「新年は雪に包まれた平原のようです。」と、先生は予測する事ができない私たちが、その雪の下に何があるのか、すっぽり隠されて見えないことを喩えられ、しかしそこにも神がおられるということを、元旦礼拝で学んだと言われました。 元旦に来られなかった人のために、ここで少しおさらいします。元旦の説教は、「信仰によって生きる」という題でエレミヤ書の32:1〜17でした。
監視の庭に監禁されていたエレミヤは、しばらくしたらバビロンに没収されることがわかっている、そんな土地を買わないかと持ちかけられる話です。 エレミヤは信仰を持ってその土地を買う。そればかりか、購入証書を作り、大切に長い間保管することにした。その後、17節にあることば「ああ、神、わが主よ。あなたには何ひとつできないことはありません。」と祈ったが、それはエレミヤの信仰の表れであり、土地をあえて購入するという大胆な行動で信仰を表した。神は必ず奴隷の民を戻してくださり、再び土地はバビロンからユダのものとなると信じていたから。 しかし、監視の庭で牢獄に入り、迫り来るさまざまなニュースを聞くと、土地を購入したのは、無駄ではなかったかと心が揺れる。その時、27節でエレミヤの17節のことばをそっくりエレミヤに戻された。 しかし「わたしにとってできないことが一つでもあるのだろうか?」と疑問形で答えられた神は、「『ああ、神、主よ。あなたには何一つできないことはありません。』とあなたは祈ったのではないか?あれはあなたの信仰ではなかったのか?」と、神はエレミヤに問いかけ、エレミヤの揺らぐ信仰を元に戻された。 一年間、信仰が確かであっても何度となく揺らされる。信仰が揺らされるたびに、神さまはかつての祈りをみことばを私たちに突きつけられる。そのしおりを見るたびに、何度もみことばを繰り返し握りなおして神の約束を思い起こし、自分の信仰を確かにしていきたいと、元旦はここまででした。
さて、 1月4日は33章に入りましたが、いまだにエレミヤは監視の庭に閉じ込められています。再び主のことばがあり、32:43〜44に続き、それは神の回復の預言であり、33章で回復の出来事をさらに詳しく語られます。2節はまたも、エレミヤの32:17の祈りのことばのくりかえしです。ではその神がなんと言われるのか?3つの事を言われます。
その1、私を呼べと。文語では「汝我を呼び求めよ、我汝に応えん。」と端的に言われました。「苦しい時の神頼み」結構、祈らないのは、霊的に傲慢だから。自分で何とかなると思っているから、と先生はおっしゃいます。 当時イスラエルの人もエジプトと同盟を結べばどうにか切り抜けられると思っていた。神はエジプトぐらいでは何とかならないと言われた。だから人々は神を呼ばない。 エレミヤのみが神を呼んだ。それは監視の庭で何にも出来ない状態に置かれていたから祈れたのです。 これからの我々の一年の内で、病を得る事があったらそれは恵みです。ヨブ記22:29で「神はへりくだる者を救われる」と言われます。詩篇でも、呼び求める者に主は答えてくださっています。傲慢な人は祈りませんが、自分の小ささ、能力のなさ、弱さを痛感した時に人は祈ります。その時に、分かるのです。自分の人生で最もネックになっているのは、忙しさではない、何とかできると言う傲慢こそがネックだったと。神が最も求められているのは、「わたしを呼べ」に尽きるとわかるのです。
その2、「人の理解を超えた大いなる事を告げよう」とはどういうことか? イザヤ書とエレミヤ書は思いもイメージも言葉遣いも重なります。イザヤ55:6〜9を交読。エルサレム神殿も破壊され、すべて終わったと感じたに違いない、「陶器師がこなごなに砕く」と言うような表現をエレミヤは19:11でしています。この国はもとに戻らない、もう駄目だ、すべて変わってしまった。・・・・これが人の理解です。
しかしその時に、本当にすべてが終わったのか?と言われる神の思いがあります。 人の罪は確かに荒廃、廃墟をもたらし、家庭の崩壊、領土の荒廃、罪の影響は世界大であります。人の罪の故に自然もまた苦しみ、叫び声を上げています。 人間の罪がもたらす荒廃や破壊力は計り知れないが、それがどんなに大きくても、すべてを変えることは出来ないのだと、すべて変わったと思うのは人間の傲慢であり、人間の力はそれ程偉大ではないと神は教えてくださっています。
それが33:19〜21「昼と夜が定まった時に来ないようにすることができるなら」という恵みのことばです。あなたがたにはできないだろう、所詮あなたがたはその程度の者だと言われるのです。 だから人の世がどんなに変わっても、変えることの出来ない神の契約、約束があると言われる、これが人の理解を超えた神の道だと告げられているのです。
イザヤ、エレミヤの言っている人の道というのは、このようなことです。そこまで行ったらもう終わりというのが人の理解であり、「人の理解を超えた大いなる事」というのは、そのように落ちてしまった悪でさえ善に変えて、すべての事を相働かせて益とすることができるのが神の道だというのです。 あなたと結んだ契約をわたしは捨てないとおっしゃる神。そして、どんなに私が離れようが、神の真実は私から離れず変わらないのです。
エレミヤは瓦礫の山を見ます。もはや望み得ないものとして、嘆く人々を目の前にしています。 しかし、33章6〜8節のことば「いやす」「帰す」「建て直す」「きよめ」「赦す」とか、11〜12節のことば、「再び聞こえる」「再び、群を伏させる牧者たちの住まいができる」など、神の赦しによって、人々が生かされている姿が告げられています。 罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)恵みはさらに満ちあふれ、赦しと回復といやしをもたらしている場面が描かれています。
その3、エレミヤが最後に告げている大いなる事とは、14〜16節にあります。 エルサレムの回復よりももっと大いなることを、神はエレミヤにお見せになりました。 「若枝が芽生える」ということです。
広島の爆心地から1キロ離れた所にあった、原爆ヒノキ二世と言われるもともと15メートルほどの大木の話が象徴的でした。根元からえぐりとられて、切り株だけが何とか残ったそうです。その死んでしまった木から、新しい枝が芽生えてきて、そうして新しい木が育った、それを原爆ヒノキ二世だというのだそうです。原爆の破壊力からは、とても考えられない事だったのではないかと、その若枝の兆しを最初に見た時の驚きが、今私にもわかる気がします。
彼らが生きた時代はまさに木が倒され、人々が打ち倒され、国も生活も全部荒廃した時代でした。荒廃した街には、切り株しか残らなかったが、そこに、(死んだ木が蘇るようにでしょうか、あるいは、まったく別のいのちを授かったのでしょうか、)若枝を芽生えさせると神は告げられます。 この若枝こそが、400年後ベツレヘムの町に誕生したイエス・キリストのことであり、「主はわが救い」という意味の名前です。 つまり、主の真実が最後にどこに行くかということを神はエレミヤに示されました。それが500年の歳月の間イスラエルの人たちを悩ませました。延々と悩んだのです。
先生は「ゴドーを待ちながら」というフランスの劇作家、サムエルベケットの芝居を紹介してくださいました。この演劇は最初人気がなかったらしいです。しかし、この芝居が演劇の世界を変えました。人類の歴史、そこで我々は待っているが、いつまでたっても来ない、何を待ってるのか、いつ幸せになるのか、幸せにしてくれるものは何なのか、待っていていいのか、何にも分かっていないのです。 God(神)がゴドーを待つ相手のことだろうとは推測できますが、ゴドーを待つというのは、旧約の時代(イエス以前)の人の気持ちそのものだと感じられて仕方がないと先生はおっしゃいました。どんな形で救い主が来るのだろうか、ほんとに来るんだろうか、といっていた時代が旧約の時代、つまり、まだ来ていない何者かを不安の内に待っていた時代だそうです。
キリストを知らない現代社会もまたそういう旧約の時代。しかし、既に来ておられるキリストを信じて感謝して礼拝して、安心してこの方がすべてを完成してくださる日を待っている、それがクリスチャンであり、我々は漠然と待っているのではないと励まされました。
カトリックの晴佐久神父がおっしゃっていることですが、旧約と新約の違いをこう考えたらよいそうです。「生まれてすぐに捨てられて寂しい子どもが、いつ、母がどんな人なのか、自分を子供として迎えてくれるか、それも分からずに待っている状態」が旧約時代。それに対して、「いつも一緒に生活している母が、お使いに行っている間、今か今かと待ちわびている状態」が新約時代であり、全然違うものだと。
一ヶ月前までは、神を信じて普通に礼拝していたあなたが、試練に迷い込んだ途端にすべてが分からなくなったゴドーを待つエストラゴンのように、不安にかられて待つ我々。しかし、主が来られ、主がともに歩んでおられるという事実があるのだから、我々は旧約の民のように歩んではならない。そんな気持ちではなく、私を愛し、私の為に命をお捨てになったイエスをよき羊飼いと知っている我々は、お使いに行った母親を待つ気持ちで待ちます。「わたしを待て」と言われる主を信じつつ、順調の時も逆境の時も主を待って生きたいと思います。
お祈りは、恵み深い神さまに「『ああ、神、主よ。』とこの年何度主に向かって祈る事でしょう。目の前の事でなく、天地万物を創造され、今も支えておられるあなたを信じる事ができますように。そして、もし、『ああ、これで自分の人生はダメだ』と思うことがあるならば、すべてのゴミを集めて素晴らしい宝をお作りになる事ができる神の全能の力を信じる事ができますように。『ああ、主よ。』とあなたを呼ぶ時に、そのあなたは、私を愛し私の為に十字架にかかってくださった愛にあふれたキリストだと見ることができるように、私を導いてください。」と主の聖名によって祈られました。
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