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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   ヨハネに見るキリスト(1) 神が人となって
ヨハネに見るキリスト(1)

 ヨハネの福音書の始まりは、私たちの小さなあたまでは及びもつかない壮大なものです。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。「ことば」とはキリストのことですが、ヨハネの福音書は、このキリストの永遠性からはじまります。
 9節で「すべての人を照らすその真の光が世に来ようとしていた」と、クリスマスの出来事が語られるかと期待しますが、マリヤやヨセフ、そしてベツレヘムでの出来事には触れず、ひたすら概念的に深く壮大な序文が展開されていきます。
 マタイの福音書を読もうとすると、まずとても長いキリストの系図で読者はつまずいてしまいます。同じように、ヨハネの福音書を読もうとすると、まず、この「ことば」と呼ばれている、宇宙的な永遠的な説明で「雲に巻かれてしまう」ような気がするのです。
 しかし今日は、この序文でヨハネが描こうとしている事柄から、ヨハネが語る独特な恵みについて、考えを巡らしてみようと思います。

1.キリスト――その永遠性(改めて、少しじっくり)
 1節「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった」。「初めに」とは、創造以前の初め、永遠を指します。「ことば」とはロゴス、キリストを指します。「神とともにあった」という表現は漠然としていますが、二者の間に距離はなかった、かわたわらにあった。あるいは顔と顔を合わせるように向き合っていた。「プロス」という前置詞なのですが、それほどの密接した状況を表しています。
 では、キリストは、神と共にあっても、神ではないのか?この疑問に、ヨハネは即座に、「ことばは神であった」と力強く宣言します。英語で言えば、「the God」であって「a God」ではありません。父なる神と、子なるキリストとの関係はどうなっているのでしょうか。ヨハネの独特な表現を使って、しばし考えてみましょう。それは、1:18にある、「ひとり子の神」です。これは有名な3:16にも出てきます。英語では、「only begotten son」です。聞き慣れない英語ですが、その意味はそれほどむずかしくはありません。
 「to beget」 とは、父親になるということです。私たちがbegetすれば、私たちは自分自身と同質のものを生み出します。つまり、人間の子どもは人間。狐の子どもは狐。文鳥の子どもは文鳥。でも、私たちが何かを作りますと、「make」しますと、それは、自分自身とは異質のものを作ることになります。ですから、人間は家を造る、狐は穴を掘って住処を作る、文鳥は草を集めてきて巣を作ります。
 これが創造です。しかし、神がbegetしたものは神です。そして、神が創造したものは、たとえ霊的な天使という存在であっても、人間も、他のいかなる被造物も、神ではないのです。ヨハネは、そういいたいのです。ヨハネは、そのようにしてキリストの神としての本質、しかも万物が創造される以前から、永遠から神と共におられたキリストを、福音書の語りで宣言しているのです。3節「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは人もない」。
  明らかにキリストは、父なる神による第一の被造物ではないのです。被造物がこの世界に創造される以前に神と共におられたキリストによって、すべてのものが創造されたのです。実は、ヨハネも序文だけあって、キリストの神としての永遠性を詳しく説明しようとはしません。でも、ヨハネがキリストをどのように捉えていたか、その特徴的な概念は、すでにここに記されています。4節「いのち」です。あるいは、4-5節「光」、9節「すべての人を照らす真の光」です。

2.キリスト――人となって、私たちの間に住まわれる
 14節で、ヨハネはキリストの永遠性から、人としてこの世に来られた歴史的なイエスに、いきなり話を移します。この大きなステップに、ヨハネも私たちも感動を覚えるのです。永遠なる神と共におられた、神と同質のひとり子の神は、永遠の世界に存在して、ご自身が創造された天地をみそなわしておられるだけでなく、なんと歴史の一点を選んで、ベツレヘムという場所を選んで、「人となられました」。
 ヨハネが生きていた時代のギリシャ哲学には、「ロゴス」という考え方がありました。これが、1節の「ことば」です。ロゴスとは、天地万物を貫き、宇宙を支配する、ある種の力、ある種の道理、ある種の理念です。人びとはそのロゴスは何であるか、そのロゴスが何を教えてくれるか、延々と論じていました。しかし、ヨハネは、なんとそのキリスト・ロゴスは、人となって、14「私たちの間に住まわれた」というのです。人となるだけではありません。私たちの間に住むのです。(近くに越してきた、みたいな感じ)
 これは、ヨハネの福音書を読み進めていくとわかります。キリストは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けます。この方は、宿に泊まって、そこに夜遅くニコデモが会いに行きます。この方は、サマリヤの井戸のそばで、のどが渇いて、座っておられるのです。概念として理性や理念として宇宙を貫いているのではなく、ロゴスはイエス・キリストであって、人となって、あなたの間に住まわれた、あなたのもとに来てくださる――これこそまさに福音なのです。
 14節をもう少し読み進めてみましょう。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」。それはそれは、キリストの御業は神の栄光に満ちていました。悪霊を追い出し、湖の嵐を静め、何千人もの空腹を5つのパンと2匹の魚で満たし、病める者をいやし、死んでいる者をよみがえさせるのです。どれをとっても、恐ろしいばかりの神の御業です。
 その教えは、律法学者のようではありませんでした。18節「父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされた」。それは、神に「ついての」外からの教えではありません。「解き明かす」とは、エクセーゲサトー、つまり内側からの開示です。イエスの教えは、神の教えそのものだったというのです。この方は、まさに神そのものです。
 後に、最後の晩餐の席上で、ピリポが言うではありませんか。14:8「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」。確かに、そうなれば満足でしょう。神を見るれば、永遠をかいま見れば、私たちを創造し、この世界を治めておられる神を見れば、満足ではありませんか。でも、その時、主はなんとお答えになったでしょう。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです」。ヨハネは、この時の会話を強烈に覚えていたに違いありません。なんといことだ。まさにそうだ。キリストに聞くことは、神に聞くことであり、キリストに従うことは、神に従うこと、キリストに期待することは、神に期待することなのです。
 話を元に戻します。それでは、1:14「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」は、どのようなものだったのでしょうか。罪深い世を消し去るほどの光だったのでしょうか。末端にいる者、罪深い、弱い私たちが近づくこともできないほど、聖い栄光だったのでしょうか。
  いいえ、キリストが見せて下った栄光とは、14c「恵みとまことに満ちておられた」。それは、神の愛でした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛され」ることが、ヨハネにはわかりました。罪深い世を裁くためではなく、救うために来られたことをヨハネは知らされたのです。ヨハネが語ろうとしているキリストは、理念でも理性でも概念でもありません。キリストは、確かに神であり、万物の創造はこの方によってなされました。でも、この方は、人となって、私たちの間に住み、漁師のアンデレとヨハネを退けず、疑問でいっぱいの宗教家のニコデモの質問に耳を傾け、5人の男性をわたってきたサマリヤの女にそして私に声をかけられます。

3.キリスト――この方を受け入れる
 この序文に、もう一つ、ヨハネの福音書の中心メッセージが隠されています。それは、12節です。「この方を受け入れた人びと、すなわち、その名を信じた人びとには、神の子どもとされる特権をお与えになった」。神であり、神と共にあり、永遠であり、創造主であり、光でありいのちであるキリストが人となって私のもとへと来られたとき、
 この方の大きさの故に、果たして私の小さなあたまが理解できるのでしょうか。哲学的探求もしていない、光のことも、いのちのことも、とても疎い、日常生活の現実に引き回されているような私の心が、どのようんして栄光に満ちておられる偉大な御方を信じることができるのでしょうか。
 ヨハネは、それは「受け入れること」だ、としています。独特な言い方なんです。それは、私たちの方で積極的に出て行って、キリストに関わる以上に、この方は、あなたのもとに来られる。だから、心の扉を開けなさい、と。
 ここで、黙示録3:20を思い起こすではありませんか。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら……」。その時、主はあなたのうちには入り、あなたは主のうちに入るのです。いのちの交わりが始まっていくのです。ホルマン・ハントという画家による「世の光」と題された作品が、ロンドンの聖ペテロ大聖堂に掲げられています。それは、この戸の外に立ってたたいているイエスの姿です。祭司であり、王である主は、祭司の装束の上に王のガウンをまとい、頭には王冠を戴いて、「世の光」というタイトルにふさわしくランプを手に提げています。
 しかし、主が叩いている扉には取っ手がついていません。イエスの方からは開けることができないのです。ツタが扉全体にからまって、長い間、いえ、かつて一度も開けられたことがないことを物語っています。それでもイエスさまは、扉を叩いておられます。
 だから、ヨハネは「受け入れる」「迎え入れる」という表現を使います。神との交わりの第一歩は主の側です。主が、あなたの心の扉を叩きます。受け入れるとは、その時、ほんの少し扉を開けることです。この方が光だとしたら、その隙間から光が差し込んできます。もし心を閉ざすことなく、少しでも導かれる光に応答していくとき、主はさらに私たちを導いてくださいます。
 1章の終わりに、ナタナエルという人物がイエスさまに声をかけられています。初めは、彼の知らないところで、すでにイエスさまは彼の心の中を見抜いておられた、ということなのです。ナタナエルはびっくりして、主に心を開きます。そると主は、なんとおっしゃったでしょうか。
「そんなことで、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります」(1:50)
 私は、この御言葉が大好きです。イエスさまは、小さな光を与えてくださいます。そこに飛びつくのです。喜んで主の恵みを受け入れて、感謝するのです。まだわからないこともたくさんあるでしょう。でも、ナタナエルのように、その小さな恵みを受け入れて、喜ぶことです。すると主は、そんなことでも信じるあなたは、幸いだ。あなたは、それよりもさらにおおきなことを見ることになります、と語ってくださいます。

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DATE: 2008.02.07 - 09:38

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