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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/2 説教「ラオデキアの教会/愛故に」黙示録3:14-22
この説教は当時掲載していたものですが、いたずらのコメントを削除している内に、本来の書き込みが消えてしまいました。黙示録最後の締めくくりでもありますから、あらためて掲載することにしました。七里が浜さんのありがたいコメントもありましたが、それもくっついてなくなってしまいましたことをお詫びいたします。******8/19T・Y


☆初めのお祈り
わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。(この日の交読詩篇2篇より、8節と、12節後半)

恵み深い天の父なる神さま、あなたの繰り返し繰り返し言われる、わたしに求めよというこの招きを心から感謝致します。にもかかわらず、こんなに単純な主に身を避けるということを私たちは怠り、自分自身の内側に身を避け、人の助けを借り、あなたに助けを求めることをしない、なんとも頑固で傲慢な自分を覚えます。であるが故に、私たちは礼拝の度ごとに、あなたに祈ることを学び、また祈って求めるだけでなく、この疲れた心、たましい、体をあなたのみもとに横たえて、たましいに安らぎを得るその営みを礼拝できることを心から感謝します。もしそのことをせずにこの場から立ち去るなら、私たちはあなたを礼拝したことになりません。すべてを賛美し、すべてを導き、すべてを支えておられるあなたが、わたしを愛しわたしのために求めよといわれることを心から信じ、御手に委ねることが出来ますように、私たちの信仰を支えてください。

今日は○○兄をロンドンからだけでなく、徳永姉をスコットランドから無事に帰してくださいました。皆、私たちの愛する兄弟姉妹、主にある家族です。どうかおひとりおひとりを、世界のどの地にありましても守ってくださいますように。私どもの家族は、先ほどの祈りにありましたように、世界のすべての地域にいます。宣教地、迫害の地にある教会、私たちにはなかなか見えませんが、あなたには見えておられます。どうか、真実に試練や逆境の中であなたに祈りを捧げている者たちの祈りを聞いてください。

今日も小林兄は病床にて礼拝を守っておられます。高津教会を愛し、あなたに礼拝を捧げることを人生最大の喜びとしておられる兄弟の上に、あなたが届いてくださり、一週間ずいぶん改善されたようです。その快方に向かう一歩一歩をあなたが更に導いてください。ご高齢でありますが、さまざまな選択肢の中で、これからの住む場所を含めて迷っておられるに違いありません。試練を与え、それだけでなくして、いつでも最善の住まいをあなたが供えてくださることを私たちは切に祈りますが、私たちの小さな祈りに応えてください。

夏季の林間聖会が始まり、また大学生や中高生がいろんな所に出かけていきますが、すべての営みを祝してくださるとともに、夏の海の事故、山の事故、また悪の誘惑、サタンのわな、さまざまなものから支えてくださり、この暑さから身を守り、この礼拝で、のどの渇いた鹿が谷川の水を喘ぐがごとくに、あなたのみもとにやってまいりました(詩篇42:1)私たちを祝してください。

今日のこの日を感謝し、これから聴きますみことばに心を集中しますので、あなたご自身が私たちのたましいに語りかけてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

☆説教
黙示録の3章を開いていただきまして、7回連続して黙示録の2章から始まります、イエス・キリストがヨハネに、小アジアにある(今のトルコ)7つの教会に書き送れという手紙を見てまいりました。ちょっと2章の一節からもう一度見て、どういう足取りを歩んで来たかを思い出してほしいのですが、2章の1節にエペソの教会、8節にスミルナの教会、12節にペルガモの教会、18節にテアテラの教会、そして先々週は3章1節のサルデスの教会、そして先週は7節のフィラデルフィアの教会、そして今日は14節ラオデキアの教会と続きます。インターネット上には、7つの教会に送られたメッセージがすべて記されていますので、もしお休みの方いらっしゃいましたら、高津教会のホームページを見ていただきたいと思います。

ヨハネはこの黙示録を地中海のパトモスという島に流されている時に書きます。パトモスに一番近いのが港町エペソです。そこから一周するかのように、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、そして最後にラオデキヤに戻ってまいりました。(注***7つの教会で、エペソから出発して3角形ができます。よく旅行社の7つの教会を巡るツアーに行った方から聞きますと、エペソとラオデキヤを底辺にしたほぼ3角形になるようです)。

7つの教会の最後、この手紙に恐らくすべてを凝縮するかのようなメッセージが記されています。そのすべてを凝縮するメッセージとは何かと申しますと、今日の説教題、「愛故に」です。愛の故にイエスさまはこの7つの教会に手紙を書いています。イエスさまがラオデキヤ教会に向けて書かれたメッセージを、簡単に3つのポイントからお話をします。

1)ラオデキヤの教会のなまぬるさ
15節―16節をご一緒に読む。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」。

おそらく黙示録で一番厳しいお言葉です。よく私たちはなまぬるい。なまぬるいぐらいだったら、むしろ熱いか冷たいかであってほしい。一番最後に「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」。思わず吐き出したくなるほど、まずいと。

最近「なまぬるい神学生」という言葉を聴きます。まだ戦後まもなくの頃、社会人が献身する時に、自分の貯金をすべて教会に捧げて献身した。それと比較して今の神学生はって言われますと、それはちょっとお門違いかなと思います。戦後まもなくに献身する人は、貯金を全部はたいたとしてもそれは大した額ではない。しかしその信仰は筋が通っています。これ以降は自分の財に頼らず、信仰のみに頼って生きていくという決心の表れでそれがなされたのです。

昔神学生が皆通らされた体験があるそうです。先生ご自身はそういう体験はありませんが、先生より数年前の例えば桂町教会の矢木先生などは、その体験があります。それは夏季実習で、パン屋さんに行って来て、サンドイッチを作った後のパンの耳を貰って来て、それを神学生の食事にする。あるいは食パン一本焼いた時に、端が出ますがそれを落とします。その端を貰って来て、そこに何かをはさんでサンドイッチとして、神学生の食事になります。先生はその話を聞いたときに、「えぇっ!そんなことしていたんですか?!そんなことしなきゃいけなかったんですか?」と聞き返されたら、「皆しているよ。僕は最初恥ずかしかったから、犬のえさにするからと言うと、袋いっぱいのパンの耳をくれる。その内、平気になってしまって、『おじさん耳くれない?』と言うと『何のために持っていくんだい?』と聞かれ、『貧しいから食べるんです』と平気で言えた。」と矢木先生はおっしゃったそうです。それから比べると、食事が豊かになった今の神学生はなまぬるくなったと言えます。

しかし今の時代にそんなことをしたら、パン屋さんはおろか、魚屋さんも皆が、そんな教会に足を踏み入れることはないです。キリスト教を信じたらそんなに貧しくなるのかといい証しになりません。と笑いを取られた先生でした。私たちが“なまぬるい”という言葉を聞きますと、それは微妙なのです。イエスさまはそういうことをおっしゃっているのではない。なまぬるいというその理由は17節にあります。これはしっかりと皆で読みましょう。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」。これがなまぬるいと言われている理由です。ラオデキヤの町は大変豊かな町でありました。実は当時のローマの文書を見ますと、ラオデキヤの町にはすでに銀行がありました。お金の取引などによって、経済的に潤っていた町です。銀行には金の貯蓄があったと言います。また毛織物もさかんでした。更にラオデキヤには、医者の養成の学校がいくつかありました。特に、粉薬の目薬が有名であったという話が出てきますので、18節に「私はあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」とありますが、金も衣も目薬もラオデキヤのいわば名産であったと言えます。そのような豊かな町にある教会も、見た目には成功していた豊かな教会であったに違いない。教会の人々は自分達がそこそこよくやっているいい教会だと思っていた。自分達は今少なくとも貧しくはない。かつて貧しい時期もあったかもしれない、しかし、豊かな教会になったという満足感もあったかもしれない。

しかし、イエスさまがおっしゃるのは、あなたがたには本当の自分が見えていない。本当の自分の姿に気付いていない。本当の自分と向き合っていない。自分自身を偽っている、欺いている所があなたがたの問題だ。それがあなたがたのなまぬるさだ。すると、なまぬるさって何かというと、ラオデキヤ教会の欺瞞性(ぎまんせい)。ちょっと難しいことばですが、欺瞞性とは、本当は自分の心も愛も豊かでないのに、そういう自分と向き合わずにごまかすことです。

例えば、自分の家庭が信仰の家庭であるにもかかわらず、信仰者として振舞っているのは教会の中だけで、一旦家に帰ったら、自分の信仰しているすべてを忘れて振舞ってしまう。そういうのを欺瞞性と言います。自分を偽って人に見せる。明らかに自分の心の中に、人生に対する信仰に対するさまざまな問題がある、それをあやふやにして、教会で一生懸命奉仕をする。奉仕をすることが悪いことではない。しかしそれによって、自分の内側の問題を偽るというか、自分をあたかも立派な信仰者であるかのように、豊かな信仰を持った人物であるかのように見せることは、あなたのプライドの持つわざかもしれない。本当の自分と向き合わない自分の醜さ、自分の乏しさと向き合う時に、神さまから自分を隠してしまう、外側だけ取り繕ってしまう。それが一番問題だ。

皆さん方の中には教会にいらした原因が、自分の心の醜さ、それに気が付いて教会に来たという方が多いのです。たとえば自分の一言が、友人を傷つけてしまった。自分の一言によって、人間関係がガタガタになってしまった。そのことを通して今まで自分のことを罪人だなんて考えたこともない。でもこれほど神の前に問題のある自分はないんじゃないか、と思って、異常なほど自分自身の問題に敏感になって神さまの前に来られた時に、今まで自分はキリスト教会とは何ら関係ないと思っていたのに、自分とイエス・キリストという存在が急に近くなり、その真っ直ぐな姿を神さまは温かいと言われる。逆に教会に来て10年20年、いつの間にか自分自身のその醜さというものを忘れてしまって、もしかしたらクリスチャンとしてこんなにまともま人間はいないのではないか(笑)と、こう考えてしまう。その欺瞞性がないか?恐らく、そういうあなたを口に入れると、思わず吐き出してしまう。こんなに厳しい言葉はないです。恐らく7つの教会のイエス・キリストのことばで、このことばが一番厳しいです。

2)それは愛ゆえのことば
18節にこう始まりますねと、先生は少し18節を読まれる。先ほど見ましたが、忠告です。火で精錬されるというのは、金を取り出す基本的な技術ですね。金というのは、地面の中から金の延べ棒がでてくるわけではないです。金鉱、鉱物の中に入っていますね。ですから昔から金の精錬作業とは非常に単純で、その鉱物に強烈な火を加え、金はやわらかく、熱に弱く熔けて行きます。しかも金の比重は一番重いので、他に熔けた鉱物の中で金だけが一番下にたまるのです。それが精錬されたという意味。一番下にたまった金は混じり気のない純粋なものへと仕上げられて行く、その工程を繰り返せば繰り返すほど、金の純度は上がって行くのです。

それと同じように、神さまは私たちに試練を与え、私たちの信仰を純化して行くのです。これは解りますよね。なぜかと言うと、私たちの心の内側というのは、いいものと悪いものがいつも混ざっているのです。例えば、私たちは口で「こうすることは神さまのみこころです」と言いますけれども、周囲の人がそれを聞いたら、「それは神さまのみこころではなくして、君自身の欲望なのじゃないの?」と言います。自分は神さまのみこころでと言いながら、それが自分の思いなのか、他人の期待なのか、純粋に神さまのみこころなのか、見分けていくのはものすごく難しいです。そのように渾然一体として、罪深い自分、自己中心な自分と、また一生懸命キリスト者として生きていきたい自分とが混ざって存在しているのが、私たちです。

『きよめられる』ということばがありますが、『きよめられる』というのは、まさに混ざっている信仰から不純なものを取り除いて行くことです、と先生に教えていただいて、例えられたような経験をすることが多い私には、大いに納得がいき感謝でした。しかし、同時に、普段あまりにもそれらの問題と、自分自身がきよめられる所まで深く取り組まないで生きているのではないかと気がつきました。安易にクリスチャンを形容することばとして使われる傾向にある、いわゆる『敬虔な』クリスチャンという表現は、このような心の確認作業を常に怠らない、現代では数少ない人(だと思いますが)を指して言うのであって、黙示録のここで、ちゃんとイエスさまが「わたしから買いなさい」と、きよめられることを命令しておられることも嬉しい発見でしたが、事実私はそのような者ではないことを恥じました。イエスさまから買うときに、イザヤ55:1に、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」とあるのを思いだし、神が与えられるものはプライスレスというように、文字通り値段がつけられないぐらい尊いのに、いつも求めるものには、無償で与えられるのだとここでも不思議な神の国の法則があるように思いました。

ここで、先生は今から13年前に金子姉のご主人が天に召されたときのエピソードを話してくださいました。金子姉は信仰歴が非常に長い。姉妹は結核の時代があり、その中で信仰を持つようになりました。ご主人はなかなか教会にはいらっしゃいませんでした。ご主人は私が丁度高津教会に転任したあたりに、他の病気で帝京病院に入院されて、そこで病床洗礼を受けられます。ご主人はどちらかと言いますと、いつも奥様の陰に隠れて、信仰的には自分は新参者だ、初心者だと、まああんまり交わりをすることもなく、皆の前でお祈りをしたり証しをしたりしたことは一度も無いという風に記憶しております。礼拝に来られて、2階のバルコニーが出来てからはいつもそこに座られて、そして帰って行かれる、そういう感じでありました。でもしばらくして、がんになり、その試練の中で、あれほど純化されていった人は珍しい。その後教会にいらっしゃって、金子兄のことを知らない人は残念だと思うぐらい、純化されていきます。

最期が近づいたときに、病室で看病していた奥様がうたた寝をしておられた時に、大きな声で「金子文子」と言う声を聴きます。ぱっと見ますと、少しベッドを起こして、目を閉じられていたご主人が、奥様の名前を呼んでお祈りをしていた。ご主人はおっしゃるのです。「私はもうすぐ天国に行くが、お前にはまだまだやることが残っている。だから、お前が看病で疲れ果てててしまわないために、お前のために祈っている」。看護婦さんに毎日聖書を読んでもらっていました。その看護婦さんが、「金子さん、私聖書を読んだことがないから、どうやって読んであげたらよいかわからない。」と言ったそうです。すると兄弟は看護婦さんに静かにこう言います。「聖書を読む決まった読み方なんて無いのです。心を込めて、誠実な思いで神さまの前に聖書を読めばそれでよいのです。」と実習生の看護婦さんに言いました。そんなことをおっしゃることは、教会の中ではなかったです。それが最期、肉体の病という試練の中で、精錬されていく金のように、その信仰が純化されていく。

試練に錬られたのは、信仰だけではありませんでした。兄弟は品性も錬られて、キリスト者としてのお姿も錬られて天国にふさわしい者となって行きます。イエスさまはここで、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために、それを覆うことが出来るように、わたしから真っ白な衣を買いなさい。自分の本当の姿が見えるようになれば、自分自身を恥ずかしいと思うようになる。すると、イエス・キリストに更に依り頼んで、キリストの義を身にまとうようになる。その本当の姿、天国の栄光、キリストの愛、そうした霊的な現実を見ることが出来るように、18節の最後に、目に塗る目薬を買いなさい。全部途中に出てくる、「わたしから買いなさい」と言うことばに繋がっています。

人々は純金をラオデキヤの町の銀行で買って富を楽しんだ。人々は町の洋服屋さんで真っ白なおしゃれな洋服を買って楽しんだ。町の医者で、目薬を手にしてよくなる為に目に塗ったのです。イエスさまはそういうものをわたしから買えとおっしゃるのです。裏を返しますと、ラオデキヤの教会の人々は何にもイエスさまから買ってなかった。イエスさまから買わずに、イエスさまに求めずにすべてのことが何とかしていける信仰になっていたということでもあります。

さて、19節を見ていただきたいのですが、19節を皆で読む。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」。このことばをもう少しギリシャ語に忠実に訳しますと、「私はあなたを愛している。それ故、その愛の豊かさと同じだけたくさん叱る」。つまり“叱る”というこのイエスさまの行いと、“愛する”というイエスさまの行いとの比率が相関関係にあるのです。わたしはあなたを愛しているので、その愛の豊かさと同じだけあなたを鍛える。あなたに忠告をする、あなたに試練を与える、すべては愛のゆえだと。

もう一つ見ていただきたいのですが、それぞれの教会の手紙の文頭に書き送れとおっしゃったイエスさまの描写があるのです。ラオデキヤの描写は独特でありまして、14節を読む。「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる」。

3章8節はフィラデルフィヤ教会へ書き送れとおっしゃったイエスさまの描写で、「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる」。また3章1節は、サルデスで「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる」。

ラオデキヤは特徴があるとすれば、“アーメンである方”がこう言われる。アーメンである神というのは、実は旧約聖書では、イザヤ書65:16だけに一回だけ出てきて、新改訳では、開いて見ませんが、まことの神と訳されています。(注***英訳では、the God of truth)。アーメンというのは、私たちのお祈りの最後に言うことばです。確かであるとか真実であるという意味です。ですから、お祈りの最後にアーメンというときに、私はその通り、私は真実にそう祈りました、ということです。そう祈ったことは確かですとか、祈ったままのことを、私は信じていますと、真実さを表すのがアーメンであり、へブル後ではアーマンです。

イザヤ書65章に“アーマンなる神”ということばが出てきて、新約聖書では“アーメンである方”というのがここに出てくるのです。神さまこそが真実な方で、確かなお方で、私たちがどんなに貧しく、愚かで不信仰であっても、このお方はあなたを見捨てないという意味です。アーメンとかアーマンというのは、神とその民との契約関係における真実さを言うのです。神さまがいつも私たちに嘆いておられるのは、この契約が真実であるにもかかわらず、どうしてイスラエルの民よ、あなた方はそんなに不真実なのか?わたしに求めよというのは、その契約関係の中で、わたしに求めさえしたら必ずわたしはあなたに答えると。しかし何故あなたはわたしに求めず、他の神々に顔を向けるのかと。それはイスラエルの民の不真実さです。

詩篇31篇の5節をご一緒に見たいと思います。ここにもアーメンが出てきますが、ここは、アーマンでなく、アーメンの派生語から出てきたエネスということばが使われています。エル・エネスとは真実な神です。詩篇の31:5をご一緒に読む。「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖いだしてくださいました」。真実の神、真実がアーマンの派生語エネス、その神に向かって詩篇の作者は、私の魂をというのは、いのちを御手にゆだねます。なぜか?なぜなら、確かで真実な方は、私のいのちが損なわれることのない為に、それを保ってくださる。

イエスさまは時にうつろで、時に吐き出したいぐらいなまぬるい私たちに対しても、この真実さを尽くしてくださるという意味です。吐き出すぞと厳しいことばをおっしゃるイエスさまは、そんな私たちのために十字架にかかっていのちを投げ打ってくださった。そこにわたしの真実さが表れているだろうと。私は厳しいことを言う。あなたに悔い改めを迫る。でもそれはわたしの愛ゆえだと。

3)黙示録の中で、最も厳しいことば(16節)と最も温かいことば(20節)が一緒になっているのがラオデキヤの教会の手紙。
黙示録の中で最も温かい言葉は20節です。ご一緒に読む。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。イエスさまの招きです。戸の外に立ってたたくというのは、イエスさまは戸の外にいる。戸の外にいるというのは、ラオデキヤの教会の外にいる。教会はイエス・キリストを半ば締め出してしまった。ところが、締め出されたイエスさまは再び戻って来て、教会の戸をたたく。そして何とも温かな招きは、「わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」、この温かさです。

この言い方は皆さんに前にも申し上げたかと思いますが、奇妙な言い方です。普通だったら「一緒に食事をする」でお終いです。しかし、それは特殊な言い方ですが意味がある。その意味を皆さん簡単にわかるはずです。今は子どもが外にいるので、二人だけで食事をしますが、以前は子どもと4人で、大概TVを見ながら食事になります。私が食事をしながらTVを見ていると、必ず「ねぇ、聞いてるの?」と子ども達から言われます。「えっ、お母さんに向かって話してると思った。ごめんごめん、もう一回言って。」「お父さんはどうせ聞いていないから、話す気にもならない。お父さんは別だね。」「ぼくに言うのなら、ちゃんとお父さんと一回呼びかけてから話して。だってあのアナウンサーも呼びかけているから、ついつい呼びかけに応えてしまう。こんばんわとか、おはようございますとか何とか」(笑)こういう状態ってわかります?私は家族と一緒に食事をしていないのです。家族は私と一緒に食事をしているから、私も輪の中に入れて一緒に語りかけるのです。ところが私はそこに座っているけど、実はアナウンサーと一緒に食事をしているんです。(笑)だったらもうおとうさんは別だねと言われても仕方がないじゃないですか?

教会の中でイエスさまはあなたとともに食事をするんだけれども、あなたはイエスさまとともに食事をしているかと言われれば、すみません、全然違うことを考えていました。イエスさまは時に厳しいことばを語り掛け、時に温かいことばを語りかける。しかし自分の心の中に、厳しいことばだけ、あるいは温かなことばだけに耳が行ってしまうと、それは私たちがイエスさまとともに食事をしたことになっていない。一部だけ覚えていて、全体を覚えていない。一緒に食事をするという意味はいのちの交わりがそこにあるという意味で、教会に来るということは、主イエス・キリストとともにいのちの交わりをする。

それは教会だけでなく、私たちの人生の外の扉でイエスさまは叩く。イエスさまは礼儀を知っておられる。中学生、高校生の親は礼儀を知らない。いきなり部屋に入る。そこで皆さんはプライバシーもあり、エチケットもあるのだから、ちゃんと礼儀を守ってと言います。イエスさまは礼儀を知っておられるので、無理に開けない。

昨年インターンを高津教会でなさった福田先生(当時の福田神学生)が証ししておられました。郡山教会に行った時に、夏季実習で有名な荒修行をさせられた。男子の神学生が必ずひたすらそれだけをさせられる荒修行とは通常ピンポン伝道。これは耐えられない。これを通ると伝道者の魂ができるという、ピンポン伝道って何なの?昔でいう個別訪問です。手当たり次第ピンポーンと押して、他所のお宅で聖書のこと、教会のこと、イエスさまのことをお話するのです。ほとんどのケースだれも出て来ないです。インターフォン越しの会話で怪しまれて、ドア越しに断られて、それはそれは暑い夏、みんな断られて、それでも福田神学生です。断られてもいいんじゃない?がんばってやりなさいよ。それでも、私たちみたいな人間を前にして、だれも出て来なくても仕方がないじゃないですか?

でも、ここに記されているのは、世を愛され、高津教会を愛され、あなたを愛され、それ故に、あなたの罪を背負い、十字架に係り、死の力を打ち破り、私たちに永遠のいのちを与えるために、復活され、天に昇られ、神の右の座に座しておられる主権者イエス・キリストが、再びその座から降りて、身を低くしてあなたの所に来て戸を叩く。戸を叩きに来るイエス・キリスト。

イエスさまのピンポン伝道、イエスさまは来る日も来る日もあなたの家に、あなたが寂しくて辛くて、悩んでおられるあなたの所にイエスさまは来て戸を叩く。私たちの目が見えなければ、私たちが世の中の金銀に夢中であったとしたならば、私たちが自分がどんな服装をしてどんな風に遊ぼうか、そんなことにばかりに一生懸命であるならば、私たちはイエスさまにピンポンされていることにさえ、気がつかない。それは私がピンポンしてるぐらいだったらいいですよ。でもあなたの人生のすべてを握っておられる方が、あなたとともに食事をし、あなたとともに話をし、そのいのちをあなたに分け与えたいと願っておられる主イエス・キリストが、ドアの前に立ってベルを押しておられるのに、あなたはそれに気がつかない。

この七つの教会に宛てられた手紙のすべての凝縮がここにあると思ってもいいでしょう。21節を一緒に読む。愛ゆえにと申し上げました。イエスさまは何故そんなに厳しい忠告を私たちにされるのか?なぜ私たちの外で戸を叩き続けるのか?それは21節の頭にあります。
「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせ」たいから。

一言で言うと、あなたに勝利を与えたいから、それだけでなく、わたしとともにわたしの座に着かせたいから。この世界負けてばかりだ。そんな私たちにこの世にあって、そして来るべき世にあって、勝利を得させ、それだけでなく、わたしとともにわたしの座に着かせたいというイエスさまの一心な思いであなたの心の扉を叩き続ける。そしてそれは、イエスさまはあえておっしゃいました。「わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」。(21節後半)

キリストは十字架という、あの裏切りと弟子に怨まれた、そしてあらゆる恥と痛みを背負われたその姿を通して、勝利の御座に着いたように、あなたにも厳しい試練を通りながらも勝利を得て、わたしとともにわたしの御座に着いてくれるように、わたしは願い続ける。それがわたしの真実さである。

私たちはこのイエスさまの真実さに支えられて、礼拝を守り、イエスさまの真実さに支えられて、試練の中をくぐり抜け、イエスさまの真実さに支えられて、やがて天国に上って行くものでありたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、旧約聖書の民が不真実に歩んでいました。その罪を全部その肩に背負い、十字架に掛ってくださったイエスさま、私たちは真実でしょうか、不真実でしょうか?もし私たちが、あなたを迎えていながらあなたを閉め出したら、あなたを迎えていながらあなたのことばに耳を傾けず、自分の声にだけ耳を傾けているとしたら、また、少しこの世界の生活が順調であると、いつの間にか自分を富んでいる、豊かになった、貧しいものは何もないと、自分の姿に驕り高ぶるなら、その時、私たちはあなたの味に耐えられないぐらい不味い、つまらない存在になっているのでしょう。主よ、どうか自分の貧しさ、自分の哀れさを知ることが出来ますように。それと同時にあなたの真実さも深く目を留め、あなたに求める者としてください。イエス・キリストの聖名によってお祈りします。アーメン。

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DATE: 2011.03.26 - 22:10

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