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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/3説教「わたしを愛するか?」ヨハネ21:15-23
☆説教
ヨハネの福音書の最後を二回に分けて学びます。今日は21章の15-17節までです。
15-17節を読む。カトリックの中心ともいえるバチカンの、いわゆるペテロの教会の建物の十字部分のクロスしている所に、ペテロの骨が安置されています。それがペテロの骨であるということは私にはわかりませんが、バチカンが多額な財産を投入して、バチカンにまつわる聖像、聖画、すべて修復しています。特に皆さんがいらっしゃいますシスティナ礼拝堂に描かれている「最後の審判」(ミケランジェロ作)、あるいは、ミラノの修道院の食堂に描かれておりますダビンチの「最後の晩餐」。すべてバチカンが特別に開発した液体を使って、何百年にわたるすすを落として、今皆さんがご覧になるのは、ミケランジェロやダビンチが描いたそのものの色です。見事に復元しています。しかし、そのようにして莫大な金を投じて修復するバチカンが、サンピエトロ寺院で唯一修復しないものがある。

これだけは絶対に修復しないというのが、世界で最も有名な礼拝堂の向かって右側にあるペテロの像。ペテロが座っているその像のペテロの足です。何百年もかけて、それこそ何億という人々がペテロの足を撫でていきました。ごらん戴きますと片方の足だけ指の間のないその金属が全部磨耗して、つるつるに光っています。彼らはその足だけは絶対に修復しません。

何億という人々が赦しと恵みを求めて、ペテロの足を触っていく。それは私は間違っていると思います。赦しとまた恵みを求めるなら、イエス・キリストのみであります。しかし何億という人がペテロの足にこだわり、足を触るのは、ものすごく理解できます。なぜそんなにペテロの足を触るのか?なぜならペテロは取り返しのつかない挫折を体験したからです。挫折の体験を持っている人々に、私たちは多くの励ましを受けます。ペテロ自身が挫折を体験しましたから、このペテロなら自分の罪を解かってくれるだろう、自分の弱さを理解してくれるだろう、そう思ってイエス・キリストの十字架の像以上に、ペテロの足を撫ぜに行く。その気持ちを私たちは理解できます。なぜなら私たちもまたペテロのように転ぶからです。

イエスさまが十字架にかかる前の晩、最後の晩餐の席上で、ぺテロは大胆に胸を張って妄語しました。「たとえ全部の者が躓いても、私は決して躓きません。たとえご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません」。最後の晩餐の席上でペテロは確かに妄語した。勇ましく胸を張りました。自分の勇ましい口調が自分の記憶の中で空しく響いてきます。ペテロは身を潜めて、少しの勇気を振り絞って大祭司の庭に忍び込んで行きました。

しかしその庭で焚き火に当たっていたときに、大祭司の官邸の女中に「イエスの仲間だ」と質問された彼は、見事なまでに鶏が鳴くまでに三度「自分はイエスを知らない、あんな奴の仲間ではない」と言った。三度目に否んだ後、ペテロと大祭司の官邸から出てきたイエスの目が合いました。その時主の悲しげなまなざしが、ペテロの記憶から消えない。自分の情けない過去に、心を解き放すことが出来ない。

ここに登場しているのはもはや12弟子の一番弟子であったペテロではない、期待されながらも、決意しながらも、期待に応えられず、その決意を貫き通すことが出来ずに挫折した一人の男、その男がイエスに出会うという場面です。私たちは何を学ぶのか、今日、三つのポイントで簡単に見て行きます。

1)    ありのままの自分を認めるペテロ

イエスは一貫して一つの問いかけをしています。15節、16節、17節、三度も「あなたはわたしを愛するか?」と。ペテロが三度イエス・キリストを否んだのに合わせて、イエス・キリストの三度の同じこの質問はペテロにとって非常につらいものでした。そのペテロの辛さは原文から読み取ることが出来ます。私は何度もこのことを言ってますので、皆さん知っておられるとは思いますが、この質問の最初の二回「あなたはわたしを愛しますか?」ということばの動詞にイエスさまは“アガパオー”というギリシャ語を使っています。アガペーの愛というのは、聖書の中で一番質の高い、自らを相手のために惜しまずに犠牲にするという、神の愛を表すこの“アガパオー”と言う動詞で、「わたしを愛しますか?」と尋ねています。ペテロはその度に“フィレオー”と言うもう少し人間的な愛で「わたしはあなたを愛します。」とわざわざことばを言い換えています。

学者の中にはアガパオーとフィレオーとそんなに違いはないという学者もいますが、私はたとえ差がなかったとしても、イエスさまがアガパオーで訊かれているのに、わざわざフィレオーで応える必要がないと思います。アガパオーで訊かれたらアガパオーで応えればよいのですが、ペテロはアガパオーでは応えられないのです。意識してフィレオーを使う。それはペテロはいかに自信がなかったか。しかしその自信のなさを敢えて偽らずに、アガパオーで訊かれていながらフィレオーで応えているというのは、自分の弱さと自信のなさをそのことばで表現していることに注目していただきたい。

ペテロは自信を失いました。でもそれはあの最後の晩餐で自分の弱さを知らずに、「私は死んでもあなたについて行きます。」と、妄語したペテロよりもはるかに意味がある。自分の弱さを知らずに、自分の強さに依り頼んで大丈夫と妄語するペテロと、自分の弱さを痛感して自信を失って、「愛します。」と素直に応えられないペテロと、イエスさまはどちらを尊ばれるか?すべてが順調で自分は大丈夫、この信仰を握っていれば大丈夫と思っている人間と、いつも弱さを痛感しながら「主よわたしを憐れんでください。」と嘆いている人間と、主はどちらを尊ぶか、それは言うまでもなく、遜って自分の弱さを認め挫折しているペテロの方を主はより尊ばれる。

ここで、先生は「昨日、2年前に東神大を卒業して、東北の小さな町の牧師になった日本キリスト教団の教会の先生からお手紙を戴きました。本人の許可をえていませんが、読ませていただきます。」と少し読み始められました。

すぐに返事を出された先生のおっしゃることは、----他の人間が田舎にひとりで赴任して牧会することがどれほど大変なことか。その町の牧師会に出ても、地元出身の先生もいれば、地元に長くて、もうすっかり地元に慣れてしまった先生もいらっしゃる。そういう先生とはなかなか心が通じない。二年間その教会に動員して、自分はまだ友人が一人もいない。地域にも親しめず、二年目にしてもとっても孤独で、これからどうしたらいいんだろうというその心が伝わって来ました。自分でお医者さまにいらして、「あなたは鬱の中ぐらいの程度ですね。」と言われて、少しお薬も飲んでおられると伺いました。

イエスさまはこの先生に詰問されるでしょうか?神学校を卒業した時に、勢い勇んで自分は地方伝道に身を捧げるのだと言った、あの信仰はいったいどうしたと叱咤激励されるでしょうか?いいえ私はそうは思いません。イエスさまは私は大丈夫、私は燃えていると妄語するペテロではなく、顔を上げることの出来ないペテロに近づいて行かれた。自信に溢れるペテロではなく、挫折感いっぱいのペテロに近づいて行かれた。それはペテロは素直に主への愛に自信がないことを認めているからです。自分の心のうちにある小さな喜びを素直に認める。自分の心のうちにある小さな感謝に目が開かれる。自分の心の内にあるなんともいえない疲れに心を留める、これらはなかなか出来ないことです。

礼拝にいらっしゃっても、それはおおよそ礼拝を通過するだけですけれども、教会の礼拝を皮肉ってこんな文章もあります。飛行機に乗るのと、礼拝に行くのとは似ている。大体お行儀がよい。服装もまずまず。人は皆前を向いてまっすぐ座っています。(笑)言われたとおりに行動して、社会常識を意識する、しかめ面をして恵みを強いる人もいます。でも皆大体がフレンドリー。ある人は飛行機と同じようにうたた寝をし、ある人は飛行機と同じように窓の外を見、初めてのときは緊張しても、慣れてくると割と心地よい。飛行機は乱気流でもなければ、普通はナイス・フライト。普通の礼拝であれば礼拝もナイス・サービス。帰り際にスチュワデスが「またのお越しをお待ちしております。」と言えば、帰り際に牧師は「また来週お待ちしています。」と言う。(笑)飛行機に乗るのと、教会に行くのとは似ている、私はそんな日もあると思いますと先生はおっしゃいます。

しかしイエスさまは、その人の心を見ておられる。その小さな悩みも疲れも心配事も、あるいはその週に体験した小さな感謝も喜びも。それを素直に認めることが出来る人に主は近づいていかれる。あの最後の晩餐の席上で、「私は死んでもあなたについていきます。」と平気な顔をして妄語しているペテロにイエスさまは近づかれないのです。逆にイエスさまは「なんて愚かな事を言う、あなたは鶏が鳴く前に三度わたしを否定する。」と断言されます。でも挫折して顔を上げることの出来ないペテロに近づいて、イエスさまはその点に関して一言も詰め寄ることもなく、ただ単純に「あなたはわたしを愛するか?」とだけおっしゃる。

自分の心の中にある事を素直に認める人に、イエスさまは近づいて行かれます。自信がなければないでいい。悩んでいればそれでいい。ただひとつだけイエスさまはわかって欲しい、イエスさまはそうおっしゃっています。

2)    それはイエスさまの愛---「わたしはあなたを愛する」

イエスさまのペテロに対する問いかけは、よく考えるとものすごく不思議です。「あなたはわたしを愛するか?」なぜこういう質問なのでしょうか?ヨハネの福音書でそれ以前に、イエスさまが弟子たちに向かって「あなたはわたしを愛するか?」と言う質問は一度も発しておられない。「あなたはわたしを信じるか?」「あなたはわたしに付いて来るか?」とはおっしゃっています。しかし、ここへ来てなぜ「あなたはわたしを愛するか?」なのでしょうね?三回も一貫して「あなたはわたしを愛するか?」

私は皆さんたちにそんなことを尋ねません。友人にも上司にも部下にも隣人にもそんなことは尋ねません。もし言うとしたら、一番多いケースは自分の伴侶、あるいは子どもでしょう。それは裏を返して言うならば、自分が愛している相手に「あなたは私を愛するか?」と訊くのです。「あなたは私を愛するか?」と訊いているのは、自分が愛しているからでしょう。好きでもない人に向かってそんなことを訊く人はいないと考えたならば、三回もイエスさまがペテロに「あなたはわたしを愛するか?」と尋ねている間中、その質問の中で溢れ出て来るのは、イエスさまがペテロを愛しておられるという現実です。

つまり三回訊く事によって、たたみかけるように、「お前はわたしを三度否んだ。もう2度と否むことがないように、お前の舌に確かめておきたい。」というイエスさまが厳しい口調で「あなたはわたしを愛しますか?」とはイエスさまは訊いておられない。訊く度に訊く度に溢れ出て来るのは、イエスさまのペテロに対する愛です。自信を失い、自分の弱さをもう痛いほど痛感しながら、顔を上げることも出来ない、あるいは私たちは時に不安にあふれ、失望に満ちた人間に変えられてしまって、自分の信仰さえも本当に薄くなってしまった、そんな時主は私たちに近づいて来られ、「あなたはわたしを愛するか?わたしはあなたを愛する。」と言われる。「あなたはわたしを愛するか?」という質問も先ずは「わたしはあなたを愛する。」とイエスさまは、そうおっしゃった。それは未だかつてない質問だった。「あなたはわたしを信じるか?」でもない、「わたしに付いて来るか?」でもない。「あなたはわたしの愛に飛び込んで来るか?」です。

3)    それに対してペテロは全てのことを主にゆだねるように言いました。

17節をご一緒に読む。ペテロが心を痛めるのはわかります。なぜなら、17節の冒頭に、三度ペテロに言われたこの「愛しますか?」は、フィレオーの愛です。イエスはお困りになったのでしょうね。二回アガパオーで訊いていて、二回ともフィレオーで応えられた。それで三回目はペテロが言う所のフィレオーの愛で訊いておられます。イエスさまご自身がペテロのその自信なさげをよく理解して、「わかった。じゃもう一回訊くけれども、あなたはフィレオーの愛でわたしを愛するか?」そのようにまでして、イエスさまが身をかがめておられる姿にペテロは心を痛めた。それほどまでに自分が情けないと思った。

よく洗礼を受けるのに、考えられる方がいます。圭子がよく私にこう言うんですけれども、教会にいらっしゃる方には三種類いらっしゃる。石橋をたたかずに渡って来られる方。もう教会にいらして一ヵ月後には洗礼を受けられる。たたく余裕もないし、また必要も感じないのでしょう。2番目の方はたたいて渡る人。三番目の方は石橋を叩いて渡らない人。散々叩いて壊れるって解かっていたら、でもやっぱり止めたとなるのです。私たちが心に留めることは、あるいはイエスさまが心に留めることは、「石橋は叩け、いくらでも叩きなさい。しかし叩いて確かだと思うなら、渡ってみなさい」。散々石橋を叩いて、散々祈り求めながら最終的にはやっぱり止めたと言うのでは、わたしは残念だとイエスさまはおっしゃるに違いない。

イエスさまはペテロの愛をそんなにまでして確めているのか?「ほんとに大丈夫か、お前は一度失敗したけれども、もう2度と失敗しないのか、2度と失敗しないのなら、私の羊をお前に任せる。」と、そうおっしゃって三度尋ねていらっしゃるのか、ペテロはそう受け取ったのか?いえ、そうではない。なぜならペテロは「主よ。あなたは、いっさいのことをご存知です。」と言っています。「一切のことをご存知です。」というのは、私が自信がないのも、私がまだすべてを理解していないことも、私が教会に来て間もないことも、この心の内に疑いがあることも、私の信仰がまだはっきりしていないことも、それらいっさいのことをすべてあなたはご存知です。そう言ったペテロに対してイエスさまは、「よし、それでよし。」とおっしゃった。「わたしの羊を飼いなさい」。

大切なのは、最後ペテロが「あなたは一切のことをご存じです。」と言えたことです。ペテロはそのことばをもって、自分の弱さも、自信のなさも自分の挫折感もすべてを知っておられるイエス・キリストに委ねた。すべてを知っておられるイエスキリスト***これは聖書のテーマです。パウロも言いました。あなたがたは神を知っている。いや、むしろあなたがたは神に知られている(ガラテヤ4:9)。私たちが神を信頼する以上に、神はあなたを信頼し、神はあなたを知っておられる。その神の愛があなたを包もうとした時に、果たしてその愛に飛び込めるのか?すべてを知っておられる主のみ腕の中に自分自身の自信のなさも、弱さも挫折も罪深さもすべて委ねることが出来るのか?

最終的に主の愛に応えることはそのように委ねることです。そのように決心することではない。決意することでもない。そのように委ねることです。なぜなら私たちの決心決意は、イエスさまはおっしゃいました、「心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:41、マルコ14:38)。どんなに決心が固くても、所詮人間は弱い。所詮人間は弱いという現実をよく心に留めながら、それでもすべてをわたしに委ねて、わたしに預けるか?それが「ヨハネの子シモン、わたしを愛しますか?」であり、ペテロの応えは「あなたは一切のことをご存じです」。この主の愛を解かっていただきたいと思います。

井の頭公園に、玉川上水のその水辺に「松本訓導の碑」と言うのが建っている。何とか訓導の碑というのは、日本全国に随分あるそうです。昔プールがない時代に、先生が生徒に泳ぎを教えていた。ところが受け持ちの生徒がつるっと足を滑らせて、いろんな事情で流されてしまって、先生が飛び込んで助けた。しかし力尽きて先生が死んでしまったと言う水の事故が随分ある。そういうところでは、先生の殉職を記念して訓導の碑が建っている。そんな話にまつわってこんなことを聞いたことがあります。戦時中のある時ある場所の公民館に血染めの軍服と言うのが展示された。名誉の戦死を称えて、戦意を高揚させるため、敢えてそれを展示した。それはある少年兵の遺品でありました。カーキ色の薄汚れた軍服に穴が開いていて、その穴の周辺に空気にそまっている襟元に星がたった一つありました。

その少年が召集令状をもらった時に、「これでやっと死ねる」と言って喜んだそうです。家の人たちも、これでやっと世間さまに顔向けが出来ると喜んだそうです。それはこの少年は以前川で溺れた時、先生が彼を救って死んだのです。彼の身代わりになって死んだ、そういう少年だったのです。先生は愛をもって飛び込んで自分を犠牲にして少年を助けた。でも周りの目はいつの間にか変わってしまって、あいつが先生を殺した、あいつが足を滑らせなければ、先生は生きていた。先生はあいつのために死んだという風に変わっていきます。その非難の目を彼はそれ以来背負って生きてきた。ようやく召集令状が来て、彼は「これでようやく俺も死ねるんだ」。

自分の身代わりとなって誰かが死んでくれたという重い現実。ペテロはその現実が痛いほど分かります。自分がイエスさまを否んで見捨てた。イエスさまはもっと大きく、人類すべての罪を荷って十字架にかかられたのですが、ペテロはそんなことは考えていない。ペテロは自分の罪を考えている。自分の罪のおかげでイエスさまは十字架にかかった。そのイエスさまが彼の前に現れて、「わたしはあなたを愛するがあまりに十字架の上で磔になった。それは紛れもなくあなたのため。じゃあなたは本当にわたしを愛するか?わたしがあなたを愛するようにあなたはわたしを愛するか?」と詰め寄っているのか?ペテロの足りなさを追い詰めて、もっとしっかり愛しなさいと決断を迫っているのか?いいえ、そうではないのです。

ペテロは単純に、主を知らないと否んだ自分さえも愛していてくださる、主の心に飛び込んでいった。「あなたはいっさいをご存じです。こんな私ですけれども、あなたはすべてを知っておられます。」と言った時に主はペテロに「いいね、わたしについていなさい。」とおっしゃった。私たちもこの時に、自分の信仰が完璧ではないことぐらいよくわかっています。しかし妙な強がりもあるでしょう。でももし自分の心がしっかりとイエスさまに留まっていないならば、そんな自分を素直に認めて、私がかたどっていない部分があるかもしれませんが、そのことを知って声をかけてくださるイエスさま、あなたの愛に飛び込みたいと願っています。「いいね、わたしについて来なさい」。

☆最後のお祈り
こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:19)
恵み深い天の父なる神さま、ペテロが味わった挫折感、もしかしたら、私たちはまだこれほどの挫折感を味わったことがないかもしれません。それ程絶望的なまでに、あなたの信頼を裏切ったペテロに、あなたは近づいて行ってくださり、一言もしゃべることもなく、あなたはあなたの愛をペテロに示してくださいました。その時、ペテロは素直にあなたの愛に応じ、「主よ。あなたは一切のことをご存じです。こんな私を助けてください。」と言います。「わたしにすがりなさい。」イエスさま、どうかあなたの呼びかけに応えて、あなたについて行くことができますように。そしてどうか私の心を洗いきよめ、私の弱さの横に住み、あなたの力を注いでください。イエス・キリストの御名によって、お祈りします。アーメン。


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