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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/26説教「フィラデルフィアの教会」黙示録3:7-13
☆初めのお祈り
しかし願う道が閉ざされた時は目の前が暗くなりました。どんな時でもあなたの約束を(忠実に)忘れない者としてください。(ひむなる「感謝します」より)*****歌詞にはない(忠実に)を敢えて付け加えられたように思いました。

恵み深い天の父なる神さま、「感謝します」と言う賛美を、私たちは自分の信仰の告白として、自分に言い聞かせるように、自分の心の内にあるさまざまなもやもやとしたものを注ぎだすかのようにあなたの前に賛美致しました。歌い始めた時には、感謝の思いはなかったのかもしれません。でも歌い終わった時には、あなたは私たちの心の内に感謝の思いを満たしてくださったことを信じています。なぜならあなたはすでに、試練の中にも脱出の道を備えてくださるという希望を与えてくださり、すべてのことを相働かせて益としてくださるという力を示してくださいますから。そして何より私たちのすべてに、私たちから離れず、試練の中でもともに歩んでいてくださるあなたを感じることができますように。

今日初めていらっしゃったお一人お一人に、あなたの祝福をお与えください。特に、遠いアメリカの地から二家族の方をお迎えいたしました。こちらであってもあちらであっても、ともに主を礼拝するこの恵みを、有難うございます。のみならず、世界に散っている民皆をお守りださい。宣教師の家族もいれば、留学中の兄弟姉妹もいれば、お仕事でさまざまな所にいらっしゃる方もいますが、どうかそのような方々を、いつもお守りくださらんことを切にお願い致します。

大変厳しい夏がやってまいりました。小さな子どもからご高齢の方々、特に病院においでになる小林兄の上に、あなたが深い癒やしの御手を、その痛む所に伸ばして助けてくださらんことをお願い致します。

しばらくの間、みことばに耳を傾けます。時に難しいと思われるかもしれません。しかしあなたが私たちに柔らかな心を与え、たとえメッセージから離れていても、主のみ声によって何かを語ってくださることでありますよう、そのメッセージを汲み取ることができますよう導いてください。イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

☆説教
ずっとシリーズで黙示録の7つの教会を学んでいます。今日は最後の方、6番目フィラデルフィアの教会。小アジアの7つの教会、どれをとっても高津教会に、日本の教会に、すべての教会に当てはまると言っても良いと思います。そして今年はプロテスタント宣教150年に当たりますので、日本の教会の歴史を考える上で、私たちは黙示録の7つの教会の学びをしています。

アメリカにフィラデルフィアという町があります。これはもともとは聖書の教えでありました。フィルというのは、ギリシャ語で愛、フィリア、フィレオーなどの語源です。それにアデルフォス、兄弟ということばがついて、フィラデルフィア、兄弟愛の町という意味です。この町はサルデスから南東に50キロ。アクタロス2世によって建てられました。歴史文書に寄ると、このアクタロス2世は自分より先に王位に立ちながら、亡くなってしまった兄を大変慕い愛したことでこの町の名前がついたといわれています。

さてこの町の人々についてイエスさまがおっしゃったことに目を留めたいと思います。第一番目に、この教会の人々を苦しめていたのは、どういう状況か。9節を一緒に読む。

1)フィラデルフィアの教会の人たちは、サタンの会衆に属する者、すなわちユダヤ人だと自称しているものからさまざまなことをされて来た。

サタンの会衆というのは、つまりユダヤ教の会堂です。初期のキリスト教会は、地方に散らされて行ったユダヤ人が建てた、ユダヤ教の教会からその伝道の働きが始まりました。イエスさまにしてもパウロにしても、12弟子にしても、彼らは旧約の民でありますから、先ずユダヤ人の会堂で伝道します。

ユダヤ人というのは、BC8世紀にアッシリア帝国によって滅ぼされ、BC6世紀にはバビロニア帝国によって滅ぼされ、民が世界中に散って行きます。このユダヤ人のことをディアスポラの民(散らされた民)と呼びます。彼らはどこに行っても、その土地の文化風習に染まることなく、自分たちの教会堂を建て、律法を守り礼拝を捧げていた、そのような敬虔な人々を軸に、やがてパウロは小アジアを回り、ギリシャを回りながら、一生懸命伝道してキリスト教会を建て上げていきます。

ユダヤ教の人々は、救い主を約束している旧約聖書を信じており、世界を創造した神を信じており、人間の罪深さを信じています。つまりキリスト教が訴えたい基本的なみことばはみんなユダヤ教の人々は信じているのです。その意味で、キリスト教が一番分かる人々でありました。彼らこそが旧約聖書における契約の民です。

フィラデルフィアの町に教会が建てられた時に、救われた人々は、恐らくその町のユダヤ人の会堂から救われていったのでしょう。ところが、キリストを信じてしまった時に、彼らは会堂から締め出されるのです。ユダヤ教といえば旧約聖書の神の民、本来は聖書の神の信仰に生きているはずなのに、いつの間にかキリストを憎んでキリストを十字架につけ、やがて回心前のパウロのように、クリスチャンを片っ端から牢獄につないで拷問し処刑するような人が、ユダヤ教の中にはたくさんいたのです。ですから、サタンの会堂と呼ばれているのは尤もなことで、彼らは本当のユダヤ人ではないので、イエスさまが「彼らはユダヤ人と自称しているがそうではない。」とおっしゃるのはそういう意味です。

フィラデルフィアの教会を悩ましたのは、実はローマ帝国ではなく、偶像崇拝に溢れた世俗の力でもなかった。町の圧力でもなかった。彼らを屈服させていたのは、実は自分がそもそも属するユダヤ教の人々でした。もはやユダヤ教の人々は旧約の民とは言えません。ある意味、サタンに心を売り渡した人です。ユダヤ人と自称しているだけで実際はそうではないという流れの中で、フィラデルフィアの人々はどういう試練に遭っていたか?締め出される試練です。

私たちはクリスチャンであるがゆえに締め出されるということを味わいます。先生はかつて神学生として学んでおられた頃、日本からアメリカのケンタッキーにいらっしゃった時のことを、思い出して語られました。一番大きなギャップは、その小さなウィルマという町ですが、神学生の数が1000人位、住んでる方々が1000人位の町ですが、ほとんどがクリスチャンで日曜日は皆教会へ行く。住民の中で一番多い種類の職業は恐らく退職した教師や宣教師、気がつかないで通り過ぎてしまうぐらい小さな町ですが、どの銀行、どのレストラン、どのスーパーへ行っても、全員クリスチャン。そこで一番苦労するのは、信仰を持っていない学生たちでありました。大学生で親は信仰を持っているけれども、自分はまだ持っていないという大学生は自分の居場所がない。毎日礼拝がある。そしてどこへ行っても礼拝をし神を賛美し、喜びを投げ合って自分は一体どう振舞ったらよいのか、先生が体験していた日本の状況とは全く違うのです。

私たちが日本の家族の中で一番最初に信仰を持ちますと、お前は気がふれたのではないか?食事の前に「天のお父様」というお祈りを聞いて、お前には2人父親がいるのか、そして日曜日礼拝に来ることを隠しながら教会に来られる方もいないわけではないです。家族を初め皆が集まっている中で、自分はこの集会には馴染めないという方もいらっしゃるでしょう。親戚が集まって結婚式をするあるいは葬儀をするという場合に、馴染めないという方もいるはずで、自分が就職した会社がなぜか創価学会だったりして、これはしんどいです。学校にしろ、職場にしろ、集会にしろ、締め出されると言う体験、これを味わっていたのがフィラデルフィアの教会です。

日本のプロテスタント宣教150年の歴史にあって、忘れてはならない内村鑑三不敬事件というのがあります。内村鑑三は明治9年、北海道開拓の技術者を育てるための札幌農学校に入学します。同級生に新渡戸稲造がいます。クラーク博士の影響を受けて、明治11年にアメリカメソジスト教会の宣教師ハリス先生から洗礼を受けて、やがて札幌に初めての教会を建てます。そこから彼はマサチューセッツの名門アマースト大学、コネチカットのハートフォールド神学校に留学して日本に帰ってきます。すぐれたキリスト教教育に触れて、欧米文化を学んできたエリートとして彼は、東洋英和学校で教鞭をとり、そして明治23年に東京大学の前身のひとつでありました、旧制の第一高等学校の嘱託教員となります。

その年、教育勅語が発布されました。翌明治24年の一月にそれを奉読し、皆の前でそれを読み上げて神様に(天皇に)捧げるというのですが、その際、拝礼、最敬礼をするということが宗教性を帯びると判断し、自分が信じているのは聖書の教える唯一まことの神だけで、偶像崇拝を禁じているという判断から、この教育勅語に軽く会釈をする程度にとどめました。しかし教師と生徒の一部から、この行為が皇室に対する不敬事件だと非難続出しました。不敬事件として扱われた新聞数は143、掲載新聞の数は56種類、TVのない時代ですから、いっせいに全国に「内村鑑三の不敬事件」として知られました。

生徒の中には、封筒の中にかみそりの刃を入れ「不敬者、これをもって切腹せよ。」という手紙を送った者もいて、彼は何枚も受け取ったそうです。こうして内村鑑三は学校から締め出されていきます。日清戦争の前の出来事でありました。

どんな思いで去っていくのか?皆さんだったらどういう思いで去っていきますか?一生懸命で看病した奥様は、2年後に亡くなってしまいます。職場からも、社会からも締め出され、どんなに辛い思いをしたか。それを考えますと、フィラデルフィアの教会の人々にイエスさまが語られたことばに大変意味がある。これを知らなかったら、この意味はわかりません。2番目のポイントとして、8節を一緒に読む。

2)わたしは誰も閉じることのない門をあなたの前に開いておく。
一般的に門といえば神の国の門。イエスさまは私たちに対して、「求めよ。さらば与えられん。たたけよ。さらば開かれん。」と言われました。神の国の門をくぐるという表現が旧約聖書にあります。あるいはパウロは使途の働きで、自分が伝道して行くその伝道の可能性を門と表現しました。門が閉じられた時にはその国に伝道が赦されない、門が開かれた時にその国に伝道が赦される、という風に。

しかし、イエスさまのメッセージはそういうことでなく、彼らの門は閉じられた人々でありました。自分がかつて友人として交わっていた世界、自分の伝統が息づいている世界、このユダヤ教という世界から彼らは締め出されている、それはイコール世から締め出され、社会はあなたの前に門を閉じたということでしょう。

7節を見てください。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、(これはイエスさまのこと)彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がいない、その方がこう言われる。」それは一体何か。フィラデルフィアの教会が締め出されて、惨めで苦しい中、彼らにとって開かれたのは何かといえば、「神の祝福の門」だと思いますと、先生は教えてくださいました。

内村先生は、何と一報を知らされた後、奥様を失います。そしてその後に本を出版します。その名前は『基督信徒のなぐさめ』。どういう本かというと、自分の自伝ではなく、この身の不幸の極点に自分をおき、キリスト教の原理を持って、苦しめる人々を慰めようとしている、とその序文に書いています。6つの章があります。(以下の5つの他に不治の病に罹りし時)人はどんな時に締め出されたと感じるのか。

@愛する者の失せし時
先生は昨晩、臼井姉と話されていて、ご主人を亡くして2年だそうですが、なぜ高津に行かないかという本当の理由を聞かされたそうです。久里浜にお住まいですが、近くの教会に行っておられます。臼井姉は何十年も南武線、京急線を使って高津に通われました。ご主人が隣にいないことが一番痛感させられるのが教会で、南武線に乗るともう涙がとまらないのだそうです。姉妹はその内乗り越えて行かれると思いますが、姉妹の気持ちがよくわかります。臼井兄はガンとの闘病の末、この世界から天国に移されたということがまだ現実として思えない。臼井兄が後ろの席に座っておられても何の不思議もない。臼井兄のご家族がまだのぞみさんも月一回ぐらい集まって教会にいらっしゃるのを見て何の不思議もないのです。

A国人に捨てられし時
アマーストを出て、ハートフォールド神学校を出て、そして一高の嘱託教員である、ということはやがて正式な大学教授になるでしょう、そのようなエリートである内村のことを、53種類の新聞が、この人物は天皇を敬わない非国民だと書きたてるわけです。自分はそういう意味ではないとどんなに否んだところで、もうそこにいられない。国民が自分を捨ててしまった。

B基督教会に捨てられし時
これはなかなか難しい表現ですが、マルチン・ルターはカトリック教会から、ジョン・ウェスレーは英国国教会から捨てられます。自分の信仰のあり方というもの、その自由を赦されないがゆえに教会から捨てられるということもある。あるいは教会からあまりいわれのない、礼拝出席なんとか(T・Yによく聞き取れませんでした。)というものを送られて、自分は教会に行きたいんだけれども、教会から受け入れられないという場合もあるに違いない。

C事業に失敗せし時
いろんな所から、今の危機を乗り越えるために過失を取り付けたいと思ってもそれが全然回ってこない。社会から締め出されたようにして、自分は倒産していくという場合もある。

D貧に迫りし時
貧しさの中で閉め出されている者の中で、苦しさ、辛さを内村鑑三ほど知っている者はいない。その中で慰めを語るイエスさまは、だれも閉じることのない門を開けて下さる。どういう門か?それは救いの門です。そればかりでなく、祝福の門であり、慰めの門です。つまりイエスさまは閉じられた門があれば、それを無理やり開ける事もできる。やがて同じようにして、東京大学からは、信仰のゆえに閉ざされた矢内原忠雄という経済学部の教授がいます。彼は戦後東大総長として復帰します。一旦閉じられた門がやがて開けられるという場合もあれば、その門の事は忘れろ、わたしは全く違う門を開けるとおっしゃる場合もある。しかし私たちの最大の慰めはだれも閉じることのない門を、主が必ず開いてくださるということです。

3)内村鑑三先生は強かったのでしょうか?
強靭な信仰と精神の持ち主だったから、あれだけ叩かれても大丈夫だったのか?いえ、大丈夫ではありませんでした。彼は病の床に伏せっていました。なんとか社会に伝道するために奔走しますが、社会はそれを受け付けません。彼は依願退職をします。彼はフィラデルフィア教会の人と同じでありました。それが8節の前半です。これを是非心に留めてお帰りください。8節を読む。

「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」

あなたには少しばかりの力があって、****ギリシャ語はミクロンです。あなたの力は極端に小さい。顕微鏡で見なきゃわからないほど小さい。
あなたの力はミクロンだ。神さまの目から見ると、どんなに頑張ってもミクロンだと。まことに小さいとおっしゃる時に、それは恥ずかしいとかそんな弱い者であってはいけないとはおっしゃっていない。むしろ現実として認めて、あなたの力はミクロンだとおっしゃる。私たちは普段そんなに自分の力が小さいとは思っていない。人に認めてもらいたいとか、何とかこれまでの人生をやって来られたということもあります。しかし、実はミクロンだと分からない現実こそ、私たちの愚かさです。自分はできる。神さま抜きでも結構できるじゃないかと、自分の罪深い傲慢な生き方にあぐらをかくのです。

それと違って、フィラデルフィア教会の人々は、弱さを知っていたのです。内村鑑三も、体験したのです。それゆえにわたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった。イエスさまの救いに入れられたのです。ペテロも十字架を前にして、自分の力がミクロンだと思っていませんでしたから、主に躓きませんとか、たとえ死ぬことになっても従いますとか大言壮語したその晩イエスさまを三度否定しました。イエスさまは「あなたがたの力はミクロンだ。それでよい。所詮人の力はそんなもの。だからこそわたしに祈れ、目を覚まして祈れ。その時、慰め力づける。」とおっしゃいます。

内村鑑三先生は先の「キリスト教徒のなぐさめ」の直前、「この本を、記念碑として神さまに捧げる」と言います。社会から締め出され、自分も病み、奥様も亡くし、その一連の流れの中で、主はここまで私を助けてくださった。私はなおも主のなぐさめによって生かされている。そのように締め出された人たちは日本にたくさんいると言うのです。私はその人物の代表として、小さき者に与えられる、絶対閉じることのできない神の祝福の門があるということを、皆に知っていて欲しいと。私たちもまた、サムエルがイスラエルの民を率いて記念碑を建てたように、私たちの心に刻みたい。(Tサムエル7:12)「エベン・エゼル、ひとことで言うと、主はここまで私を助けてくださった」。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、自分の力はミクロンではない、ミクロンであるはずはない・・・いや実際、あなたの未来の出来事が、こんなに小さい者ですから、信仰も弱く、努力も乏しい、自分の明日さえもわからない、いのちの短い人間です。であるがゆえに、「わたしに依り頼め。」とおっしゃってくださる主の恵みに心から感謝致します。時に締め出されたような辛い感情を持ちますが、「絶対に閉じることのない門を、わたしはあなたの前に開けておいた。」とおっしゃるあなたに信頼して、勇気を失いませんようお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 22:07
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