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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/19説教「信じる者になりなさい」ヨハネ20:19-29
☆初めのお祈り
あなたは私のさすらいをしるしておられます。
どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。
それはあなたの書にはないのでしょうか。
(この日の交読詩篇から56:8)
恵み深い天の父なる神さま、一週間の歩みを終わり、この礼拝堂に集いました。新しい方々を交え、また新しくこの教会に入会された方を前にし、讃美をし、主の家族の一員であることに喜びを感じます。この礼拝の時が私たちの傷を癒やし、この礼拝の時が私たちが失望を乗り越え、希望へと進んでいくことが出来ますように、あなたが天からみ顔の光を照り輝かせてください。私たちを祝福してください。
あなたは私たちの名前をいのちの書に記されたのみならず、私たちのさすらいを記しておられ、私たちの流す涙をあなたの皮袋に貯えておいてくださいます。人知れず流す涙を、意味もなく流れる涙を、わたしたちの心の内にある悔しさ、悲しさ、また時に何ともいえない空しさ、それらすべてをあなたは知っておられ、あなたはさすらいの書に記していて、やがての時に私たちに報い、私たちに力を与えてくださいますように。
今復活節の中を私たちは歩んでいますが、どうかこの世にあって、疲れ止まってしまう私たちが、主が十字架からよみがえられたように、よみがえって行く一週間でありますように、あなたの恵みを深く味わわせてください。
みことばをしばらくの間見ますが、どうか私たちの心を砕いて、みことばを吸収することができますように導いてください。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

☆説教
ヨハネ福音書を2月からずっと、イエスさまの発せられたことばから学んでいますが、今日の箇所はトマスにだけ言われたことばでなく、私たちにおっしゃったことばです。
20章27節「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
先生はもしかしたら、ヨハネの福音書の中でこのみことばが一番好きかもしれないと思えるそうです。

ヨハネの福音書ではこの後、一旦30‐31節で20章が終わっていて、21章以降はしばらくたって後ヨハネが書き足したと一般的に考えられています。それは、明確に31節では、福音書の目的が書かれているからです。文脈としては、こうなればもう終わるだけなので、そう考えるのが自然だと思います。つまり31節には、記したのはイエスが神の子キリストであることを『あなたがたが信じるため、信じてイエスの御名によっていのちを得るため。』と書かれています。そしてこの結論に至る一つ前に、イエスさまが疑い深いトマスに掛けられた、この27節の「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」ということばをヨハネは記していると考えられます。

『信じる』と言うことばは日本語でも常に使いますし、日常生活で「君を信じている」とか、「自分を信じる」とか、いろんな言い方で「信じる」と言います。しかし分けても、キリスト教では、信仰とか、(神を)信じる、という言葉は頻繁に用いられます。
キリスト教には1)事柄・出来事を信じる2)誰だれを信じる、この二種類の信仰があると言われています。それらが一番よく出ているのが、Tコリント15章ですが、1−8節を交読。ここに福音がどういうものであるか記されていて、よく理解できるのではないかと思いいます。
1節----福音とは宣べ伝えられたもので、受け入れるもので、それによって立っているもの
2節----保っていればそれによって救われるもの

では、福音とは何であるかを、パウロは事柄や出来事を出して言います。3節から5節でたいせつなこと、受けたこと、次のこと、死なれたこと、葬られたこと、よみがえられたこと、現れたことというように、すべて“〜こと”として福音の内容が列挙してつながっています。
つまり、パウロが言いたいのは、私たちが信じているキリスト教というのは、よい教え、道徳的な教えだけではない。そのメインにあるのは歴史的な事実であり、それはキリストの十字架とキリストの復活である。十字架は私たちの罪のために死なれた十字架であり、復活は私たちの最大の敵である死を、神ご自身が打ち破り覆してくださった、死に対する神の勝利であって、それ故いかなる失望も失敗も神が覆してくださる、よきに変えてくださるというこの信仰を理解し守っている、という告白です。

この『事柄・出来事の信仰』を、毎朝礼拝毎に唱える使徒信条は一番端的に表しています。
使徒信条で「ポンテオ・ピラトの時苦しみを受け、十字架に付けられ云々」とあるのは、明確にある時代、ある場所、ある人間を意識して、歴史的な出来事としてイエス・キリストは十字架にかかり復活された、それを私たちは礼拝毎に声を一つにして信仰として告白しているのです。

これらの『事柄・出来事の信仰』と結びつけながら、今読んでいただきましたパウロの出来事の中にも、もう一つの信仰『イエス・キリストへの信仰』があります。それが8節にある、「月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」です。どういうことかと申しますと、事柄・出来事ではない、イエス・キリストが私の心の内に現れてくださった。頭で理解するのではない、まれなことが出来た信仰でもない、たましいが捕らえられ、私は確かによみがえりの主を信じることができたのだという納得ですね。

教会に来られて2年3年と聖書を勉強していれば、キリスト教を信じることができるかと言えば、そんなことは絶対ありません。逆に聖書を一度も読んだことがなかったとしても、もし今日初めて教会にいらっしゃったとしても、神の語りかけをそのたましいに聴かれたならば、神は確かにおられ、キリストが私に触れていてくださることが心の底から納得できますでしょう。----このあたりは、今新しく集い始めた方にとっても、大変有益な、信仰のスタートを間違えずに切ることのできるものではないかと、先生のお話に頷きながら聴いておりました。

心の信仰と頭の信仰を分けて考えることは危険です。なぜかというと、心の信仰だけで生きていますと、なぜ主は十字架にかかられたのだろう、主は私の人生に何を望んでおられるのだろう、この世界はどの方向に向かっているのだろう、多くの教えが聖書の中にあるにもかかわらず、それらすべてを無視して、自分の主観的な心で捕らえただけの信仰であるならば、それはやがて無断で曲がって行ってしまいます。
だからと言って、聖書を百回読んだとしても、復活のキリストに心の底から出会っていないなら、それはあなたが頭で理解していることだけのキリスト教だということになってしまいます。----T・Yとしては、単に言葉の問題のように感じられるかもしれませんが、受洗していつまでたっても、“キリスト教”に出会っただけで、“キリスト”に出会っていない人もいるように思える時もしばしばあります。私たち教会の中の者が一番嬉しい時は、私たちの日常も、新しく集っている方も、この教会でキリストに出会った、ここにはイエスさまの働かれる力があると感じられる時だと思います。

トマスはイエス・キリストの復活が信じられませんでした。もう一度ヨハネの福音書の20章に戻ります。信じられなくて当然です。死んで葬られた人物がよみがえったということは、不可能です。
19-20節を読む。19節の出来事はイースターの後ですね。イエスが弟子たちに現れたというイースターは、なんと(24節を読む)イエスが来られた時に、12弟子の一人でデドモと呼ばれる「トマスは彼らといっしょにいなかった」のです。25節を読む。「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」と言うのです。頑固なトマスというのか、疑い深いトマスというのか、いやいや私たちと同じ普通のトマスで、キリストがよみがえって私たちとともに歩んでおられるなどということを、そう簡単に信じることはできないでしょう。

そしてイースターから数えて8日の後に(26節)というのはちょうど明日ぐらいにあたります。26-27節を読む。トマスはこのとき、心の底からイエスに触れたのです。死んだ者が生き返るとは、どういうように可能なのか、そんな現実が実際有り得るのか、そんなことを一足飛びに超えて、イエスに声を掛けられイエスを見た彼は、心の底からイエスの復活を納得して、「私の主。私の神。」と言って、主の前にひざまずいて礼拝するのです。これはもはや頭の信仰ではありませんでした。たましいの信仰であり、心から主を捕らえる事ができたためです。

私たちを生かしているのは、果たして頭の信仰なのでしょうか?心の信仰なのでしょうか?復活の出来事を信じるということは、分厚い本を読んで充分に理解したたから復活の主を信じることが出来た(頭の信仰)というのか?それとも、復活のことは2000年前の話で、もし全能なる神がイエスを復活させようとするならば、どんなことでもお出来になる、それは神であるがゆえに主は復活されたのであろう(心の信仰)というのか?でももっと大切なことは、復活は過去の出来事ではなくして、主は生きて働いておられる、私のお祈りに耳を傾け、私の行く手を守り、私を導いてくださるお方だと、今朝の私の祈りに耳を傾けて下さるお方だと実感することが私たちを生かしている信仰です。ある意味でキリスト者にとって、大切なことは学ぶことではない。一番大切なのは祈ることです。それは祈らずに、この復活されてともに歩んでおられる、イエス・キリストを実感することは出来ないからです。

さて、何点かに分けてトマスを見て頂きたいと思います。

1)    イエスさまはトマスの躊躇、戸惑いを、理解しておられた。

もう一度26節をご一緒に読む。閉じられていた戸をすり抜けてきて、「平安があなたがたにあるように。」と言っておられるイエスさまです。これはトマスにも言われた言葉です。それから27節に『信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』と言われました。

イエスさまはためらっているトマスを厳しく叱って、「頑固者、不信仰者」とはおっしゃっていない。もしかしたら、弟子たちの間では、そのような批判がトマスに浴びせられていたかもしれません。8日間ありました。11人(この時点では、10人)は見ました。「私たちは、本当にみた。あれは、主だ、イエスさまだ」「みんな信じたのに、おまえは、何という頑固な」「トマス、おまえは、素直じゃないね」etc.

しかし、イエスさまは、一度もそうはおっしゃいません。トマスが、25節で「自分の手を脇の槍の傷跡に差入れるまで信じない」と言った時、8日前、イエスさまはそこにはおられませんでした。しかし、27節でわかるように、主はトマスの言葉を聞いておられたのです。主はトマスの心の中のためらいを知っておられました。ですから、27節前半で主はトマスが言った言葉をそのままおっしゃっておられます。そして27節後半では、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」という、ズバリたましいに触れて刺し通すことばをおっしゃいます。手を差し伸べて、「トマス、ほら、これが見たかったのだろう、手の傷をさわってご覧、脇に手を差入れてご覧」とイエスさまは、トマスの心の中のためらいを知って、優しく包み込まれます。どういうためらいでしょうか?

「信じたい」と思いながらも、ためらっている人の気持ちを理解して、そして助けてくださるイエスさまです。
信じたいが信じられないのです。なかなかその一線が越えられないのです。先生は、可笑しそうに、義兄に当たる戸塚兄のことで笑わせてくださいました。教会に来られる方のうちで、説教を聞いて、牧師と論戦しようとする人は戸塚兄ぐらいです。(大笑)そんなに信じられないなら教会に来ませんもの。教会に行ってみようと思うのは、心のどこかに自分は信じたいと思う気持ちがあるから来るのです。しかしなかなかその一線を越えることが出来ない。それは、その一線が越えられない時は無理して超えなくていいのです。‐‐‐‐ここで、T・Yはソロモンの雅歌に頻繁に出てくるみことば、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」を思い出しました。これはイエスさまと私たちの関係にも言えることで、パウロもあの有名な愛の章と言われるTコリント13章で言ってますが、愛というのは目ざめたら最後、とてつもなく強い力になることは保証されているので、それまでは自然にまかせておいてよいのだと理解出来て感謝でした。

主は何度も何度も、私たちに「平安があなたがたにあるように。」と言ってくださり、わたしが生きて働いて、あなたの傍にいるというこの現実があなたにもわかるように、「わたしに触れてごらん。信頼して触れてごらん。大丈夫、まちがいなくわたしだ。あなたを愛して、あなたを導いてきたわたしだ。」と言わんばかりに近づいてくださるイエスさまです。

2 ) イエスさまは、トマスの閉じた心の中に入ってきて、トマスの心を変えてくださいました。

何度も何度も出てくるたびに考えさせられることばです。2 6 節『戸は閉じられていた』とあります。1 9 節にもあります。イエスさまが十字架にかかって彼らの傍から姿を消して以来、ずーっと固く閉じられたままの心を象徴するかのような部屋の扉です。しかし、すり抜けるように、突然イエスさまの方で入って来られました。そして、一言『平安があなたがたにあるように。』と言われます。

閉じられた心というものは何ものをもっても開かれない。神に向かって一旦閉じられた心、イエスさまは何度もそれにぶつかります。どんなにファイサイ人や、律法学者や当時の神学者の前で、奇跡を行ったとしても、もうひとつ印を見せてください、もうひとつ・・・・と奇跡を行うたびに彼らの疑いや憤りは度合いを増していくのです。奇跡が彼らの信仰を溶かすわけではない。『かたくなな心』と聖書は何度も出てきます。神の投げかけてくださるさまざまな光に鉄の壁を作り、どんなことがあっても、自分は神を信じない、と神の側からの介入を嫌う、こんなに惨めな人生を歩んできた、こんなに辛い思いをしてきた、何をしてもうまくいかない、神などいてもいなくても私にとっては同じ、こんな私の人生を神様が顧みてくださるなんて、どんなに教えられても納得しないというのは、かたくなな壁のような心です。

聖書の中にはすばらしいみことばがたくさんあります。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ロマ9:31)・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ロマ8:28)・・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)・・・20年も祈り続けている、それでも・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
「神は喜んで与える人を愛してくださいます」(Uコリント9:7)・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
「わたしの恵みは、あなたに十分である」(Uコリント12:9)・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
「主の山には備えあり」(創世記22:14)・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな、わたしがあなたを助ける』と言っているのだから」(イザヤ41:13)・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。

このイエスさまの命令が、トマスの心のうちに入ったとき、トマスは変えられました。人の心を変えるのは、自分自身か、周囲の者か、いいえ、イエスさまの仕事です。トマスは自分の心を変えようと思って変えたわけではない。イエスさまがすり抜けるように心に入って来られて、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われた。トマスは、ただそこにひざまずいて「私の主。私の神。」と叫びました。トマスは、イエスさまが救主であること、イエスさまがまことの神であり、自分を愛して、自分の心を変えてくださったことを知ることが出来ました。

3 )これは 私たちへの招き・挑戦です。

なぜなら、イエスさまがこうおっしゃいました。29節一緒に読む。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ずに信じる者は幸いです」。これはまぎれもなく、私たちに対する、信仰への招きであり、挑戦です。

ヨハネの福音書が記されたのは、紀元90年頃です。ヨハネは弟子たちの中で一番長生きでありました。当然、他の弟子たち皆天に召されました。そしてヨハネの福音書を読んでいる人たちの中で、キリストの復活を見たことのある人はほとんどいなかった。あれから2000年経過し、私たちもイエスキリストの復活を見ていません。ゴルゴタの丘の十字架もこの目で見たわけではありません。イエスさまがよみがえられた墓をこの目で見たことはありません。でもそれは2000年後の私たちも、この福音書を当時読んでいた彼らも皆同じです。彼らも、またイエスキリストの復活をこの目で見たわけでない。イエスさまはその意味で、最後の言葉を29節に残しておられる。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ずに信じる者は幸いです」。

初代の教会の人も、また私たちも、イエスキリストの復活をその目で見たわけではない。しかし見ずに信じるものは幸いだといって、イエスさまご自身を信じるように私たちを招いておられます。その招きになかなか応じることの出来ない気持ちっていうのは、わからないではない。そのよいたとえを、先生はその昔、少年時代を振り返ってとても懐かしそうに話し始められました。以下にそのよいお証しを記しました。

私はふとした時に思い出します。
中学3 年生の頃でした。ぜんそくが芳しくなくて、まともに体育の授業も受けられないのに、器械体操だけは得意でした。鉄棒は、両手に豆を作るほどでしたが、よくできました。あるとき、跳び箱の授業があり、教育自習で来られた体育大学の学生さんでした。私が割と上手に跳躍版を使って跳び箱を跳ぶのを見て、授業の後に声をかけてくださいました。
「なあ、藤本、走ってきて、跳躍版の反動で、跳び箱に手をつけ。体をしならせるように、空転して、着地してみろ。」と言われた時にすぐに、そんなことやったことがない、という思いと、やってみたいという思いが、複雑に混ざり合いました。やってみたい、多分だめだろうなと思いながらもやってみたい、そういう体験が、その後の人生で何度もあります。
うーん、うーん、悩んでいる私に、先生が最後におっしゃいました。
「何も心配するな。跳び箱に手をついたら、体をしならせろ。後は先生がおまえの背中を支えてやるから。その勢いで次の瞬間見事に着地しているぞ。」と言った先生の、目の輝きを時々思い出します。先生はすごい目の輝きをもって、「先生の手を信頼して飛んでみろ。」と言われたのですが、私の答えは「やめておきます」でした。(大笑)
いろんな事情があったに違いない。先生は藤本という人間はやせっぽちで、運動は不得意なのだけれども、器械体操だけは得意だ。何とかこいつをもう一歩伸ばして、この挑戦に応えて、藤本と言う人間の技術に一つ大きな光が見えてくるに違いないと思って、先生はいいアイデアをくださった。しかし迷いに迷った最後の答はなんと「やめておきます」。私は、未だにあの時腰を引いた自分が悔しいです。なぜならあの時以来、そういうチャンスは一度も巡ってこないからです。あの時先生の手を信頼して飛んでいたらと今でも思います。

イエスさまの私たちに教えてくださっている招きや挑戦とはこういうことです。『信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』とおっしゃったイエスさまの目は輝いていたに違いない。喜びをもって、わたしを信頼してほしいとおっしゃった。そしてそれを体験してそれを見たヨハネも、たった一人の人が救われるなら、この書物を書いた意味があると記しました。たった一人の人ではない。この書物を記すことによって、主は2000年先、3000年先の人びとにも同じように現れて、トマスの時のように声をかけてくださる。

『信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』この主の勇気付けの挑戦をもって、1週間を過ごしてみようではありませんか。一週間かけて聖書を読みなさいとは言いません。一週間かけて祈りましょう。元旦礼拝の時に受けたみ言葉『ああ、神、主よ。あなたには、何一つできないことはありません。』(エレミヤ32:17)を心に秘めながら、ああ、神、主よ。あなたには出来ないことは何一つないのです。この私も信じない者にならないで、信じる者になることができますように導いてくださいと、祈りましょう。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたには、出来ないことが何一つないということが私たちには分かりません。なぜなら、わたしたちには、できないことがあまりにも多いからです。自分の限界を感じ、失望し、しかしどこかで、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。あなた(神)の全能の力にすべてをかけるような信仰を持ちなさい。心の扉を開いて、わたしを迎えなさい。」というあなたの招きの言葉を聴きます。どうか、堅く戸を閉じている私たちの心に内に入ってきて、私たちに触れ、私たちに信仰を授けてください。イエスキリストの聖名によって、お祈りします。アーメン。

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DATE: 2011.03.26 - 21:48

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