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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   ヨハネに見るキリスト(6)わたしは門です
わたしは門です。

 私たちは今日、棕櫚の聖日、パームサンデーを迎えています。この日、イエスさまはエルサレムに入りました。主は、黒光りする馬に乗ってきたのではありません。ロバの背に乗って、貧しい人や病人や弟子たちとともに都に入ります。人々は、棕櫚の葉っぱを降りながら、ホサナ、ホサナと迎えます。
 エルサレムは過越の祭りが始まるところでした。世界中から巡礼の人々が集まってきます。にぎわっていました。人々も、その理由も定かでなく、興奮していたことでしょう。こうして1週間が始まっていきます。そして、木曜日に過越の食事を弟子たちとともにし、ユダが裏切り、金曜日に主イエスは十字架にかかるのです。ホサナ、ホサナ、という人々の叫びは、「イエスを十字架につけろ」に変わっていきます。

 エルサレムに入っていくとき、人々は興奮して叫びました。ホサナ、ホサナ――それが、詩篇118:25「主よ、どうぞ救ってください」です。そして、この詩篇に門が出てくるのです。19節「義の門よ、私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう」。エルサレムには、いくつかの門がありました。囲われた神の都です。その門をすべての人は通らないと、神の御前に出ることができません。義の門とは、神の門、あるいは神に近づく門でしょう。私のために開け、といって、人々は入っていくのです。果たして神への門は、彼らのために、私たちのために開くのでしょうか?
 夏目漱石の「門」という小説を思い出します。道を求めて、鎌倉の禅寺を訪ねる主人公の姿について、漱石はこう書いています。自分は門を開けてもらいに来た。しかし、門番は扉の向こう側にいても、遂に顔さえ出してくれません。ただ、声がします。「たたいても駄目だ。一人で開けて入れ」。しかし、どう考えても、無理です。
 
小説には、こうあります。彼は、自分の分別を頼りに生きてきた。その分別が今の彼には口惜しく思った。彼自身は長く門の外にたたずむべき運命をもって生まれてきたものらしかった。彼は後ろを顧みた。そうしてとうていまた、もとの道へ引き返す勇気もなかった。彼は前を眺めた。前にはけんこな扉がいつまでも展望を遮っていた。彼は、門を通る人ではなかった。また門を通らないですむ人でもなかった。
 要するに、彼は、門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

 門です。「義の門よ。私のために開け?」おそらく、私のために開かないでしょう。私もまた、門の下に立ちすくむ存在なのでしょう。神へと通じる門は、私のために開くのです。それは、イエスさまが「私が羊の門です」とおっしゃったからです。9節「だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」。10節「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。イエスさまは、門として私たちを招いておられます。門は閉じられていません。わたしを通して入ってきなさい、と招いてくださるのです。

1)この門こそ、イエスさまの十字架です。
  過越の祭りに、羊が、神殿で屠られます。神殿の祭司は、人々が携えてきた羊の上に手を置いて、人々の罪をその羊に負わせるという儀式をします。いけにえが、人々の罪を背負うのです。
 ところがイエスさまはおっしゃいました。羊がいのちを捨ているのではない。11節「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。羊飼いであるわたしが、羊であるあなたがたの罪を背負って、十字架にかかる。だから、あなたがたは、わたしを通して、わたしの十字架を通して、神の御前に来る。そして罪の赦しを得る。義の門はわたしだ、そうイエスさまはおっしゃっているのです。

 『キリストの血潮』という本の中で、ロバート・コールマン先生は、お医者さんから聞いた話を引用しています。
 医者が小さな少年に言いました。
「君が妹に血をあげれば、君の妹のいのちは助かるんだよ」
6歳になる妹は、死の危機に瀕しています。この少年も二年前に同じ病気にかかり、死の淵から見事に生還しました。少女を助けるには、同じ病気に感染し、それを克服した人からの輸血しか道がありません。幼い兄妹は同じ血液型でしたから、少年は最善の血液提供者でした。
「ジョニー。君の血をメアリーにあげてもいいかい?」
医者が尋ねます。 
少年は躊躇しました。その下唇がわずかに震えていました。それから彼はほほえんで言いました。
「もちろん、先生。ぼくの血を妹にあげるよ」
 ほどなくして、二人の子どもは同じ手術室に運ばれていきました。メアリーは痩せて蒼ざめていましたが、ジョニーは血色も良く健康そうでした。兄と妹は言葉を交わすことはありませんでしたが、目が合うと、ジョニーはやさしく妹を見つめました。少年の血が妹の静脈に流れ込み、まさに新しいいのちが、病める肉体に入っていくのが見て取れました。
 輸血も終わりに近づいた時、沈黙を破って、ジョニーは小さな、しかし勇敢な声で尋ねました。
「先生。ぼくはいつ死ぬの?」
その時、この医者は思い出しました。彼の一瞬のためらいを。その下唇がかすかに震えていたことを。小さなジョニーは、自分の血を妹にあげることは、いのちをあげること、つまり自分は死んでしまうと思っていたのです。そしてほんのわずかな瞬間に、彼は妹のために大いなる決断をしたのです。
 血を上げるということは、いのちを上げることなんだ、自分のいのちを注ぎだして、自分のいのちを妹のために差し出すことなんだ、少年はそう考えたのです。その考えは、間違っていない。
イエスさまはおっしゃいました。
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
羊のためにとは、羊がいのちを得るためです。しかも、いのちを、10節「豊かに得るためです。」

2)この門の中に、10節「盗人が来る」と記されています。
 荒らしに来るのでしょう。12節では、オオカミが来ると。羊を奪いに来るのです。この現実をイエスさまは指摘しておられます。どんなに豊かな牧草地にも、オオカミは羊を奪いにやってきます。
 仮に、この牧草地が、門の中が教会だとしたら、あるいは私たちの信仰者の生活の中だとしたら、オオカミであるサタンは、何を奪いに来るのでしょうか。旧約聖書のヨブ記で、サタンはヨブをねらいます。ヨブから多くのものを奪います。財産を奪いました。羊に山羊です。愛する子どもたちのいのちを奪いました。最後は、ヨブの健康を奪いました。しかし、サタンがねらっていたのは、ヨブの財産でも子どもでも健康でもありませんでした。彼がねらっていたのは、ヨブの信仰です。
 サタンは、私たちを見て喜んでいるように思えるのです。人間っておかしなものだ。あそこまで試練を襲わせると、信仰者は、堪え忍んで信仰を守る。でも、信仰を奪うには、試練でおそう必要ない。むしろ、のんびりさせておいた方がいいだろう。
 イエスさまは、そんなサタンの攻撃にもおっしゃいます。わたしが羊の門です。パレスチナの牧場、私達のイメージとは違います。放牧するとき、石を積み上げて、簡単な囲いを造ります。しかし、放牧の場合、ふつうの牧場と違います。牧場なら、出入口には、扉がついていて、羊飼いは、追い込んでおいて、ドアを閉めるのですが、昔の遊牧の世界では、それがないということを聞いたことがあります。羊飼いが、文字どおり牧場の門となる。彼は、その入口に座り、彼がその入口に寝、夜通し守ります。いのちを張って、羊のいのちを敵から守ります。

3)だとすると、3番目、良き羊飼いに守っていただくために、羊の側でしなければならないことがあるのです。
  それは、繰り返し教えられています。
 3節「羊は、羊飼いの声を聞き分ける」
 14節「羊は、羊飼いを知っている」
 16節「羊は、羊飼いの声に聞き従う」

 舞台で活躍した老齢の俳優が、自分のファンを集めて、様々な場面の台詞の朗読会をした、という話があります。有名な場面の有名な台詞を、次から次へと披露します。最後に観客から、リクエストをとりました。そのうちの一人が、詩篇23篇をやってくださいと。リクエストしたのは、カラーをした神父様でした。
 良いですよ。ただし、もし神父様が、わたしの後にやってみてください。舞台俳優は見事でした。抑揚をつけて、朗々と
「主はわたしの羊飼い。わたしは乏しいことがありません。主はわたしを緑の牧場に付させ、憩いの水のほとりに伴われます。」
終わったときには、拍手喝采です。
 それから、老齢の神父が、ゆっくりとしわがれた声で、声が通るわけでもない、ドラマ仕立ての演出もない。終わったときには、拍手はありませんでした。しかし、中には目頭を押さえている人もいました。
 舞台俳優は、神父に敬意を表して言いました。
「みなさん、わたしは詩篇23篇をよく知っています。しかし、ここにおられる神父様は、詩篇23篇ではない、そこに歌われている良き羊飼いを知っておられる。」
 それが、舞台俳優であるわたしと、神父様との違いです。

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DATE: 2008.06.07 - 16:23

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