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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   アブラハムの「アーメン」(祈りのシリーズ3)
祈り(3) アブラハムの「アーメン」

「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)

                   ●待つことのつらさ

 アブラハムは、待っていました。ただひたすら待っていました。一二章で、神に召され、故郷を離れました。「わたしは、あなたの子孫を大いなる国民とする」との約束を信じて出発した当時、彼は七五才でした。それから約一〇年、アブラハムは八〇代の半ばです。しかしまだ子どもはできませんでした。
 じっと、神の祝福の実現を待っていることのつらさがここにあります。アブラハムはひたすら待っているのです。人は待っているとき、そのことが具体的に実現するさまを思い描くのですが、それがアブラハムには一向にわからないのです。ヘンリ・ナーウェンは、「待つ」ということの問題点を実に的確にしてきします。「待つ」というとき、私たちはとても具体的なもの、自分が手に入れたい具体的な願望があるわけです。たとえば、「就職できたらよいのに」「天気が良くなればいいのに」「この痛みが亡くなればいいのに」と、具体的に待っています。
 そして待っているとき、私たちはいつしか願い事にすっかり縛られてしまいます。ナーウェンが解説するには、そこにあるのは、神の可能性、神の御心に開かれた態度ではなく、未来を思い通り操作しようとする生き方である、というのです。こうなってほしい、絶対にこうなってほしいと、きわめて限られた方向に進むように、ひたすら望みます。それが実現しなければ、失望します。それの通りにならなければ、やけを起こすこともあります。
 ナーウェンは、それは人間の「願望」であって、「希望」ではない、というのです。

「希望とは、とても特別なものです。希望とは、何かが実現することを信頼することですが、それは神の約束に従って実現するのであり、単に私たちの願いにそって実現することを意味しません。ですから、希望をもっている人は、いつも開かれた態度をもっています」(『待ち望むということ』工藤信夫訳、あめんどう、二一〜二二頁)
 この指摘には心を刺されます。希望とは、ただ私たちの計画や願いにそって、ある事柄が実現することを願うのではないというのです。希望とは、開かれた態度をもって、神の可能性に期待することだというのです。
 ナーウェンは、こうも言います。「それは、自分の将来を操作しようとすることを手放し、自分の人生を神に決めていただくことです」と。

             ●「アーメン」といって神の可能性に開かれるアブラハム


 アブラハムの現状は切実でした。
「さらにアブラハムは、『ごらんください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるのでしょう』と申し上げた」(三節)
 そのとき神は、彼を外に連れだしておっしゃいます。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。……あなたの子孫はこのようになる」(五節)。
 神はこのとき、アブラハムに具体的なことは何一つ提示されませんでした。いつ生まれる、何人生まれる、どうやって、誰から生まれる、そんなことはひとことも書いてありません。具体的なことは伏せられたまま、ただ祝福すると神はアブラハム約束されました。
 「見上げてごらん。夜の星を……」という歌があります。夜空の星は、何とも言えない魅力を含んでいます。縛られた現実問題から解放されるような広がりをもっています。夜空を仰ぎながら、その広さに、その深さに、その星の輝きに、そして神の温かい思い、アブラハムは触れたのではないでしょうか。
 具体的なことが何も示されないまま、アブラハムは「彼は主を信じた。主はそれを彼の義とされた」のです。
 ここで、「信じた」という動詞は、私たちが日常の祈りの最後で言う、「アーメン」と同じヘブル語の語幹でできています。これは私にとって、新鮮な発見でした。天空の星のように、あなたの子孫を増やし、祝福しようといわれたとき、アブラハムは、単純に主に言いました。
 「アーメン」
 神の約束に対して、単純に「アーメン」という」――これこそが、神がアブラハムを義とした、アブラハムの信仰の味わいではないでしょうか。このとき、彼は神によって召された自分の人生とその将来を、全面的に神にゆだねたのです。自分の将来を自分の力で操作するのではなく、神に決めていただくこうと願ったのです。思い切って、神に信頼を置くことができたのです。
 それは、一回の出来事ではありません。実は信仰の父アブラハムの人生は、この「アーメン」で貫かれていました。彼の人生は、神に対する「アーメン」の人生であったと言っても良いでしょう。

                    ●次なる「アーメン」

 やがてイサクという妻との間に与えられ、神の約束は成就します。しかし事態は複雑になっていきました。
 一五章で「アーメン」と神の可能性にかけたアブラハムですが、その後子どもが与えられる気配はありません。アブラハムは、妻のサラと相談して、打開策として、サラの女奴隷をハガルを与えて、子どもを産ませていたのです。生まれてきた子どもがイシュマエルです。それは、神の可能性ではなく、人間の方策を駆使して考えれた子どもでした。
 主人の子イサクと、奴隷の子イシュマエル、しかも奴隷の子イシュマエルのほうが年齢が上で、この兄弟が同居しているのです。事情は複雑でした。
 「そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子(イシュマエル)が、自分の子イサクをからかっているのをみた」(21:9)
 立場の強いサラは、夫アブラハムに懇願します。
 「このはしためを、そのこといっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません」(10節)
 アブラハムは非常に悩みました。
 「このことは自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ」(11節)。
 サラに取っては、イシュマエルは、女奴隷の子であって自分の子どもではありません。しかし、アブラハムにとっては自分の大事な息子なのです。事態は、自分の不信仰が原因で作り出した矛盾でした。アブラハムは悩んだでしょう。妻から追い出せと懇願されても、追い出せるものではありません。
 そのとき、神が語られました。
 「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない」(12節)。
 神の命令は、家からハガルと息子のイシュマエルを追い出せというものでした。同時に神はおっしゃいます。
「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから」(13節)
  神が面倒を見てくださるというのです。アブラハムが作り出した矛盾です。事態はどうなるものではありません。苦しいだろうが、イシュマエルを出さないと、あなたの家は崩壊する。でもわたしは、彼をも祝福する。悩んではならない。わたしが面倒を見よう。そう神はおっしゃいました。
 そのときのアブラハムの行動を見てみましょう。
 「翌朝早く、アブラハムは、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に乗せ、そのこともに彼女を送り出した」(14節)
 実に重い行動です。自分の息子を荒野へと追い出す、父親の気持ちです。その朝、アブラハムはどんな悲痛な思いで、パンと水の革袋をハガルの肩に乗せたのでしょうか。母と息子は、荒野へととぼとぼと、行き先があるわけでもなく、歩いていきます。それを見送ることもできないでうつむいているアブラハムの悲痛な思いが伝わってきます。
 しかし、このとき彼は二人を神にゆだねたのです。心が痛み、心が縛られながら、神の決定と約束に「アーメン」といって、送り出したのです。

                  ●もう一つの「アーメン」

 
 さらに二二章を読みますと、神はアブラハムの人生の終盤に、これまでにない大きな試練を課せられます。
 「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(二節)。
 神が彼に課した試練は、矛盾そのものでした。与えられた祝福の実である、ひとり子イサクをささげなさいというのです。二節の言葉遣いは強烈です。神は、アブラハムがどんなにイサクを愛しているか知っている。そして、「ひとり子」です。子々孫々に祝福を受け継ぐとしたら、このイサク以外にいないことを知っておられるのです。いくら神がくださったものでも、このように無碍に取り上げられることは、矛盾以外の何ものでもないでしょう。それは、父親として耐えられないことに違いありません。
 しかし、あのイシュマエルの時と同じように、彼は「翌朝早く」、イサクを連れてモリヤの地に出かけます。父と息子が並んで歩いていきます。二人がいっしょに歩き続けたと、物語に二度ほど記されています(六節、八節)。ただ黙々と歩きます。アブラハムがそこに祭壇を築き、自分の子イサクを縛り、祭壇の上の薪の上に置き、アブラハムが手を伸ばして、刀を取って自分の子どもをほふろうとしたとき、まさにそのとき、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム、アブラハム』と仰せられたのです。そのとき、アブラハムは、一節と同じく「はい、主よ」と答えています。
 この物語の流れに、「アーメン」の生涯が表されています。試練の物語は、一節の神の呼びかけではじまります。
 「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に『アブラハムよ』と呼びかけられると、彼は、『はい。ここにおります』と答えた」(一節)
 ここから、イサクをささげるという試練が始まります。そしてこの物語のクライマックスで、再び神は「アブラハム、アブラハム」と呼びかけます。そしてこのときも彼は、「はい。ここにおります」と答えています。
 つまり、アブラハムは、神に呼ばれれば、いつでも「はい、ここにおります」と答えているのです。いつでも彼は、神の呼びかけに答える距離にいました。
 厳しい、苦しい状況にありながら、神から逃げずに、離れずに、信仰を捨てずに、「はい、ここにおります」「アーメン」といって、アブラハムは主の御手の中に留まり続けたのです。自分の将来を自分の力で操作するのではなく、神に決めていただくこうと願ったアブラハムは、ここでも、自分の人生に起こった試練に「はい」「アーメン」と応答しました。これこそ、アブラハムが私たちの「信仰の父」と呼ばれるゆえんではないでしょうか。 
 さらに、自分の将来を自分で決めるのではなくて、思い切って神に信頼を置き、神に決めていただく、神にゆだねる人生というものが、一つの結論にたどり着くことを、アブラハムは教えてくれます。山の上で、神は角をやぶに引っかけて動けない雄羊を用意されていました。神は、その雄羊をイサクの代わりにささげるように告げられました。アブラハムは、その場所を、「アドナイ・イルエ」と名付けます。主が備えてくださる、という意味です。
 「アーメン」の生涯には、当然といえば当然なのかも知れません。自分の将来を自分でコントロールするのではなく、神に決めていただくのですから、神が面倒を見てくださいます。神が備えてくださいます。

                   ●私たちの「アーメン」

 アブラハムは夜空の星を見上げて、壮大な神の世界をかいま見、神の約束に「アーメン」とうなずきました。私たちが見上げるのは、夜空ではなく、主イエス・キリストの十字架です。夜空を見上げて、神の真実さを感じて、「アーメン」と言ったアブラハムのように、私たちはイエスの十字架を仰いで、神の約束を聞きます。
 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまず死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ロマ八・三二)。
 この神の約束とともに、十字架を仰ぐ私たちは、「アーメン」と心から言うのです。

     水野源三「十字架を仰いだならば」

      あがない主なるイエスの
      十字架を仰いだならば
      憎しみもいかりも消えゆき
      み前に祈る静けさ戻りぬ

      あがない主なるイエスの
      十字架を仰いだならば
      不安もおそれも消えゆき
      み手によりたのむ心戻りぬ

      あがない主なるイエスの
      十字架を仰いだならば
      悲しみも悩みも消えゆき
      み許にある喜びが戻りぬ
                                 アーメン

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DATE: 2003.01.15 - 18:17
LAST UPDATE: 2003.02.11 - 22:07

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