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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/8説教「さあ、ここから行くのです。」ヨハネ14:25-31 
2月に入って、ヨハネの福音書の13章以降から学んできました。
今回はシリーズの4回目、これはひとえに、この月を越えて、受難週の十字架、そしてイースターに向かうためです。
レント(四旬節)のこの時期、プルピット(講壇布)の色は、悔い改めの色、紫です。

13章のはじめで、ご自分がこの世を去ることを意識されたイエスさまは、弟子たちの足を洗われました。
それは、イエスさまの願いでした。イエスさまはあなたの足を洗わせてほしいと語っておられます。主は、私たちの最も汚れているところに手を伸ばしてこられる方です。
私たちクリスチャンは、自分自身の汚れを知っているだけでなく、イエスさまのその願いを知っている者たちです。
主はいつでも私たちを潔くしようと、私たちが最も恥じているところに触れてこられるのです。

次にユダの裏切りが予告されている場面を見ました。
最初は12弟子に選ばれていながら、どこかで自分の思い、自分の想像とは違うイエスさまに失望したのでしょう。
自分の思い通りのイエスさまではなかった、それに失望して、やがてそれが怒りに変わります。
自己を中心において、世界を見て、人を見て、憤りを感じる私たちがそこにいました。私たちは一つの反省をユダから学びました。

それから、弟子を扱われる主イエスさまです。
イエスさまは、ユダだけではなく、他の弟子たちもイエスさまを捨てて、散っていくことを予告されたときに、思わずペテロは、「私は死んでもお供します」と宣言します。
ペテロは自分がいかに弱くて情けない者であるかの自覚がなかった。
主を裏切って、情けなくて、どうしようもなくて、ペテロは泣き崩れます。
しかし、ペテロはその挫折体験を通して、主に扱われます。さまざまな挫折や苦難を通して、扱われたクリスチャンとそうでないクリスチャンとは質が違うということを、先週学びました。
その試練の中を超えていくことができるのは、風前の灯のような信仰でもそれがなくならないように祈ってくださっているイエスさまがおられるから、そして試練というろくろに私たちを乗せて、ご自身の願っておられる器へと私たちを作り替えてくださるから、ということでした。

さて、このような突然の緊張で始まった最後の晩餐です。しかし、その記録をヨハネは14章の最後で一度締めくくるかのように、31節のことばで終わっています。
「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」力強いトーンで、安心と確信と力に溢れた言葉です。あたかも、弟子たちにとっては弟子訓練の卒業式を迎えるように、イエスさまは「さあ、ここから行くのです」と彼らを行かせます。
弟子たちの心の中は、13章、14章で見ましたように、だれが? どこへ? なぜ? どうやって?と、質問と混乱でいっぱいでした。
その場面をイエスさまは治めるかのように、弟子たちを力強く平安の内に送り出されます。

そこで、今日は3つのポイントで、なぜ、イエスさまはそのように力強く、不安におびえる弟子たちを送り出すことができるのか?を見ていきたいと思います。

1)御霊を送られる

まず第一に、不安におののく弟子たちに、「さあ、行け」と言うことができるのは、イエスさまは、弟子たちに、御霊を送られるからです。
16節「もうひとりの助け主」とは、聖霊のことです。その方は、「いつまでもあなたがたとともにおられる」。その方は、17節の最後「あなたがたと共に住み、あなたがたのうちにおられる」。目には見えません。わたしはあなた方のもとを去っていく、しかし代わりに送られてくる聖霊は、内なる存在として、あなた方のうちに和む。これは神の霊であり、わたしの霊、わたしの存在そのものだ、とおっしゃり、その働きの象徴として、イエスさまが強調されたのが、17節にある真理の御霊です。

真理の御霊とはどういうことでしょうか?
その働きは、26節「あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」。私たちに教え、思い起こさせる働きです。

この場において、思い起こすとは、イエスさまと一緒に体験した、単に教えや出来事を思い出す、記憶するということではありません。
単純に昔の出来事や言葉を、正確に記録するという意味ではないでしょう。
ちょっと難しいことですが、よく聞いて、理解してほしいのです。
     
聖霊がイエス・キリストとの体験を思い起こさせるとは、二千年もの前の、弟子たちとイエスさまの体験が、今の私たちに関連づけられるように、聖霊が導く(働いてくださる)、ということです。つまり、三年半のイエスさまと弟子たちの出来事を思い起こすだけでしたら、ヨハネだけでいいのです。ヨハネを通して私達は、言い伝えを聴くという形になります。

でもヨハネが何度も強調していることは、イエスさまが働いたのはここにいる者だけでない、わたしを信じて従ってくるすべての者のために、わたしは話しているんだ、そういう者たちが「思い起こす」と言われた時に、イエスさまがガリラヤの湖畔で、さまざまな弟子たちを導き、弟子たちを教えられ、弟子たちを支え、励まし、奇跡を行ったことが、今の私たちの出来事として、今の私たちの心の内に思い起こされる、体験されるという意味です。

ここから、先生は何人かの身近の人の例を引いて、私たちに聖霊を理解させようと熱っぽく話されました。

高津教会の徳永姉は、高津に来られる前、イスラエルに住んで仕事をしておられました。なぜ?それは、旅をしたイスラエルで、そのガリラヤ湖畔で、ペテロが聞いたイエスさまの言葉を聞いた。「わたしについてきなさい。あなたはこのイスラエルに住むことになる」。不思議な奇妙な出来事でしょうか。そんな声を聞いたことがない?いや、そういうことがあるのです。そういう風にして、皆さん主の呼びかけに従っているのです。

次に先生のご自身のお証しです。
先生は牧師になるために神学校に行こうとするとき、何度も何度もペテロと自分を重ねたそうです。ヨハネの福音書の最後の場面で、イエスさまから「わたしの羊を飼いなさい。わたしについてきなさい」と言われながら、躊躇して、思わず隣の弟子のことを主に尋ねました。「この人はどうなんでしょう?」その時、主はペテロにおっしゃいました。「この人のことがあなたに何の関わりがありますか。あなたはわたしに従ってきなさい」。大学で、友人たちみんなが就職し社会に出て行く中、 一人だけ神学校に行こうとしている先生は、果たして牧師で食べて行けるのだろうかなどと思い、回りが気になって仕方がなかったそうです。イエスさまはペテロに語られたと全く同じそのことばを、先生に語りかけてくださったというお証でした。

奇しくも、先日小島神学生のブログに書き込んだコメントと同じ場面だったので、説教を聴いていて思わず笑ってしまった私(たなか)でした。ペテロはイエスさまに召された時は、まだ普通の人だったということがわかるし、後から来たヨハネを見て、「この人はどうですか?」と野暮な質問をしていることから、周りを気にする私と似ている所もあって可笑しいなどと感じていたことを書いていたのでした。

でも私の場合、単純にこの場面を思い起こして、人間的なペテロを私にあてはめて同じようで面白いと感じていたわけで、決して伝道者としての召命ではありませんが。つまり、先生がその昔、目を留められた聖書の箇所が同じだということだけが、私との共通点で嬉しい所です。(ここに記事にできたんだから?)、これも聖霊の働きの範疇に入っていて欲しいなと思う単純な私です。

次は、改めて先生が語られた、全然知らない世界へ旅立とうとしている人の例。
中村兄も、先週祈祷会で証ししてくださいましたが、彼はコンピューターの機械を設計する特殊な技術を持っておられますけれども、転職を探して、東京に本社がある大阪のロボットの会社にほぼ内定が出たとのことです。住んだことのない大阪で果たして自分はどうなるのだろうか、教会生活はどうなる・・・。そんな時、必ず兄弟はあの行き先を知らずして、神さまの召しに従って行ったというアブラハムに自分を重ねるのです。それは単に想像で重ねているのではない。内に住む聖霊が私たちに同じ体験をさせてくださるのです。

そして旧約聖書のヨブ記のヨブです。
あのヨブは一日にして自分の家族と財産を全部失う。そしてやがて病になった時、奥さんに「あなたもいっそ神様をのろって死んだ方がいいんじゃないの?」と言われる。そういう中で、ヨブは必死に自分を支えて、とうとう、神を呪わない代わりに自分の命を呪うという、どん底の中を彼は這いずり回る。しかしその中で、神にお会いするという体験をするのです。ヨブは「私は今まであなたを知らなかった」というほど深い体験をするのです。それは、病と試練の中の体験です。私たちはそういう病や試練を背負いますと、ヨブと神さまとのやりとりが生き生きと、私たちの内側に思い起こされる。これが真理の御霊です。

イエスさまは弟子たちに対して、また私たちに対して「わたしはあなたを送り出す。でも何の心配もない。なぜなら、御霊があなた方の内に住むから。わたしがあなたとともに歩いているように、あなたに教え、あなたに語りかけ、同じ奇跡の体験を、同じ平安と祝福をあなたに与える。」とおっしゃる。だから不安におののく弟子たちに、「さあ立ちなさい。ここからあなたは行くのです。」と力強く語ってくださるのです。

2)平安を残される

不安におののく弟子たちに、「さあ、ここから行くのです」と力強くおっしゃることができた第2の理由は、主は27節で私たちに「平安を残す」と約束しておられるからです。

平安については、1.世が与えるの(平穏無事)とは違う。2.わたしの平安を与える。と明確に語られています。

この瞬間、イエスさまが持っていた平安とは、やがて来るべき苦しみ、それを前にした裏切り、拒絶といった嵐の中で、躊躇せずに神に信頼し、どこまでも神から与えられる道を行こうとする勇気です。そんな平安は私たちにはないから、主はそれを贈り物としてあなたに残す、与えると、おっしゃっているのです。

それは世が与える平安ではありません。世が与える平安とは、「無病息災」に現れるように、順調で何一つ思い煩うことがないからこれでよかったねという平安です。そういう平安ではなくして、わたしが十字架の道を行こうとする中を、一心に、善にして善をなしたもう神に信頼し、すべてのことを相働きて益となしたもう神に信頼し、その時に心が満たされる神から来る平安、そういうものをいうのです。

こんな実話を聞いたことがあります。
しばらく前にロンドンで一つのコンテストが開かれました。「平安」という題で、絵を募集しました。いろんな絵が応募されます。
・なだらかな草原で、真っ青な青空の下、羊の群れが草を食んでいる。羊飼いが、その脇に座って、遠くを見つめている。
・波一つない、静まり返った透き通るような湖に、ボートが一つ浮いていて、少年が釣りをしている。
こうした見ているだけで癒されるような絵が、賞をもらえなかったのは、想像でわかります。

・優勝した絵、それは、大嵐で川が氾濫の寸前の絵です。川岸ぎりぎりまで、水量が増している。今にも、堤防が決壊するという絵です。大風が、あたりの木をなぎ倒しています。堤防のところの木の枝が、半分折れて水面に垂れ下がっています。その先に小鳥の巣があり、そこに4羽の雛がいます。そして、親鳥が翼を広げてこの4羽を守っている。この絵が、平安というテーマで優勝しました。

すべてのことがうまく行っているとき、平安と言うのは別にすばらしくはない。
そういう平安というは、無病息災、ただ争いや心配がない、無事平穏という意味です。 
何事もない。少年が静かな湖で釣りをしているだけです。
時には大都会の喧騒を離れて、羊の群を眺めながら、緑の中に腰を下ろしたいとも思います。それによって、私たちが癒されるというのも立派な平安だとは思いますが、「わたしが与える平安」と言うのはそういう類の平安ではない。

イエスさまがおっしゃった平安と言うのは、回りの状況がどんなにきびしくても、
・神がともにいてくださるが故の平安です。
・全能の神を信じるが故の平安です。
・恵みの座にいつでも出て、その時の必要に応じた折りにかなった恵みを得るが故の平安です。

外は嵐、雛鳥は巣の中に逃げ込んでいます、その上を母鳥の翼がおおっているように、主は私たちを守ってくださいます。それが主の与える平安です。
                
3)イエスさまはこの世界を支配しておられる

最後に、イエスさまは嵐の中の親鳥のつばさではありません。イエスさまは、このすべて出来事を支配しておられるのです。
出来事がイエスさまに降りかかったのではありません。イエスさまは、出来事を支配しておられました。29節「わたしは、そのことの起こる前に話しました。」30節「この世の支配者は、私に対して何もすることはできません。」

十字架の出来事を支配しているのは、祭司長やパリサイ人でもなく、裏切り者のユダでもなく、カヤパやピラトやカエサルでもありません。この世を支配する者の力がどんなに強力であっても、誰一人として、イエス様を縛ることは出来ないのです。

人々は、自分たちが出来事を決定をして、裏切って、裁判をして死を定め、十字架を作って、イエスさまに背負わせて、最後は、イエスさまを釘付けにしたと考えています。
しかし、31節を見てください。「しかし、そのことは」とあります。それらの出来事は
イエスさまがすべてを決め、イエスさまが父を愛し、その御心に忠実であったことが、十字架の出来事を決定して行ったのであって、それ以外の人の力、サタンの思惑ではないと明確に宣言されました。

人の計画でもなく、人の悪意でもなく、キリストご自身がこれから起こる出来事を決めて行かれたのです。イエスさまは、だからおっしゃるのです。
14章1節「心騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」わたしが、あなたの人生を導く、守る、決定する。あなたでもない、人でもない。わたしだ。さあ、立ち上がれ。わたしを信じて、ここから行け。

礼拝と言うのは、派遣の場と言われます。神を礼拝する時に、神は私たちの願いを聞き、私たちを祝福し、そして神は最後に私たちをこの世界に派遣してくださいます。私たちを待っているこの世界にはさまざまな悩み事があり、人の悪意に翻弄され、人のことばに傷つき、この世界の経済状況に左右され、本当に嵐の中の小船のような人生だと自覚しています。でもイエスさまがおっしゃったことは、その小船に、あなたの心の中にわたしは住み、そして、世が与えるのと全く違う平安を、あなたがたの心に与えることができる。勇気を失うな、さあ行け。なぜなら、あなたを翻弄するこの世界の力がどんなに強かったとしても、私はその力の上を行く。あなたの人生を最終的に決するのはわたしだと言うことを忘れるな。「心を騒がすな。神を信じ、わたしを信じなさい」と言うこのみことばを胸にしまって、派遣されていく新年度でありたいと思います。

お祈り

恵み深い天の父なる神さま、今日もあなたの御手の中で、真理の御霊に私たちは導かれ、この最後の晩餐の場面が生き生きと思い起こされます。今ここにあなたがお座りになり、今ここに私たちに楽しい回復を与えられ、「わたしを信頼し、心を騒がせずにいなさい。わたしはあなたに平安を、いつまでも与える。いつまでもあなたの内に住み、わたしはこの世界を治め、あなたのいのちを守ることが出来る。」という確信に溢れたことばを、この胸の内にしまい込んで下さい。余計なものをかき分けて、この魂の中心にあなたの約束を宿して、今朝この礼拝の場から私たちを派遣してください。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。

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DATE: 2011.03.26 - 15:10

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