。神さまは、しもべである私たちを愛しているからこそ、信頼しているからこそ、ご自分の財産を預けたのです。それぞれに違った様々な人生の条件を与えられて、今こうして生かされている、そこには、この神さまの信頼があるのです。私たちを、この教会を愛し、信頼し、期待し、大切に思っておられるがゆえに、私たちに1タラントを預けて、おっしゃいます。「さあ、わたしとともに働いてくれ、神の国のために」
 クリスマス以来、神さまがどれほどこの高津教会を信頼していてくださるか、そのことが私の心に通っています。神の子キリストがこの世界に生まれるに当たって、ヨセフという普通の人物に、神は目を留められました。神様は、私たちの小さな力を貸してくれとおっしゃるのです。ヨセフよ、重いだろうけれども、つらいだろうけれども、私を背負って歩いて欲しい、幼子を抱いて歩いてほしい。エジプトに逃げて、幼子を守ってほしい。神様は私たちにそう言われるのです。それは、まぎれもなく、神が私たちを信頼しておられるからです。1タラントをあずけてくださるからです。
 戦後、ドイツのある町で、こんなことがあったそうです。爆撃で廃虚となった町の復興をしていました。由緒ある教会堂にも、爆弾が落ち、会堂の前に立っていたキリストの像が、両手首をもぎとられて転がっているのを見つけました。新しい会堂ができあがったとき、人々はこのキリスト像を修復することを相談しました。「新しい像を造って立てよう」という人。「折れた手首を修理して、この像を立てよう」という人。いろいろ論じたあげく、彼らは両手首のないままのキリスト像を立てました。そして、土台のところに、こう刻みました。
 「キリストは手を持ちたまわない。しかし、キリストは私たちの手をもっておられる」
   キリストは、その働きをなすのに、あえて私たちの手を使 い、そこに1タラントを託してくださいます。それは紛れもなく、神が私を、高津教会を愛して、信頼しておられるからです。そういう信仰で、2008年、高津教会創立60周年の年を踏み出そうではありませんか。1タラントの教会でいいのです。でも、その1タラントのすばらしさを見つめ、与えて下った神の信頼を受け取り、踏み出そうではありませんか。 

3)最後に聖餐式を前に、考えていただきたいことがあります。それは、神様が私たちに託して下さっているのは、私たちのこの体、そこに備わっている様々な能力、才能、環境だけではありません。神さまの最大の投資は、5タラントでも、2タラントでも、1タラントでもないのです。それは、独り子イエス・キリストです。そして、その最大の投資だけは、平等なのです。
 神様の独り子であられる主イエスが、この世に、私たちと同じ人間となって来て下さり、独り子を私たちのために与えて下さった、投資して下さった、つぎこんで下さったということです。このキリストにある救いを、恵みを、平安を、愛を、私たちに与えてくださいました。なんのために? 地に埋めるためではありません。それをさらに増やして、それを周囲に分け与えるためでしょう。私たちはその働きのために召されたしもべといっても過言でありません。
 しかし、往々にして地に埋めてきました。失敗したら、何を言われるかわからないと考えたのでしょうか。いいえ。往々にして、理由は何でしょうか。他のことが忙しくて、キリストの恵みを生かす時間がなかった。余裕がなかった。この世界のことで頭がいっぱいで、永遠のいのちの賜物を生かすどころではなかった。それは、1タラントを地に埋めているどころではないのです。それは、神の恵みを無駄にする、愚かなしもべです。そんなことをしていると、どうなるのでしょうか。 29節「持たない者は、持っている者まで取り上げられる」。別に主人が取り上げる必要もありません。どこに埋めたかも忘れて、失っていくのです。
 私たちは聖餐にあずかります。一人子キリストの恵みを、託してくださった神の愛を新しく心にいただくために、そして、それを無駄にはしないと心に決めるために。

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DATE: 2008.01.03 - 14:28

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田代 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 210.203.249.199
毎日恵みの中に在りながら今日ほど感動したのは久しぶりです。感謝いたします。
2008.01.19 - 12:07 
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