ヨハネに見るキリスト(7) わたしはよみがえりです ヨハネ11:1−29
ラザロの復活の物語です。 1節に、「さて、ある人が病気にかかっていた」と、物語は始まります。場所は、ベタニア。イエスさまと大変親しい家族の出来事でした。マルタとマリヤの姉妹、そしてラザロという弟、その弟が、瀕死の病に冒されていて、姉妹はイエスさまを助けを得ようと、使いを送ります。そして、病の終着点は、死でした。 死は普遍的なテーマです。この普遍的なテーマを、私たちはどう受けれるのでしょうか。
仏教にはこういう話があります。ある村に、自分の子どもを失った母親が半狂乱になって、悲しんでいた。お釈迦様のところに来て、助けを求めた。「よろしい、私がその子のいのちを戻してあげよう。この村で、未だかつて死者を出したことがない家を見つけてきて、その家から米をもらいなさい。そうして、ご飯を炊いて、その子の口に入れなさい。」母親は、悲しみを力に変えて、村中を探します。そうして気がつくのです。死人を出したことがない家は一軒もなかった。そして、子どもの死を受け入れるのです。 私は、なんとなくこの心境がわかります。きっと、自分にそういう問題が降りかかったら、そう考えて慰めるでしょう。死は、普遍的です。特別なことではないのです。自分だけが悲しくて、自分だけが不幸ではないのです。」
では、死は普遍的で、特別なことではないから、それでよしとするのでしょうか。いいえ。イエスさまはそうはおっしゃいませんでした。わたしは、よみがえりです、いのちです。わたしはいのちです、とおっしゃるこの方は、死を人類の最大の敵だと考えておられるのです。なぜなら、死は、罪を犯した人間に対する裁きとして、この世界に入り込んだからです。イエスさまは、私たちを死へと送り出すためではなく、いのちをさずけるために来られました。
聖書を追いかけながら、そのことを確認していきましょう。
1)死の足音、それは確実に忍び寄ります。 2節「ラザロは病んでいた」。ちょっと3節を見てください。「主よ。ごらんください。あなたが愛しておられる者が病気です」。イエスさまに愛される、ということと、ラザロは病気だ、ということは並列してかかれています。 このことは大切です。病に霊的な解釈は必ずしも不要だと言うことです。人間の身体も心も弱いのです。私たちは厳しい環境でストレスの中を生きています。元気であることが不思議なくらいきびしいこともあるではないですか。イエスさまはラザロを心から愛しておられた。それでも、彼は病気になるのです。 死の足音が近づいてきます。主は、6節を見ますと、その緊急事態の中にあっても「そのおられたところになお2日とどまられた」。助け手は遅れます。病は進みます。そして、息を引き取ります。その現実をイエスさまは否定されませんでした。イエスさまが到着したときには、葬儀も終わったのでしょう。 17節「ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた」。19節「大勢の人が慰めにやってきた」。友人や親族が、この家に駆けつけてくる。姉妹は、家で座っています。久しぶりに会う友だちは、駆け寄って、彼女の肩を抱いて、なきじゃくります。親戚の中には、どうしてこうなったんだ、手を尽くして助けることはできなかったのか、そんなことにやきもきします。それを聞いている、姉のマルタは、まるで看病が足りなかった自分が責められているような思いに駆られます。避けて通れない現実です。人の死。人生が突然転落したようなとまどいと悲しみ。
2)墓石よりも重い、病、あるいは死という現実をイエスさまは、貫いて、いのちへと導き出されます。 4節「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」死で終わるだけのものではない。病・死、しかし、それで終わりではない。人の人生、それで終わりではない。 ここに「白い翼」というひとりの少女の追悼誌があります。中学一年生、女子聖学院1年に入学して間もなく、急性白血病になりました。追悼誌は、「白い翼」と題が付いていますが、それは真由美ちゃんという娘さんが、「翼をください」という歌が好きだったからです。 激しい治療のために、脳に決定的なダメージを受けます。横たわって苦しんでいる、その真美ちゃんは、話すことができませんでした。その現実に、お母さんは、自分が崩れそうになったと記しています。何もかもが悲しくなって、崩れそうになったと。 「例えば、二階のピアノを見たとき、このピアノで発表会のための曲を一生懸命練習していた姿を思い出す。そして、このピアノを真由美が再び弾く日が来ることはないのだ、と思うとき。地下鉄で巣鴨駅を通るたびに、この駅でJRに乗り換え、駒込駅で降りて女子聖学院へ出かけることはもうなくなったのだ、と思うとき。子どもから少女へ脱皮しかかった、私の目に輝いて見えた真由美は、今は存在しない。こうして私は将来の真由美を考えて絶望的になり、過去の真由美を振り返って悲嘆にくれる。」 しかし、お母さんは、話すことのできなくなった真由美さんのそばにいながら、幸福感を味わうんです。 「私は幸福だ。真由美のそばにいるだけで本当に幸福なのだ。真由美の顔を見つめ、このところ治療をストップしているためにうっすらと生えかかってきているふわふわした髪をなでて、求めに応じて、足をさすってやるとき、私の心は幸福感でいっぱいになる。」 その結果、お母さんは、ある真理がわかるようになったというのです。 「人間って、なんなのだろう。私には、「たましい」という宝物を薄い肉体という包装紙で来るんだ存在に思える。魂が永遠に結ばれているのなら、「たましい」の質のみが最後に問われるものなら、肉体というものは、本質的には問題ではないかもしれない。真由美を見ていると、そんなふうに思えてくるのだ。」 人間ってなんなんでしょう? 私には、「たましい」という宝物を薄い肉体という包装紙で来るんだ存在に思えます。だから、肉体が大きなダメージを受けていても、たましい の尊さは、人間の尊さは、変わらないんだ、と。 しばらくして、娘さんの様態は悪化し、やがて天に召されます。薄い包装紙がそこにもうないのです。そして、お母さんはさらに深い真理を味わいます。死は終わりではない。病も死も触れることができない、永遠のいのちがある。 私はイエスさまの宣言には、とても意味があるとおもいます。主は、「わたしはいのちです」とはおっしゃらなかった。「わたしはよみがえりです、いのちです」。よみがえりです、とは、死を覆す力です――そうおっしゃったのです。 あなたにとっての、人間にとっての、究極の課題、だれも戦うことができない、すべての人を最後は飲み込んでいく死を、覆す力を持っています。 そして、マルタにおっしゃいました。26節の最後「このことを信じますか?」信仰とは、このキリストの力を信じることです。死、人生の絶壁でしょう。乗り越えることができない切り立った絶壁でしょう。そこで、いのちは終わるのです。小さな死は、私たちの人生の至る所にあります。それを前にして、あきらめ、絶望し、悲嘆に暮れるのです。自分ではどうしようもないからです。イエスさまは、おっしゃいました。「わたしは、よみがえりです」――それをひっくり返します。あなたはわたしを信じるか。マルタも私たちも応えます。「はい主よ。信じます」
3)わたしはよみがえりです、いのちです、とおっしゃった主は、死を味わわれます。死に飲まれます。 なぜでしょう。そうして、死の力をご自身の内側に取り込まれて、死の力を打ち破るためです。
Tコリント 15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
ある日、お父さんと女の子が、田舎道を車を走らせていました。暑い夏の日で、窓を開けて、風を入れて走っていました。突然、大きなスズメバチが窓から飛び込んできてパニックになります。女の子は、蜂の毒に極度のアレルギーで、刺されたら呼吸困難、やがて意識がなくなります。蜂を追い払おうと、さけぶはあばれるは、で車の中はパニックになります。 お父さんは、急ブレーキで車を止めて、女の子を抱き寄せて、暴れる手を押さえて、それから蜂に手を伸ばして、ゆっくり蜂に手を伸ばして、捕まえます。蜂は、鋭い針で、お父さんの手を刺します。そして、窓の外に蜂を放り出しました。 女の子は泣きじゃくって、なかなか静かにはなりません。しかし、お父さんは優しく、女の子を腕に抱き留めて、言いました。「大丈夫だよ。蜂のとげは、父さんが奪ったから」 パウロが言いたいことはそういうことでしょう。死のとげはどこにあるのか。死の現実は、消えてないです。そこにあります。私たちにも襲いかかります。しかし、主はご自身の死をもって、死のとげを奪い、その力をもって、死の現実を覆してくださった。私たちが信じているのは、そのイエス・キリストです。わたしはよみがえりです、いのちです、とおっしゃるイエス・キリストを信じているのです。
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LAST UPDATE: 2008.08.02 - 23:49 |
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