「愛の神が来られる」と言う題で、ルカ2:9〜12のキリスト誕生の記事から、ルカの福音書に特徴的なことば、「恐れる事はない」というみ使いのことばから、メッセージを引き出してくださいました。
神は我々の日常にいきなり入って来られるという現実、ギリシャ語で「訪れる」と「顧みる」と言う単語は同じことばであり、それは、あなたを覚えておられるから、神は来てくださるのだと言うことを教えていただきました。 私達が幼い頃ミッションスクールだったとか、そういうのを思い出すと言うのは、聖書的ではなく、神が私を思い出して来てくださるという事が聖書のメッセージだそうです。
では、神は何を覚えておられるのだろうかと、一つの心配事にもなる我々ですが、ダビデは詩篇25編で、私の若い頃の罪や失敗を思い出さないでくださいと、神に、あなたの慈しみの故に恵みの中で私を覚えていてくださいと祈っています。
聖書は旧約と新約とあるように、契約がテーマであり、神はある人に特別な契約を与えてくださり、それによって、神の民としてくださり、民は神の道に従って歩んでいくのです。 しかし、旧約の民は自分の欲望に従って生きる罪を繰り返し、やがて不安になり、神は自分たちを見捨てられた、忘れられたとつぶやくようになります。
しかし、神はご自分の民との契約を忘れられない。ルカ1:54,1:72などにあるように、私たちの神となったお方は真実であった。 キリストの誕生はひとことでいえば、「神はあなたを忘れてはいない。突然、私たちの日常に訪れてくださる」と言うことです。
では、何故恐れる事はないのかというと、神が介入されるのは、裁くためでなく、救うためであるからです。我々を愛しておられるが故に、きよめて、怒りや悲しみから救い出すが故に、イスラエルだけでなく、今日生きる我々の救い主として、その救い主が何と馬小屋で生まれる。 神は雲に乗って天の軍勢を携えてやって来られたのではなかった。 ほんとに小さく、可愛く、か弱い赤ちゃんとして来られ、私たちとともに私たちの間に住んでくださった。 これがクリスマスのメッセージだということです。
後半の部分、神がこの世に来られたということを、実に分かりやすく、キルケゴールの語った、ある国の王子が地方へ旅をして、馬車の窓から見かけたひとりの農家の娘に恋をする話を引用してまとめておられたのが印象的でした。
王子はどうしてもその娘に会って恋を伝えたいのですが、王の権威で会うことはできるがそれでは強制であり、彼が望むのは、その女性が心から一人の男性として、社会的地位ではなく、愛してくれる事であった。結果、力の象徴である王のマントを脱ぎ捨てて、村に入っていった。彼らの言葉を学び、やがて、彼女は彼を愛するようになる。 これが神が世に来られたということだと言うのです。
愛の神は身を低くして我々の所に来られ、しかしそれ以上に、身を低くされた。 こんなに自己中心で罪深い我々の裁きをその身に引き受けられた。 我々はきっと神から彼は罰せられたのだろうと思った。 しかし、そうではなく、私たちの罪、苦しみ悩みをすべて分かってくださり、私たちを赦され、私たちの代わりに十字架にかかってその裁きを引き受けられた。 私達が自分の罪深さ、自己中心性を考えると、その先に大いなる神の愛を見るようになります。自分の醜さ、しかし同時にそれ以上の神の愛の大きさです。
先生の最後のお祈りにもありましたが、教会の本当のクリスマスが一般のクリスマスと違うことが分かり、神の愛に触れる事によって、自分が変えられ、世界が変えられるとわかって、人々には、大いに喜びとなったのではないでしょうか? 一日一日、よきこと悪き事すべてを善に変えて、私たちを生かしてくださる神さまの祝福を願った先生のお祈りに、深く感謝しました。
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