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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/10 母の日説教「主は小さな家族を顧みてくださる」ルツ記1:1−18
☆説教
さる3月に引退の記念礼拝を行っており、引退しているのに、まだここへ上って光栄に思っております。(笑)ただいくつか巡回のお問い合わせがありましたが、もう引退しましたからとお断りしておりますが、ここは自分の教会ですので、留守の間、私が声を出せると言うことは、また光栄なことだと感謝しております。ここに立つと、往年の自分の思いで胸が迫ってくるような気がします。しかし、固執してはいけないと思います。また新しい思いでご用をさせていただいております。

今日は母の日の聖日であります。ひとりの女性の母を思う心が広がりまして、1952年ウィルソン大統領の時に、母の日と制定されました。後になって付属のように父の日が6月に決まり、どうもプレゼントも父の日は小さくて、母の日のは大きいようです。(笑)満先生の証しも、幼い頃の母親の思い出のみで、父親も息子のためにいろいろしたはずだが、父親はこうしてくれたとは聞いたことはありません(大笑)。それぐらい母親の子どもになす小さな事は、子どもの記憶に残るものだなぁと、とても大事な役割に思います。

ルツ記は家庭の物語です。初めをご覧くださいますとわかりますが、エリメレクというお父さんがいて、ナオミというお母さんにマフロン、キルヨンという二人の息子、4人家族でごく平凡な標準的な家族の物語。そういう意味でルツ記を読みますと聖書と言うよりもっと親しみが生じてきます。

昔はこの国もとても貧しかったので、家族全体が一致団結して協力して、生きていくのに一生懸命で、こういう時にはあまりそれるものがなかったように思います。それが経済大国になり大きな発展をし、今は豊かな時代になった時、突然出てきたのは、家庭の崩壊と言うことです。いろんな所にそのひずみが出ております。先進国と言われている国は、いずれの国も、昔のよい国民性が失われつつあります。特にそれは家庭の問題として取り上げられますと、随分大きく変わったと思います。私たちは家族はとても大事だと思います。常に家族の為に祈りながら備えていかねばなりません。

若いときは生活の為に一生懸命です。でも私のように年を取りますと、家族が落ち着いていると言うことは、一番の大きな祝福のように考えます。この年になって家族の為に心配をしなければならないとなると、力も体力も精神力もありません。今引退後、横須賀の老人施設でとても気楽な生活です。それぞれ子どもたちは忙しい中がんばっていますし、心配することは何もない。自分たちの責任で働いて生活をしている。年を取りますと、家族が安定していると言うことはとても大きな祝福のように思いますが、これは長い間のお祈りと、それなりの智恵と努力がなければ到達しません。最近(高津では)幼い子どものいる家庭、子どもが誕生した家庭が多くなっています。どうか子供さんたちにしっかり資本を投入して、確信のお祈りが出てくるように、お父さんお母さんたちに頑張ってもらいたいと思います。

ルツの時代は、さばきつかさが治めていた頃とありますが、その世の中はとても不安定でありました。前のページの一番最後の節、士師記21:25に「その頃、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと思えることを行っていた。」と終わっているように、一つの過渡期、混乱期であり、国家としての社会秩序が保たれることなく、世の中が乱れていた難しい時代だということがわかります。今日はルツ記をルツでなく、ナオミ、姑の立場から見てみたいと思います。

ルツ記1:1にあるように、飢きんが一つの始まりです。聖書は淡々と書いてありますが、これは非常に深刻な問題であります。二人の乳飲み子を抱えて4人家族が食べ物がなくなったというので、苦しいことを経験しなければならなかった。夫婦はついに故郷の土地を引き払って、財産を捨てて、モアブの地に移住することを決めたと言うのです。

私たちの国も戦中、戦後、厳しい食料統制の中を通ってきました。お金はあっても、食べる物がなくなった、私たちは皆そういう辛さを経験をしました。食べるものを手に入れるために、一生懸命でお金を集めたものでした。今のように、価格破壊でどこへ行っても100円均一で何でも買えるという時代ではありません。食べ残しがもったいないほど捨てられることも聞きますけれども、そんな時代でもありません。

聖書は短いことばで書かれておりますけれども、お母さんとお父さんは金もない、食べ物もない、どうしようか、この村ではもう生活が出来ない、モアブに引っ越そうか、とうとうそこへ行ってしまうのです。引っ越すと言っても、ベツレヘムからモアブまで100`あります。当時自動車もリヤカーもない時代ですから、馬に荷物を引かせて引っ越しをします。そんなにたくさん家財道具はなかったかもしれないけれども、長年住み着いた故郷、家を捨てて引っ越した。乳飲み子を連れて山間の道を歩く、それも大変なことだったでしょうが、やっとモアブの地に辿り着き、そこには食べ物があったんですね、よかったですね。

モアブにやっと落ち着いたと思った時に悲しみが襲います。3節、ナオミの夫エリメレクは死にます。やっと落ち着き、「ここで頑張っていこう」と踏ん張って、力を入れたとたんにお父さんは死んで行きます。ナオミと二人の息子があとに残されたのです。それから4節、二人の息子はモアブの女を妻に迎え、それなりに悲しみを癒やしますが、5節、今度はその息子たちにも先立たれてしまうのです。

4人の家族でスタートしたのに、お父さんも亡くなり最後息子も亡くなってしまった。社会常識から考えたら、年寄りが先に亡くなるのが普通であるけれども、息子が亡くなり、一人残されてしまった。大変大きなショックであります。息子が育ててくれまして、そして今度は孫の顔ぐらい見たいと思っていたらまだ生まれない。息子が平安な生活をしていて慰められるが、今度は息子が亡くなってしまった。そして嫁とナオミが残されてしまった。その結婚生活は約10年。ナオミは大きな試みを経験した訳であります。

あんなに苦労してベツレヘムからモアブに来たのに、何にもならなかった。ようやく生活が落ち着いてきた頃なのに、全部失くし、一体私は何の為に生きてきたのだろうと思います。聖書学者が言うには、ナオミが50歳位だろうと言われています。(大体15-20歳ぐらいで結婚するので、多分ナオミが20歳で結婚するとしますと、息子が結婚するのに20年、10年の結婚生活を考慮に入れて計算)、あんなに苦労して子どもを育て、あんなに大きな犠牲を払って、故郷を離れてしまったのに、まさに失意のどん底に落とされたひとりの夫人がナオミでありました。

たぶんこのナオミの経験は、聖書に出てくるナオミだけでなくして、皆さんたちの間でもたくさんのことを経験されていることと思います。同じように、試練があって、一般常識では考えられない逆のコースを取ってしまって、子どもに先立たれてしまった。そこでナオミはもう一度ベツレヘムに帰ろうと決意します。オルパとルツに諭しまして、「もう私に付いて来ても仕様がないから、と言ってあなたがたはいつまでももうこれで独身で終わるのは忍びないから、国に帰ってよい相手を見つけて結婚して幸福な生活を送って欲しい」という願いを言います。二人は最初は反対しました。でもナオミは一生懸命諭しました。オルパは承諾して泣きながら出て行きます。

14節、弟嫁のルツは、離れられないですがり付いていました。16節、ルツは自分のことはどうでもいい。失望のどん底にあるこのお姑さん、ナオミのために何かできることはないかと考えます。ひとりでベツレヘムに帰らせることはとても出来ない。このお義母さんのために自分の一生を捧げようと、ルツはナオミについていくことを決意したのです。私の住んでいる老人施設は「ルツの家」と言います。時々「鶴の家」と言う人がいますが、(笑)この話から来ているのです。この名前をつけた人はルツが老人介護の原点だと言うのです。

さてこのナオミがベツレヘムに着いたとき、大変な騒ぎになったと言うことです。19節で町中が騒ぎ出したその理由は、@一つには、すっかり老け込んでいた。白髪や顔の皺が深くなっていた事でしょう。度重なる大きな試みを経験しましたから、別れた時のナオミより、えらい変わってという驚きの思いから、A10年ぶりにあったので、例えば柴田さんと今日45年ぶりだったように、たまに会うと再会を喜ぶということもあります。そういう意味で騒ぎ出したのでしょう。良く帰って来ました。お元気のようですね。さあ昔のように一生懸命働きましょうとか、さあ今晩、村中集めて帰ってきたお祝いをしましょうと騒いでいたのかもしれません。

ところがナオミはその喜びをぴしゃりと否定しているのです。20節、22節、それは、騒がないでください、私をナオミ(甘い)よりマラ(苦い)と呼んでください。と言うのです。どうしてかというと、次のことばがあります。「全能者が私をひどい苦しみに会わせられたのですから。」短い文の中に全能者が二回、主が二回出てきます。「私は満ち足りて出て行きましたが、主は素手で帰されました。」決して豊かではありませんでした。食べ物がなくなったから出て行ったのです。むしろ『この満ち足りて』は、張り合いのことです。主人がいて、二人の子どもがいて何もないけど、これからモアブにきて生活を安定させようと言う張り合いがあったのです。しかしその張り合いが骨が抜けたように、今は空ろになってしまったわけです。出て行くときは豊かだったけど、今は素手で帰って来たと言う。神さまは私をこんな辛い目に会わされましたと。これはナオミが告白致しました大事な言葉であります。

私たちの人生で試練が重なりますと、しばしばこういう言葉が出ます。聖書はこんなことは言ってはいけないとは書いてありません。ナオミは言ったのです。「神さまは私をひどい苦しみに会わせられた」と。主人も取り去って息子も取り去って、何にも無くなったんです。張り合いない人生でした。財産、物はありませんが張り合いのある人生でしたけれども、今は空ろになって帰ったと言うのです。神さまは私を辛い目に会わされたんです。全く生きる希望を失ったひとりの女性だった。しかし、聖書に書いてあるのはナオミの物語だけではありません。我々の毎日の生活の中にしばしばこういうことを経験したり、人から聞くことがあるではありませんか。でもルツ記はそこで終わっていないのです。

今失望のどん底にいる夫人が今度は喜んでいる場面があるのです。ルツ記のお終い、4:16-17です。ルツはここに至るまで2章、3章でボアズと結婚しています。そしてボアズによってルツは男の子を誕生しています。ナオミに男の子が生まれるのでなく、ルツに男の子が生まれます。そしてナオミの家は、家名を継ぐ人がいないので、ボアズとルツに生まれた子どもを自分の子として、養子に迎え入れたのです。あの絶望のどん底にいましたナオミであります。わずかの間で喜びをかみしめる人生に変わって行きます。変えられたのです。

お互いの信仰生活というのは不思議なことが多々あるのです。時には神さまなどいらっしゃらないのではないか、神さまがいらっしゃるのなら、こんな苦労はしなくてもよいのではないかとか、神さまはどうしてこんなに辛い目に会わされるのかとか、ナオミが言ってるようなことを通らされます。しかし、信仰の世界はそれでは終わらない。終わりには必ず、喜びが生まれる、喜びに変えられるという不思議なことでした。

あのヨブ記で、試練の人と言われたヨブもそうです。彼はあんなに自分の生を呪った。自分は生まれなければよかったのにと。でも終わりは神さまの大きな祝福でした。信仰の世界では、さまざまなところを経験しますけれども、それが終わりではない。その悲しみは必ずどこかで喜びに変えられるというのが、神さまの祝福です。そして、ルツ記を見ますと、人が失意のどん底にある時から喜びの生活に変えられるには、どのぐらいの時間がかかるのだろうか?ということを教えていると思います。計算した人がいます。モアブに行って息子が結婚したというのが先ず10年。

2章に入りますと、3節、落ち穂拾いに行って、思わずもボアズの畑に入ります。落ち穂を拾うしか、生活の糧がなかったのです。ほんとに貧しい生活です。麦刈りをしている後からついていってこぼれた後から拾って自分の糧にする、最も貧しい卑しい生活でした。
ちょっと2章を見てみましょう。7節で「朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」とあります。それから17節に「朝から夕方まで」とありますから、一日のことです。
もう少し期間を説明する言葉があります。2章の一番最後、23節、「大麦の刈り入れと小麦の刈り入れの終わるまで」とありますから、それは6月初めから7月初めまでひと月のことです。

(ここまでで、)10年、1日、ひと月です。それから、3章は、ルツとボアズが結婚する準備段階です。ひと晩のことです。
4章に入りますと結婚いたします。そして赤ちゃんが生まれるのに1年。
10年、1日、ひと月、ひと晩、1年、つまり、全部で11年1か月1日ひと晩ですから、聖書のルツ記の初めから終わりまで10年ちょっとの間に、こんなにひどい人生の試練があって、それからこんなに多くの喜びを経験したと解かります。

その聖書学者は言うのです。よく世の中では、石の上にも三年と言うけれども、実際の何か一つの区切りを人生につけようとすると、10年かかるのではないかと。私たちの家庭の問題、経済の問題、精神的な問題、随分いくつかの要素が重なってくる。一つの試練が来る、ただ主人が亡くなったと言うような物理的な事ではなくして、それに関わる精神的な負担が数え切れないほど出てきます。子どもが先立ってしまったと言うのは、子どもの通帳から子どもの名前が消えたと言うだけでなく、子どもが亡くなったための大きな負担が親に残されます。それを乗り越えるのに、大体10年かかるのではないか?皆さんの人生計画も、2−3年先を見ていたら、こんな辛い目に遭ってる人は他にいないと思うだろうが、もう少し先を見て10年先を見てご覧。人生いろいろな物事を乗り越えるには、今日明日のことでなくて、10年という長いスパンで計りなさい。あんなに生きる希望を失って、失意のどん底にあったナオミが、今自分が念願していたルツによって子供が生まれ、それを近所の人がナオミの子どもだと喜んで、それが嬉しくて仕方がない。そこの間が10余年。

もう一つ(ルツ記で教えられることが)あります。ナオミはこんな暗い思いで神さまを仰ぎます。「みんな私から取り上げて、こんな苦しい思いを神さまはさせなさる」と。一つ覚えて戴きたいのは1章の6節。「主がご自分の民を顧みて下さった」とあります。ナオミは目先のことを考えて神さまはなんてひどい方だと言った。でも神さまはこの小さな家族を、顧みて下さっていた。これは神の民に与えられた大きな希望であり、慰めであります。

神さまに一見捨てられてしまったような、もみくちゃにされたようなエリメレクとナオミの家庭でありますが、しかし、神さまはそのナオミの家庭を顧みてくださっていて、何年かはかかったけれども、人が考えられないような、(ルツが)ボアズの畑に入って行って、ボアズと結婚して、子供が生まれる。これは息子二人が亡くなったことがナオミの計画上になかったように、ボアズの畑に入ってボアズと結婚する、そんなこと毛頭考えられていないことが、現実となってこの家族に起こる。神さまの顧みということ、これは私たちがはかることができませんけれども確かなのです。神さまの顧みというのは、人の計画、思いを超えたものなのです。

この前の日曜日直樹の子どもの翔太の献児式があり、私はひいじいちゃんになりました。愛香からは、アメリカからメールが「明日卒業式だからお祈りしてください。」と来ました。人間が計画してこういうことはできない。そこへ行くまでいろんなことがございます。もっとうまくいくはずなのにうまく行かなくなることも、挫折しそうになることも、失望のどん底に叩き込まれることも、どうしてよいかわからないこともございます。でもナオミの家族には、神さまの顧みが注がれていた。そして今のことよりもっと大切なことがある。

ルツの産んだ子供、それから将来ダビデが生まれるという、マタイの福音書を見ますと、イエスさまの系図には、ルツと言う名前がでているのです。人間が計画して、「お前、貧しい失意のどん底にあるナオミといっしょにいたら、ボアズと結婚できるよ。豊かな生活が出来るよ。」そんなことは一言も聞かされていない。貧しいお義母さんと一緒にいて苦労をともにしよう、お義母さんが死んだら私も一緒に死のうと思って一緒に出てきたのです。ところが、ボアズの畑に入って、ボアズがルツを一方的に迎えます。周りの人たちもボアズがルツと結婚するのがよいと法的にも証明しました。私は素晴らしいと思います。

今日私は説教の題を「主は小さな家族を顧みてくださる」と致しました。ナオミが11年かけて神さまを信じてよく耐えてそれが失意のどん底から喜びに変えられた。悲惨な出来事が世の中には起きています。私たちの家族の死、神の民の死、そんな事が絶対あってはならない。起こる覚悟はあります。しかし私たちにも神さまの顧みが注がれて、今さまざまな試みにあったとしても、神さまの民なのでよく耐えて、必ず失意のどん底から喜びに変えられるに違いない、ナオミはそれを把握していたと思います。

☆終わりのお祈り
神さま、しばしば私たちは、目の前のことだけで判断します。目の前に起きることだけで喜び、悲しみ、また不満を抱く時があります。ナオミは神さまは私をこんなひどい目に会わされた、私の持っているものを全部取ってしまってこんな苦しい思いをさせなさったと言います。だからといって、神さまはナオミを見捨てなさったわけではありません。神さまの顧みはそんなことを上回った所にありました。思いがけなくもルツがボアズと結婚致しました。ナオミの計算に入っていない、ルツの子どもを与えられました。自分の家の養子として迎えることが出来ました。初めから計画にも計算にも入っていない思いがけないことが起こりました。神さまの祝福って言うのはそういうものです。そして神さまの祝福は神さまが私たちを顧みてくださっている大きな証しです。どの家庭にも神さまの顧みが注がれております。どんな小さな目立たない家族であっても、もし主を信じる者であったとするならば、主の顧みが注がれております。今のことでなくして、じっと堪えるときは堪えて、信じて待ち望んで、思いがけないほどの祝福が注がれ、悲しみは必ず喜びに変えられるものであります。どうぞお互いの家族を祝福してください。世の中はもっともっと荒れてくるでしょうし、家庭にまつわるもっともっと悲惨な重いニュースは伝わってくるでしょう。我家は、神さまの顧みのある家庭となるよう祝してください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2011.03.26 - 21:52
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