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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/1説教 「主は弟子を扱われる」ヨハネ13:31-38
司会者に読んでいただいたところの次に14章1節に「あなたがたは、心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」というみことばがあります。まさにこの瞬間、弟子たちは心が騒ぐ状況であったということです。

思えば、イエスさまがガリラヤからエルサレムに入った時点で様子が変でした。ご自分が死に渡されることを何度もおっしゃいます。エルサレムで王になるはずの方が、人の手に渡されると。私についてくる者は、同じように苦難を覚悟しなさいと。「死といのち」「従う」「捨てる」という、決断を迫るようなことばが厳しさをもって何度も語られます。また、エルサレムに入ってから、祭司長や律法学者という宗教指導者との論争が激しくなりました。彼らの敵意をひしと感じます。

しかし、心が騒ぐ直接の原因は、そうではありませんでした。過越の祭りの食事の席上で、イエスさまが突然おっしゃったことば「あなたがたの中で、わたしを裏切る者がいます」が原因でした。暖かな、親しみのある食事の席が、一瞬にして緊張の場に変わりました。矢継ぎ早に質問が飛んで来ます。
13:25 「主よ、それはだれですか? 」
13:36 「主よ。どこにおいでになるのですか? 」
13:37 「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか? 」
14 : 5   「主よ。どうして, その道が私たちにわかりましょう。」

who, where, why, how?????と混乱の中に放り出される弟子たちでした。この場面の中から、今日はメッセージを一つに絞りたい。今日は、その中からペテロが扱われている場面に注目します。説教題は「主は弟子を扱われる」です。

最近使わなくなったことばですが、「主のお取り扱い」、これは不思議なことばですが、ひとことでいえば「煉られる(ねられる)」という意味です。陶器師が、煉り直して、思い通りの姿に作り上げていくように、人生というろくろの上に載せられ、煉られていきます。煉られた作品とそうでないもの、扱われたクリスチャンとそうでない人とは、全く違います。同じ信仰でありながら、信仰の次元が違います。扱われていない者は、本当の意味で主のものとなっていないといっても過言ではないでしょう。

1)     ペテロの本当の姿を知っておられる主

12弟子の一人、ユダが出て行ったとき、32節で、ご自身の栄光、つまりこれからやってくる十字架と復活について話を始められます。その時、主は彼らのもとを去って行くことを明言されます。3 3 節、去って行ったときにわたしを捜しても、あなたがたは、わたしが行くところへは、ついて来ることはできません。その言葉が、ペテロの心を捉えます。34節、35節で主は大事なこと、新しい戒めをお与えになるとおっしゃっているのですが、ペテロには他の言葉は耳に入っていません。
そこで、36節で初めてこの問題を主に問いかけます。「主よ。どこにおいでになるのですか。」主について行くことに、いのちをかけていたペテロです。イエスさまはあらためておっしゃいました。「わたしが行くところに、あなたは今は、ついて来ることが出来ません。」

少し前に戻って、ヨハネ6章66−68節をご覧ください。6章で、以前イエスさまはご自身を「天からのまことのパン」32節、「いのちのパン」35節、48節「天から下ってきたパン」41節、58節、「天から下ってきた生けるパン」51節などと表現なさいました。それを食べる者は、永遠のいのちを得ると、イエスさまの肉を食べる者は、永遠のいのちを得ると言われたのです。それを聞いたとき、弟子たちの多くは、驚いて、つまずいて、イエスさまの元を離れて行きました。「まさかあなたがたも、離れたいと思うのではないでしょう。」すかさず、シモン・ペテロが、「主よ、私たちがだれのところに行きましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」と応え、ペテロの心に揺らぎはありませんでした。「あなたが行かれる所ならどこへでも、行きます。」と宣言するのでした。

他の福音書でその辺りを見て行きますと、
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」ルカ22:33
「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」マタイ26:33、マルコ14:29
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」マルコ14:31
とペテロが力を込めて言い張ったことが記述されています。これほどまでに、ペテロはイエスさまについて行くことに迷いがありません。

ヨハネ13章37節で、「あなたのためならいのちも捨てます。」と、その覚悟もあることを、自信にあふれて言うペテロですが、38節で、イエスさまははっきりとこの決意に対して、ストレートにおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないといいます。」

「あなたは三度わたしを否む。」ペテロには、これほどショックなことはありませんでした。実際にそうなるのですが、ペテロは愕然としました。仲間の弟子たちの中で恥をさらされたのです。この後、ひとこともことばを発しません。次にゲッセマネの園で、兵士に対してイエスさまを守ろうとして剣を抜く所まで、ペテロの姿は見えません。姿を隠してしまいます。

やがて、その晩、彼が三度もイエスさまを知らないと否定すると予告されたことが事実となった時、その時の悲しみ、失望、挫折は数倍になってのしかかり、声に出して泣くペテロです。しかし、どうすることもできません。ペテロは逮捕されたイエスさまの後を追って行き、大祭司の官邸の庭でたき火に当たりながら、「あなたもあの人の仲間でしょう。」と女中に詰め寄られたときに、「あんな奴など知らない」と、誓いを立ててまで、否んだのです。

イエスさまを知らないと三度否むのです。これが、人の目を気にする、強がるペテロの後ろに潜む、彼の弱さでした。それを主は知っておられたのです。ペテロは自分の弱さを知らないのです。神は粘土のように私たちを取り扱われます。私達も気がついていない、自分自身の深いところにある、イエスさまだけが知っておられる、弱さが罪深さが存在しているからです。それを主は知っておられるから、残酷なほどはっきりと、ペテロの弱さを、ペテロの愚かさを、仲間の弟子たちの前で、主は示されたのでした。

ここで、先生が昔アメリカで神学生だった頃の話をされました。
『教会報告』で書いた、3/1に横溝真理兄が賛美してくださった「イエス君はいとうるわし」が何故藤本満牧師が一番好きな賛美歌かという話です。先生にとっては、若い神学生時代の、(誰でもそうですが、若いときはとかくはずれやすいものですから)、自分でも御せなかった心の軸を、主によってきちんと心の中心に据えてもらえた、甘酸っぱい思い出なのじゃないかなと思った次第です。

その頃、日曜の朝は礼拝、午後末期の方に講話をする、病院実習にいらっしゃっていました。カトリックの神父さまが、ミサの後で、賛美を歌ってくれと言われて、それが賛美歌8番のその歌でした。先生たちは礼拝堂の後ろで待機していたのですが、そこにワインのボトルがあったので、普段ぶどう液しか飲まない事もあって、珍しくてどこ製?とか、飲んでみようなどと騒ぎながら出番を待っていたそうです。
いざ、自分たちの番の時に、友人と二人でテナーだったものの、どうしようもなく音をはずしてしまい、そんな風に歌っている自分が可笑しくて笑ってしまい、恥ずかしさを賛美歌の本で隠して歌ったそうです。
終わって、どうしてあんなことになったか、話し合ったらしいのですが、神父様にひどく諭されたとか。君たちは自分達が何をしたか、分かっているのかと。普通病院で、午前中に人は礼拝に来ない。来る人は患者の家族だけ。その家族は、しばらくすると息を引き取るということであり、家族の死を前に大切なミサを捧げているのに、よく笑っていられると*****。そんな話でした。

先生は自分は敬虔な心に欠けていると思われるそうです。たとえば、聖餐式の用意でも、奥様の圭子先生は丁寧に扱われるそうですが、先生はいかにすばやくやるかとかに気持ちが集中してしまったり、パンが乾燥しているのではないかと思ったりすると、おっしゃいました。そして、どことなく不敬虔な部分とかは、失敗をして、イエスさまがそこをぐっと掴んで、ものすごく嫌な思いをしないと、学びもしないし、取り扱われることもないとおっしゃいました。

お話を聞いていて、私や家族に当てはまるところ大いにあり、アーメンでしたが、神の前に先生のような、とても潔い真実な悔い改めをしないで、いい加減に生きている自分を示されました。以前も先生と一緒のある時それを感じた事がありました。今日は神さまにはもう全面降伏だと思いました。神のお取り扱いって、それがなければ、自分がいつまでも人間の本性をむき出しにした、醜いアヒルの子のままですし、白鳥を夢見る者にとっては、多少の痛みを伴っても、本当にありがたいものなのだなぁと、感謝できました。

2) 主は弟子を扱われる

扱うとは、放っておくということでも、突き放すということでもありません。
ルカ22 : 31-32では、違う角度で同じことをおっしゃっています。イエスさまはペテロに向かって、あなたは、大きな試練に遭います、今まで体験しなかったような試練と挫折です、ちょうど、麦がふるいにかけられるようなものです、しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈っています、と主はおっしゃるのです。
試練の中で、信仰がなくならないように、その試練を通して、幾倍にも成長して、扱われて、大きくなって、出てくるように、わたしは、あなたのために祈っている。わたしは、あなたを突き放しはしない。あなたを守っている。その試練の中で支えていると。

4 つの福音書で、ルカだけが、イエスを否んだ後のペテロと、官邸から出てきたイエスさまの見つめている目が出会っていることを記しています。この祈りを記しているルカだけが、イエスさまのまなざしを記しています。ペテロは主のまなざしを感じています。祈っているのは、ペテロではなく、イエスさまであり、この祈りに支えられているのが、キリスト教信仰です。どんなまなざしで、主はペテロを見つめられたのでしょう。

もしもペテロの裏切りに対して、注がれた主のまなざしが、「見よ。私が言ったとおりになった。おまえは私を裏切った」という鋭い、咎める視線だったら、ペテロは、ユダのように自殺へと突っ走らざるを得なかったでしょう。
そんな目ではありません。イエスさまのまなざしは、私たち人間の欠点や弱さを暴露するだけではない。
それだけだったとすれば、私たちは見つめられるたびに、絶望の坂を下っていく。
悪いところ、足りないところ、罪深いところを、思い知らされることは大切でしょう。しかし、それだけなら、私たちは、自分の人生に励ましも、希望も、期待もない、いつも下を向くだけの宗教です。
私たちが顔を上げるのは、イエスさまの悲しげなまなざしに、イエスさまの祈りが込められているのを知っているから。その祈りは「わたしは、あなたの信仰がなくならないように祈った。」というものです。

この後、CGNTVで藤本満先生の十戒のメッセージを聴きながら、高津教会を思い出したという、知らない方からのメールをご紹介してくださいました。お父様の栄造先生にお世話になったと言うメールで、1973年に高校一年の時に受洗したそうです。その方は、栄造先生がお手紙を書いたり、お電話をくださったこともあったと思い出しておられます。教会を離れてから11年間は放蕩娘だったが、結婚してから、宣教師が隣に住んでいたことから、神のみもとに戻ることができて、いろんなことを経験なさって、今は百合ヶ丘の教会に行っておられるとか。そして、「お父様はお元気でしょうか? 私のことを覚えていらっしゃらないのは当然のことですが、私は先生に本当に感謝しています。また、神様の忠実さを褒めたたえています。お父様にお会いしてお礼を申し上げたいと、この2週間ほどずっと思わされています。」というメールの文章を読まれました。

実際に栄造先生にお電話なさってお聞きになったら、「覚えてない! 」とおっしゃったとか。満先生も覚えておられないそうです。言える事は30年もしたら、手紙を送ったりしていても、牧師は忘れているが、イエスさまは忘れておられないということです。この姉妹がどのような試練に遭われたかはわかりませんが、主が祈って、そして試練を与えて、扱ってくださり、ご自身のものとされるのです。祈りを持って、取り扱われた姉妹は、数倍、信仰的に成長したクリスチャンに変わっています。

何の試練もなく、取り扱われる機会がなかった、ずっと幸せで順調にきたというのもすばらしい。しかし実は私達にはさまざまな弱さがあり、それを自分では自覚しておらず、知っておられるイエスさまは必ずその取り扱いの手を皆さんのところによこされる。厳しい試練に遭った時、明確なイエスさまのメッセージがあります。それは、私の弱さや欠点を鋭く突き刺すものであります。しかし、「それ見ろ、私の言ったとおりだろう・・」とはおっしゃらない。そうした出来事を通して、私たちを慰めてくださるのです。改めて私達は、イエスさまに「祈られている」ことを覚えたいと思います。

3 ) 今はついて来られなくても、「後にはついて来ます。」13:36。

この「今は」と「後には」という対比に注目。 取り扱われる前と取り扱われた後ということです。ペテロは、試練の中で主のものとされ、後に主のもとに回復されます。
初めは、自信に溢れていたペテロです。イエスさまは、その自信過剰のペテロを抑えて、「自分がどういう人間か、自分を知りなさい。」とおっしゃいました。
今度は、自信を喪失したペテロです。しかし、イエスさまは、自信に溢れておっしゃいます。「わたしの羊を飼いなさい。」と。
屈辱を通して、砕かれ、扱われ、主のものとされたペテロは最後、殉教の死に至るまで忠実に従って行きます。あなたが自分で弟子になるのではない。あなたはわたしを否む、しかし私はあなたの為に祈っている。そこで絶望せずに、わたしの祈りを覚えて、試練を耐え抜いて行くならば、わたしがあなたを弟子とする。あなたは後にはついて来る、一回り大きくなり、きよめられ、遜ってわたしについて来る、と主は約束してくださいます。取り扱われる事の尊さはこういうことです。取り扱われる前と取り扱われた後では全く人が変わっているのです。

イギリスのオクッスフォードの大学町の一角に、3 人の聖者を記念した塔が立っています。この3 人は、聖書に基づく「キリストのみによって、信仰のみによって私達は救われる。」という考えを捨てなかったために、16世紀末に当時のカトリックの女王によって、火あぶりの刑に処されました。その一人が、トーマス・クランマーという、英国国教会を福音的に作り直した人でした。
彼は、その福音的な教えの為に、投獄されますと、最初は意気込んでおりましたが、みるみるうちに精神も肉体も衰えていきました。
そして、一時は火あぶりの刑の恐ろしさに耐えきれず、自分の信仰を撤回します。今までの教えを悔い改める証書に署名しました。
しかしながら、あの日撤回した信仰をもう一度取り戻し、恐ろしさのあまりに怯んだ自分を、今度は堀の外で悔い改めました。
彼は、そのためにもう一度投獄され、他の二人と共にオクスフォードの町を引きずられ、最後は町の一角で火にあぶられて死を遂げます。
その前に、2つの文書があったといいます。一つめは、自分の信仰を撤回して、刑を免れる。2つめは、以前の撤回を撤回して、喜んでこのいのちを神に捧げる。
燃える火を前に、彼はこう叫びました。「私は、かつて自分の信仰を火あぶりの恐ろしさ故に否定したことを恥じる。私は、その証拠として、あのとき署名をした、この右の手から先に火の中にいれる。」そういって、右手を焼いて、それから主の聖名を誉め称えて殉教して行きました。

その話を聞いて、その祈念碑の前に立ち尽くしたことがあります。何をして、彼にそんなに勇気のあることを言わしめたのだろうか? 何をして、彼はそれほど力強く最後を振舞えたのだろうか?
彼の勇気だったのか? 決断だったのか? 信仰だったのか?いいえそうではありません。それは、彼のうちに住む聖霊だったのでしょう。
主が彼を祈りのうちに支え、主が彼の力のなさ、勇気のなさを克服して、主が彼をみもとに連れて行かれたのでしょう。

主イエスさまは、私たちを取り扱われるお方です。時に人間関係の摩擦、時に自分の失敗、時に自分の愚かしさを通して。それは主は私たちの弱さを知っておられるから。大きなことを言う割にたいしたこともできない私たちの愚かさを知っておられるのです。その弱さ故に、愚かさ故に失敗したとき、主は私たちを見下げて、突き放すお方ではありません。

主は、私たちのために祈ってくださいます。そして、主が私たちを変えてくださいます。自信に溢れて言われることは、今はできなくても、後にはできるようになる。あなたは力づけられ、へりくだり、きよめられ、わたしの後をついてくるようになる。時に、病や仕事や人生の失敗が取り扱われる材料となります。それらの試練、痛みにどう耐えて行くか、その時にイエスさまはおっしゃいます。14章の1節のみことば、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と。

お祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたの御子イエス・キリストが、十字架にかかられる前に徹底して、いえ、生涯弟子たちを取り扱い、変えて行かれました。私たちもまた弱いひとりの人間であります。そんな彼らを召してくださり、そんな私たちを召してくださり、栄光の世界へと引き上げてくださるあなたの恵みと力づけを感謝します。さまざまな機会に取り扱われることでありましょう。どうか、私たちをその試練の力によって、ますます砕き、神を信じ、またイエスキリストを信じる者となしてください。「ああ、神、主よ。あなたには何一つできないことはありません。」というみことば通りに、そんなわたしたちをもお救いください。イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン

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DATE: 2011.03.26 - 15:10

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