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::: 高津教会 説 教 :::


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Name     T・Y
Subject   5/31 ペンテコステの説教「いのちの息よ、吹いてこい」エゼキエル37:1-14
☆はじめのお祈り
シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに讃美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。(この日の交読イザヤ61:1-3より3節)

恵み深い天の父なる神さま、あなたの呼ぶイエス・キリストがこの世界に来られ、私たちと同じ労苦、悲しみ、憂いをその身に体験し、やがて私たちの罪を取り去って、その身に背負い十字架の上で贖いを成し遂げ、そして復活され昇られた天からご自身の霊を今私たちのところに注いでくださいますことを感謝致します。
私たちもかつて灰をかぶり、悲しみに包まれ、憂いの心とともにこの世界を歩んでいた者でありました。しかし灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに讃美の外套を着けさせてくださる。もしかしたら、私たちはそこにただ呆然としているだけかもしれません。あなたは私たちの後ろから知らないうちに近づいてくださり、灰を払って頭の飾りを付けてくださる。喜びの油と讃美の外套を着けてくださいました。
私たちは弱いものです。私たちは皆悲しいほどに、絶望、失望に屈しやすいものです。自分自身の本性を出すかのように、以前の自分に戻りやすい者です。しかしあなたは、私たちを内側から変えてくださり、義の樫の木として、主の宮に植え続けてくださっていることを感謝します。実はあまり結んでいないのかもしれません。しかしそれでもあなたは、私たちに聖霊の水を注いでくださり、みことばの栄養を与えてくださり、振り返って見ますと、着実に、樫の木のようなしっかりとした大地に根を張った信仰を植えつけてくださいました。栄光を現す主の植木と呼ばれよう―――そのみことばにふさわしく生きていたいと願っています。どうかこのペンテコステの聖日、特別にあなたがくださった聖霊を意識し、礼拝の度に、聖霊が私たちを全く新しくしてくださることを自覚し、義の樫の木としてこの世界を生き抜いていくことができますように助けてください。
引っ越しをして来られた兄弟、すべてが新しくなりましたことでしょう。ストレスの多い週、月を過ごしておられると思いますが、どうか兄弟を強めてください。ご高齢の方々、病める方々、また特に流行してまいりますインフルエンザから私たちを守ってくださり、小さな子どもたち、また渡辺貴世姉のように新しいいのちを宿しているお母さんの上に、あなたが特別な見守りを与えてください。暑い夏がやってまいりますけれども、どうかみんな元気でこの夏を乗り切っていけるようにしてください。
ひととき、みことばに耳を傾けます。どうか私たちを強めてください。心を砕いて、あなたの声を聴くことが出来ますように、遜った思いを内に備えてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りをいたします。アーメン。

☆説教
今日はエゼキエル書の37章から、タイトルは中心のみことばである9節からです。ご一緒に9節を読む。

面白いたとえ話から先生の説教は始まりました。
悪魔が広場で、のみの市を開いていました。売っているのは、彼が日頃使っている、人をおとしめる道具です。所狭しといろいろと並んでいます。嫉妬、欺き、情欲、高慢、憎しみ… …さまざまな道具がびっしりと、それぞれに結構な値段がついています。

店の奥に、一番使い尽くされた道具も売っていました。なんとそれには、店で一番高い値段もつけられています。何だろう? よく見ると、そこには『失望』という名前が書いてありました。
「これって、本当に効くんですか?」 尋ねてみると、悪魔は答えました。「そいつは最高だよ。ほかのどんな道具よりも効く。どうしてそんなに効くかって? 人は、失望が俺様の道具だって知らないからだよ。人間が希望を失って、絶望に屈するのを見ることほど、すかっとすることはないな」。

確かにそうでしょうね。確かに、嫉妬や欺きや情欲や高慢や憎しみは、わたしたちの心をあっという間に支配し、私たちを神から遠ざけて行くということはよく知られています。しかし失望というものを、私たちはもしかしたら、悪魔の道具だとは思っていないのかもしれない。徐々に私たちの内側から、信仰のエネルギーを奪い取って、神さまから遠く離れた所に私たちを連れて行ってしまうという点では、それが一番使い古された道具で、一番効果があるのかもしれません。

嫉妬にも屈せず、欺きにも屈せず、高慢にも対抗できた人が、失望・絶望によって神さまから離れる。そういうものかもしれません。イザヤ書やエゼキエル書はこういう失望、絶望の問題と戦っています。

エゼキエルはバビロンの捕囚の地で、20年以上にわたって預言者として活動しました。紀元前586年にエルサレムの都と神殿が陥落します。しかしそれ以前に相当な人数の人たちが、バビロンに捕囚でとられていました。その知らせを捕囚の地で聞いたエゼキエルとユダヤ人たちは絶望します。

1)干からびた骨の山
37章1-3節を読む。1節で、神の霊は、エゼキエルを谷間に連れて行き、ある光景を見せます。それは人骨の山です。その数はおびただしく、またすべての骨は干からびていました。(他の訳の聖書では、 甚だしく枯れていた)。ずっと前に死んで、放置されていた人々の骨です。神さまはエゼキエルに尋ねます。3 節「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」。エゼキエルは答えられませんでした。ですから、3 節の後半で言います。「神、主よ。あなたがご存じです」。

いったい、この谷間の骨は、誰の骨なのでしょうか。それは、イスラエルの人々の骨です。11 節を読む。11節で主はエゼキエルにおっしゃいます。「これらの骨は、イスラエルの全家である。ああ、彼らは『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られる。』と言っている」。断ち切られると言うのは、神の臨在から完全に絶たれるということです。絶望の中を歩んでいる人の姿を神は干からびた骨だとおっしゃいました。

「私は昨年の2月に、カンボジアのプノンペンに行きました。」と先生は思い出を語り始められました。プノンペンの最大の観光の場所、それは市内のあのポルポト政権下で、拷問を受けた人々の場所です。学校を改造して、そこに人々を閉じ込め、次から次に拷問を繰り返す。ポルポトによって大虐殺をされた人々の骨の山を思い出します。1970年代のわずか4年間に、自国の同胞の民が、200万とも300万とも言われますが殺されて行きました。プノンペンの町外れに行きますと、killing field と呼ばれた墓に、死体が埋められます。薬品を大量に浴びせて、肉が溶けてしまうようにします。やがて、畑から骨だけが発掘されて、5階建てぐらいの仏舎利塔を建てて、ひたすら骨だけを、大たい骨と頭蓋骨だけを積み重ねて安置してあります。そんな場所が80カ所以上あります。そのいくつかを歩いていると、埋められていたいくつもの穴を分けるように道があって、しかしその道さえも、歩いているとじゃりじゃりと音がする、そして人の骨のかけらが至る所に出ています。

あの骨の山を見て、何を感じるでしょう。ポルポト政権下の残虐さ、しかし、それ以上に、何とも言えない空虚感、むなしさ、絶望感もあります。この骨のかつての人間はどんないのちを宿していたのだろう、どんな人生を歩んでいたのだろうか、そんなことは想像もつきません。延々と積み上げられた、白骨の骨は、その人のいのちがもう完全に存在していないことを意味しています。
しかし町を歩いて気がつくことは、この町の人がその思い出と歴史を未だに引きずっていること。エレベーター付きのショッピングモールができた。いたるところが建設ラッシュである。しかし問題はそんな所にはない。カンボジアの人々の精神性は、今どういう位置付けにあるのか?人口の5分の1が一瞬にして、4年の間に骨と化してしまった民族の精神性はどうなっているのだろうか?

ピカソの大作に「ゲルニカ」があります。ナチスドイツによる世界初の無差別空爆が行われたのが、スペインのバスク地方の町ゲルニカでした。彼はその惨劇を、その目で見て幅約8mの大作で仕上げます。色を使わない、モノトーンで。そこに骸骨の山があります。
ピカソの影響を受けた岡本太郎は、なんと30mの壁画「明日への神話」を制作します。原爆によって、溶けていく人間、骨の数々が描かれています。
「ドライボーンズ」(干からびた骨)という黒人霊歌があります。その歌も枯れた骨の山を歌っています。やがてすべての人が死んで焼かれたならば骨の山になります。しかし実はそれは墓場の事ではない。

死の世界にやがて落ち込んでいく私たちの人生そのものであり、それらの谷間は、バビロンに捕囚に取られたイスラエルの姿でもあり、憎しみに犠牲になった人々の人生でもあり、希望を失い、未来に裏切られ、絶望の中に埋められてしまった私たちを指しているのです。時にその背景にあるのは、戦争であり、憎しみであり、犠牲であるかもしれませんけれども、それだけではない。私たちは骨の山の中を生きているといっても過言ではないです。

2 )身体があってもいのちの息のない人間の悲劇
 さて、ここに、とっても興味深い場面があります。
やがて、骨と骨がつながり、そこに6 節にありますように、筋がつき、肉が生じさせられ、皮膚が覆うようになるのです。7節と8節をご一緒に読む。
神さまに命じられたようにエゼキエルは預言した。預言したというのは、祈ったということ。
7 節で、神さまは命じられます。そんな希望もいのちもすべて奪われ、骨の谷間に干からびている私たちに向かって、神さまは命じてくださいます。「音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨が互いにつながった。私が見ていると、なんとその上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上のをすっかりおおった。」しかし、最後に奇妙な情景です。「皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中には息がなかった」。

神が命じられると、なんと、骨と骨がつなぎ合わされていく、筋が生じ、筋肉がついて、そして皮膚で覆われるようになる。まさに復活です。しかし、まだそれは、身体があってもいのちの息のない人間なんです。これもまた、恐ろしい情景ではないでしょうか?その情景とは、人間が死ぬという情景ではありません。それは、人間が生きていないという悲劇です。

つまりこういうことです。枯れて干からびた骨よりも、いのちの息のない人間の方が、はるかに悲しいということです。プノンペンの町を歩いていますと、私は別にプノンペンの町の人がすべて息をしていないとは言いません。しかし過去の歴史の中で、葬られた人々の何万体何十万体という人々の白骨の山を見て、心に重い悲しみを抱く以上に、その町に今も生きていて、しかしその歴史をたましいの奥底に秘めながら、人間の罪の恐ろしさ、命のはかなさ、そしてその歴史に縛られて、恐怖の中を歩んでいる人の方がはるかに悲しげに見える。

累々と築き上げられた骨の山を見て行くよりも、おそらくエゼキエルにとってもっと悲しかったのは、肉がついて人間の形に戻っている、皮膚もその体を覆っているのに、その内側にいのちの息のない人間、その方がはるかに悲しげで、またそれも現代人の姿である、と言うこともできるでしょう。これはまたクリスチャンに当てはめることもできるのです。

復活されたイエス・キリストは、天に昇る前に弟子たちにおっしゃいました。「聖霊を受けなさい」。彼らはイエスに三年半従いながら、何をしていたのでしょうか。だれが一番偉いかと、互いに言い争う。だれも、しもべになって仕える者はいない。神の国を世の中の国のように考えて、人を上下関係で見て判断した。柔和なのでしょうか? 真実なのでしょうか?どこかエゴイズムが見え、どこか人間的な弟子たちに向かってイエスさまは「聖霊を受けなさい」とおっしゃいます。神の聖霊を受けるまでは、本当に人は遜るということを学ばないものなのだなぁとT・Yにはよくわかりました。

パウロもまた、後に、そんなクリスチャンのことを指して言いました。
「あなたがたは、枯れた骨に筋がつき、肉がつき、やがて皮膚が体を覆っている。でも、あなたがたは、ただの人のようだ、(Tコリント3:3-4)神の国に生まれていないただの人のようだ。神の息吹をあなたがたの内側に感じない。あなたがたは、肉的だ---つまり、霊的ではない」と。果たして私は霊的だろうかと考えるべきです。これは難しい定義です。いつも祈っている人が霊的だとは限らないそうです。

パウロはいつも選択を迫ります。
「古い人を脱ぎ捨てて(エペソ4:22、コロサイ3:9)キリストを着なさい(ローマ13:14、ガラテヤ3:27)」。「あなたがたは罪に対しては死んだ者であり、神に対しては(キリスト・イエスにあって)生きた者だと思いなさい(ローマ6:11)」。それはいつも私たちに突きつけてくる、肉的であることを止め、霊的に生きる人間として信仰者としての道を行かせようと、パウロは決断を迫らせます。パウロはTコリント15:31に「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。」と書いているような生き方ができたので、人にも臆せず決断を迫る言い方をするのだろうと、そのすごさにT・Yは圧倒されました。

先生も「決断を迫らない信仰の生き方は、どこかいい加減だと思います。」とおっしゃり、余計力づけられた私たちでした。
言うなればいつでも「どちらでもいいんじゃないですか」。言うなればいつでも、「満たされていればそれでいい」。言うなれば「霊的なのは教会であって、肉的なのは社会生活だ」。言うなれば、「いつも忙しくて聖書を読む時間がない」。言うなれば、「あの人間のことを私は一生赦せないと思う」。言うなれば、「祈ることよりも、ほんの少しでもお金を稼ぐことがはるかに重要だ」。言うなれば、「教会を犠牲にしてでもこの世界で階段を上がって行くことの方が、今の私にとっては神の祝福だ」。

私たちは一つの堰(せき)を取ってしまいますと、水が(重力で)上から下へ流れるように、シモンベールと言うフランスの神秘主義者は、この世界は重力で成り立っていると言います。この世界で物質的なものは上から下に落ちる。しかしその問題だけではない。人間の魂もほっておけば必ず上から下に落ちるように出来ている。唯一、下から上に持ち上げるものは恵みであって、その恵みを受け取りどう生きるかに神経を集中させて生きる時に、私たちは肉的な生き方から霊的な生き方へと変えられて行くと教えられ、本当に感謝です。いつもクリスチャンには、そのように聖霊による恵みが働いて、強められていることを感じて生きていたいと思います。先ず眠っている信仰生活をしているかもしれない我々が、罪の状態から目を覚ますことから始めるべきなのでしょうね。

祈る時にこんな人生つまらないつまらないとばかり思って祈らない。この祈り方の例は、実践的であり、とてもきよめられる気持ちになりました。
・このつまらない人生の中で、神さま、一つでも私が本当に感謝できる事を見出すことが出来ますように教えてくださいと祈る。
・今日の一日の営みの中で、私がただの人として生きていたようなその瞬間に光を当て、どうか同じ事を明日またくりかえすことがありませんように私を導いてください、と祈る。
・聖餐の恵みに与るときに、どうか私の罪を赦すだけでなく、私に罪を犯した人も赦すことが出来るようにと切に願う。

パウロは言いました。
あなたがたは、聖霊に導かれていない、聖霊に満たされていない、聖霊に自分をささげていない、聖霊の支配下にないと。(注***ガラテヤ5:16〜26、ローマ8:1〜14あたりでしょうか?T・Y)
それは干からびた骨ではない。骨は既につなぎ合わされてそこに筋がつき、肉がつき、皮膚が覆っている。でも神のいのちの息が吹き込まれていない。それは、人間が死ぬという悲劇ではなく、人間が生きていないという悲劇をパウロもまた指摘しているのです。

矢沢永吉さんや浜田省吾さんが歌っている曲に、「ミス・ロンリー・ハーツ」という歌があります。「孤独な女の心」というタイトルは、そもそもアメリカの文学者ナサニエル・ウェストの秀作「ミス・ロンリー・ハーツ」( 翻訳では、孤独な娘) から来ているのでしょう。
ミス・ロンリー・ハーツは、小説では、実は男性です。仕事は新聞の失恋欄の担当者。彼のところには、失恋だけでなく、病気に苦しむ人、心ならずも妊娠してしまった女性、とさまざまな悩み悔やみ、人生に対する失望の手紙が山のように届きます。彼は押しつぶされそうな気がする。どうして人間の中にはいのちがないのだろうかと考えて。(信仰を持っている彼は、キリストがすべての悩みを受け取ってくださる御方であることを知っているのですが、それを新聞であからさまにすることはできません)。
やがて、彼は病気になります。そのときに、思い出すのです。かつて少年の時に、お父さんといっしょに教会に行ったことを。そしてキリストを信頼して祈ったときに、賛美したときに、自分のうちに神の力がわき上がったことを思い出す、という場面があります。

そうして彼は、自分もまたミス・ロンリーハーツであって、その原因を自分の病気が暗示していることに気がつくのです。それは自分もまた生きていない人に囲まれて、話しを聞きながら生きていなかったと。それは、キリストと遊んでいるだけで、生活を通して真実に生きようとしない、ということです。キリストと遊んでいるだけで、人生を通して、日常を通して真実にその信仰を生きようとしないと、次第に神のいのちの息吹を感じなくなっていきます。それは、自分の生活の中に、まともにキリストを受け入れずに、キリストと遊んでいる(読んでいる知っている)だけでは、自分もまた枯れた骨の谷の中にとどまっていることに気がつくのです。骨はつながった、筋もついた、筋肉も、皮膚も身体はできた。しかし、その中にいのちの躍動感がない。聖霊によるいのちがない。神の息吹が吹き込まれていないのです。

キリストを知る、キリストと遊ぶ、というのは決して不真面目な遊びではないでしょう。要は、キリストがすべてを支配されるように、キリストと交わっていない、ということです。キリストに生きていただくために、自分を十字架につけていない、自分に死んでいない、自分のエゴがいくらでも復活してきてこの骨を動かしているだけ、自分を支配しているという、そのような信仰者です。

3 ) 息を吹き込んでくださるのは、神さまです。
その時、神はエゼキエルに「息に(聖霊に)預言せよ(祈れ)」(9節)と言われました。9 節を読む。「息よ、四方から吹いてこい。彼らを生き返らせよ。彼らを生かせ。」
ペンテコステに、主イエス・キリストはまったきいのちを携えてやって来られました。そして、あの干からびた骨に身体を受けて、御霊のいのちなしに歩いているような弟子たちにおっしゃいました。「聖霊を受けなさい」。そのことばを信じて、弟子たちは一生懸命聖霊に祈った。どうか我が内に聖霊をください。私たちが自分は罪に対しては死んだ者となれるように。神に対しては生きる者となれるように。そういう生き方を生きることができるように。
骨の谷の中で、身体はあるけどいのち無しに歩いているような者でなく、苦しみの中でも小さな神の恵みを見出し、ほって置いたらいくらでも上から下に落ちていくようなたましいに、下から上に持ち上げていただけるような、讃美と祈りを注いでください。あの少年の頃に、あの純粋な頃に讃美を歌って力づけられ、祈りをなして涙したような感動を私に与えてくださり、私を生かしてください。
「息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹き付けて、彼らを生き返らせよ。」これが今朝の私たちの祈りです。

☆最後のお祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたの御霊であり、そして御子イエス・キリストの御霊である聖霊に私たちは祈ります。御霊さま、四方から吹いてきて、私たちを生き返らせてください。さまざまな疑いや悩みや悲しみや失望が私たちを骨の谷へと連れて行きます。私たちには多くの恐れがあります。
しかし何にもまして、この心の訓練をしている自分自身をあなたのみ前に明け渡し、人を赦す事も過去の過ちを拭い去る事も、そしてなかなかうまく行かない人とうまくやっていけるような心の広い愛を私たちの心に与えてください。
御霊のいのちを生きる真剣な選択を、日々の小さな出来事の中でなしていくことができますように、何かあればすぐに祈ることが出来ますように、御霊の道を選び取ることが出来ますようにお導きください。イエス・キリストの聖名によってお祈り致します。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 21:55

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