名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 1833 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   3/29説教 「あなたを捨てない」ヨハネ16:16-24、14:18-19
この日の最初のお祈りは、横溝真理兄の歌ってくださった賛美歌586の歌詞を、1節から4節まで味わわせてくださった後に、恵み深い天の父なる神さまに祈られました。また学生会による賛美「君は愛されるために生まれた」も、ちょうどふさわしいものとなったように思います。

1.愛する主よ 我がきみよ きみが恵み受けしより この世の冨うち捨てて きみを慕う身となりぬ
2.初めに主が いのちもて 買いたまいし我が身なり きみを置きて何人に この真心 捧ぐべき
3. 生ける限り 主よきみを 慕いまつりほめまつらん 死の手我に臨む日も 愛する主のみ名を呼ばん
4.この目をもて主のみ顔 見まつる日に我は言わん「初めの日と変わりなき この愛をば受けませ」と

******あなたが私たちを愛してくださった恵み、そしてその愛が、私たちを愛するがあまりに、ご自身の命をなげうつまでの、一方的で圧倒的な愛であったが故に、私は愛を知るようになりました。この世界に生きているとき、また自分自身を見つめている時、自分がそのような愛を受けるのにふさわしい存在であるとは到底思えませんけれども、聖書を読む時、聖霊が心の内に注がれる時に私も、また私の隣に座っている兄弟姉妹も、そしてこの世界に住み、悩み苦しみ生きている人たちも、またこの世界の中で遠くあなたから離れている人々も、小さな子どもたちもお年寄りも、みな神の愛を受けるためにこの世界に生まれ、しかしどこかでこの愛に背を向けて生きていることを私たちは教えられます。
どうか自分自身を見つめ、この世界を憎むのであれば、イエスさまあなたの十字架を見つめ、聖書のみことばに心を傾け、賛美をこの内側に満たし、「君は愛されるために生まれた。君の生涯は愛で満ちている。」「その愛を受けしから永遠に、この世の冨を打ち捨てて、イエスさま、あなたを慕う、あなたを愛する、あなたに仕える」私たちとなることが出来ますように、私たちの人生を導いてください。
そのことを実感する最も尊い受難節から復活節へと、今私たちはくぐり行こうとしています。年度末であり忙しく、また新しくこの心を向けていきますけれども、何にもまして、あなたの愛、あなたの犠牲を、あなたの死を、あなたの復活の命を思う時でありますように私たちを導いてください。
しばらくみことばに耳を傾けますが、どうかこのみことばを祝福してくださり、私たちの心に届かせてください。イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン。

2月からのシリーズの説教はこの日で6回目になりました。
最後の晩餐におけるイエスさまの語りの中で、この箇所だけに何度も出てくる言葉があります。
もう一度、16章16節から19節までを読んでみます。何度も出てくる言葉、それが『しばらくすると』です。不必要にまで繰り返されているのではないでしょうか。イエスさまがこの言葉を繰り返していると言うよりは、この言葉に著者のヨハネがこだわっているのです。
今日は三つのポイントで見て行きます。

1)    ヨハネはなぜこのことばにこだわっているのか?それは、いうまでもなく、当時のクリスチャンに混乱を招いていたからです。(17節-18節参照)
16 節を見る限り、『しばらくすると』は、明らかにすぐ先に待っている、十字架と復活を指しています。
★16節前半「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります」。これは、イエスさまの十字架の死を表しています。死んで息を引き取る主は、墓に納められ、弟子たちは見ることができません。
★16節後半「しかし、またしばらくするとわたしを見ます」。これは、十字架にかかって死んでのち、3日目によみがえられた、主の復活を指しています。ですから十字架は悲しみであり、復活は喜びです。
★20-21節を交読。この悲しみと喜びという表現は普通に考えますと、十字架と復活です。しかし、21節に『産みの苦しみ』、そして『生まれた喜び』というたとえが出てきます。

しかし、イエスさまの教えの中で、この21節の『産みの苦しみ』と、『生まれた喜び』のたとえは、他の福音書では、十字架と復活ではなく、もっと先のことを示しています。それは、歴史の終わりのことです。マタイ(24章)でもルカ(21章)でもマルコでも、しばらくすると、この世界が終わりを迎え、主が再び来られ、この世界の苦しみを喜びに変えてくださるというのです。
★マルコ13:8 「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉も起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。」
★T テサロニケ5:3 「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが望むようなもので、それを逃れることは決してできません。」
二つの★の聖書箇所でお解かりのように、イエスさまの教えの中でもパウロの教えの中でも、『産みの苦しみ』と言うこの言葉は、世の終わりとそれを超えてやってくる新しい教会の到来、というこの教えに抱き合わせて用いられています。

初代の教会の人々は、イエスさまの『しばらくすると』を十字架と復活につなげて考えていたのではありません。しばらくすれば、教会の迫害も、世界の苦しみも、罪深い人間によってぼろぼろにされてしまったこの世界にも、神さまが終止符を打たれる。しばらくすると、主が再び来られ、神の国の支配が全面的に始まることに、すべての期待を寄せていました。それが、初代教会の信仰のエネルギーでもありました。それは私たちの信仰のエネルギーでもあります。

しかし問題は、パウロを初め初代教会の人々は、「しばらくすると」というのは短期間であると、考えていました。
★ T コリント7:29をお読みします。『時は縮まっています。』とあるように、明確にパウロは世の終わりが近いということを意識していたということです。再臨が近いから、各々自分が召された状態にとどまって、妻のあるものは妻のない者のようにしなさい、独身で召されたのなら、そのままでいなさい、結婚しないように、霊的に集中する生涯を送ったらどうでしょうか、と言う教えが展開されて行きます。

ところが、その『しばらくすると』が遅れていくのです。そうして、おそらく初代教会最大の質問が生まれます。それが、ヨハネ16: 18「そこで彼らは『しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。』と言った。」なのです。
『しばらくすると』というのはどれくらいのしばらくなんだろう? テサロニケのクリスチャンには、キリストは既に再臨したと信じている人々がいました。
★U テサロニケ2:1-2を交読。既に世が終わっているのならと、途端に彼らは日常生活の平静さを失ってしまうのです。パウロは時は縮まっているけれども、まだイエスキリストは来ていない、世は終わっていないということを言うために、3節で弁明します。
★ 同3節「不法の人、滅びの子が現れない限り、主の日は来ない」。これも難しいです。つまりキリストが再臨する前に、先ず背教(キリスト信仰を捨てるたくさんの人)が起こり、不法の人、滅びの子が現れると言うのです。すると問題は、この「不法の人」「滅びの子」はだれなんだろう、ということになります。
この『しばらくすると』は、今に至るまで興味の種です。

黙示録13:18には、不法の人・滅びの子には666 の数字が刻まれていると預言されています。黙示録というのは、黙示言語といって、特殊な言語であるので、数字そのものを指しているとは限らない。でも西欧の世界が最も嫌ってきた数字です。「教会の車のナンバーが、川崎、への666だったら?」「陸運局へ行って番号を変えてくれと言いますよ。」と言われて、また大笑いしてしまった先生と私たちです。
コンピューターのようなコードで、アルファベットのAを100 、Bを101 、として足して行くとHITLERは、666 になるそうです。しかし、いい加減なもの、もう少し複雑に考えたら、ビリー・グラハムも666になるそうです。A を1 、B を2というふうにして、本名、William Franklin Graham を計算すると36 になる。1から36までの数をすべて合計すると666 になります。本屋に行きますと、その手の本はたくさんあります。しかし、くだらない憶測にいたるまで、イエスさまの『しばらくすると』が、(しばらくすると見なくなる。しかししばらくすると、イエスさまはこの世界を終わりにし、新天新地を打ち立てるということは、いったいどれぐらいの期間なのだろうかと、)初代教会から今に至るまで、どれほどの物議を醸し出して来て、私たちを悩ませているかはわかると思います。

2 ) ヨハネの答えを見てみましょう。
ヨハネの福音書にもどり、ヨハネの答えを見ますが、それはとても意味があります。なぜならヨハネは使徒のうちで一番長生きしたからです。黙示録を記したのが紀元90年ごろとすると、おそらく福音書は80年ごろでしょう。聖書学者によっては、もっと遅い時期だとも考えられています。
つまり、ヨハネは他の福音書の記者よりも一番長生きし、『しばらくすると』と言うのが、待っても待ってもやって来ない、もしかしたら長い期間であるかもしれないと、真剣に考えた人物なのです。そのヨハネがどういう風に考えたかは、とても興味深いことです。最終的に16章に戻りますが、先に14章に戻っていただきたい。

ヨハネは、イエスさまがおっしゃった『しばらくすると』を、聖霊として捉えたのです。
★14:18-19交読。ここで、『しばらくして』主が信仰者の所に戻ってこられるのは、世の終わりの再臨のことではなく、聖霊のことを指しています。
14:16-17に、主がこの世界を去って行かれるとき、父なる神はもう一人の助け主、真理の御霊をあなたがたに送ってくださるとありますが、この真理の御霊はイエスキリストご自身の霊でもある。次のようにイエスさまはご自身の霊のことを強調されています。
★14:17「あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
★14:18「わたしはあなたがたを捨てない。」

「しばらくすると、あなたがたは私を見なくなる。しかし、またしばらくすると、わたしは戻ってきてあなたがたはわたしを見るようになる。」とイエスさまがおっしゃった時に、それは今この瞬間の話では十字架と復活に重ねることが出来る。またしばらくして、初代教会は世の終わりとして、キリストの再臨に結び付けて、今キリストは天に挙げられているけれども、しばらくするとキリストは戻って来ると考え、その『しばらくすると』が一体いつになるのか、延々と悩み続けた。

しかしヨハネはその悩みをそれて、イエスキリストのおっしゃったことばの意味合いをしかと理解した。
それは、キリストは天に行かれる。私たちには見えない。しかしキリストは聖霊とともに戻って来られ、わたしの心の内に住んでくださり、それによって私たちがキリストを見、キリストとともに生かされ、私たちは悲しみを通り超えて、わたしたちの心の内側は聖霊によって喜びに満たされる。
★14:19「あなたがたはわたしを見ます。」それは聖霊によるとイエスさまはおっしゃっているのです。

16章に戻っていただくと、さらに興味深い。ちょっと難しい聖書の学びですけれども、これはやはり分かっておかなければいけない。
★16:22-23  交読。23節に『その日』と書いてあるが、他の福音書で、『しばらくすれば』と言うくだりの中でイエスさまがおっしゃるのは、終わりの日です。しかしヨハネの福音書だけは、聖霊があなたがたの内に宿る日にはという意味です。そしてその日には、もはやわたしに何も尋ねなくてもよい。真理の御霊があなたがたの内をさし、今まではわたしは外なる存在であった。しかし、聖霊があなたがたに望むとき、わたしはあなたにとっての内なる存在となり、あなたに内なる喜びを宿し、あなたの祈りを変えるとおっしゃる。

★24節をご一緒に読みましょう。祈りの話に変わって行きます。
わたしたちクリスチャンのお祈りと言うのは、父なる神への呼びかけで始まり、最後イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。で終わります。その間に何が入ってもよい。何でも祈りなさい。祈ることによって内側にある願望を暴露することにもなります。イエスさまは、私たちの心の内側にある小さな祈りを、その通り叶えられないかもしれない。でも、どんな願望でも小さな子が親に訴えるように素直に祈りなさい。そして最後にわたしの名によって祈りなさい。しかし何にもまして、その祈りを聖霊を実感する祈りとして行いなさい。その聖霊はあなたがたの内に世が与える平安ではない、わたしの平安を与える。とおっしゃいました。
ヨハネは「しばらくするとあなたがたはわたしを見なくなる、しかし、もうしばらくするとあなたがたはわたしを見るようになる。」というこの難しいことばを、「しばらくするとわたしは天に挙げられる。しかしもうしばらくすると、聖霊が父なる神によってあなたがたの心の内に宿るようになる。あなたがたの祈りは変えられ、あなたがたの霊的ないのちが変えられる。わたしを見なくなったその悲しみは、わたしがあなたがたの内に住み、あなたがたとともに歩むという喜びに変えられて行く。」と理解できたのです。
ヨハネはしばらくしたなら、老いて忍耐強く待つようになります。しかし忍耐強く待ちながら、イエス・キリストがおっしゃったことばの意味合いが、他の福音書記者では理解出来ないような深みにまで到達することができたのです。
「目の前のイエス・キリストの時代」は終わって「内なるイエス・キリストの時代」が到来する、とイエスさまはおっしゃった。その時代を支えるものが祈りであり、わたしは決してあなたを捨てないとおっしゃったイエスさまのお約束だった。
★14:18 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」
わたしは、再び戻って来て、あなたの内に住むようになる。わたしはあなたを決して捨てない。これが私たちにとっての、『しばらくして』です。

3)    私たちにとっての『しばらくして』とは一体何なのか?
すべてを包括していると言っていいと思います。『しばらくして』と言う時に、十字架の苦しみから復活の喜びに至る間がありましょう。それは主の公の生涯を終わってから、主が再臨されるまでのこの2000年の期間を指すこともできるでしょう。
でももっと身近に、私たちにとっての『しばらくして』とは一体何かと考えれば、それはわたしたちの試練と苦しみから、それが終わっての開放感と喜びを味わうまでの間です。
・子どもが高熱を出してベッドに横になって息が荒ければ、一体この子の熱はいつ下がるのか、母親の心は悲しみと苦痛に満ちます。
・私たちは仕事で一つの難題に突き当たり、そのトンネルが長いと、一体トンネルはいつまで続くのだろう、もしかしたらそのトンネルの先に出口はないんだろうかと思うような試練に私たちは突き当たります。
・人間関係の困難や、自分の健康の不都合や、自分を襲う所の試練や苦難、すべて私たちは一体いつまで続くのだろう、この苦しみと悲しみはと嘆きます。

しかしイエスさまがおっしゃったことは、「しばらくすればそれから解放される、喜びに変えられる」。
(これこそがGOOD NEWSですね!)ではそのトンネルの期間どうすればいいのか?
「そのトンネルの期間、わたしはあなたを捨てない。そのトンネルがどんなに暗く、どんなに長かったとしても、わたしは決してあなたを捨てない。わたしはあなたの内側に住み、あなたの祈りは聞かれ、あなたはどんな試練の中にあっても、わたしの名によって祈り続けることが出来る。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしはあなたがたのところに戻って来て、あなたの内に住むのです」。

「十字架の暗やみを越えて、2000 年の混乱した歴史を越えて、あなたの人生の試練と苦難を越えて、わたしは戻ってくる。いや、そもそも、わたしはいつもあなたと共にいる。私はあなたの内に住んでいる。だから祈りなさい。心静めて、聖霊を仰いで、わたしがあなたと共にいることがわかるようになるように。」というのが、ヨハネがこのキリストのメッセージを用いて私たちに伝えていることです。

こういう風に考えるとものすごく分かりやすいと思いますと、先生はご自分が車好きでいらっしゃることから、面白くお話してくださいました。

私は電車があまり好きではないので、もっぱら車を使います。車に乗って遠い教会で奉仕をしたとします。午後の集会を終えて、みなさんに見送られて教会を出ます。外は真っ暗です。とても疲れました。家までは、何時間の道のりです。
車に乗ってエンジンをかけ、ライトをつけて走り始めます。ライトが照らしているのは、せいぜい50m先です。私がそこで、「こんなライトは役に立たない。たった50 mしか届いていない。終着点の家までライトが届かないんだったら、車は恐くて走れない。」・・・そんなことは言わないでしょう。その車についているライトでいいのです。
もし、正しい方向に向かって車を走らせ、目的地がどこか分かっているなら、その行くところ5 0 m でも100 m でも照らしていてくれれば、やがて目的地である父なる神の家に着きます。
ひとつ気をつけることは、車にライトがついているかということと、自分が正しい方向に車を走らせているかということは真剣に考えていい。しかし、ライトは、今その瞬間に走っている自分、つまり今日の自分の道のりを照らしていればいいのです。
30 年先の自分の人生を照らしていなくても、それは神さまに任せておけるのです。

イエスさまが、『しばらくすると』とおっしゃったのは、私たちには所詮、歴史のすべてはわからなくてもいいからです。でもわかって欲しいこともあります。
わたしはあなたを見捨てない。わたしは、あなたの光となって、日々、あなたの道を照らす。暗やみのトンネルの中も、激しい雨の道のりも、1 年先も10 年先も、やがてわたしがあなたを迎えに来るその日まで、あなたが父の家に帰るその日まで、わたしはあなたの行く道を照らす。
だから、光の中を歩みなさい。わたしと共に歩みなさい。心静めて、わたしが共にいることに気がつきなさい。
受難節、主がともにおられることを心に留めて、このしばらくの期間を過ごす事が出来ますようにお祈りいたします。

終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、自分の通っている試練があたかも永遠にあるように思えるほど、私たちの心は試練の中に吸収され、その心が苦しみと悲しみでいっぱいになってしまいます。
しかし既にあなたはわたしたちの心に聖霊を送ってくださいました。もし私たちが聖霊を守り、そしてもし私たちが聖霊に明け渡し、心の隅々まであなたに委ねるなら、あなたは喜びを持ってこの心を満たして下さると約束してくださいました。
どうかまだまだ届かない数ヶ月先、数年先を思い煩うのではなく、今日のあるいは今週の自分の心に集中し、目的地を見失わず、なおかついつも正しい方向に車を向けながら、あなたがともにいてくださること、あなたが決して私たちを捨てないことを実感する一週間を過ごす事が出来ますようにしてください。
イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2011.03.26 - 15:13

114.17.195.93 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; GTB6.6; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 3.0.4506.2152; .NET CLR 3.5.30729; AskTbVD/5.9.1.14019; Sleipnir/2.9.6)

Name   E-Mail   Password

 前文 11/9礼拝説教・ベルシャツァル王
 次文 3/22説教「わたしの愛の中にとどまりなさい...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
190Simple view *^^*11/23説教 聖書の王たち(6) ペリクス T・Y 2011.03.26 5476
189Simple view *^^*11/9礼拝説教・ベルシャツァル王 T・Y 2011.03.26 11258
188現在参照中の文章です...3/29説教 「あなたを捨てない」ヨハネ16:1... T・Y 2011.03.26 3093
187Simple view *^^*3/22説教「わたしの愛の中にとどまりなさい... [3] T・Y 2011.03.26 27681
186Simple view *^^*3/15藤本栄造先生、幸子先生のお証しと説教 T・Y 2011.03.26 2704
185Simple view *^^*3/8説教「さあ、ここから行くのです。」ヨ... T・Y 2011.03.26 2933
184Simple view *^^*3/1説教 「主は弟子を扱われる」ヨハネ13... T・Y 2011.03.26 11029
183Simple view *^^*2/15献堂記念の礼拝説教「舟に乗って海に... T・Y 2011.03.26 2974
182Simple view *^^*2/8説教「夜に出て行くユダ」ヨハネ13:2... T・Y 2011.03.26 3009
181Simple view *^^*2/1説教「私たちの足を洗う主」ヨハネ13:1... T・Y 2011.03.26 7480
180Simple view *^^*「教会のゆたかな交わり」(Tコリント16:... T・Y 2011.03.26 3857
179Simple view *^^*礼拝説教 [2] 牧師 2011.02.18 4947
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
本頁が先頭ページです前へ戻る 11  12  13  14  15  16  17  18  19  20 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*