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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   クリスマス礼拝:下ってきたのは、天へと連れ上るため

                        出エジプト3:7−8

                  ●二つの動き

 クリスマスを降誕説といいます。あるいは短く「聖誕」ということもあります。降誕のほうが、神学的には的を射ています。それは、神の御子イエス・キリストは、このクリスマスをもって、天から降りてこられた。人の「姿」を取って、この世界に生まれたのではありません。まさに人となって降りてこられたのです。
 イエス・キリストは、やがて復活のあと、天に昇られます。これを昇天と言います。「召天」ではなく、天に昇られました。天より降り、そして天へと昇る、――この二つの動きが、キリストの恵みを最も端的に、わかりやすく、聖書の中で言い切っている箇所がある。
 出エジプト3:8です。
「私が下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その力、広い良い地……に彼らを上らせるためである」
 クリスマスというのは、主が「下った」ときです。それには目的がありました。「あなたを救いだし、天へと上らせるため」だと。
 この出エジプトの聖書の箇所から、降りてこられた神について、見てみましょう。7節にこう記されています。
「主は仰せられた。『私はエジプトにいる私の民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。私は彼らの悩みを知っている」。ここに出てくる、3つの動詞をよく考えてみましょう。
 
                 ●民の悩みを確かに見た

 第一に、下ってこられる神は、7節で、「わたしは民の悩みを確かに見た」と宣言されています。見てわかった、見て確かめたという意味です。
 私たちもたくさんのものを見ます。でも、見たものは、片っ端から忘れていきます。見たと言うとき、ほんの視覚の一点にはいっただけなのです。いや、人の悩みはあまり見ないようにしているのです。イエスさまが語られた「良きサマリヤ人」のたとえを見てみましょう。エルサレムからエリコへの道、旅人が強盗に襲われて、死にそうになって道ばたに倒れています。そこに、祭司が通る、レビ人が通ります。彼らはどうしました? 彼らは倒れている人を「見た」と聖書にはあります。しかし「見て、道の反対側を通っていった」のです。これでは、見ていません。
 でも、この世界の人間の関わりを実に良く表現しているではないですか。そう考えると、神さまがいわれた、この言葉は実に重いのです――「わたしは、民の悩みを確かに見た」。

                 ●彼らの「叫びを聞いた」

 聞くというのは、旧約聖書では、聴覚の問題ではありません。旧約聖書最大の律法は、申命記6:4「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただ一人である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神主を愛しなさい。」です。これが「聞く」/シェマーと呼ばれる聖書の箇所です。聞くということは、聞いて応じる、聞いて答える、聞いて従う、聞いて実行するということです。
 私たちは、聞いていないのです。先日、大学の授業のあとで、女の子がやって来ました。「先生、わたし大学に入ってから、精神的に調子が悪くて、なかなか授業に出られないんです。今日も、お母さんに車でつれてきてもらいました。いっぱい欠席しているのですが、大丈夫でしょうか?」
 私は同情して言いました。「へー、そうなんだ、大変だね、何とかしよう」。そう返事をして、名前を確認していると、彼女は言いました。
「先生、わたし前期にもこのことを先生に申し上げて、先生は、大丈夫、ちゃんと考慮するから、とおっしゃったんですが、覚えていないのですか?」
 そう聞いたとたんに、顔から火が出るほど、恥ずかしかった。なぜなら、覚えていなかったのです。しばらくして、ようやく思い出しました。
 わたしが恥ずかしいと思ったのは、自分の記憶力のなさではありません。この学生にしてみれば、大変な試練の中を通っているわけです。それを聞いた。聞かせてもらいました。でも、その叫びが自分の心の中にとどまっていないのです。それでは、叫び声をあげた甲斐がないではないですか。それでは、牧師としてキリスト教を学生に教える資格はないではないですか。。
 神さまはそうではないと、ご自分から宣言されました。わたしはあなたの叫び声を聞いた、聞いている、忘れていないと。

                  ●「わたしは彼らの痛みを知っている」
 
 「知る」というのは、聖書では、知的なことではなく、体験的なことです。痛みを知る――どういうことでしょうか? 私は、ぜんそくの苦しさを知っています。何しろ用地沿線の時から苦しみ、小学校3年では川崎に住むことができず、転地療養と称して母の実家の桑名に転校したぐらいです。今は良い薬がありますが、もう日本におけるぜんそく治療の歴史を背負ってきたような人間です。7年ぐらい前に、パプアニューギニアの相原先生の奥様が、アメリカでなくなりました。友人宅に滞在中、掃除機をかけて、その埃りを吸い込んで、発作を起こして、救急車を呼ぶこともなく、亡くなりました。アメリカ訪問中ですから、救急車の電話番号をわからなかったのでしょうか。吸入器をもっていなかったのでしょうか。いや、私には分かります。収まるんじゃないかと、じっと耐えていたのでしょう。深呼吸をしながら、みぞおちのあたりを押さえながら、しかし収まることがない。その判断が一瞬遅れたとき、もう叫び声のような呼吸をしながら、徐々にチアノーゼ状態で動けなくなっていったことでしょう。私には分かります。その痛みが。面識はありませんでしたが、日本での記念会にまいりました。うかがいました理由は一つです。それは、私には他人事とは思えなかったからです。私はその痛みを知っています。
 「愛する者を失った痛みが、あなたにわかるか?」と問われれば、私の答えは「少しは分かります。高津教会にそのような方がいらっしゃいますから」と言うしか分かりません。いや、もっと素直に「私には分かりません」と言うべきでしょう。「事業に失敗した挫折をあなたはわかるか?」と問われても同じです。「人に言えない寂しさがあなたに分かるか?」と言われても、体験していないものは分からないのです。
 では、天の神は、私たちの痛みをわかってくださるのでしょうか? そんな離れたところで、見て、聞いて、知っていると言うけど、本当に自分のことのように分かってくださるのでしょうか?
 分かってくださるのです。なぜなら、神は人となって、この世界に、このわたしの世界に、降りてきてくださったからです。キリストこそ、神が罪と死の奴隷になっている私たちの苦しみを見、叫びを聞き、痛みを知り、そればかりか、御自身のこととしてその痛みを知るために、暗い馬小屋で生まれ、朽ちた飼葉桶に寝かせら、罪人と共に洗礼を受け、虐げられている人々と共に食し、病の人に触れ、自分は不遇だ、敗北者だ、孤独だと感じている人々へ恵みの手を伸ばされました。
 
                  ●天へと上らせるために

 主が、私たちがいるこの場所へと、天から下ってこられたには、目的があります。私たちを救い出し、そこから神の国へとのぼらせるためです。
 今日、このクリスマス礼拝で、5名の方々が洗礼を受けました。洗礼を受けたとき、私たちとともに主は立っておられるのです。そして、私たちの手を握って約束してくださいます。「わたしは、あなたを連れて、神の国へと歩いていく。あなたと共に歩いていく。怖いときも、悩むときも、迷うときも、あなたといっしょに歩いていく。」
 ジョン・エベリンガムというオーストラリアのジャーナリストが、70年代にラオスで活動していました。1977年、共産主義政権により国外退去を命じられました。そのとき彼が婚約していた、ラオスの女性ケオ・シリソムホーンは出国を許されませんでした。
 彼は、共産軍に選挙された国に婚約者を残して、一旦国外へ出ます。翌年、彼はラオスに残されたケオの救出を決行します。ラオスとタイの国境を流れる黄土色のメコン川をタイの側から泳ぎます。水面下の視界はゼロ。しかも、水流を誤算した彼は、ケオとの約束場所より数百メートル下流に泳ぎ着いたため、落ち合うことができず、彼はタイの側に潜水で戻り、再度挑戦しました。
 遂に、ラオスの真っ暗な川岸に身を潜めて待っていた恋人と再会します。ところが、ケオは泳げませんでした。
 ジョンは救命ジャケットに少しの空気を入れて彼女に着せ、ボンベのマウス・ピースを与え、ケオを背負うようにメコン川を泳ぎます。雨期の速い流れに押されながらも、ケオは一生懸命しがみつき、二人はタイの川岸にたどり着きました。
 やがて神の国へと到達するときまで、私たちはイエスさまを離してはいけません。主は、「わたしにとどまりなさい」とおっしゃいました。自分では泳ぐことができない私たちは、ただ主に背負われて、この世の大河をわたる以外にないのです。自分で何かができると思わないで、この弱い自分を背負ってくださるこのを離さないことです。主にしがみつくことです。この方は、私たちを背負いながら天へと連れ上ってくださいます。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2002.12.24 - 23:13
LAST UPDATE: 2002.12.24 - 23:14

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