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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   元旦礼拝 「祭壇と祈り」(祈りのシリーズ1)
元旦礼拝「祭壇と祈り」

「彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のために、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った」(創世記12:8)
 
 今年、礼拝で「祈りの聖徒」たちを旧約聖書から学ぼうと導かれています。その最初が、私たちの信仰の父アブラハムです。
 創世記の12章で、神はアブラハムを呼び、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」と彼を信仰の旅へと連れ出されます。
 彼が旅したのは、このときだけでありませんでした。アブラハムは生涯、定住地を持つことなく、旅を続けます。新約聖書のヘブル人への手紙11章を見ると、彼が「地上では、旅人であり、寄留者であり」(13節)、「天の故郷にあこがれていた」(16節)と記されています。

                               ●アブラハムにとっての神

 アブラハムの生涯に、私たちクリスチャン人生とつながる特色があるとすれば、第一に、それは寄留者のように、旅人のように、天幕で生活をしていることです。アブラハムが神の召しによって、時に周囲の事態によって、地上を移動していくように、私たちもまた、生涯、旅をし続けていくのです。この年も、さまざまな出来事が起こるたびに、自分が天幕生活をしている旅人であることを思い出すのです。
 第二に、このアブラハムは、どこに行っても祭壇を作りました。どこに移り住んでも、どこに旅をしても、そこで神を礼拝します。8節のみことばは「……移動して、天幕を張った。……彼は主のために、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った」とあります。
 これがアブラハムです。これが私たちです。そして、こういう生き方は、6節に言及されている「カナン人」とは異なりました。カナン人は農耕民族でした。アブラハムの天幕生活が遊牧民的であるとすると、カナン人は農耕民族的です。
 この二つは、古代の世界にあって民族性を決定します。或いは宗教を決定すると言われます。遊牧民は、神さまに導かれるところ、どこへでも、テント一つで、移動していきます。一つの土地に縛られず、広い範囲を生涯にわたって移動していきます。この生き方が、旧約聖書の民の原点にあると言っても、過言ではないでしょう。
  詩篇23に歌われています。「主は、わたしの羊飼い。わたしは乏しいことがありません。主は、わたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」それは、神に導かれ、神に守られ、神と共に歩み、どこにあっても神を礼拝する生き方です。。
 これに対して、古代にあっては、農耕民族は一つの土地に縛られます。カナン人のそれぞれの部族が、それぞれの神を持っていました。モレク・ダゴン・バアル・アシェラ・ミルコム――みんな、土地の神さまです。お正月日本人がまず地元の神社に初詣するのと同じです。
 農耕民族は、遊牧民族よりも、厳しい状況に置かれていました。雨が降らなければ終わりです。ひどい嵐が来たら、収穫が台無しになります。そのたびに、その責任は、どこへ行くのでしょうか。神です。自然の異変があるたびも、神の怒りをなだめなければならないと切実に感じるわけです。
 農耕民族にとって、礼拝や祈りは、唯一真の神ではなく、土地の神、風の神、雨の神、太陽の神にささげられました。こうして、農耕民族特有な御利益信仰ができあがります。羊飼いのような神に、人生そのものを率いられ、守られ、養われていくのではなく、自分の願い通りに神を動かそうとするのです。

                                   ●アブラハムの祈り

 祈りの学びを、アブラハムから始めることはふさわしいと思っています。彼の祈りは、願い事ではありません。彼の祈りは、この旅から始まります。神に呼ばれて、神の約束を受けて、人生を続けていく……その過程で彼は祈っています。それは、同行して、導いて、守ってくださる羊飼いとの対話です。いや、「交わり」と言っても良いでしょう。御利益を求めての祈りではありません。
 岩波新書『日本語をさかのぼる』の中で、著者の大野晋さんは、日本語において、神という言葉がどういう語源のもとに、どのような理解を受けていたかを次のように説明しています。
「日本人の大部分は、古代以来、救われることに対して、本当は無感覚に、だれにも愛されることを知らず、大きな力に帰依して……生きわたってきたのではないだろうか。」
 ここでいう「大きな力」とは、一般の考えでは、恐ろしい力を持った鬼であったり、狐やオオカミです。すなわち、普通の人間にその姿を見せずに行動し、それでいて人間界を支配する恐るべき存在だというのです。人間は、これを祭ります。つまり、ものを差し出しだして、恐ろしい存在の機嫌を沈め、願い通りに動いてもらいたいというのです。
 アブラハムは、訳の分からない神を察知して、自分の都合通りに世界が動くようにと、神を祭っているのではありません。例えば、アブラハムの神との親しい交わりを見てみましょう。13章にはいると、そこにはアブラハムのしもべたちと甥のロトのしもべたちとの争いがあります。別々の道を行くことを提案したアブラハムは、甥のロトに先に選択権を挙げてしまいました。ロトは、潤っている緑豊かな低地を選び、アブラハムは必然的に残った地域を選択します。貧乏くじでした。しかし、そのとき、神は彼に現れて言われました。
「さあ、目を上げて、あなたがいるところから北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」(14−15節)。
 それはがっかりしている、アブラハムに語りかける神の「親しさ」でした。神がアブラハムに語りかけ、アブラハムがそれに答える――祈りとは、神との親しさの現れなのです。
 
                     ●祭壇と祈り

 しかし、そこにあるのは、親しさだけではありません。それは、「祭壇を築いた」という表現に現れています。
12:8「彼は主のため、そこに祭壇を築き、主のみ名によって祈った」
13:4「そのところ、すなわちかつて作った祭壇のところで、主の御名によって祈った」
 どういうことでしょうか? 主は親しき羊飼いです。しかし、アブラハムは、神が聖なるお方であり、自分は罪深い人間であるということを忘れてはいないのです。アブラハムは、神の温かき思い、神の愛を感じています。しかし、同時に彼は、全能なる聖なるお方と、自分との距離も意識しています。だから祈るときは、襟を正して祭壇のところに来ています。祭壇で祈っているのです。
  祭壇というのは、文字通り、生け贄をささげる場所です。聖なる神と、罪深い私たちの隔たりを意識しつつ、御前に出ることです。そこに来たとき、ヘブルの人々は生け贄を携えてきました。隔たりを埋めるために、こんな私でも聖なる神に近づくことができるように、こんな私でも、聖なる全能なる神に祈ることができるように、祭壇を築くのです。
 アブラハムの意識では、祈りが先ではありません。まず祭壇です。それから祈ります。このことを覚えておこうではありませんか。
 Tサムエルの7章で、イスラエル人を率いてペリシテ人と戦う前、サムエルは彼らをミツパに集めます。
「彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食して、そうして、そのところで言った。『私たちは主に対して罪を犯しました』」(6節)。それを受けたサムエルは、子羊一頭を取り、全焼のいけにえとしてささげてから、「イスラエルのために主に叫んだ」(9節)とあります。祭壇が先なのです。
 エリヤがカルメル山の上でバアルの預言者と対決し、神に向かって「主よ。私に答えてください」と祈る前に、彼は「こわれていた主の祭壇を立て直した」(T列王18:30)と記されています。ここでも祈りの前に、祭壇が来ています。


                                       ●十字架意識

   ハワイのクリスチャンがこんなことを記しています。
「ハワイに宣教師が来る前、我々は、神殿に礼拝するとき、まずその前に座り、黙想し、心を整え、そして入ったものだ。這うようにして祭壇に近づき、祈りが終わると、今度は自分の祈りにいのちを吹き込むように、神殿の外でまたしばらく座ったものだ。しかし、クリスチャンがやってきた。彼らは無造作に入って、わずかな祈りを唱え、「アーメン」といって、それで終わりだ。だから、当時、ハワイ人はクリスチャンをハオレス、すなわち、息のない人、その祈りにいのちを吹き込むことをしない人と、呼んだ。」
 無造作に入ってきて、わずかな祈りを唱え、「アーメン」といって、それで帰っていく。それは、祭壇意識のない祈りです。クリスチャンにとって、この祭壇意識とは、いうまでもなく十字架意識です。アブラハムは、祭壇を築いて、それから祈りました。私たちは、十字架を意識して、それから祈ります。アブラハムは、御名によって祈りました。私たちは、キリストの御名によって、すなわち、十字架を掲げて祈るのです。
 私たちが折りにかなった助けを求めて、大胆に恵みの座に近づくことのできるのは、キリストの十字架の故、そしてその犠牲をささげてくださった主は、今度は、私たちの弱さに同情できる大祭司として、神の御前にとりなしていてくださるからです(ヘブル4:15−16)。
 A.B.シンプソン先生は、こんな話しを残しています。昔、二人の兄弟が、軍隊に属していました。弟の方は、人間的に不誠実な面が多々あって、何度か軍法会議にかけられるような不始末を犯しました。その度に、勇敢で、命をかけて国のために戦ってきた優秀な兄が弁護して、弟の不誠実をカバーしました。それでも弟は、立ち直ることをせず、上官に逆らい、軍法会議にかけられ、重い刑を言い渡されるその直前、将軍の目は、法廷の後ろの方で、すすり泣く兄の姿を見ました。将軍は、兄に最後に尋ねます。
 「何か弁明はあるのか」
 彼は、無言で、戦いで失った右腕の方を前に突き出し、立っていました。そして、彼の頬には涙が流れていました。それを見た将軍は、心動かされて言いました。
「よろしい。おまえの弟の生命は、おまえのものだ。彼は赦免を受けるのには、全くふさわしくない。だが、おまえの血が、死ぬべき彼の生命をあがなったのだ」
 私たちは、折りにかなった助けを得るために恵みの座に出るのに、はなはだふさわしくない者です。しかし、私たちにはキリストの十字架があります。イエスの聖名によって祈るとき、私たちはイエスの十字架を掲げて祈るのです。
 誰一人、天の扉を開けるのにふさわしいものはいません。しかし、十字架によって祈るなら、神は恵みの扉を開いてくださいます。これが、祭壇意識、十字架意識です。
 アブラハムはまず祭壇を築いて、それから祈りました。この元旦の朝、私たちはまず聖餐式にあずかり、新しい年を始めようとしています。ここで私たちは自らの罪深さ、弱さ、恥、責め、それらをすべてを主の御前に告白し、私たちの罪のために裂かれた主のみからだと、流された御血潮にあずかり、祭壇を立て直します。この方の故に、私は、神の御前に立ち、祈ることができるのです。  

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2003.01.01 - 23:16
LAST UPDATE: 2003.01.11 - 11:11

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