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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/28 説教「敵に勝つ教会には白い石を」黙示録2:12-17
☆初めのお祈り
私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。
(この日の交読詩篇77篇より、11−12節)

恵み深い天の父なる神さま、時に私たちは自分の失敗を思い返し、過去のさまざまな出来事に関わり、それらに心を思い巡らすことによっていつの間にか、後ろを向いて前に踏み出すことのできない弱い者です。

この詩篇の作者は、そうだ、思い出すのであれば、昔からあなたがなさって来られた奇しいわざを思い巡らし、あなたが私の人生にくださったありとあらゆる祝福を思い巡らそうと、思い巡らす対象を変えることによって、勇気を得、前に進んでいく姿を見ることが出来ます。私たちは読みながら、今朝の自分の心をたましいをあなたに向けています。

正面の十字架は、あなたが私を愛するがあまりに、ご自身を空しくし、捨てて、そのいのちを注ぎだしてくださった結果であり、私たちが賛美するこの礼拝が、あなたがわたしたちに永遠のいのちを与えてくださる証しであり、復活のしるしです。それらは2000年前の出来事かもしれませんが、その恵みが、これまでの私たちの人生のさまざまな試練の中でも働いて、私たちを生かし強めて来たことを私たちはよく知っているにもかかわらず、新しい試練に捕われますと、いつの間にかそれらを忘れてしまう弱い信仰をあなたが強めてください。今日も変わらずに、そして世の終わりまでも、あなたは私の所にいてくださることをしっかりと捉えることができますように導いてください。

今日初めて来られたおひとりおひとりにあなたの恵みが豊かにありますように。
急に湿気が強くなり、暑い日が2日続きました。どうか私たちの健康をお守りください。愛するイエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

☆説教
今朝は黙示録の三番目、ペルガモの教会を学びます。黙示録はなかなか難解な書物ですが、一番接し易いのは、この7つの教会への手紙です。7つと言うのは、聖書において完全数といわれます。完全数というのは、その7つの事柄をもって、およそすべてのことを網羅することができる、統括することができるという意味です。それで、この7つの教会どれをとっても、高津教会や私たちの信仰にあてはまります。
学びでありますので、一つ一つじっくり見て参りますが、私は最後に一番重要なことを申しますので、しばらく辛抱して聖書を開いてお付き合いいただきたいと思います。
黙2:12節を読む。教会の御使いに書き送れとありますが、“御使い”は“天の”がありませんので、神のメッセンジャーと理解され、ここでは牧師に書き送れという意味です。

1)13節にイエスさまがおっしゃいます。「わたしはあなたの住んでいる所を知っている」。
今のトルコに位置していたペルガモは、標高3 0 0 メートルほどの丘の上に建てられた、要塞のような都市でした。一番最初に見たエペソの教会はアルテミスという女神で栄えた、アルテミス神殿中心の東西の交通の要所にありました。ペルガモもギリシャ文明の中心地でした。ギリシャ文明の都市に特有な、円形のすり鉢状の競技場があります。神殿だけでも、数カ所発掘されています。ギリシャの神々の中の神、ゼウスの神殿、バッカスという酒飲みの神にささげられた劇場。特にペルガモで有名なのは、アスクレピオスという蛇を象徴とした神の神殿です。おそらく、それ故に13節、この町には「サタンの王座がある」と言われているのでしょう。

イエス・キリストにサタンの王座と指定されている地域はありません。同じように、この町にはサタンの王座があるというような町は存在しておりません。どの町でも、サタンは王座を占めることはできます。その意味で、創世記で蛇の姿をとって現れたサタンの、蛇の神殿があるという意味で、サタンの王座があると言われているのだろうと思いますが、しかし、このペルガモと言う町は教会には厳しい町でありました。

この異教文明の都市の片隅に、教会がありました。遺跡からは教会らしき建物はありません。おそらく小さな存在として、町の片隅にあったのでしょう。12 節にありますように「教会の御使い」「教会の牧師」がそこにいて、数十人の信徒が十字架を持って、日曜日ごとに集まって祈りを捧げ、福音の教えに耳を傾け、聖餐に与っていたのです。

異教の町の教会に迫害の波が押し寄せました。(13節)そこで、アンティパスという恐らく牧師でしょうが、クリスチャンが殉教します。恐らく信徒が遺体を引き取りに行ったでしょう。殉教の前に尋問があり、信仰を捨てろとの拷問があり、しかしどんなことがあっても、13 節の最後「わたしに対する信仰を捨てなかった」とイエスさまがおっしゃってくださいます。教会の人々はどれほど怯えたことでしょうか。どれほど大きな試練だったか、それでも信仰を守り通したと評価されています。このお話を最後にまたするので、よく心に留めておいて欲しいとおっしゃり、次のポイントへ進まれる先生でした。

2 ) イエスさまは、ペルガモ教会の人々が信仰を捨てなかったことを高く評価された上で、一つ問題点をあげます。14−15節を読む。
14節「あなたには、少しばかり避難すべき事がある」。そうして指摘されているのは、14節ではバラムの教えに奉じている人々がいるということ、そして15節では、ニコライ派の教えを奉じている人々がいるということです。どういうことでしょうか?

バラムは、旧約聖書の民数記22 章に出てくる預言者です。その預言者バラムに対して、バラクという近隣のモアブの国の王様が、自分の国に侵攻してくるイスラエルの民のことを呪って欲しいと要請します。バラムは、自国イスラエルに祝福を語りながら、敵国からの物流作戦によってその誘惑に負けて、モアブの王バラクに入れ知恵をします。バラク王に、モアブの美しい娘たちをイスラエルに差し向けるように、入れ知恵をします。イスラエルは、異教の娘に誘われて、気がついたら異教の神々を拝んで、不道徳な道を歩んでいました。イスラエルの人々は、純粋に神に仕えているつもりで、知らない間に他の要素がいくらでも入って来て、それに慣れていってしまった。迫害に対してはいのちをかけて守るほどの信仰がありました。でも、極々一般的なこと、世の中的なことが入って行った時に、簡単に足をすくわれて行ったのです。

ニコライ派のことはよくわかりませんが、ここで、彼らの生き方がバラムと同じだと非難されているのです。当時のペルガモというギリシャ文明の世界にあって、キリスト教は少数派、マイノリティーでした。いつのまにか、キリスト教徒でありながら、ゼウス神殿に詣でてもいいんじゃないか? そればかりではありません。蛇を象徴したアスクレピオスの神の礼拝、ローマ皇帝を礼拝することも、断れば村八分にされかねません。そのあたり、上手に妥協していくのがニコライ派の人々でした。

ここで先生は日本のクリスチャンが人口比1%のこと(しかし、礼拝に集う人はもっと少ない事実)を、アメリカに行って「宗教は何か」と聞かれたら、アメリカ人の80%の人がキリスト教と答えることを、韓国人は2割が礼拝に行くとか、世界の人口の三分の一はクリスチャンなのに、それに比較して日本のクリスチャンが人口の100分の1しかいない、「少ない」という形容詞を超えた現実を思い起こし、心から嘆き訴えておられるようでした。

また、ご自身の中学生の頃、ある日学校に行くと、教室の自分の机の上に高津教会の特伝のチラシが置いてあって、あまりいい気持ちがしなかったことや、高校生の頃、駅前でチラシ配布をしていた時のこと、何にも関係のないおばあさんが先生の所につかつかっと寄ってきて、「そんなものを信じてろくなことはないでしょう。」と言われた話をなさいました。それは結構今ならではの笑える話でした。今なら「おばあさん、あなたにそんなことを言われる筋合いはありませんよ。」と言えますが、まだその時は高校生ですから、唖然とするばかりだったとか。本当に教会の牧師の家庭ならではのご苦労があり、この世の人の考え方、やり方に傷ついたり、心の痛みを感じられることが何度もあったに違いないとお察ししました。

やがて牧師となられた先生は、牧師の世界と言うのは、自分が付き合っている人はおおよそが牧師であり、会議ひとつするにもお祈りから始まるようなところで、キリスト教的な価値観に一日中浸かっていられるが、信徒は社会において、家庭において、学校において、相手はおおよそキリスト教には無縁の人ばかり、全くキリスト教的でないところで生活をするので、今度はその立場は全く逆であり、とても信仰を保つのは信徒の方が難しいのだと同情を示されたのには、この発言こそが私たちの尊敬する藤本先生だと思いました。

ペルガモ教会は、ペルガモ社会から締め出される恐怖にあったと言えるでしょう。そして、その恐怖に屈して、世の中と妥協することをよしとした人々です。それがバラムであり、ニコライ派です。

新約聖書で一番使われている、クリスチャンに付けられる形容詞はハギオスです。「聖」という意味で聖書や聖徒の「聖」です。そもそもの意味は、分離している、異なっている、です。神殿がハギオスなのは、他の建物と違うからです。聖日がハギオスなのは、他の曜日と違うからです。クリスチャンがハギオスであるとしたら、第一に、世の中とは違う基準で生きているからです。わたしを愛し、わたしのために命を捨ててくださった(ガラテヤ2:20)イエス・キリストの愛に応えて生きるのが私たちだから私たちがハギオスなのです。

バラムもニコライ派も、その特別な部分を世の中の水で薄めていって、平気な人々です。ペルガモという異教の都会特有のプレッシャーに負けていたのかもしれません。しかし、塩気を失った塩(マタイ5:13、マルコ9:50)には、意味はないでしょう。

バークレーという聖書学者がこの箇所を注解しながら、ストレートに言っていると先生から教えていただいたことば、「世の中と異なった人になりたくなければクリスチャンにならない方がよい」が、とてもT・Yの心に迫りました。世の中と妥協しやすい私でありますから、これからもことある毎に、自分を励ますことばであって欲しいと心の中で祈りました。

3 ) イエスさまが、戦ってくださる。
黙2:12を読む。後半部分に、この方は珍しく「鋭い、両刃の剣を持つ方」(1:16にも)だと言われています。その方は、2:16で「悔い改めないなら、口の剣を持ってゆく」とおっしゃいます。キリストが口に剣をくわえている絵も、あります。しかし、ここで言われているのは、ヘブル4:12で言われているみことばの剣でしょう。ヘブル4:12を読む。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」。

キリストのことばは、偽りを、誤った教えや考え方を、みごとに切り取る力があります。世の中に妥協して、それでよしとしてしまう教えや真理に従うことができない自分を発見する、摘発する力があります。
キリストのことばは、偽りやごまかしを暴く力があります。時にこの世のものと混ぜこぜになったものを、きちんと分けるとしたら、聖書のみことば以外にはないと、先生はおっしゃいました。

ここですばらしいのはと前置きされて、黙2:16を読み、キリストがその真理の剣を持って戦うとおっしゃる相手は「彼ら」だということに感動しておられました。イエスさまは、ペルガモの教会と戦うとはおっしゃいませんでした。あなたがたと戦うではなく、彼らと戦う、です。キリストが戦うのは教会ではなく、教会を惑わし欺きつまずかせたバラムのような者です。惑わされ犠牲になった人々ではありません。そうして、教会はキリストによって守られてきたのです。T・Yには、イエスさまって心底私たちを愛してくださっているのだなぁと、「目に入れても痛くないほど」と言いますが、我が子を可愛がる親のような、そんな表現がぴったりかと、憐れみ深いイエスさまに感謝の思いがあふれました。

外の敵に対しては、信仰を捨てることなく、忠実であった。内なる惑わしに弱くても、主は真理のみことばをもって戦ってくださる。そのようにして最後まで保たれるクリスチャンに、イエスさまは白い石を与えようと17 節にあります。17節を読む。当時この地方では、自分の守護神の名前の入った、白い小石をお守りとしていたそうなのです。もしそれにかけて言われたとしたら、白い石にはイエスさまの名前が記されているのでしょうか?いや、新しい名前とありますから、私たちが天国でいただく名前が記されているのでしょうか?どちらでも良いと思います。私たち自身がこの白い小石になると良いと思います。白い小石になるためには、黒い罪をそぎ落とされて、様々な試練を通して丸く磨かれる必要があります。そこにイエスさまの名前が刻まれていたら、パウロが言うように十字架が刻印されて(ガラテヤ6:17、Uコリント4:10)いたとするならば、そんなにすばらしい証しはないと思います。そのためには、ペルガモのプレッシャーを乗り越えていく必要があったのです。

さて、話をまとめます。ペルガモの教会、それは社会から締め出される恐怖におびえた教会でした。アンテパスは迫害によって死にました。ニコライ派は、社会の鋭い視線を感じて、信仰を世的な考え方で薄めてしまった人たちです。しかし、そこにはキリストに守られ、生き抜いていくペルガモの教会の人々がいました。確かにいました。そして、それらの人々に主がおっしゃったのです。

その言葉を持って、説教の終わりの部分に入られました。それが13節「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている」です。牧師は皆さんの住んでいる所を知らない。学校で、社会で、親族の中でどんな戦いがあるのかがわからない。でもイエスさまはあなたが住んでいる所を知っていると、あなたが受けているプレシャー・恐れを知っているとおっしゃいます。先生はこれが最大の慰めですとおっしゃり、最後のお話の引用を始められました。

戦時中の日本では教会、特にホーリネス教会に対する宗教迫害がありました。ホーリネス教会は再臨信仰を大事します。再臨信仰とは「キリストが再び来られて神の国が完成することを待望」する信仰です。神の国が完成し、神が直接治められるのですから、そこには人間の王、例えば天皇は不要です。

この思想が戦前の日本の国体(天皇制国家)を否定するものとして弾圧の対象になりました。蔦田二雄先生も東京拘置所にとらえられ、生き延びて、戦後インマヌエル綜合伝道団を創設されます。青森のホーリネス教会の( 日本基督教団弘前住吉教会)の牧師、辻啓蔵先生はその一人でした。辻先生の奥様は、中田重治先生の娘さんです。生粋のホーリネス人でありますし、気骨のある先生でありました。

辻先生は、1942 年6 月26 日に治安維持法違反で捕らえられ、教会は解散を命令されます。教会が解散させられると、それまで涙を流して祈っていた信徒たちはどこへともなく散って行ったそうです。辻一家に近寄る者はなく、一家は生計の道を絶たれました。5人の子供を抱えて啓蔵先生の奥様は、途方に暮れます。長男の辻宣道君( 後に日本基督教団の総会議長を務めます) はカボチャを分けて貰うため、元教会員の農家を訪ねます。でも、門前払いをされました。「お宅に分けてやるカボチャはない」。その言葉に愕然とします。

ほんの少し前まで真っ先に証しを語り、信徒全体から尊敬を集めていた熱心な教会役員の言葉でした。一家は軍の残飯を分けて貰うため街路に並びます。家族5人は軍の残飯で生き延びたのです。辻啓蔵牧師は2 年半の収監の後、1945 年1 月18 日、青森刑務所で獄死されました。お母さまと宣道くんは遺体を引き取りに行きます。啓蔵先生の長男、後に、日本基督教団の総会議長となりました辻宣道先生は、その時キリスト教とは一生縁を切ろうと思ったそうです。「神様が生きておられるならば、牧師が刑務所で死ぬことを何故黙って見ておられるのか」その疑問が解けなかったからです。

しかしその後、神の恵みによりこの少年は牧師になります。この先生の教会形成のモットーは、何だと思います?「生涯信仰を捨てない人をつくる」ことでした。藤本先生はこの先生を偉い先生だと、この先生を大変尊敬しているとおっしゃいました。でも、背後にあるイエスさまの憐れみに感謝しますとも。それは、どんな憐れみか?「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている」とおっしゃる恵みです。

イエスさまは、国体になびいて、恐怖に負けた日本と日本の教会をよく知っておられた、それに対してイエスを否まず殉教した辻啓蔵先生の信仰も、それに耐えた家族の苦労も全部知っておられた。この先生の家族は、試練を通して白い石のようにぴかぴかに磨かれ、そこにはイエスさまの名前が刻印された。そしてできあがった教会形成のモットーは、「生涯信仰を捨てない人をつくる」でした。

このあたりは聞いていてもう、先生の感動が伝わってきて、いわゆる戦時中の牧師とその家族の試練というものが想像できて、涙が出て止まらずペンが止まったままでした。この先生が一度捨てかかった信仰を捨てずに、牧師として今活躍されていることも、教会形成のモットーと掲げられた事柄も、その大変な試練から生まれた賜物だと思います。こうしてお父様牧師の殉教の死はイエスさまに覚えられ、恵みの内に周囲の者に生かされていくのだという証しに思えて感謝でした。

それが高津教会でもある。そういう牧師によって、勝間田先生から始まって脈々とこの教会がそういう教会形成をして来たのです。皆さんがいろんな日々、イエスさまを仰ぎ、社会から締め出されるようなことがあったとしても、イエスさまはそういう環境をよく知っておられる。そして私たちが信仰を生涯捨てることがないように、イエスさまが守ってくださることを、心に留めて欲しいと思いますと、嘆願されたような先生の結びのおことばでした。

☆最後のお祈り
恵み深い天の父なる神さま、戦中の迫害に比べたら、私たちは実にのんびり生きていて、いつの間にか、ニコライ派の人のように、信仰の純粋さを失うようなことの中にいるかもしれません。その時、みことばを以って私たちを正し、私たちの中から偽りの部分を切り捨ててください。そして、「どんな試練に遭っても私は生涯信仰を守り通しました。」と白い小石のように丸くなり、輝き純粋になり、「私のたましいにはしっかりとあなたの名前が刻印されています。」と言えるように私たちを助けてください。イエス・キリストの聖名によってお祈りします。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 22:01
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