●説教の前の賛美は小柳姉と武井兄による、ギター演奏しながらの賛美で、「619番移り行く時の間も」でしたが、小柳姉の甘い声に魅せられました。
●賛美によって心を洗われた後で、詩篇39編12節13節から導かれて、先生は恵み深い天の父なる神さまに、「私たちはあなたが、心温かい救い主である事を感謝し、自己中心からの祈りであっても、どんなつまらない祈りでも聞き入れてくださっていると信じます。私たちは寄留の者で、私の人生はあなたにかかっています。御旨のままに運んでくださることを信じますから、羊のような信仰を授けてください。
●説教はダニエル書5:1-9「神に測られた王・ベルシャツァル」という題でした。 ダニエルは4人の王に仕えましたが、その2番目、ベルシャツァルというバビロンの王の話です。王は、(我々も)よく聖書の神を知っているわけではないが、神の語りかけをどこかで聞いており、それにどう応えるかは本人の問題です。
ベルシャツァルの父、ネブカデネザル王は、心が高ぶり、高慢になって病のどん底に陥れられました。しかし試練の後、父は神の御前に悔い改め、遜りました。 しかし、それらのすべてを知っていながら、ベルシャツァルはまったく無視します。ベルシャツァルには、王としても、まだたくさんの非難されるべき点はあったはずですが、ダニエルはそれを指摘せず、ただ一点だけ、大宴会で聖なる神の器を持ってきて、「ぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した」(5:1−4参照)とありますから、ほしいままに神の栄光をもてあそんだということだけを批判するのです。
これは神に対する挑戦であり、単に侮ったのでもなく、知らずにでもなく、あえて神を否定したことだと。22節に「あなたはこれらのこと(父ネブカデネザルに起きた事)をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。」とあります。
自分の周りにも、高ぶりから神のお取り扱いを受けた証しを、たくさん知っていながら、我々も心を低くできない者かもしれません。罪というのは、このベルシャツァルの態度をいうのです。つまり、「光を感じていながら、闇を好む」、「希望を知っていながら、絶望する」、イエスさまは、「わたしがあなたの前に輝いている。永遠のいのちとして、招いている。しかし、それを知っているのに、あなたはそれを得ようとして、わたしのところまで来ようとしない。」とおっしゃいます。 神がこれほどまでに愛の御手を差し伸べておられるのに、知っていながら来ようとしない。心を低くしない。これが聖書が語るもっとも深い罪です。ここまで徹底的に無視していると、あなたの人生もこのようになりますと聖書は言います。
5章5節、神は宴会の真っ只中で、強烈なサインをベルシャツァルに送ります。それは神の手が現れたのです。突然、壁に文字を書く人間の手の指が現れたのです。普通に人生を送っている時に、ある日突然神はサインを送り、それまでの順調な人生がガタンと音を立てて、傾いていきます。 25節から解読されていきます。王は意味する事が分からなかったけれども、ダニエルは神はあなたの人生を終わらせようとしている事、神はあなたを秤にかけられていると最後のメッセージを送られている事を告げます
そこで、「測る」ということの先生の考察ですが、我々は体重だけでなく、預金通帳もじんせいの将来設計も、さまざまな秤をもってはかる事ができるし、測ったことを気にします。 しかしこのメッセージは、神はあなたを秤にかけるといわれています。軽い方が上に上がる、天秤のようなものですが、神は何をこちら側に乗せているのか?との考察です。
「神の栄光」と言うことばは、ヘブル語で「カボード」と言うことばで、それは「重い」ということばだそうです。それで聖書の教えがその片方に乗せられているという人もいます。 それだけでなく、キリストのくださる十字架の愛、神の平安が乗せられているのでしょう。 神の秤は不思議で、この世の尺度は使われないのです。財力も増し物事が順調でも、最近軽くなったという自覚もあるでしょうし、病や問題で傷だらけの人生でも、目方が増えている場合もあるのです。ご自身の恵み、愛、正しさ、祝福にどれほどあなたが応えて生きているか、信仰の重さを測られていますとの先生の考察にアーメンでした。
この後の、酒に酔うことの考察もまた考えさせられました。 王はダニエルに指摘された時に、猛烈に反省したのかしなかったのか、何も書いてありません。しかしこの晩、おそらく宴会の時、ダニエルに紫の衣を着せたのは、嘲笑する為だっただろうし、それは酔った勢いだったのではないかと。彼は神の最後の悔い改めの呼びかけの時に酔っていた。 酒がよいとか悪いとかのカテゴリーがないのですが、しかし、酔うということは人間が演じる計り知れない悲劇の代表だそうです。箴言の23:30−35、特に35節が筆者が強調したい所でしょうと。 つまり、「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。」とあるように、神に殴られても、王は酔っていて痛くなかった。神はべルシャツァルの事を何度となく、考えさせるメッセージを送った。しかしその時、自分の内にある不満をさまざまにごまかした。神に呼ばれた時に、正気でいる事の大切さ。正気でいればもっと悩みは深いかもしれない、しかし、その悩みや苦悩を神の前に持って行く時に、遜り、正気を取り戻すと言われました。 人生は思いのままにならぬ方がよい、ベルシャツァルのようになるだけですから。正気で現実を受け止める力を持つているべきです。それを酒などでごまかさないことだと。
最後のお祈りは、「どうか、神さま、私たちを測ってください。人生に辛い事、苦しい事がたくさんあったとしても、あなたにせっつき、泣きつき、涙ながらに訴えているとしたら、あなたの秤では私の信仰は重いのでしょう。訴える事もしなければ、急激に重さを失ったのかもしれません。どうか、神さま、我々をあなたの栄光にふさわしい信仰者となしてください。この恵み、愛を何とか人に与えるようにしてください。いつも正気に戻してくださり、礼拝の場に帰してくださいますから感謝です。光を感じながらどうして来ないのかとおっしゃるイエスさま、どうか、いつもあなたの語りかけのみ翼の真下に行く勇気を与えてください。」と言うようなことを、主イエスさまの聖名によって祈られました。 先生のお祈りは、聖霊が本当に私たちの心をきよめてくださいますから、聴いていてじんと熱くなってきます。心から礼拝の恵みを感謝しました。
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