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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/19説教「白い衣を着て主と共に歩む」黙示録3:1-6
☆説教
黙示録の7つの教会をテーマに、5番目のサルデスの教会を学びます。シリーズの最初に申しましたように、7つの教会というのは、7は完全数であり、その数字を持って物事の全体を描くという意味があります。具体的にこの7つの教会は小アジア(今のトルコ)にあり、それぞれの歴史と地域色がありました。7つを以って教会の抱える全体像を描いています。ということは、どのひとつをとっても、高津教会にあるいは今のどこかの教会にそのまま当てはまります。

サルデスは毛織物の染物で知られた商業の町でありました。毛織物で知られた町ということは、当時の世界を考えてみれば、都会的な町であり、裕福な町と理解して結構です。他の町に建てられた教会、これまでにエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラと学んできましたが、スミルナとペルガモの教会は迫害を経験して来ました。それがローマ帝国からの激しい迫害もあれば、異教徒とのせめぎあいや偶像礼拝の問題も絡んで、日本社会と同じように、社会の隅っこに教会が追いやられています。仕事や、仕事の付き合いを優先している内に、いつの間にか教会から離れていき、キリスト教の真理を忘れて、仕事に埋もれていくというのは、先週見ました。あるいはスミルナとペルガモの教会は激しい迫害を受けていました。また、テアテラの教会は外からの迫害の問題ではなくて、内側からの異端の問題、キリスト教の真理を異端の水で薄めて平気で生きていく教会の姿がありました。

その意味で今日見て行きますサルデスの教会は、外からの迫害も内側からの異端の問題もないのです。その意味で、教会は安定していました。ところが、この教会には実は一番厳しいことばが言われています。1節をご覧ください。(黙示録3:1を読む)。教会の御使いに書き送れというのは、教会の牧師にという意味です。

1 ) 1 節「生きているとされているが、実は死んでいる」
『死んだ魚のような目』という表現がありますが、そういう意味ではない。生気がない、エネルギーがない、内側からの躍動感がない、そういう意味ではない。

新共同訳聖書では、「生きているとは名ばかりで実は死んでいる」。これもいい訳ですが、そのままでは理解できない。どうしていい訳かと申しますと、名ばかりの“名”ということばを使っているから。実はギリシャ語の原文に“名”という言葉が出ております。原文に忠実に訳しますと、「あなたは生きている(生きている者)という名前を持っている。だが実は死んでいる。生きていない。」ということです。私は、この方が意味が伝わってくるように思います。

あなたは生きる者という名前を持っているということは、つまりあなたはキリスト者だという意味です。キリストの十字架を信じ、本来死ぬべき者であった私たちが、キリストの十字架によって死の世界からいのちの世界に贖われる(代価を払って買い取られる意味)。そのようにして、神の御前に死んでいた者が、神の御前に生きるものとされ、キリストの身体である教会の一部として繋がるようになった、神の家族としてやがて天国を相続する者とされたのに、あなたは死んでいるとはどういうことなのか?

生きる者とされたということの一番象徴的なのは、洗礼です。洗礼にはさまざまな方法がありますが、日本で一番一般的なのは滴礼(てきれい)と言って、頭の上から水を濡らします。しかし聖書の世界では、浸礼(しんれい)と言って、水の中にどっぷりと浸けてしまうことを言います。先生はアメリカの神学校でしたので、その頃牧会学の授業で、この浸礼をプールで学んだそうです。洗礼を授けるために頭の後ろに手を置いて、本人が鼻をつまみ、そのつまんだ手の上に自分の手を載せて本人を倒すのだそうですが、その時、「父と子と聖霊の名によって、あなたにバプテスマを授けます。」と言った瞬間に、牧師も一緒に水の中に倒れたらアウトで大変なことになるそうで、そのお話には皆笑ってしまいました。―――T・Yは全くのカナヅチなので、もしこのような場合、タイミングが悪いか何かで、支えきれずに牧師さまも倒れられたら、本当にあの世に葬られそうになりかねないし怖いと思いました。洗礼にこのようないのちがけの心構えが必要だとは・・・でも、誰でも考えてみれば、洗礼の時、本当に罪に汚れたこの身体は消してしまいたいと思うぐらいでしょうから、よく病や試練に遭った人が「あの時に死んだつもりで生まれ変わって一生懸命生きる」というような話が世間にもありますが、古い自分の罪に死んで、神に新しく与えられたいのちに生きるということが、体験的に実感されるかもしれないと思いました。

このことはロマ書の6章に書いてあります。『あなたはキリストとともに十字架につけられ葬られた。』水に浸けるという行為は、キリストとともに、その罪の身体が死んで一旦葬られることだと。そしてそこから上がってきた時に、あなたはキリストの十字架のみならず、復活ともひとつとなって今度は生きる者とされる。神の前に生きる者とされて、あなたはこの世界によみがえる、これが洗礼なのです。

教会には原簿という一番大切な文書が保管されています。教会規則というのも宗教法人のためには大切でしょう。しかし一番大切なものは、原簿。それはこの教会では、61年間に授けられた洗礼者の名前が記載されているいのちの書です。聖書の中に『いのちの書にあなたの名前が書き記された』とあります。(注***黙示録では、13:8、17:8、20:15、21:27、その他、詩篇69:28、イザヤ4:3、ピリピ4:3に見つけることができました)。

このいのちの書は当然天国にあるいのちの書なのです。しかし、教会の中にこのいのちの書がなければいけない。このいのちの書に名前が書き記されているということがどれほど意味があるか。会員になったとか、会員を止めるとかいう問題ではない。洗礼というのは、入会儀式を受けることではなく、いのちの書に自分の名前が書き記されるかどうか、その洗礼を受けた者を、黙示録は、生きている者、生ける者、神の前に生ける者という名前を受けた者というのです。

私たちはこの黙示録の7つの教会を学んでいますが、今年プロテスタント宣教開始150年、横浜開港150年でそれを祝っている年なので、それに合わせて黙示録の7つの教会、そして折りに触れて、教会の歴史や教会の問題をお話しています。日本の教会の最大の問題はどこにあるか?

先生はここで、韓国のプロテスタント教会は日本より歴史は浅いが人口の25〜35%がクリスチャンであり、アメリカより力強い事実を話されました。インドの神学校の理事をなさって、何回かインドにいらしている先生がおっしゃるには、今アメリカ人の手により建てられた神学校は瀕死の重症だそうです。インマヌエルからのわずかの寄付金で支えられているのですが、インドの神学生は貧しいので授業料をどんなに集めても、その経営の全部をまかなうことができないらしいです。その神学校の周辺に毎年のように新しい神学校ができて伸びている。誰が建てているかと言うと韓国の教会。アフリカでもアジアでも韓国の宣教師ほど力を持っている者はいない。なぜか?

6月のある日、日本のある神学校の学位認定の審査にインドの先生と、韓国の先生と、藤本先生とが三人で出かけて行かれた時のお話です。韓国の先生とは藤本先生は同世代だそうですが、聞くだけで嫌になるほど相手が祝福されているという話に、我々も面白おかしく聞いていたのですが、本当にショッキングな事実を、先生がこの礼拝説教においても、訴えられていることがわかりました。

神学生は1800人、建物は5つ、そこから早天祈祷会を守るでも大変だし、神学校の入試倍率は5倍だそうです。国全体が祝福されているだけでなく、教会が祝福され、神学生がたくさん輩出され、牧師の数も宣教師の数も並ではない。モンゴルに、中国奥地に、インドに、イスラム圏に、アフリカに、どこに行っても韓国人の宣教師がいる。あれほど韓国の教会が伸び、なぜ日本の教会が伸びないのか?両方に特殊な理由がある。両者が両極端なのです。あれほど伸びた国もないし、これほど伸びない国もないとのおことばに、藤本先生と一緒に苦笑するしかない私たちでした。

日本の教会の伸びない最大の問題は何だと思います?と聞かれた先生でした。洗礼とは、天国の戸籍がここで登録されたという意味です。おそらく、もっとも大きな問題は、洗礼を受けてせっかく「生きている者」という名を受けながら、教会から離れていく人たちが多いことです。洗礼者はそれほど少ないわけではないのです。おそらく、これが日本の教会、あるいはキリスト教感覚の最大の問題点でしょう。

イスラム圏では、もし家族がイスラム教徒であれば勘当ものです。2度と家族に会うことは赦されていない。そういう人物が洗礼を受けたならば、途中でキリスト教止めましたと言うか?言わない。一生キリスト者です。インドでミッションスクールに行って、その感化を受けて洗礼を受けたならば、途中でヒンズー教に戻るか?先ず、戻ることはないです。なぜならキリスト教を選択すると言うことは、自分の死に方を選択することであり、生き方を選択することであり、人生の指針を選択することであるからです。

日本では、必ずしもそうではない。苦しいとき、悩んでいるときに教会を訪れる、洗礼を受ける。ところがやがて、神さまの恵みを受けて、順調に行き始めると、病気が治って病院を退院する人のように、教会から離れていく。一言も言わずに退会していく、この日本人の宗教感覚こそ一番問題ではないかと言われています。そういう意味で「『生きる者』という名を持ちながら実は死んでいる」というのは、思わずそういう人のことを心に抱かざるを得ないですが、でもそれだけではありません。

自分がキリストにあって、神の御前に「生きる者」という名をいただいたという事実よりも、目先の幸せ、目先の楽しみの方がよっぽど大切だと言わんばかりに、心がキリストのもとから離れていく私たちにも当てはまるからです。「生きる者」という名前を神さまから受けたことを、たいしたことではないと軽んじて離れていきます。

つまり死んでいるのは教会に来なくなった人だけではないのです。サルデスの教会の人々は、礼拝に来ていたことでしょう。依然としてクリスチャンだったはずです。でも、その名の通りに生きていないのです。サルディス教会には、迫害や異端の問題などがありませんでした。そこは穏やかな場所でした。そういわれますと、サルディス教会のこの状態は、今の日本の教会の状態と似ていると思います。私たちは戦中の迫害に晒されているわけでも、異端の問題に苦しめられているわけでもありません。その面で平穏です。でもどこかに、平穏さにかまけて、死んでいる部分がないだろうかと問われるのです。平和ぼけした教会ということもあるでしょう。キリスト教の真理と、自分の生き方、死に方に至るまで、この「生きる者とされた」と言う霊的な現実を、自分の人生の中心に据えて見ようとしない日本のクリスチャンがいます。

2 ) 2 節「目を覚ましなさい」。
恐らくこれが一番大切なメッセージだと思います。
寝ているとは、どういうことでしょう?皆さん、熟睡しているときに、(目覚ましで?)たたき起こされたことがありますか?何が何だか、わからないでしょう。ここはどこ?あなたはだれ?誰にでも経験があります。何を隠そう、その時間帯自分は深い眠りに入っていたということです。

私が小学生の頃、高津教会の以前の牧師館に泥棒が入りました。これまた大胆不敵な泥棒で、なんと私たち5 人家族が寝ていた部屋を、布団をまたいで歩いて行ったのです。母が気がつき、父が気がつき、私は最後の方でした。何が何だかわかりませんでした。翌日警察に行って、兄弟三人指紋をとって、警察の人が家に来て、指紋をとっていきました。霊的に寝ていることも同じです。

ここで3節をご一緒に読む。「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
福音書でイエスさまがおっしゃっている通りです(マタイ24:42-44)。霊的に寝ている状態だと、迫り来る危険も、自分の罪深さも、いやもっと言えば、3 節の後半、イエスさまが再びやってきて、この世界が終わりを迎えることも、何が何だかわからないのです。

たとえは、ふさわしくないかもしれません。2001年9 月1 1 日、N Y のワールドトレードセンタービルに、2機の旅客機が突っ込むという世界を震撼させたテロがありました。私はその年の終わりに、光楽兄からインターネットからダウンロードされた一枚の写真を見せてもらいました。見た瞬間には何の写真かわからない。一人の人物が高いビルの屋上に立っていました。記念撮影です。にっこり笑ってあたりのビルが小さく見えるほど、彼の立っている屋上は高いのです。ワールドトレードセンターの屋上で笑顔で記念撮影している、普通の旅行者の写真です。そしてにっこり笑っている背後から、ほんの小さく写っている旅客機が高度を落として水平に突っ込んでくる、というショットでした。もちろん彼は気がついていません。おそらく、撮った友人もわからなかったでしょう。

テロがあって、ビルが崩れて、しばらくしてがれきの山からカメラが出てきました。FBI が、被害者の家族の了承を得て、テロリズムの恐ろしさを語るために公表したというのです。たとえは、ふさわしくないでしょう。しかし、まさに目を覚ませということがどういうことか象徴するような写真でした。これが世の終わりに生きる我々の姿かとつくづく考えました。後ろから死の危機がまっすぐに突っ込んできても、私たちにはわからないのです。一瞬にして、一秒にして人の運命は変わります。別に世の終わりだけではありません。人の運命は変わるのです。

それを、イザヤ書(40:6-8)や詩篇(90:6)の作者もイエスさまもおっしゃいました。「私たちは朝には咲いて花を咲かせているが、夕べには枯れてしまう野の草のような」人生、それがあなたの人生だと表現しました。そうすると、私たちが目を覚まさなきゃいけないことはたくさんある。もっと健康に気をつけなければということもあるでしょうし、時には病院に行って検査をしなければということもあるでしょうし、家族のことや遺言のことを考えることもあるでしょう。

しかしそんなこと以上に、目を覚ますというのは、自分が神の御前に「生きる者」とされているという現実をしっかりと捉えるということです。神に目覚め、自分に目覚め、永遠の世界に目覚めることでしょう。毎日の忙しさと、さまざまな人生の課題に眠らされている私たちが、一瞬にして一秒にして、自分の人生が変わった時に、ここはどこ、あなたはだれ、と言わないように、明確にイエスさまを捉えて生きることでしょう。

3 ) キリストの義という衣を汚さずに、今も、天国でも主とともに歩む。
4 節をご一緒に読む。「しかしサルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは、白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」特色があるとすれば、この文章は現在のことか将来のことか分からない。現在と将来の両方です。今も歩んでいる、やがて天の御国でも、そのように歩む、ということです。

なぜ、汚さなかったのでしょうか?彼らは、「生きる者」という名前を神さまからいただいた事実を軽んじなかったのです。クリスチャンとされた恵みを感謝して、その霊的な現実を生き抜いていった者が幾人かいるのです。その者たちは強い者ではないかもしれません。でも、目覚めていました。自分の弱さ、罪深さ、野の草のようなはかない存在であることに、しかしそんな自分を導き、守り、救ってくださるキリストの愛に目覚めていました。クリスチャンであることを誇りとして、「生きる者」の名を大切にして、この世を生き抜いたのです。彼らは白い衣を着て、主と共に歩んだのです。キリストが再び来られて、世が終わるとしても、変わらずに歩むのです。地上に生きていた信仰のまま、天国で歩むようになるのです。彼らにとって、キリストが来られることは何の恐れもない。今も主とともに歩んでいるし、ただ歩む場所が違うだけで、キリストに手を引かれて歩んでいることに何ら違いがないから。

マルチン・ルターの有名な言葉に、こういうのがあります。
「たとえ明日、世界が滅びることを知っていても、わたしは今日リンゴの若木を植える」
いま、ルター全集はC D ロムに収められていますから、検索することができます。でも、この言葉は、実は膨大な全集のどこにもありません。ルターの言葉ではないという人もいます。そうかもしれません、でも、いかにもルターらしいのです。

18 世紀イギリスのウェスレーもそうです。彼の場合は、実際に日記に記されています。1763 年2 月28 日、世の終わりがやってくると預言した牧師がいました。ロンドンは騒然となります。すでに新聞がある時代で、うわさは取り上げられ、教会でひたすら祈りを捧げる者も、寝られぬ夜を過ごす者も、町をうろつく者も、さまざまでした。しかし、その日のウェスレーの日記はわずか三行、こうです。
「今晩、世の終わりが来ると言ってちまたは騒然としている。しかし、私はいつもの時間に床につき、熟睡した」。

ルターにしてもウェスレーにしても、キリストが再びこの世界を裁くためにやってこられ、明日、この世の人生が終わることになったとしても、いつものようにリンゴの若木を植え、いつもの食事をし、いつもの時間に床につき、熟睡してしまう。なぜでしょうか?それは、今日白い衣を着てイエスさまとともに歩いているからです。今日イエスさまとともに、いのちある者という名を受けたことを尊んでいるのなら、明日、この世界が終わったとしても、今度は天国でイエスさまとともに歩いている。この世にあっても、とこしえの世にあっても、まったく同じなのです。目を覚まして、迫り来る危機にあっても、人生を苦しめる課題の中でも、白い衣を着て、主とともに、今日も明日も生きていこうではありませんか?私たちは弱い者です。私たちは罪深い。でも私たちは目を覚まして、主に祈りながら生きて行こうではありませんか?

☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたは私たちがかつてあなたの前に、罪と滅びの中に落ち込んでいたものを、キリストの御腕によって、私たちを滅びの中から救い上げてくださり、天の御国を相続する者としてくださいました。この恵みを心から感謝致します。これこそが、「生きる者」というわたしたちのキリスト者としての名前です。時に、「あなたは実は死んでいる」と言われるほど、私たちはこの世界のことに忙殺されてしまいます。私たちを目覚めさせてください。私たちを生かしてください。そして、いつも自分の心の内に「たとえ明日この世界が滅ぶことになったとしても、何の変わりなく、今日と同じように、主の手に引かれて人生の一大危機を乗り越えて行く」という信仰を、私たちに授けてください。イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。



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