名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 1633 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   6/14 説教「スミルナの教会への手紙」黙示録2:8-11

☆説教
先週から、私たちは黙示録に出てくる7 つの教会について学びを始めました。
7 という数字は、聖書において完全数といわれています。それは、その数が物事の全体、事柄の全体を意味する数字だというのです。となれば、それぞれの教会について記されていることが、おおよそ教会と呼ばれるすべての教会に、つまり高津教会にもあてはまるのです。
第一回目は、先週エペソの教会について学びました。今朝は、第二回のスミルナの教会です。三つのポイントで短くみことばを取り次ぎます。

1 )まずは、イエスさまがこの教会に伝えようとしているメッセージ、そのものを見てみましょう。
8−9節を読む。9 節「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。---しかし、あなたは実際は富んでいる。---」ということばです。

イエスさまは、この教会の人々が苦しみと貧しさを体験していることを知っておられます。苦しみと貧しさとは、どういうことなのでしょうか。それは10節を見ると、迫害に関係しています。10節を読む。投獄の可能性があります。いやそれだけでなく、「死に至るまで」とあるように、殉教の可能性も示唆されているのです。それが、スミルナの町に置かれている教会の状況でした。

私は先週の月曜日、福音主義神学会の研究会に参加しました。テーマは、明治維新の開国から戦前までのプロテスタント教会の歴史でした。
発表者の一人、東京基督神学校の校長、山口陽一先生は、開国は日本の教会のゼロからスタートではなかった。開国は、日本の教会にとってははるかにマイナスのスタートであった、と述べておられました。
それはそうです。1587 年の豊臣秀吉によるキリシタン禁令以来300年、クリスチャンは信仰を捨てるように脅され、殺され、クリスチャンは存在してしても密かに隠れながら、わずかな信仰を守る以外に手立てはありませんでした。
それが日本のキリスト教会の出発点であり、ある意味で、未だにその影を引きずっていると言っても可笑しくないかもしれません。

もう一人の発表者、ホーリネス教団の上中栄先生は、開国から現代にいたるまで、教会はいつも日本の社会において居場所を探して歩んできた、と述べておられました。上中先生は、戦争中のホーリネスの牧師たちが弾圧され、投獄され、中には拷問され、殉教していった歴史を研究しておられます。

当時よく教会に憲兵がやって来た。憲兵というのは、おおよそ宗教法人の管轄である文部省とは関係のない、陸軍の所属の警察機関です。憲兵が教会に関わるとは常識では考えられない。しかし、教会の中でどういうメッセージが説かれ、それが皇国日本とどういう矛盾をきたすか、というそのあら捜しをするために、さまざまな形でお忍びで教会に憲兵の使いが入ってきた。やがて、ホーリネス系の牧師たちはいっせいに拘置所に取られて行きます。中には拷問を受け、家族や教会員がその遺体を引き取りにいったケースもあります。そして押しなべて、拘置所側の報告は拘置所の中で自殺をしたということでありました。

ある意味で、日本社会にあって、キリスト教会は未だに居場所を探しているようなところがあります。
キリシタン禁令から始まり、戦前戦中の弾圧を体験し、今に至るまで居場所を探している日本のキリスト教会。人口比に対するクリスチャン人口が少ないことも原因でしょう。
しかし、もっとどこかで異分子を排除するような精神性が日本社会にあって、キリスト教を西洋の宗教と決めつけ、キリスト教を信じないことが当然のことであるかのような、妙な日本的な精神性があります。
そしてその精神性を作り出した大本は、豊臣秀吉であり、また明治憲法、教育勅語下の日本人の政府関係者であったと思われます。と考えると私たちはスミルナの教会と似ています。

スミルナは、エペソから20キロぐらいの港町でありました。エペソと同じように異教の神殿がたくさん建てられていて、ローマとの関係が深く貿易都市で町全体は経済的に繁栄していました。その都会にあって、教会は片隅に追いやられ神殿などありません。小さな集会場に集まっていたのではないでしょうか。大都会にそびえる数々の神殿。その中で、教会は片隅に追いやられ、小さな集会場に集まっていました。

高津教会はそれなりの教会堂を持っています。決して豪華な建築ではありません。しかし、外から見れば教会だと道行く人は気がつきます。しかし日本には、これが教会なんだろうかと思うような、普通の民家を改造した教会もたくさんあります。大きな神社やお寺の門前町にある、小さな教会もたくさんあるのです。集まっているのはごく少数の人々でしょう。それがスミルナの教会であったということを心に留めて置いていただきたい。それであるが故に、彼らは苦しんでいて貧しいのです。

しかしイエスさまはおっしゃいました。9 節「あなたは実際は富んでいる」。どういう意味でしょうか?
物質的には貧しい、しかし、あなたの心は富んでいる? ― ― そういう意味でしょうか。その程度の意味なのでしょうか?貧しくても幸せだ、と私たちはよく言いますが、そういう程度のことなのでしょうか。いいえ。その意味を紐解いてくれるのが第二のポイントです。

2 ) カギは、彼らの貧しさと豊かさを知っているとおっしゃるイエスさまです。
8 節を読む。「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方がこう言われる」。

イエスさまのことが、「初めであり、終わりである」方というのは、(注***イザヤ41:4、44:6、48:12にもありますが、黙1:17にも、21:6、22:13にも)黙示録に特有の表現で「アルファであり、オメガである。」(黙1:8)と言われています。アルファとオメガとは、ギリシャ文字の最初と最後です。その意味するところは、歴史の始まりから、それが完全に終わるまで、すべてのことに関わっているという意味です。イエス・キリストという方は、すべての事柄の関与者、支配者、導き手という意味です。

スミルナの教会は大都会の片隅でひっそりと礼拝を守って、必死に伝道しています。いや、伝道さえも難しく、投獄され、殉教していく者もでてくるのです。しかし、歴史の始まりから終わりまで、すべてのことに関わっている御方は、すでに彼らの苦難を知っておられるのです。そのことをすべて把握した上で、あなたがたは豊かだ、とおっしゃるのです。

イエスさまは、「死んで、また生きている」(2:8、1:18)。死んでというのは、それはアルファでありオメガであるこのお方が、人となってこの世界に来られ、理解されず、誤解され、命を狙われ、ユダに裏切られ、弟子に捨てられ、偽証にあふれた裁判にかけられ、茨の冠をかぶせられ、生きたままその身体を十字架に釘付けにされ、息を引き取るのです。この方が、あなたがたの苦しみと貧しさを知っているというならば、その知っているという度合いはいかほどでしょう。

ガンで入院しておられる山本兄が、入院したのも手術したのも生まれて初めてだとおっしゃいます。どれぐらい痛いか聞きますと、おなかの中を切っているので、言葉で表現できないほど痛いのだとおっしゃっておられました。もし私たちが多くの人と同じように、ガンとの闘病を始めて、抗がん剤が打たれ、髪の毛が抜け、身体からエネルギーが吸い取られたら、どれほどだるくて苦しいか、それは今までの人生のことばで表すことが出来ないほど苦しいのです。

もし私たちが人から退けられ、あの戦争中の教会のように、教会が閉鎖され礼拝が禁止されたら、どれだけ惨めな思いをするのか、それはイエス・キリストが、否まれ、捨てられ、十字架にかかるほどのお方であるから、このお方はスミルナの教会の貧しさも苦しさもよく知っておられる。イエスさまは一度死なれて、墓に収められたのです。私たちの世界で言うなら、死亡診断書が出され、牧師が呼ばれて納棺し、火葬にされて、納骨されたという事実です。しかし、キリストは死を打ち破り、見よ、わたしは生きているとおっしゃいます。

その死をも打ち破る神の恵み、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」とおっしゃったイエスさまにスミルナの教会の人々はつながっています。だから、あなたがたは豊かですとイエスさまはおっしゃった。あなたがたは苦しみがあり、痛みがある、しかし実際は豊かだと言うときに、単に、あなたがたは心が豊かだ、そんな意味ではない。もしかしたら、この世界で幸せだ、平安だ、安心している、丈夫だと呼ばれるような要素は全部奪われ、心の内側でさえ恐れや不安に悩まされているかもしれない。それでも彼らは豊かです。なぜなら、このイエス・キリストと繋がっているからです。

黙示録の7 つの教会を学んでいますが、そのすべてに共通するのは、「勝利」です。7節、エペソの教会は最後に「勝利を得る者」。11節、スミルナの教会は「勝利を得る者は、決して第二の死によって損なわれることはない」とあります。

スミルナの教会の人々には第一の死が迫っています。それは、迫害によって息絶えることです。この第一の死は、私たちが誰もが経験する避けて通れない死です。病か事故か災害なのか、地上の人生の終わりです。しかし、聖書は、同時に第二の死を教えています。それは、死んだ人間のたましいを、最後に神が裁かれるとき、天国を継ぐ者となるのか、永遠の滅びに下る者となるのか、その後者が第二の死です。(黙20:6、20:14、21:8)

死んで、甦ってくださったイエスさまは、私たちに語ってくださいます。「第一の死は恐れるに足りない。誰もが通ることだ。人は往々にして、その第一の死を避けるために必死になって財を注ぎ込み、なんとかしてその第一の死を逃れるために信仰を捨ててしまう。でも、本当の死は、第二の死だ。スミルナの異教の世界で、俗的な豊かさの中で、教会のある人々は信仰を捨ててしまった。あるいは迫り来る迫害の嵐の中で、おもわずひるんで教会から離れて行った人もいたに違いない。しかし、今ここに残って苦しみと貧しさを味わいつつも、礼拝をしている教会の人々は、信仰を捨てず、信仰をないがしろにすることなく、わたしにとどまることで勝利を得る。あなたがたは第二の死によってそこなわれることはない」。これが、本当の豊かさです。イエスさまが与える真の豊かさは、第二の死によって損なわれることがない、永遠のいのちです。

歴史の初めであり、終わりであり、すべてのことを収めておられる主、その主は人の苦しみ、肉体が引き裂かれる痛みを味わわれた主です。そして、その主は、死を打ち破られ、私たちを第2の死から、奇跡的にそこなわれないように保つことができるお方です。このイエスさまに知られていることこそ、真の豊かさです。

3 )であるが故に、「死に至るまで忠実でありなさい」(黙2:10)
10節をもう一度ご一緒に読む。スミルナの教会には、有名なクリスチャン・ポリュカルポスがいました。155年にローマ帝国によって殉教します。スミルナの教会の監督(旬牧師) でしたが、彼については、「ポリュカルポス殉教」の記録が残っています。その中で有名な言葉があります。

「私は86年間キリストに仕えました」。彼は、この言葉で、殉教の時民衆が扇動されて叫びを上げて彼を糾弾する中、淡々と弁明を始めていきます。「私は86年間キリストに仕えました」。86年、つまり生まれたときからということでしょう。すると逆算すれば、彼は紀元70年頃にスミルナに生まれました。となれば、黙示録が記されたのが紀元95年頃と考えますと、ポリュカルポスは25歳ぐらいになっていますから、もしかしたらすでにスミルナの牧師であったかもしれません。

あらためて、8節の言葉を見てください。「スミルナにある教会の御使いに書き送れ」。この「御使いに書き送れ」という言葉は、7つの教会すべてに出てきますが、御使いは、ギリシャ語ではアンゲロス、(英語ではエンジェルス)遣わされた者です。天使を意味することもあれば、メッセンジャー(伝令者)を意味することもあれば、また牧師や監督は神から遣わされた者と呼ばれています。私はその意味で、スミルナにある教会の御使いに、というのは牧師に書き送れ、と単純に理解しています。

だとすれば、ポリュカルポスの可能性もあるのです。だとすれば、25歳ぐらいでこの言葉を読んで、そして最後、86歳で殉教するとき、いや、そこに至るまで何度もこの言葉を思い出したことでしょう。「見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは10日の間苦しみを受ける。しかし、死に至るまで忠実でありなさい。」という言葉を聴き、その残りの生涯、ずっとそのことばに生かされ、生きているときはもちろん、死ぬときも信仰に忠実に、まさにその言葉を生き抜いたポリュカルポス。「私は86年間キリストに仕えました」と言うのは、どんなことがあっても、信仰を捨てずにキリストに仕え、そして死に至るまで死に際しても忠実でありたいという思いを、この手紙の中から私たちは汲み取ることが出来ます。

私はこの言葉に来ると、松本興四郎兄を思い出します。相模原から毎週礼拝に来て、しかし、人前で証しをしたり、祈ったり、讃美を大声で歌うというそういう方ではありませんでした。とっても言葉数の少ない人で、私は牧師でありながら、会話したことがほとんどないです。最初はかかとにできたガン、最後は肝臓ガン、そして闘病の中で、いつも松本兄の心にあった御言葉が、「死に至るまで忠実でありなさい」でした。痛みと闘いながら、骨と皮だけになって67歳の生涯を閉じました。その闘病期間、彼を支えたみことばが「死に至るまで忠実であれ」でありました。

イエスさまは、ポリュカルポスにも、スミルナのクリスチャンにも、松本興四郎兄にも、そして小さな高津教会のクリスチャンにも同じようにおっしゃってくださいます。「わたしはあなたの痛み、苦しみ、貧しさを知っている。人口比わずか1%のこ日本にあって、クリスチャンであることの大変さを私が知らないと思うな。わたしはよく知っている。抗がん剤を打たれて、体中からエネルギーが奪われて、もうへたり込んで、そのまま息絶えてしまった方がよほど楽だと思っているような、その苦しみも知っているし、投獄され、獄中でただひとり拷問を受けて死んでいく、その苦しみと貧しさもよく知っている。しかし、覚えておきなさい。あなたは豊かな者だ。わたしにつながっている限り、あなたは富んでいる。あなたは第一の死を通り、第二の死によってもその豊かないのちは決して損なわれることはない。死に至るまでわたしに忠実でありなさい。」といわれるイエスさま、まさに私たちに豊かないのちを与えてくださることであります。

☆終わりのお祈り
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。---しかしあなたは実際は富んでいる。---」(黙2:9)

恵み深い天の父なる神さま、スミルナの教会がどれほど小さかったか、想像するのも難しくありません。ローマ帝国の皇帝礼拝の異教の神殿が数多く建ちならんでいる中で、教会が隅へ隅へと追い詰められ、やがて弾圧されて行くさまを、私たちは容易に思い浮かべることが出来ます。

しかし彼らが、死んでよみがえり、また歴史のアルファでありオメガであるイエスさま、あなたに繋がっている限り、実際は豊かだ、実際はいのちあふれるものだと、イエスさま、あなたから賞賛のことばを戴いているそのことばを、私たちにもかけてください。そのために、私たちも死に至るまであなたに忠実でありますように。

私たちにも、死に至るまで忠実であった多くの信仰の先輩たちがいます。それらの方々が私たちの家族の中にもいます。信仰の尊さを思い出し、それに倣ってさまざまな苦難や試練を乗り越えていくことが出来るよう、私たちにも力を注いでください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2011.03.26 - 21:59
LAST UPDATE: 2011.04.03 - 17:06

219.45.134.199 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 6.1; Trident/4.0; YTB730; GTB6.6; SLCC2; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 3.5.30729; .NET CLR 3.0.30729; Media Center PC 6.0; .NET4.0C)

Name   E-Mail   Password

 前文 6/21 ギデオン聖日、柴川林也理事によるお...
 次文 6/7説教「エペソ:初めの愛を取り戻す」黙...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
214Simple view *^^*6/28 説教「敵に勝つ教会には白い石を」黙... T・Y 2011.03.26 1132
213Simple view *^^*6/21 ギデオン聖日、柴川林也理事によるお... T・Y 2011.03.26 4462
212現在参照中の文章です...6/14 説教「スミルナの教会への手紙」黙示... T・Y 2011.03.26 6068
211Simple view *^^*6/7説教「エペソ:初めの愛を取り戻す」黙... T・Y 2011.03.26 4569
210Simple view *^^*5/31 ペンテコステの説教「いのちの息よ...   T・Y  2011.03.26 6462
209Simple view *^^*5/17説教「それぞれの人生を主と共に」ヨハ... T・Y 2011.03.26 4015
208Simple view *^^*5/10 母の日説教「主は小さな家族を顧みて... [5] T・Y 2011.03.26 7993
207Simple view *^^*5/3説教「わたしを愛するか?」ヨハネ21:1... [1] T・Y 2011.03.26 5355
206Simple view *^^*4/26説教「イエスは岸辺に立たれた」ヨハネ... [1] T・Y 2011.03.26 3487
205Simple view *^^*4/19説教「信じる者になりなさい」ヨハネ2... [1] T・Y 2011.03.26 4049
204Simple view *^^*4/12イースターの説教「なぜ泣いているの... T・Y 2011.03.26 3292
203Simple view *^^*4/5説教 「園をきよめるイエス」ヨハネ18:... [2731] T・Y 2011.03.26 16905
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
本頁が先頭ページです前へ戻る 11  12  13  14  15  16  17  18  19  20 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*