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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/26説教「イエスは岸辺に立たれた」ヨハネ21:1-14
☆初めのお祈り
「神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。」(この日の交読詩篇56編から12節と11節)
恵み深い天の父なる神さま、土曜日一日中雨でありました。その雨によって、この世界の汚れが皆洗われ、今日はさんさんと降り注ぐ春の太陽の中、あなたに礼拝をささげるために集ってまいりましたこのひとりひとりを、あなたご自身が迎えてくださり、私たちの傷に手を置き、痛める心に手を差し伸べ、祝福してくださいますから感謝いたします。
あなたの祝福は私たちの人生すべてを包み込み、弱ってる者を立たせ、失望している者に希望を与え、恐れている者に勇気を授けてくださいます。迷っている者には光を、祈っている者には平安を。私たちその日その日によって、必要としていることもまた求めていることも違いますが、しかしどうか、わたしたちの心に教えてください。
何事も思い煩うな、わたしがあなたの仕事も健康も生活も、すべて心を配ってあなたの重荷を日々荷っているのだと。みことばをもって私たちに語りかけ、私たちを支えてください。そして、どうか思い出させてください。この人生、自分の力で自分の考えで自分の思うように生きるのではなく、主よ、あなたが私たちの羊飼いであり、あなたが時に私たちを緑の牧場に、いこいの水のほとりに、しかし時に敵の前に、時に死の谷の陰を歩かせてくださり、あなたに信頼することを、あなたにより頼むことを、より深く教えようとしておられることを、どうか週のすべての営みを通して、考えさせられ、祈る心を私たちにお与えください。
今日はI姉をお迎えすることが出来ました。ご遠方からの出席でありました。この数ヶ月さまざまな悲しみの中を、重荷を一身に背負いながら歩んで来られました姉妹の道を、私たちも引き続き姉妹のために祈ってまいりますので、やがて私たちも主に召されますがその日に至るまで、あなたに与えられた道を全うして行くことが出来るよう、特に心にあいた大きな悲しみ、何物をもってしても埋める事の出来ない悲しみを、あなたご自身が慰めをもって埋めてください。
今日もご高齢の方々、また病める方々のために祈ります。特にK姉の聞こえなくなってしまった原因の前に手を置いて癒やして差し上げてください。その疲れを取り除き、いち早く回復することが出来ますように。この時をみ手に委ねて、愛するイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

☆説教
ヨハネの福音書から続けて学んでおります。先週申し上げましたように、ヨハネの福音書は20章31節で終わっているのがわかります。一旦筆を置いたヨハネは、もう一つ大きな出来事に出会いました。それは倒れている者の回復であります。そしてその代表がペテロです。

1‐4節を読む。21章の場面はガリラヤの湖畔でありました。時間は暗い夜、朝焼けに移って行きます。2節を見ていただきますと、夜舟に乗って漁に出かけたのは、これらの人でありました。その中にペテロがいます。夜通し漁をして4節に「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。」とあります。これはものすごく詩的な表現です。これが私たちの人生だと理解していただきたいのです。

ガリラヤの湖に朝がやってきます。真っ暗な湖面に徐々に光が当てられ、やがて金色に輝いた太陽が湖の向こうから上がっていきます。その時にイエスさまは岸辺に立たれました。夜が明けた時に夜は終わりました。でも空は明るくてもペテロの心の中は暗いままでありました。季節はちょうど今頃でしょうから、風は冷たかったに違いありません。しかしそんなこともペテロは気にいたしませんでした。一晩中漁をしても一匹も取れなかった。それもまたペテロには何でもないことでした。黙々と漁をしつつ、ペテロの心の中にはひとつのことしかない。彼の心はガリラヤから遠くはなれたエルサレムにありました。あの日以来、あの忌まわしい夜のことが忘れられないでいるのが、ペテロの心境でした。

ゲッセマネの園にやって来た兵士のあのざわざわとした動き。暗がりで燃えるたいまつの炎。彼の頭の中に何度も繰り返される思考は「どうしてあの時、俺は逃げたんだろう?」この一点です。彼はイエスさまに背を向けて一目散に逃げて行きました。走って、走って隠れました。身を潜めていました。ペテロはその晩、たとえ全部の者が躓いても、私は決して躓きません。たとえご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しませんと、確かにそう妄語(あるいは大言壮語)したその言葉が、まだ彼の頭の中に残っています。勇ましく、最後の晩餐の席で胸を張って命を張ってでもあなたを守るとペテロは宣言いたしました。しかし一瞬にしてペテロは逃げて行きます。身を潜めたまま、少しの勇気を振り絞って大祭司の家に様子を見に行きます。イエスさまを完全に捨てた訳ではありませんでした。様子を見に行ったと言うのは実は、12弟子の中でペテロだけです。

ルカの福音書の22章をちょっとご覧ください。54節から62節までを交読(交替に読んでいく)。注***この平行箇所を他の福音書で読んでみると、さらによく理解できます。マタイもマルコもヨハネも夜のうちに大祭司の庭で裁判が始まっているように書かれています。そして、イエスさまがペテロに予言のようにおっしゃった、「鶏が三度鳴く前に、三度イエスさまを否む」という言葉が、果たしてその通りに現実となって自分の身に起こり、ペテロはイエスさまのその言葉を思い出して激しく泣いたという記述が残っています。そしてルカだけが、鶏が鳴いたとき、「主が振り向いてペテロを見つめられた。」と書き残しており、66節を読むと、裁判はその後夜が明けてから始まったことがわかります。

イエスキリストが復活しようがしまいが、そんなことどうでもいいとはいいません。しかし、復活されたとしても、ペテロの頭の中にこびりついている出来事は、61節にある、三度主を否んだ時に、彼を主が振り向いて見つめられたその視線をペテロは忘れることが出来ません。引いて行かれた大祭司の官邸から一時間ほどして戻って来られたイエスさまのなんとも悲しげなまなざし、その目と目があった時に、ペテロは外に出て大声で泣きます。ペテロがイエスさまを裏切った瞬間を捉えたイエスさまのまなざしでありました。

ガリラヤの湖に漁に出る前に、ペテロは既にイエスさまのことを確認しています。マグダラのマリアの報告を聞いて、まっすぐに空っぽの墓に走って行ったのはペテロです。家に閉じこもっていた所に主が現れたときも、トマスの前に主が現れたときも、ペテロが傍にいたと考えられます。しかし復活のことも、主が死を打ち破ったこともペテロの頭の中にはない。彼が考えていたことはずっと一つのことで、自分はこれからどうしようか?主を見捨てた自分、あのエルサレムのあまりの出来事。

皆さんの頭の中に、自分の人生に降りかかったある日の出来事が、自分の心に刻まれていてそれがどうしようもないと言うことが多々ありますでしょう。イエスさまは私のために十字架にかかられたとしても、イエスさまが私のために復活をなさったとしても、そんなことは自分にとってはどうでもいいと言えるほど、自分の人生に刻まれたある出来事は大きい。事業に失敗した、愛する家族に死なれた、家族がばらばらになった、自分が仕事を辞めたとか、自分が大きな挫折を経験したとか・・・イエスさまがどんなに私の罪のために十字架にかかられたとしても、どんなにいのちを与えるために復活されたとしても、その挫折の出来事、その苦々しい体験というのは頭の中から離れない。

ペテロはそれを抱えたまま、エルサレムからガリラヤに戻って行って、漁に出ました。漁というのは、彼が捨てた職分であります。しかし妙に漁に出ますと、不思議に落ち着いたのかもしれません。あるいはこれから先のことを絶望視しながら、何をしたらよいか解からなくて漁に出たのかもしれません。しかし考えられる可能性は、ペテロはわずかの期待を握って漁に出たのではないだろうかと思います。

ヨハネの福音書に戻っていただいて、真っ暗な夜にガリラヤの湖で漁をするのはペテロは初めてのことではありませんでした。また夜通し漁をしても一匹も獲れなかったというのも実は初めてではない。ペテロが久しぶりにガリラヤの湖で舟の前に立った時に、思い出した光景があったに違いない。それは三年半前に、その朝彼は夜の漁を終えて帰って来ました。いつもなら岸辺を市場にして獲ってきた魚を売りさばいている所を、その日、三年半前のある日、一匹も獲れなくてただ網だけを洗っていました。そこへイエスさまが来られて、船を貸してくれと頼みます。あなたの舟に乗って少し岸から離れた所から人々に話したいと、漁師のペテロにイエスさまは突然声をかけられました。そこでペテロはイエスさまを乗せて船を出します。話が終わった所でイエスさまは妙なことをおっしゃいます。

ルカ5章4節と5節にその場面があるので、交替にそこを読む。4節の「話が終わると」というのは、ペテロの船を借りて、船の上から岸辺の群衆に話をしていた、それが終わると、イエスさまはおもむろにペテロに言います。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」。すると、「いいえ先生、私たちは夜通し漁に出ていて、何一つ獲れませんでした。」とペテロは応えます。でもペテロはイエスさまの不思議な言葉のとおりに、ひかれるように、でもおことばどおり網をおろしてみましょう。この時初めてペテロはイエスさまがわかりました。6節「その通りにすると、たくさんの魚が入って、網は破れそうになった」。8節「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った」。こうしてペテロはイエスさまについていくことになります。この出来事をきっかけにして、ペテロはイエスさまの弟子になります。

まさに三年半前のその現場に戻ってきたペテロです。三年半の月日を経て同じ湖、同じ船、もしかしたら同じ湖の場所であったでありましょう。あの三年半前の日のことをペテロは忘れたわけはないし、イエスさまの力を初めて見せていただいたあの夜、彼の心の中にあったのは、ほのかな期待であったのではないかと、先生は想像しますとおっしゃいました。

つまりこういうことです。頭の中から焼きついて離れない出来事があります。一つはあの忌まわしいエルサレムの出来事、自分の醜態、自分の罪深さです。それともう一つ、それは三年半前、あのガリラヤの湖に立ち、主に言われるままに網をおろしてたくさんの魚にあふれ、この神々しいお方の御前で自分はひざまずいて礼拝し、しかしこのお方は自分を引き寄せ、自分を弟子とされたというこの二つの出来事はペテロの頭から離れないのです。

イエスさまを知っている限り、ほのかな期待がいつも残ります。イエスさまを知っている限りどこかで希望が芽生えてきます。希望というものはイエスさまを知っている限り死に絶えることはない。そして私たちはペテロのように、もう駄目だという瞬間また舟に乗って漁に出るのです。今回もあの朝と同じでありました。今回一匹の魚も網に引っかからなかった。何度網をおろしても同じです。疲れて戻ってきて、夜が明けそめた時、主は岸辺に立って声をかけられました。舟の反対側に網をおろしてみたらどうか?さあっと、網がおろされます。それが手繰られてしばらくすると、その網の重みがわかってくる。魚はいっぱいになりました。それを引き上げるのに精一杯で、ヨハネもペテロも事の重大さを考えている時間はありませんでした。そしてヨハネの方が気がついた。

ヨハネ21:7を読む。ペテロは「主です。」というヨハネの言葉を受けてじっと岸辺を見つめ、その時彼の心の中で全部が一つになって、思わず飛び込んだ。ペテロは舟が岸に着くのを待っていられませんでした。彼は飛び込んでイエスさまに会いに行きます。一番最初にイエスさまにお会いした場所にいえすさまは再び来てくださった。いや、一言で言いますと、ペテロは主を裏切ったのに、主は彼の所に来てくださった。これがペテロの人生の再出発でありました。三年半前のあの朝のことを思い出し、あの朝と同じように、主がガリラヤの岸辺に現れ、そして、「子どもたちよ、魚は摂れなかったのか?」と言いながら、舟の反対側に網をおろしてみろと、そしてたくさんの魚が獲れるということは、一瞬にしてあの日の信仰に帰って行った。一瞬にしてあの日の信仰に帰れる、これが人間の不思議な所です。

若い頃洗礼を受け、しばらく教会から離れ、晩年に教会に戻って来られる方もおられます。不思議だなぁと思います。自分は小さな頃、教会の幼稚園に行っていて、それから全く教会とは関係のない世界に生きて来て、そして子どもが生まれて、その子どものことを考えた時に、ふと教会学校に戻って来たという方もいます。ここに座っておられる皆さんの多くの方々も、かつてキリスト教と関わりがあり、そしてしばらく関わりがなく、ある時突然教会に戻って来られる、その時、自分の人生になした空白の期間に自分がどう生きて来たか、というその重たい申し訳ない思い出以上に、以前子供の頃に抱いていた信仰、以前洗礼を受けたあの清々しい思いが一瞬にして戻ってきて、その空白の三年半あるいは空白の何十年が、滅却されて燃やされて、以前の初心に戻ることが出来る、人間の信仰の不思議さがあります。

ペテロは、イエスさまを裏切ったというこの出来事は一生消せない、自分は生涯この嫌〜な日を引きずりながら、とぼとぼと歩いていかなければならない。それはイエスさまが復活しようが、イエスさまがこれから先どのようにまた活躍されようが、そんなことは関係ない。私はあの時主を裏切った、この出来事だけは自分は絶対に消せないと思いながら、黙々と漁に出たに違いありません。

しかし主が現れてくださった瞬間、単純に彼は主に会いに行きます。何を言おうか、何と弁解しようかと彼は何にも考えていない。ただイエスさまと言って湖に飛び込んだ。勇気をもってイエスさまのもとに飛び込みました。---7節に「裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込む」ペテロを描いていますが、その気持ちはわかるが、泳ぐのにどうして服をわざわざ着るかなぁと、思わず笑ってしまう私たちでした。でも、本当にまっすぐに主を慕っているペテロの信仰、そして喜びようがわかる一面でもあります。他の弟子たちは小船で主の所へ行くことを思うと、彼はやはり、先駆けであり、主を愛することにおいて一番弟子なのではないかと思いました。

11節12節を交読。イエスさまは既に食事の準備をされておりました。今とった魚も持って来るように言われ、数えると153匹もの大きな魚でありましたが、網は破れませんでした。(9‐11節)イエスさまの力の象徴でもありますが、でももっと不思議なことは12節前半部分で、イエスさまはその朝、あたかも何にもなかったかのように弟子たちに食事を出されたのです。弟子たちはイエスさまを裏切った。イエスさまを捨てた。イエスさまは十字架にかかった。お前たちがいなくなったおかげでどれほど苦しみを受けたか、お前たちに質問したい、なぜああいう展開になったのか、など何にも言わないで、「さあ来て、朝の食事をしなさい。」と言われる。夜の夫婦喧嘩でさえ、朝が来たらこうは行かないでしょう。(笑)弟子たちは主であることがわかっていたので、誰も「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。いや、イエスさまはこれが愛する弟子だと確信しておられたので、敢えて彼らの信仰を問いただすことはされなかった。先生はこちらの方がはるかに大きいとおっしゃいました。20年30年のブランクを経て再び教会に戻って来られる兄姉に、牧師は敢えてその期間の不信仰を問いただすことはしないですね。ブランクがどんなに長かったとしても、主はこの日を待っておられたのです。あたかも何にもなかったかのようにその方を迎えるということは、こういうことです。

つまり一旦主が戻って来られたときに、主は愛する弟子たちとしてその弟子たちの不出来や、欠けや罪深さを敢えて問いただすことなく、私たちを迎えてくださる。ペテロはただじっとイエスさまの傍にいました。何にも言いません。そしてイエスさまも何にも言いません。ただペテロの信仰を原点に戻してくださいました。それが15節です。15節を読む。これは三年半前言われたこととほぼ同じです。三年半前、ガリラヤの岸辺でイエスさまはペテロに声をかけ、そして、「わたしはあなたを人間をとる漁師にしよう。」とおっしゃった。(マタイ4:19、マルコ1:1、ルカ5:10)漁師にしようと思ったけれども、あなたはあのようなことで躓いたので、あなたにはもうしばらくの訓練期間が必要で、それを経て充分信仰が立証されたなら、もう一度弟子の仲間に回復しようとはおっしゃってないです。何にもなかったかのように、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか?愛するならわたしの羊を飼いなさい。」と言われる主です。

私たちは時に自分の人生で理解できない出来事にはまり、穴に落ち込み、そしてペテロのように、一瞬にして自分の人生を崩してしまいます。その時私たちは主のもとを離れます。
ペテロは主を裏切ったのに、しかし主は朝焼けとともに岸辺に立たれ、ペテロに声をかけられ、そして一言も言わずにペテロを食卓に招き、ペテロもまた一言も言わずにその新しいチャンスを受け取ると言うのは、主の憐れみと私たちの信仰です。

グロリア・ペッパーと言うクリスチャンのコラムニストが自分の家庭で起こった出来事をこんな風に書いています。グロリアには、小さな娘が二人いたということ、当時のこと。ある穏やかな午後の日、彼女たちはクレヨンを使って、はさみ物も使って絵を描いていました。その内娘の一人がぐずりだし、絵が出来上がるに従って、自分の思っていたのと全く違うものになってしまった。一つ間違って、こんな線描かなきゃよかった、こんな色で塗らなきゃよかった、いつの間にか取り返しのつかないほど失敗してしまった。とうとうお母さんの所へ、小さな女の子が寄って来ます。「お母さん、こんなになっちゃった。せっかくきれいな絵を描いてお母さんに上げようと思ったのに、お母さんゴメンネ。もっともっとすばらしい絵を描くはずだったのに、こんなにこんなになっちゃった。」お母さんは愛する娘の必死の思いを受けて、その子どもを抱きとめ慰めました。それから単純に机の所に行って、引き出しの中から真っ白な新しい紙を出してきて娘に渡して言いました。「さあ涙を拭いて。もう一度初めからやり直すこともできるわよ」と。

もう一度初めからやり直すこともできるという機会を人生に与えてくださるのは神さまだけです。私たちの頭の中には、一つの概念だけしかない。それは過去は書き換えられない。これが私たちの頭にしっかりと石のようにある。それはある意味当然です。時間は戻らないのです。一度言ってしまった言葉はもう変えることは出来ないのです。しかしイエスさまだけは、そんな私たちの心に入ってきてくださり、もう一度新しいまっさらな紙を出して、もう一度新しい信仰人生をやり直すことが出来るんだよと、夜が明け初めた頃、主は岸辺に立って私たちを招いてくださる。だからと言って、私たちが立派な絵が描けるわけではない。しかしキリストにある者すべてが、『古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(Uコリント5:17)というこの神さまの憐れみを受けずして、クリスチャンとは言えない。クリスチャンと言うのは、どんなに主に背を向けても、夜が明け初めた頃、主がそこに立っていてくださることを知っている人たち、そして何にも言わずに主の所に飛び込んで、入り込んで主の恵みを受ける、子どものような素直な人間をいうのだと覚えて置いてください。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、私たちもペテロほどの失敗はしないだろうと思うくらい、このペテロは、私たちのあらゆる失敗をすべて足してもおつりが来るほどの大きな失敗を致しました。しかしあなたに声をかけていただいた時に、彼は子どものように素直に海に飛び込んであなたのもとに走っていきました。どうか、主よ、この姿勢を私たちも取ることが出来ますように。私たちを慰めて励ましてください。心の中では、いつまでもいつまでも、自分の人生で起きた出来事を引きずってしまう私たちですが、夜が必ず明けるように、夜が明けた時にあなたは必ず立っていてくださり、私たちを何度も迎えて、私たちを引き連れて、明日へと向かって行ってくださるあなたの力強さ、あなたの憐れみ深さを味わうクリスチャンでありますように。イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2011.03.26 - 21:50

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