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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/13説教「パウロ(6)退いた世界で」使徒の働き11:19−26

☆説教
さて、パウロの教え、パウロの神学ではなくして、パウロの生涯をテーマに学びを進めております。今日はその6回目で、「退いた世界で」と題をつけました。

1)これまでのパウロの歩み
教会を迫害するためにダマスコに向かう途中、衝撃的な方法で復活のイエスさまと出会ったパウロであります。ショックのあまりにうずくまって日夜を過ごしたサウロを助けて、イエスさまの元に導いたのはアナニヤという人物です。自分が大きく人生を転換しなければいけないことを、アナニヤを通してパウロは聞かされました。そしてイエスさまはあなたを選ばれました、あなたは選びの器であり、あなたの人生をイエスさまは用いてくださるということを、パウロはよくよく聞かされたはずであります。

しかしパウロはすぐに伝道を開始することなく、3年間遊牧民と共にアラビアの荒野に住みます。そこで人に相談せず、自分の力により頼まず、徹底して神の声だけに耳を傾け、神に信頼する人生を体得いたします。

3年の歳月を超えて彼はダマスコで伝道を開始いたしますが、キリスト教に寝返ったパウロはダマスコのユダヤ人に命を狙われます。みじめにかごに吊るされて夜中、仲間の助けを借りて、ダマスコの城壁沿いに吊るされて逃亡します。まさかこんな形で逃亡するとはと彼は思ったことでしょう。

さらに、次にエルサレムにも行きますが、そこでもパウロは命を狙われ、聖書には兄弟たちに助けられて、故郷のタルソに行ったと書いてあります。その後で教会は成長していきました。しかしパウロは故郷のタルソで恐らくテント職人の仕事に精を出していたに違いない。いわゆる影を潜めてしまったパウロです。それは自分が選んだ道ではありませんでした。荒野の3年を終えた時、彼は意気込んで宣教の働きに出掛けて行ったはずです。しかしどこへ行ってもなかなか信用してもらえない自分、どこに行ってもいのちを狙われる自分、どこにあっても逃げなければならない自分、彼は現役から一線を退いて故郷のタルソに退いて行きます。

2)ただひたすら神を待つ人生の空白期間
さて興味深い事実があるとすれば、それは逆算しますと、このタルソで過ごした人生、彼は30代後半であっただろうと言われます。故郷でいったい何年くすぶっていたのか?それは推測にしか過ぎませんけれども、研究者の計算では彼は5年から7年故郷でくすぶっています。自分の人生で最も活動的な時期を、パウロは退いた世界で過ごします。それはヨセフがポテファルの下で誤解されて牢獄に入れられていたのが2年、モーセに至っては40歳でエジプトの王宮を追われて、逃亡してアラビアの荒野で過ごしたのは40―80歳までの40年間、ダビデがサウル王の下から逃げて荒野を放浪したのが13年、神さまに用いられる器は皆一線を退いて、じっと忍耐して待つという経験をしている。その間、存在感のない、人生の空白期間を神さまによって与えられ、ひたすら待つ、ただひたすらに神を待つことを教えられます。

パウロの場合、その間さまざまな地方でリバイバルが起こります。教会はどんどん成長します。そのニュースが彼のもとに届くのですが、彼に出番がない。挫折した伝道者であるかのように、いや本当に彼にとっては挫折した伝道者でありました。彼は世界から取り残されてしまいます。

2)退いた世界で実は神の恵みを味わう
最近私たち牧師の世界ではよく言われますが、30代の牧師がうつになる。私の友人で何人か、休職といいますか、教会を退いて30代で改めて何かの職につくということが、大変難しい世界でありますから、時に奥さんの方が何かの職について、そして教会から退いている先生方を私は知っています。そのままなのだろうか、10年先に復帰できるのであろうか?見事に復帰できた先生方も多いのでありますが、しかし30代40代は打たれ弱いとも言いますし、自分がこの期間、神学校を卒業して、そしていよいよ神さまの畑に出て行って伝道に専念するという時期に、自分の心が折れてしまう。現役を退いたかのように、退いた世界で自分が今過ごさなきゃならない、いったいどういう状況なのか、なんとなく想像ができますが、この退いた世界で彼は実は恵みを味わいます。それを今日はご一緒に見て行きたいと思います。

Uコリント12章2節をご一緒に読む。「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は14年前に―――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存知です。―――第三の天にまで引き上げられました。」と言っているのはパウロです。そしてパウロがこのコリントの教会に2番目の手紙を書いた時期からさかのぼって、2節の最初にある14年前というのは、丁度彼がタルソにいたときに当たります。彼が天にまで引き上げられ、天国の幻を見るというような、一生で最も高貴な荘厳な栄光に満ちた経験をしたのは、実は彼が一線を退いてくすぶっていたタルソにいた時であります。

せっかく衝撃的な出会いをイエスさまとして、せっかく3年のアラビアを過ごしながら、それでもタルソでくすぶっていなければいけないことをよしとされたイエスさまは、パウロを放って置いたのではない。彼にすばらしい幻を、天国のありようをお見せになったのは、まさにこの時期であった。自分はこんな所でこんなことをしていったい何になるだろうか、焦りがいっぺんに吹っ飛んでしまうほどの豊かな恵みでありました。イエスさまはパウロはイエスさまにとって特別な存在なのだとパウロに解らせるために、それを彼が事業の成功や活躍の中ではなく、退いた世界で味わったということが尊いと思いますと先生はおっしゃいました。

先生はある夏、ものすごい暑い夏だったそうですが、入院中の兄弟をお見舞いに行かれたそうです。病室に入って行かれますと、彼はイヤホンで耳をふさいで賛美歌でしょうか、何か聴いておられて一生懸命うちわで扇いでおられる。病室でも暑かったんでしょうね。それで、目をつぶっておられて一向に目を開けてくださらないので、3分ぐらい見ておられましたが、先生はたまりかねて、ちょっと肩をたたいて「藤本です」とおっしゃった。

仕事が一番大変な時期に、無理がたたって倒れて病院に運ばれたその兄弟は、どれだけ仕事のことが気になったか。しかし病院でその兄弟は仕事の話は何もしなかった。彼は病院で自分の人生を邂逅し、展望し、青年の頃彼は献身を考えていたと話してくれ、先生はその話を初めて聞いたそうです。病を超えて仕事に復帰することができたなら復帰するし、もし出来なければ仕事をたたんでしまって、これからの生涯主に仕えて行きたい。何とかして教会のためになるならば、仕事をたたんでも自分は一切悔いはないという素晴らしい証しを聞きました。

その話を聞きながら、先生はお見舞いしてよかったと思われたそうです。仕事が一番忙しい中で、無理やり神さまから首根っこを捕まれるように、仕事の現場から退き、そのことによってもちろん家族の皆さんには負担がかかるでしょう。でも本人から出た言葉は不平不満の言葉のひとつもなく、そこで自分の信仰生活のあり方をもう一回、あの青年会時代に立ち帰って考え直して、いやそれ以上にもしかしたら、自分はここで仕事を全部たたんでしまって、伝道者の道に進むべきではないだろうかと考えておられる兄弟を見て、先生は、神さまが兄弟に近づいたのは仕事が成功して忙しい時ではなく、病んで打たれて一線を退いた時だったということを深々と考えさせられたそうです。

3)退いた世界でこそ、キリストの力は弱さの中に完全に現れる
パウロがくすぶっている時に、イエスさまはご自身がどれほどパウロを大切にしておられるかを見せてくださった。それはあまりにも栄光に満ちた幻でありました。同時にパウロもまた病を与えられます。もう一回Uコリント12章7〜9節を見てみましょう。ご一緒に声を合わせて読む。

「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」。

パウロが見たのは、単なる夢や幻ではありませんでした。1節を見ますと「無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。」と言って2節の幻の話をします。ですから、単なる小さな幻ではなかったのです。この世界で天国のありようを見た人がいったいいるのかと自慢できるほどのすばらしい幻であったと。その体験をしたことをおごり高ぶることのないように、神さまは病をも与えてくださった。自分はそのことによって遜ることを学んだ。その病によって彼はくすぶった世界で、神さまは依然として自分を愛しておられることと同時に、もう一つのことを学びます。そのことが9節にある、キリストの力は弱さのうちに完全に現れるということ。

キリストの力は自分が第一線で奉仕し、多くのことを成し遂げた時に現われるのではない。キリストの力は自分が退いて自分が挫折して、したいと思っていることもできないような、こんなくすぶった世界でキリストの力は私のうちに完全に現れる、という不思議な教訓を彼は得ます。この不思議な教訓を彼は何と説明したらよいか解らない。

4)主がともにおられるなら、心は解放される
先ほどの夏、病に倒れた兄弟のケースはそうなのでしょうが、例えばケイディー・マルコムという女性の宣教師がいます。彼女の両親は中国に派遣された宣教師です。ケイディー自身も宣教師として、後にフィリピンで15年奉仕をいたします。

まだ自分が十代で中国に住んでいた第2次世界大戦の時に、日本軍がやってきて、家族がばらばらになって、収容所に送られて行きます。自分の人生で最大の霊的体験をしたのはどこかと言えば、その収容所の中だと言うのです。収容所では名前は一切使わず、全部番号がつけられて彼女は16番と呼ばれます。自分は番号だけの存在だった。そして夏の暑さ、冬の厳しい寒さも、収容所の粗末な食事や洋服だけで生き延びて生きます。暇さえあれば鉄格子の向こう側の世界に目をやり、フェンスの向こうに目をやり、何の情報もないまま、いったいいつの日か解放されるのだろうかと、そのことばかりひたすら考えていた。
そこには宣教師の関係者も沢山収容されていて、いつの間にか祈祷会ができた。何のために祈るかと言えば、家族のために、そして自由にされる日が来るようにと皆が祈る。

時間が経過するにつれ、その祈りの時を、祈りの集まりを苦痛に感じるようになった。解放されることだけが人生の目的になってしまっていて、神さまのことは皆考えていない。祈ると言っても解放してくださる、自由にしてくださる神さま以外にもう頭の中にない。もし神さまが私たちを自由になさらないなら、いつ何時神さまをゴミ箱に捨ててしまってもかまわないぐらいにしか、神さまを考えていない。ともかく解放してほしい、この問題を解決してほしい。そのことだけのために神に祈っている自分が、この牢獄以上に、ある世界に閉じ込められているというのを意識します。彼女はだんだん収容所で開かれていた祈祷会に出席しなくなります。そして自分自身で聖書を読み、祈るようになります。

ある日、彼女は人生について新しい視点が与えられるのですが、その祈りはこうでした。「主よ。私がもしあなたのことを深く知ることができるなら、もしあなたがともにいてくださるなら、一生この収容所から出られなくなってもそれでよしとします」。その祈りが与えられた瞬間、自分は収容所にいながら、すでに心は解放されていた、自由だったと証ししています。

先生はなんとなくわかりますとおっしゃいました。ある問題にこだわって祈りを始めますと、その問題が解決できない限り神さまには力なしと、神さまには愛なしと、あるいは神さまには恵みも祝福も憐れみもないと思えるぐらいに、その問題だけでしか神さまに会っていない。そういう自分が一番収容所のような、あるいは一線を退いた、地味な目立たない、自分の本意ではない生活の中において、神を認めようとしたならば、それは「もし私があなたのことを深く知ることができるなら、もしあなたがともにいてくださるのなら、自分の今の境遇をそれでよしとします」、そういう視点に立った時に、すでに自分の心は収容所の外にあった。

パウロはおそらくそういう世界を体験したに違いない。主がともにいてくださる。主は自分の弱さを用いて、完全に力を現してくださる。主はこんな世界の自分を愛していてくださり、自分を守っていてくださり、主は自分から離れない、そのことをパウロはこのタルソで体験した。これから先何度もパウロは牢獄に入ります。これから先、パウロはいのちを狙われる事、その事は止むことなく、何度も何度も命からがら逃げて行きます。やがて私たちは、パウロがどれほどの苦難の人であったかを、実際に味わいますし、まさにそれはイエスさまは一番最初にアナニヤに、「わたしの福音を運ぶ選びの器である」とパウロを示しておきながら、「あなたはイエスキリストのために、どれほどの苦しみを体験することになるのか、後になってわかります。」とアナニヤがパウロに言ったことでもあります。

そのパウロが、どんな苦しみの中でも、弱さのうちにキリストの力が自分のうちに全うされるのだ、イエスさまは絶対に私のところを離れないお方なのだ、いつまでもどこにあっても、イエスさまは私とともにいてくださるお方で、どこにあっても主の恵みを証しすることができるのだということをパウロはこのタルソで、退いた世界で味わうのです。

4)バルナバとアンテオケ教会へ、伝道者としてスタート
さて、使徒の働きに戻っていただいて、11章19節から先ほど読んでいただきました。そんなある日、パウロの所にバルナバがいきなりやってまいりました。「一緒にアンテオケに来てくれないか?」と。

19節を読む。ステパノとはエルサレムで殉教した人物です。ステパノのことから起こった迫害によって、エルサレムから散らされていったクリスチャンは、フェニキア、キプロス、アンテオケまで、北へ北へと移り進んで行きました。当時、ユダヤ人以外の者には誰にも福音を語ることはなかったのです。その中で一番大きな町がアンテオケでした。そのアンテオケで初めてユダヤ人ではない、ギリシヤ人、アジア人に福音が伝わります。

20−21節を読む。「ところがその中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った」。これがある意味で教会の始まりだと言っても過言ではない。私たちが知っている教会の始まりと言うのは、あのペンテコステの日に聖霊が下って、エルサレムから始まったあの福音の働きです。しかし、依然としてユダヤ人以外に福音が伝えられることはありませんでした。でもこのギリシヤ人の教会アンテオケで、初めて福音が爆発的に広がって行きます。クリスチャンの集まりがどんどん大きくなり、そこでエルサレム教会からあのバルナバが派遣される。

22−24節を読む。25節、このバルナバはサウロを捜しにタルソへ行くのです。そしてくすぶっていたサウロ(パウロ)を、タルソからアンテオケの舞台に登場させるのです。バルナバという人はキプロス出身でした。ですからエルサレムの教会の人々はバルナバをアンテオケに派遣して牧師にしよう、伝道師にしようと考えたらよかったのです。しかしバルナバは自分だけではどうしようもないほど、働きが広がっているという現状を見た時に、すぐにタルソに引っ込んでいたサウロをバルナバは見つけて、自ら呼びに行くわけです。

さて、ここからパウロの伝道者生涯が始まっていくのです。このスターティングポイントに立つまで長い時間を要しました。アラビアの荒野に3年、ダマスコ、エルサレムを追われてタルソに5年〜7年、約8年かけて10年かけてとうとう、彼はアンテオケで主の働きに復帰します。そして、26節を見ていただくと、ここアンテオケで初めてキリスト者と呼ばれるようになります。クリスチャンという名前が誕生致します。

すべてが神さまのタイミングでした。その時パウロは、もはや以前のように、こぶしを振り上げて暴走する人物ではなくなっていた。もはや以前のように、パイサイ派のパリサイであることを誇りとし、ガマリエルの下で律法を学んだことを誇りとし、そして人々を従えて、先頭を切って暴走するような人物ではなくなっていた。パウロは遊牧民のように素朴で神さまに信頼し、追われることにも逃げることにも慣れて、自分の弱さの中でご自身の力を全うしてくださる、神さまとイエスキリストのすばらしさを感じ取っていた。そして何かを成し遂げる以上に、素朴に主とともに歩む、何かの業績、功績を残すこと以上に素朴に主の道を行くことだけを心に決めて、彼は宣教の働きへと飛び出して行きます。

私たちがこれから見ていくパウロは、果敢な働きを以って小アジア、ギリシャ全域を回りながら、どんな迫害にもめげずに次々に教会を打ち立てて行くパウロです。しかし私たちはここまで6回の学びを通して、じっくりと心に留めて置いたのは、パウロは何かを成し遂げる以上に、素朴に主とともに歩む、主の道を行くことを心に留めていた。私たちもそうでありたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたはパウロの道を、行く手を阻み、人生の方向転換をさせ、しかし約10年もの間彼は一線を退いて、くすぶった信仰生活を送っていたかのように見えますが、実はそうではなかったと聖書から学ぶことができました。

自分は不遇だと、計画とは違うと、さまざまな交錯した思いがパウロの内にあったことでしょう。しかし、最後はあなたの愛に捕らえられ、どこにあっても、しかも弱さの只中にあっても、わたしの恵みはあなたに十分でないかと語りかけてくださるイエスさまを知ったがゆえに、彼の心は不遇な状況から解放され、そしてこれから味わうであろう幾多の試練の中にあっても、いつも主がともにいてくださることを実感しながら進んで行くことができました。

主よ、どうか私たちも自分の境遇の不遇さばかりを嘆いていないで、自分の抱えている問題課題ばかりに心を集中しないで、どんな時にも安らかに住まわせてくださるあなたの存在をしっかりと受け取ることができるように助けてください。イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 22:17
LAST UPDATE: 2011.04.02 - 23:31

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