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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/22説教「わたしの愛の中にとどまりなさい」ヨハネ15:1-9
この日の説教は、恵み深い天の父なる神さまに、この春卒業したり旅立つ子どもたちを意識して、詩篇52篇から導かれた感謝のお祈りから始まりました。
***********3月の第三の聖日、主にある兄弟姉妹とともに礼拝を捧げる恵みを心から感謝いたします。「神の恵みはいつもあるのだ」というこのひとことのダビデの告白を私たちはかみしめるように味わいます。どうかこの年度末、神の恵みはいつもある、イエスは「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたとともにいます。」と約束されたこの恵みを深く味わいながら、どれほど感謝することが出来るか、どれほど神の平安を心に宿すことが出来るか、どれほどあなたに信頼できるか、すべてのことを、いやなことを含めてすべてのことを働かせて益としてくださるあなたの恵みを身近に感じ、深く味わうことができますように、天を仰ぐ時を私たちに与えてください。
今日の日曜日もさまざまな用事でいらっしゃることの出来ない兄姉をたくさん知っております。同じ恵みが、あなたのもとにあります私たちの上にありますように。しばらくみことばに耳を傾けますがどうか私たちの心を砕いて柔らかにし、あなたのみことばを心に留めることが出来ますように導いてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。

今日は15章4節の有名なことばを見て頂きたい。ひとことで言えば、「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」。
聖書の中には、同じとどまるでも、私たちの方からイエス・キリストに訴えて、「イエスさま、わたしにとどまってください。」と言う箇所があります。ここはイエスさまが弟子たちに訴えて、「わたしにとどまりなさい」。聖書には、逆に、弟子たちの方がイエスさまに向かって、「私にとどまってください。」という有名な箇所があります。
ルカ24:28-29をご一緒に読みましょう。晩年のイエス・キリストは十字架にかかり、それに失望した二人の弟子たちはエルサレムから去っていきます。そこに、よみがえりのイエスが現れて、道々彼らに近づいて話をする。ところが心があまりにも塞ぎこんでいた彼らはそれがイエスさまだとわからない。でも何かしら心の温かさを覚えたので、彼らが宿に泊まろうとした時に、「主よ、私たちといっしょにお泊りください。そろそろ、夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と、イエスさまに強くとどまるように願います。これが英語では、同じことばで有名な“Abide with Me”と言います。

賛美歌の118番に“Abide with Me” (「日くれてよもは暗く」)という題のものがあります。これは有名な賛美歌で言うまでもなく、ルカ24:29から取られています。
先生はその歌詞を読んでくださり、その曲の作られた背景も教えてくださいました。
1.    日暮れて四方は暗く わが霊はいと寂し よるべなき身の頼る 主よともに宿りませ
2.    命の暮れ近づき 世の色香移り行く とこしえに変わらざる 主よともに宿りませ
3.    世の闇路ものすごく サタナの誘い繁し時の間も 去りまさで 主よともに宿りませ

1861年、この賛美歌を作詞しましたヘンリー・フランシス・ライトという人は、英国国教会の聖職者でありました。彼は小さな漁村の教会の牧師として、死ぬまでの23年間、病気がちで1861年、始終喘息と結核に苦しんでいた彼は、自分と同じように病に苦しむ人のために、港町でありましたので、漁師や子どもや病人のためにこの賛美歌を作った。「人生の暮れが近づき、この魂はとても寂しい、主よ、ともに宿ってください」。彼は病状が悪化して、転地療養のために、イタリヤの町に行く途中で亡くなったと言う風に言い伝えられています。

「主よ、とどまってください」と言うこの賛美歌のくだりは「夕べの祈り」と言われています。英国圏では間違いなく100%葬儀の賛美歌として歌われ、あるいは年末の賛美歌としても有名です。「主よ、命の暮れが来た時、世の闇路が迫って来るとき、どうかわたしとともに、この寂しい孤独な魂とともに、あなたご自身を伴ってください」。このモチーフは聖書のいたるところで登場します。例えば、「主よ、み顔を隠さないでください。」というのがあります。ダビデはよく言います。「み顔を私から隠さないでください。」あるいは、「あなたの臨在を私から取り去らないでください。」「あなたの御霊を私から抜かないで、取り去らないでください。」など、私たちの訴えは聖書の中にたくさんあります。

見ていただきたいのは、一方でイエスさまが私たちに訴える「わたしにとどまれ」。他方で私たちがイエスさまに訴える「主よ、おとどまりください」。これはどちらが訴えとして強いのか?今朝、私たちがヨハネの15章を開いていると言う前提に立つならば、イエスさまの訴えの方が強い。「わたしにとどまれ。」というイエスさまの訴えの方が強いと言うことを覚えていて欲しいのです。

先生は先日、日本キリスト教会連合の集会で講演を聴かれたそうです。その講演は、日本基督教団(プロテスタントで日本で一番大きな教団で教会数も1700ぐらいありますが)、それが50年間の財政的な教勢的なデータをもとに、50年間の歴史を反省するという講演でした。このデータは概ね、私たち日本の教会全部に当てはまるものですが、データに依ると、戦後の洗礼を受けた人のピークは1952年で、まだサンフランシスコ講和条約の前ですが15752人、それに対して2年前2007年は1432人、丸々一桁違うのです。教会の力が弱くなっていくということと、洗礼を受ける人の数が減って行くということが、比例関係にあるという分析をされておりました。
しかしもっと興味深かったのは、別帳会員データのグラフでした。別帳会員というのは、私たち今ここにいるのは第1種会員です。しかし一年間教会と何の連絡もない場合に、第2種会員に落ちます。それがしばらく経ちますと、別帳会員という全然別の所に収まって行きます。つまり連絡が取れない、教会から離れてしまった方々を別帳会員と言います。インマヌエルではこの別帳会員のデータをあげたことがないのですが、日本基督教団では2007年の全国平均別帳会員が、前回の68%を占める。どういうことかというと、会員が100人いたら、会員と言うのは召天しない限り会員ですね。だから現会員は、第1種、2種会員、+受洗する人、誕生する人、現会員が100人だとしたら、その68人が消えていなくなったということです。このデータに愕然とします。おそらく、日本の教会全体に該当するだろうと思われますし、それは昔も今もそうです。
大山兄はよく証しされます。「一緒に洗礼を受けたのは何人ですか?」と司会者の席にいる彼に訊かれました。130人が当時(昭和25年・1950年)一回の式で一緒に洗礼を受けた。その頃受洗者のピークの時代ですが、いったいその内何人が教会にとどまっているのだろうかと。

それが、先生は日本の教会の最大の問題点だと思っていますとおっしゃいました。つまり、受洗者がなかなか起こらないのではなく、最大の問題点は、受洗後何と多くの人がキリストのもとを離れて行くかということです。宣教師や牧師の方も規制が払われ、伝道が続けられていく中で、多くのたましいが戦後、何名主に見い出され洗礼に与ったか、その人たちがが主にとどまることを止めなければ、日本のクリスチャンが人口の1%という数字は出てない。一旦洗礼を受けて教会を去っていく率は、日本が世界で一番高いのです。

その理由は?さまざまな研究がされていますが、日本人の精神性にあります。日本人はナタデココに、ティラミスに、パンナコッタに、一時熱中するが、後はきつねが落ちたように離れて行ってしまうのです。
前に松木祐三先生が特伝にいらしておっしゃってました。病院で苦しんで洗礼を受ける。心の病をその救いを求めて教会に来て、しばらくして生活が順調になると、病院を退院するように教会を退院する人が何と多いことか。日本人はどうしてそういいう風にキリスト教を扱うのかと。
ミッションスクールに子どもを送り出す時は、喜んでする。ミッションスクールでは、毎朝子どもたちは礼拝を持つ。でも卒業したら、キリスト教信仰を同じように卒業して行くのはどうしてだろう?
インドでは、一度ミッションスクールに行きましたら、一生クリスチャンです。土台、ヒンズー教の人は子どもをミッションスクールには入れないのです。

どうしたら、主にとどまり続けることが出来るんだろうか? 短く2点からお話します。
ポイント1.先ず第一に、自分の霊的ないのちが主イエス・キリストにまったく依存していることを知ること。
イエスさまはこのたとえで話されました。15:4ぶどうの木と枝のいのちの関係。枝はぶどうの木の一部であって、ぶどうの木から離れたら、ぶどうの枝ではありえないと言うことが私たちには、なかなかわからない。

信仰というものを題材にして小説を書き続けた、日本を代表するクリスチャンに三浦綾子さんがいます。彼女は晩年、長い間直腸がんを患っていました。いろんな療法を試され、その病との闘いの中で、三浦綾子さんはこんなことを記しています。「自分は苦難の山坂を越えるたびに思うことは、自分は自分が思っていた以上に神の被造物だということである」。人間の力では解明することができない、人間というもの、自分は思っていた以上に神の所有物、神の被造物、神によって創られた存在だということを幾重にも体験したと。
それは、病と闘いながら、その内側にある、生命力のたくましさ、いのちの素晴らしさ、こんなに肉体がボロボロになっていながら、神の見守りを感じながら、神に感謝する力が自分の内側に存在する現実を、自分自身がこんなに神さまの被造物であることを自覚したことがなかった、病気して初めてそのいのちの尊さ、自分自身の信仰のありようを見直したと。
「人はパンのみにて生きるにあらず。」「人は主の口から出るすべてのもので生きる。」とか、「『神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(申命記8:3を引用、マタイ4:4)とイエスさまはおっしゃった。そのようにあなたは創造されているのです。パンだけではあなたは生きることはできない。神の息吹によって、わたしの御霊によって生かされなければ、あなたの内に神のいのちはない。
人間は、食べ物無しに12日間生きられるそうです。これは水無しにですよね。最近備蓄がありますから、それ以上自信はあります(笑)。でも水がなかったらこれは難しい。では心の食べ物である神のみことばなしに、何日生きられるでしょう?聖書も読まずにみことばによらずに、何日たましいが生きられるのだろうか?全く祈らずに神のことを思わずに、何日過ごすことが出来るのだろうか?教会から離れて、何ヶ月何年クリスチャンとして生きて行けるのだろうか?皆さん思いますでしょう?こういうの微妙なんですよと、ここから先生は若き日を思い出して話されました。

先生は大学三年の時にアメリカに行かれました。その時1週間の休みがあって、お友達四人とカナダを旅行したそうです。そして日曜日がやってきた時に、「今考えると不思議なことですが」とおっしゃるのは、皆が観光に行く中、ご自分はカナダのトロントの教会の礼拝に出られたそうです。英語もまだ充分に使えない中、タクシーに乗って教会で止めてくれと。今なら先生も休みそうな気がすると笑っておっしゃいましたが、今なら「旅先で教会には行けなかったけど、聖書を開き、みことばのディボーションをして礼拝を守った」と絶対そう思うだろうとおっしゃった言葉が、いかにも私たちのありがちな日常を言い当てていると思いました。
しかしあの大学生の時、全然知らない世界で、孤独に過ごせば過ごすほど、それではすまない、教会の礼拝に行かないではすまなかったという、若き日の先生の心を満たす、霊的ないのちをまっすぐに求める先生の姿がそこにありました。
折井姉もヨーロッパの旅先で、立ち寄られたギリシャで、ギリシャ正教のお香を焚く礼拝に出席して、びっくりしてなんとも違和感のある礼拝だったと思われたそうです。しかし、姉妹の気持ちはひとつ、若いときの先生と同じように日曜日だから礼拝に行きたいのでした。皆さんそういう気持ちをもって、礼拝に来ておられる。でも、どこかで曲がり角を間違えますと、割と平気で、枝の方から木と切り離してしまうのです。

「もし神が忘れたらどうなるだろう」という詩があります。(注***録音した音だけで判断していますので、ちょっと聞き違えなどがあるかもしれませんので、他の部分もですが、年会が済んだら先生に修正をお願いします)。

もし神さまが世界を忘れたら、たった一日でも忘れたらどうなるだろう。
太陽を照らすのを忘れ、夜を昼に変えるのを忘れたら。
花を咲かせるのを忘れ、小鳥や蝶を忘れたら。
木々に新鮮な南風を吹かせるのを忘れ、雨を降らせるのを忘れたら。
人間に友情を与えるのを忘れ、もし神さまがたった一日でも、
子どもたちにそれぞれへの愛を忘れたら、そして痛みを和らげるのを忘れたら、
いったいこの世界は私たちはどうなるのだろうか、私たちはなお楽しいだろうか?
もし神がたった一日でも忘れたら。

神さまがこの世界のことを、私たちのことを思いやることを、たった一日でも止めてしまったら、私たちは存続できない。しかし、その逆はどうなんだろうか?私たちが神さまを忘れてしまったら、たった一日でも。その質問を先生は前日に考えていて、イエスさまはこうおっしゃるのではないかと思ったと教えてくださいました。「君が神さまのことを1日2日、1ヶ月1年忘れていたとしても、君はおそらく生きていけるよ。なぜなら君が神さまのことを忘れても、神さまは君を忘れないから。神さまは君の上にも雨を降らせてくださり、神さまは君の人生を導いてくださる。しかし、覚えていなさい。君がわたしにとどまるのを忘れたら、やがて君の霊的いのちは必ず枯れる。枯れないということはあり得ない」。

ポイント2.そして、イエスさまは6節のこの言葉を語られます。「誰でも、もし私にとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」。
『枝のように投げ捨てられ』というのは、誰かがするのでなく、あなたが自分でそうするのです。枝であるあなたの方から、自分の人生を、木から切り離された枝のように、この世界に放り出す。すると、あなたの人生はどうなるか?世の中の人がそれを集めて、火に投げ込むと言うのです。
それでも神はあなたのことを忘れずに、あなたに雨を降らせ、あなたにいのちを授け、しかし君は既に自分の人生をこの木から切り離すのみならず、自分の人生を投げ捨て、世の人はそれを集めて火に投げ込んでいるという、この現実をどうして分からないのかと、イエスさまはおっしゃいます。
イエスさまは、弟子たちの状況をよくわかっておられました。復活したイエスさまがやがて天に上られ、弟子たちがこれからこの地上で、さまざまな困難に遭いながら生きていくことを知っておられた。それはまさに世の人が枝を集めて火に投げて、皆さんの人生を燃やし尽くすような扱いをするのだと。だから、決してあなたの方からわたしから切り離してはいけない。

弟子たちにとって、私たちにとって、一番大切なこと。それが、わたしにとどまりなさい。私を離れてあなたは神の前に生き抜くことはできない。絶対に忘れてはいけない。わたしはぶどうの木であり、あなたはその枝だと。
人にはさまざまな事情がある。主から離れる時もある。しかし、だからと言ってイエスさまはこの真理を曲げない、とイエスさまはおっしゃるでしょう。なぜなら真理は、ぶどうの枝はぶどうの木から離れたら生きていけないと同じように、たましいがイエス・キリストから離れたら、霊的ないのちを失うのです。そしてその人生は世の人によって集められ、いいように翻弄され、いいように火の炉の中にくべられるだけの人生であなたは終わっていくのだ、と言うことだけは忘れないでほしい。そのことを忘れずに、一週間、また一生を過ごして終わりたいと思います。

お祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたは私たちを創造された時に、あなたはご自身の息を私たちに吹き込まれました。それ以来、私たちはあなたの息によって生きている人間です。「想像以上に、神の被造物であるということに気付いた」、それはあなたによって吹き込まれたあなたの息吹の尊さ、同時にその息吹無しには生きて行くことのできない自分の人生に気付いたということでしょう。
もしかして、私たちは自分で自分のたましいを、いのちの幹から切り落として、この世の中に捨てているような者でありましたら、どうか悔い改めさせてください。そして、この悔い改めが、私たちを救うのだと、私たちはあなたの息吹によって生かされる以外に、霊的ないのちを宿す道はないと知っています。そのことをしっかり心にとめることが出来ますように、受難週を過ごす者としてください。イエスキリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。

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