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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   見ていてくださる神――ハガルの祈り(シリーズ4)
見ていてくださる神――ハガルの祈り 
      創世記16章

                   ●奴隷の女の境遇

 今日は、私たちをハガルの立場において、我が身を省みることから始めたいと思います。物語は、一節の、子どもができないアブラハムの妻サライには、「エジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった」で始まります。エジプト人、そして女奴隷――この重たい現実がハガルの人生の土台にあるのです。
 ハガルは、自分の人生を自分の思いどおりに展開する自由をもっていません。自分の家族もいません。彼女の人生は、主人のサライのもの。サライの言いようにされ、サライの行くところに彼女も行きます。サライの陰となって、サライの下に生きる女性でした。
 そのハガルが、少なくても一人の人間として光を浴びる、状況がやって来たのです。サライは、自分に子どもができないことで、子どもをもうける方法を夫に提案します。「どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」(二節)。
 人生一度だけ光を浴びる場面も、結局は、主人の言いなりになって、主人サライと夫アブラムが幸せをつかむ道具とさせられる。それがエジプト人、女奴隷ハガルです。
 実際に身ごもると、さらにむずかしい状況がハガルを追いつめます。
「彼はハガルのところにはいった。そして彼女は身ごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった」(三節)
 日本では実際には聞きませんが、アメリカやオーストラリアで代理母をなさる方がいらっしゃいます。体外受精させた受精卵を夫婦以外の女性の胎で生まれるまで育ててもらうわけです。代理母の数は一九八〇年代がその数はピークだったと思いますが、今はだいぶん減りました。アメリカで大きな裁判があったのです。代理母の契約をした女性が、一〇ヶ月お腹の中で赤ちゃんを育てているうちに、本当にこれは自分の子どもだと思うようになってしまったのです。母性愛の力でしょう。そして、出産した子どもを、当初の契約通りに夫婦に渡さず、自分の親権を主張しました。なんと契約書の国アメリカで、裁判に勝ったのは代理母でした。それだけ、自分の胎で子どもを成長していくときに、母親としての思いが強くなるのでしょう。
 ハガルの状況も似ていると思うのです。サライは「彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」と言っているように、あくまでその子どもは自分のものになると思っていたに違いありません。奴隷のハガルもそのような認識に立っていたのです。しかし、妊娠しているうちに、その子供が自分の子供だ、サライの子供ではないことを実感し始めたのです。やがて、子どものできない、女主人を見下すようになりました。

                    ●気の毒な立場

 状況が思ったように展開しないサライは、夫に文句を言います。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです」(五節)。それを受けて、アブラハムは、「おまえの奴隷なんだから、おまえの自由にしろ」というような応答をします。要は、責任のなすり合いなのです。サライは「あなたのせいだ」と言いますし、アブラハムは「もともとおまえの計画じゃないか」と口論をしています。要は、誰もハガルのことを気にかけてはくれないのです。
 はじめから、わかっていたようなことかも知れません。何かまずいことが起こったら、最終的に損をするのは、やはりハガルなのです。アブラハムが、ハガルの味方をすることはあり得ないのです。陰湿ないじめが始まり、最終的には、ハガルは耐えきれず逃亡し、荒野を放浪します。はじめから、わかっていたことなのです。ハガルはそういう気の毒な立場の人間なのです。
 私たちにもハガルの気持ちが分かります。なぜなら、私たちは奴隷ではありませんが、立場上、最終的に誰が損をするのか、というのははじめから決まっているようなことを体験するからです。ただ、自分は気の毒な立場にあると、飲み込まざるを得ない境遇があるのです。
 そんなハガルを、神は放っておかれるのでしょうか。神はアブラハムに祝福を与えると約束され、彼はアブラハムとは違うエジプト人で、当時の感覚から言えば、底辺の奴隷です。神は、主人のもとを逃げて、放浪するハガルを追いかけ、彼女が疲れて荒野の泉のほとりにいるのを見つけ、そこで声をかけます。
 なんとも暖かな瞬間です。
 「主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、『サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこに行くのか。』と尋ねた」(七〜八節)。
 「どこに行くのか?」――その答えをハガルはもっていません。そのとき改めて、自分は孤独なさすらい人だと自覚したことでしょう。
 
                                  ●神の語りかけ

 神は、二つのことをおっしゃいます。
 第一に、
 「あなたの女主人のもとに返りなさい。そして彼女のもとで身を低くしなさい」(九節)
 「自暴自棄になってはいけない」ということでしょう。荒れ野を子どもを宿した女性が逃亡生活をできると思うか? 生まれた子どもは、どうなる? さあ、いちばん安全な場所に戻っていけ。家に戻って、主人の下で謙遜に仕えなさい。それが生まれてくる子どもにもあなたにも一番良いのだ、と。それは、かーっとなって飛び出してきたハガルを正気に戻した、暖かで実際的な助言でした。
 第二に、神はハガルに大いなる祝福を約束されました。
 「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので数え切れないほどになる」(一〇節)
 ハガルの主人が受けたのと同じ祝福です。かつてハガルは、主人サライとアブラムが、そのような祝福を約束されたことを何度も聞かされていたはずです。しかし、ここで同じ祝福を神はハガルに約束されたのです。
 しかもそれは、ハガルを励ます個人的な約束でした。「その子をイシュマエル」と名付けなさいと神は名前を与えます。その名は、「主があなたの苦しみを聞き入れられた」という意です。ハガルの苦しみの祈りが聞かれたのです。エジプト人であり、奴隷であり、そのハガルは、これまで何度も苦しみの祈りを神にしていたことでしょう。自分が受けているいじめを神に密かに祈りの中で訴えていたに違いありません。世の中では、通るはずのない、だれも耳を傾けないハガルの祈りを、神は聞かれたのです。そのしるしとして、息子の名は、「イシュマエルだ」と神は宣言されました。
 今、ハガルは主人の元に返って、謙遜に仕えるのです。しかし、やがてその息子と子孫は、「野生のろばのような人になる」というのです。母の立場とは違い、イシュマエルとその子孫は、誰にも隷属せず、飼われることを嫌い、自立心旺盛で、たくましく生きていくと神は約束してくださいました。

                   ●見ていてくださる

 だれも振り返ってくれない、認めてくれない、気にもかけてくれない立場のハガル――そのハガルを、神は「見つけ」、「語りかけ」、助言を与え、慰め、力づけ、祝福を与えてくださったのです。
 ハガルは、この神を「エル・ロイ」と呼びました。「神」ということばと「見る」という言葉を合わせたものです。神がハガルをごらんになったとも、ハガルが神を見た、とも解釈できます。実際は両方なのです。ですから、「ご覧になる方のうしろを私が見た」(一三節)と言っているのです。私は神を見た、神と出会った。そして、その方は、「ご覧になる方」であったとハガルは告白しました。
 スイスの精神科医であったビクトル・フランクルは、自分がアウシュビッツ収容所を生きた体験を『夜と霧』に綴っています。彼はその中で、絶望的な状態の中では、自暴自棄が死を招き、人を簡単に自殺に走らせ、またそれが病死に至ることもあると説明しています。そしてそういうときに人々を支えた思いが記されています。
 「この困難なとき、近づきつつある最後の時に、われわれひとりひとりをだれかが見ている。一人の友、一人の妻、そして神が」。
 この思いがて人々を生かした、といいます。誰かに顧みられてさえいたら、人は人として生きていける、耐え抜く力を持つのです。
 いじめに関する本を読んでいたとき、ある中学生の告白が心にとまりました。クラスのリーダー格の女の子に目をつけられて、無視され続けてきました。ある日、自分のペンケースに紙切れが入っていました。小さな紙に、こう書いてありました。
 「何もしてあげられなくて、ごめん。でも私は味方だから。」
 名前はありませんでした。でも彼女は発見したのです。温かい目で自分をていてくれる人がクラスに一人いるんだ、と。
 不遇な環境に生まれ、不遇な一生を歩んでいたハガル。お腹に子どもがいながら、いじめられて、荒野に逃亡をはかって、疲れて呆然として泉のほとりに座っているハガル。だれも見ていてはくれないハガル。孤独な気の毒な生涯をたどる宿命にあったハガル。しかし、神は見ておられたのです。
 神は、私を無視してはいない。神は、聞いておられる、見ておられる。

                  ●戦いの場に戻っていく

 ハガルは、人生の戦いの場へ戻っていきます。逃げることをせず、今は一番最善という場へ、戻っていきます。現状は変わらないでしょう。自分の主人たちが、急に気を遣って、態度を改めると言うこともないでしょう。しかし、彼女は変わりました。勇気を得ました。なぜなら神が見ておられるのです。
 聖書学者の松田明三郎氏による「星を動かす少女」という文章があります。よくクリスマスの説教に引用されます。

 クリスマスのページェントで、日曜学校の上級生たちは、3人の博士や、羊飼いや、マリヤなど、それぞれ人の目に付く役を振り当てられた。
 だが、一人の少女は、だれも見ていない舞台の背後に隠れて、星を動かす役があたった。
 「お母さん、私は今晩星を動かすの。見ていて頂戴ね」
 その夜、教会堂に満ちた会衆は、ベツレヘムの星を動かしたのが、だれであるか気がつかなかった。でも、彼女の母だけは知っていた。
 そこに少女の喜びがあった。

 だれも目を留めていなくても、お母さんは知っている、私が星を動かしているのを知っています。そしてお母さんは言ってくれるのです。「よくやったね。星は上手に動いていたよ」と。
 この少女と同じ喜びと勇気が、ハガルに与えられたのではないでしょうか。私がどんな境遇にあったとしても、神は見ていてくださる。そして私の祈りを聞いていてくださる。ハガルは、エル・ロイ、見ていてくださる神に祈ることを学んだのです。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2003.01.21 - 12:14
LAST UPDATE: 2003.01.23 - 20:42

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ゆか 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 219.98.241.224
とても励まされました。感謝です。そして神様の目で自分を見ることができました。よかったです。
2003.04.21 - 00:00 
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