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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/20敬老の聖日の説教「パウロ(7)外なる人は衰えても」Uコリント4:7−18
☆初めのお祈り
主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。(この日の交読詩篇92編より1,2,4節)

恵み深い天の父なる神さま、敬老の聖日にこのような好天を与えてくださり、私たちの教会も年を重ねてまいりました。信仰の緒先輩とともに礼拝を捧げる恵みを感謝いたします。

人生にはさまざまな山坂があり、時に私たちは寂しき野辺を通り、賑う里の中を通り、雪の中も、越すべき谷間も、ひたすらあなたの手にすがってがんばってまいりました。がんばってきた以上に、あなたは私たち一人一人をその身に背負って、私たちが到底通ることのできない試練の中にあっては、あなたは私たちの腕をひっぱり、私たちを背中に背負いながらその試練を行き越していく力を注いでくださいました恵みを心から感謝いたします。

喜びも笑いもあり、涙も苦しみもあり、やがて世の光が果てる時には、川の波をも恐れず渡ることができるとすれば、私たちの罪のためにいのちを投げ打ち、私を愛し、神の御前に立たせてくださるキリストの十字架以外に私たちの頼るすべはありません。また私たちは十字架を仰ぎ十字架こそ我が人生の頼みとし、新しい一週間に組みだそうとしています。

ご健康のゆえにさまざまな理由のためにこの礼拝に集うことのできない方を覚えますが、今朝はことさらご高齢の方々を覚えます。さまざまな不都合や不自由さ、苦しさ、また寂しさ、時にふがいなさを、いろんなことを体験しながら人生の後半を迎えていることでありましょう。主よ。どうか、勇気を与えて、私たちもその信仰に倣い、私たちはその存在のゆえにおひとりおひとりを感謝し、また教会でお迎えしています。どうか健康の恵みを更に加えてくださり、なつめやしの木のようにまたレバノンの杉のように、この高津教会という主の大庭でみずみずしく豊かな実を実らせる(詩篇92:12―14)ことができるように祝福してください。

70歳以上のお年寄りがこの教会は40名いらっしゃることがわかりました。その数に想像もできないほど、皆さんお元気でいらっしゃることを覚えて感謝しますが、特別に痛みと戦っておられる小林兄の上に、あるいは教会から遠く離れておられる相馬姉や勝間田兄姉や市川姉の上に、あなたが届いてくださり、この私たちの祈りと願いをあなたを通して彼らの上に注がれ、私たちの家族であることを味わうことのできる聖日としてください。この時を御手に委ねて愛するイエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

☆説教
礼拝ではパウロの学びをずっと進めておりますが、今日はあえてパウロ生涯からメッセージの箇所を取り次ぎますけれども、その流れとは少し脱線して、そして特に敬老の聖日でありますので、Uコリント4章の16節のみことばに心を集中したいと思います。4:16をご一緒に読む。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」。

第2次世界大戦の最中、イギリスを引っ張りましたチャーチルという首相がいます。世界の偉人としても伝説の人ですが、彼のスピーチに“Never give up”と言うのがあったと思い、インターネットで検索をしておりました。世界大戦の最中に、ドイツがロンドンを空襲するような時期、彼はオックスフォード大学の卒業式に招かれて、卒業生を前にして演説をした。しかしその演説に、ほとんど言葉はなく、“Never give up.(決してあきらめてはならない)”と3回、真剣な面持ちで語ったという話が残っています。

が、事実は少し違っているようです。彼のスピーチは1941年の秋、丁度空爆が始まる頃ですが、とある高校に招かれ、3分ぐらいスピーチをした後、こう言って演説を締めくくります。“Never give in.(決して屈してはならない)Never give in.Never ---never---never.”
いかなることにも、それが大事でも小事でも、重大なことでも些細なことでも、崇高な確信と良識ある意見には例外として、他のいかなることにも屈してはならない。と高校生に語り、英国民の士気を高めたと言われます。

パウロの生涯を学び、また敬老の聖日を迎え、私に与えられた聖書の言葉は、Uコリント4:16です。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」ですからNever give inです。簡単に3つのポイントでお話します。

1 ) パウロは、外なる人の衰えを感じていた
Uコリントが書かれた時期を考えれば、パウロの晩年に記された手紙ではありません。おそらく40代後半から50代の初め、まだ年齢的な限界を感じてはいなかったでしょう。しかし、彼はこの肉体の限界を、肉体を持っているが故の様々な制約、そして不自由さ、疲れ、もろさ、病を体験していないはずはありません。それを彼は、7節では『土の器』と言っています。7節を読む。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」。

小林武男兄は、足の痛みと戦っておられますけれども、覚えていただきたいのですが、写本聖書をもうすぐ完成されると思うのです。今私のところで、写本聖書はこのぐらい分厚くなるので、それをきちっと製本してくださる所を捜しているのですが、やはりなかなか見つからない。これまでずっと頼んできた業者はもう90代半ばの高齢のため、小林兄とどちらが長くその仕事をやっていられるかのせめぎあいのようでしたが、とうとう製本屋さんは春にお店をたたまれたのです。

小林兄は書かせてくださるのは神さまであると言います。それはそうだろうと思います。一日9時間も10時間も机に座って聖書を写本するというのは、若い人でも老人でも受験生でもできないほどのわざで、なしてくださる方がおられるとしたら、それは神さまだと。兄弟はよく証しで、「字を書くのが苦手な自分を何故神さまは選んでくださったのか?それは紛れもなく、それが神さまのみわざであって、人の志によるものではないということを明らかにする為だ」と証しされますが、まさにパウロがUコリント4:7で言っているのはそういうことです。私はこの宝を土の器の中に入れている。それは紛れもなくこの宝が神のものであって神のみ名が賛美されるために、神さまは私のようなものをお選びになった。特別な賜物や能力があるから私が選ばれたのではない、むしろ能力がない土の器を神さまは選んでくださった。

以前、ある方がイスラエル旅行に行って、土の器をお土産に持って帰ってくれました。それは昔から作られている形で、オイルランプ用の素焼きの器、彼はカウンターで預ける荷物の中に入れないで、紙や洋服でくるんで飛行機の中で大事に持って来たのでしょう。にもかかわらず、悲しいかな、見事に欠けていました。土の器と言ったとき、それは日本人がイメージするような分厚いしっかりとした器ではないのかもしれません。また中国から伝わった陶磁器の技術をもって、しっかりと固く乾燥させ、焼き込んで上薬を塗ってという、そういう代物ではないのでしょう。簡単に液体が器にしみこみます。簡単に欠けてしまいます。そして、簡単に捨てられてしまいます。

外なる人が衰えるとか、敗れるとは、どういうことでしょうか。別に老いていなくても、人は皆この外なる人を抱えて生きています。単純に言えば、悩み一つで寝られなくなる、食欲が落ちる。そうなると、生きる気力を失う。だとしても、だれも「あなたは弱い」とは表現できません。なぜなら、だれでもそういう環境に陥れば、同じように弱さを感じることは明らかだからです。弱さを持っていない人など、いません。たまたま境遇が自分に弱さを感じさせないのかもしれないですけれども、そういう境遇に陥ったとたんに、私たちは大変な恐れに動揺し、不安で眠れなくなる、いらいらし焦る。私たちは互いにもっと寛容であるべきとイエスさまがおっしゃるのは、紛れもなくあなたもそういう弱さを抱えていて、調子がいいあなたが調子の悪い人を非難することはできないはずであり、あなたももし調子が悪くなれば同じように弱くなり、同じように焦るからです。パウロは「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」(4:16)と言います。それがゆえに、彼は“Never give in.”決してこの状況に屈しないと言います。

2 ) 内なる人が日々新しくされるのは、なぜでしょう。
8 節をご一緒に読む。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」。これはあえて説明してもおかしい。というのは、四方八方から苦しめられれば当然窮します。途方にくれれば当然行きづまります。ですからパウロの表現は、日本語の翻訳にもよるのですが、ある意味矛盾しているのです。自分が四方八方から苦しめられ窮しているのであるけれども、しかしあえて言うなれば内なる人は窮してはいない。私はどうしたらよいのかわからなくて途方にくれているけれども、実は行き詰っていないと。一言で言ってしまえばそれは勇気を失っていないという意味です。

16節に「ですから、私たちは勇気を失いません。」とありますし、1節にも「私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、」とあります。2回『勇気を失わない』という言葉が出てきますが、これは『あきらめない』という意味です。あるいは『屈することをしない』という意味です。実は自分は行き詰っているかもしれない。実は自分は窮してるかもしれない。実は自分は途方にくれているかもしれない。それでも、私は屈することをせずに絶望に身を委ねることをしない。何故なのだろうか?第一番目の理由は、彼には務めに任じられているという、生きていく使命感があったからです。それは1節に明確に出ています。1節を読む。

『勇気を失わない』とあえて言っていることは、勇気を失わせるような状況が山のようにあるからです。それは外から来る問題もあるでしょう。しかし、自分が土の器であり、外なる人に衰えを感じるとしたら、それはなおのことでしょう。ここから先生は、少しその実例をあげて話されたので、私たちは面白く拝聴し先生の外なる人の衰えを認識し、私たちも共感しました。

・牧師仲間ではよく言われることがあります。「礼拝で最後の頌栄がまともに言えなくなったら、とか主の祈りがスムーズに出て来なくなったら自分は引退する」。そう言われるなら、私は10年も前に引退しておくべきでした。(笑)
・今古川先生と競うように、玄関に立って皆さんのお帰りを見送ることをしています。私は二十数年戦士で、古川先生はわずか一年戦士です。古川先生は一生懸命皆さんの名前を覚える為に外に立っておられますが、時々私に「あの方のお名前はなんでしたっけね?」と振られるんですね。そうすると、私も出てこないのです。(笑)
・10年ぐらい前、一度長尾兄の名前が出て来なくて、先生はその時はさすがに落ち込んだそうです。(笑)中学生の頃から兄のように慕った方でしたから、自分はいったいこれからどうなるんだろうと思われたとか。外なる人が衰えるとか、外なる人が敗れるなんてことは簡単なことで、私たちは37度の熱を出しただけで這って歩くようになり、妻の名前を思わず呼んでしまうようになる、(笑)そんな弱い愚かな存在です。

しかしそれでも勇気を失わないと言った時に、あなたにはそれほどの使命感があって生きているのかと言われれば別ですが、自分にはそれほどの使命感がある訳ではないという時に、ではいったい何を根拠に私たちは勇気を失わないのか?しかし、チャーチルの言葉で言う所の“それに屈しない”“決して屈しない”根拠はどこにあるのかと言われれば、キリストは私のいのちを用いてくださるという確信です。

今日横田姉は来ておられませんが、姉妹は先月の終わりから3週間ほど入院をされました。本当に、車椅子を押したり乗ったりして、教会に良くいらっしゃいます。しかし3週間入院されますと、さすがに足腰もしんどくなるのでしょうねぇ。90歳を超えておられます。私たちは姉妹が再び礼拝にいらっしゃるほど強められることはないと祈っています。

婦人会で渡辺姉が証しをしてくださいました。入院している間に横田姉の信仰が一段上がったという証しなのです。以前は何か言うと、口をついて出てくるのは、もうすでにご主人が天に召されているので、「お父さんのいる天に早く召されたい。」という言葉でした。しかし病院で入院されている間に、姉妹から出てきた言葉は生かされている感謝だったとか。天国に行きたいという希望が無くなった訳ではない。でもこんな状態でも、このような苦しみと不自由さの中でも、主の恵みによって生かされていると言うその現実にひたすら感謝している姿を見て、お嬢さんである渡辺姉は横田姉の信仰を改めて見直したと言うのです。これは神さまのなせるわざです。

高津で最高齢の横田姉の、最近の生かされているいのちへ感謝しておられるお姿の話は、パウロも然り、天に召されるより早くに、この世にあって本当にそのような霊的に完成された心の状態は、何という祝福でしょうか!クリスチャンは皆がそうありたいと、私T・Yも思います。

以前、三浦綾子さんがNHKで特集されていました。癌と戦いながら、いのちを振り絞るように、最後の作品を仕上げておられる時でした。毎朝起きて、ご主人と体操をする様子。原稿を読み上げて、ご主人が書き取っておられる様子、どんな食事をしておられるか。普通の三浦さんを追いかけ、そしてカメラは三浦さんの講演会を映していました。

三浦綾子さんは、講演会に集まってこられた人たちを前に、自分の闘病のことをお話しされました。しかし、その中で、自分は決してガンには屈服しない、と話しておられました。先ほどの言葉で言うと、”Never give in”です。そしてその理由としてあげられていた言葉が、先生にはとっても印象的だったそうです。「自分には“使命”がある。ここにお集まりの皆さんにも神さまから与えられた“使命”がある。“使命”というのは、命を使うと書く。人はどんな状況どんな環境におかれても、神さまからその人なりの使命を与えられているのはどういうことか?それは、どんな人生どんないのちも、無駄な人生無駄ないのちは一つもない。そして神さまは私たちのいのちを、最後の一滴に至るまで使い切ってくださる。それも神さまなりの方法で、丁寧に最後の一滴に至るまで、有効に私たちのいのちを使って、神の栄光を顕してくださる。それが“使命”と言う言葉の意味です」。

それを聞いて、今までそういう風に考えたことがなかった、使命というと何か特別な人が特別な能力を発揮し特別な目的の為に生きることだと思っていた、と先生はおっしゃいました。三浦綾子さんには使命があるでしょうけれども、凡人の自分にはそんなものはない。そういう意味ではなくして、神さまはあなた方一人一人のいのちを、とっても尊く使ってくださる。しかも最後の一滴まで使ってくださるというのが“使命”という言葉の意味だと言われますと、パウロが16節で言っている、たとい外なる人が衰えても、内なる人を日々新たにしてくださるイエス・キリストというのがよくわかります。

自分で自分の人生を生きるのではない、自分で自分の人生を使うのでもない。自分のいのちというのは、神さまから与えられて、神さまはそれを使ってくださる。ご自身の目的と栄光のために。パウロの内なる人が衰えないのは、そのように、主が自分のいのちを最後の一滴まで使ってくださるという使命感(注***この言葉にちょっとこだわるとすれば、いのちを使ってくださるのは自分ではなく神さまなので、それは神さまの側の使命感であって、人間の側から言うならばそれに対する確信、あるいは感謝でしょうか?主にお任せする気持ちでしょうか?T・Y)があったのでしょう。

3 )「たとい外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされ」勇気を失わない理由、その2番目。
理由の1番目は2)で語られた、神さまが自分のいのちを使い切ってくださるという確信ですが、2番目はこの世の人生の先を見据える希望があったからです。

17節と18節を交読する。17節の最後に〜だからですと言う理由付けがあります。この理由付けはどこにかかるかと申しますと、16節の1行目「ですから、私たちは勇気を失いません。」にかかります。つまり、17節「今の時の軽い患難(つまり勇気を失わせるようなさまざまな状況)は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすから(勇気を失わないの)です」。
18節「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。
さまざまな患難が私たちに忍耐を教え、忍耐によって、私たちの内側に品性が作られた。その品性はやがて天国に運ばれていく(注***ロマ書5:4−5参照)。であるがゆえに、外から内から降りかかる患難に私たちは屈することなく、天国への希望によって生かされる。

14節にもこう書いてあります。読む。「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです」。これも同じように、勇気を失わない理由です。やがての時に神さまは私たちをよみがえらせて、私たちを造り変えて、イエスさまとともに神さまの御前に立つ時が来る。そしてこのお方は私たちに降りかかるありとあらゆる患難を、栄光に変えてくださる。

冒頭に引用しましたチャーチルの演説を聴いて、なかなか良いと思いましたのは、彼は“決して屈してはならない”と3 回述べた後に、その例外を述べています。こういうことには屈した方がいいと言うのです。彼が例外としてあげたのは『崇高な確信』、私たちで言えば信仰です。あるいは神さまのみこころ、あるいは神さまの愛には、むしろ自分を捨てて屈した方がいいと言っています。

それから彼がもう一つ上げたのは、『良識ある意見』には敢えて抵抗するなと。チャーチルもパウロも、そして私たちも、病に屈せず、現状の問題課題に屈せず、しかし素直に遜って屈していることがある。それは神さまのご計画には屈する。神さまのキリストにおける愛には屈する。やがて来る天国の希望には、心を奪われるまで屈しているのです。

神のご計画に屈する人はあきらめません。しかし頑固ではなく従順です。無理な抵抗はしません。しかし希望を失いません。勇気を失いません。しかし、地上のことに拘泥しません。こだわりません。私たちの心は、最終的には天国にあるからです。(注***ピリピ3:20「私たちの国籍は天にあります」)

先生は、平安に天国に挙げられた方として思い浮かぶのは先ず第一に、玉木兄だそうです。最期、平安に天国に行けた最大の理由は奥様の看病でしょうが、しかし本当に安らかに、がんと闘いながらも実に素直で、玉木兄の従順さと言うのは、恐らくご自身の性格もあったのかなぁと、つまり最期の闘病に至る以前にも、とっても素直で従順な方でいらっしゃいました。でもそういう方が、天国の希望を思い描けば描くほど地上のことには拘泥しない、こだわらない。最終的には天国に挙げられて行くことを考え、決して生きることを、あきらめているわけではない。しかし最期、自分の死が近いという神さまのご計画には、とっても従順にその道を行かれた。

それは、神さまは、私たちの人生の最後の一滴まで使い尽くしてくださると信じること、そして、最後の一滴まで使い尽くしてくださった後に、永遠の栄光が待っていることを信じること。そうしたら、私たちがどんなに土の器でも、外なる人はどんなにへたっても、内なる人は新しくされる。神さまの可能性によって新しくされる。

チャールズ・コルソンの話を私はよくします。ニクソン大統領を補佐し、活躍したやり手の法律家。しかしウオーターゲイト事件で大統領は任期途中で失脚し、彼は側近の中の側近で、唯一実刑判決を受けます。刑務所に入る前に、キリストを信じてクリスチャンになります。刑を終えると、刑務所伝道に生涯をささげて今も現役です。彼は『神を愛すること』と題された書物を書いています。

その中で、91 歳のおばあさんの話を記しています。おばあさんは年を老いて行くにつれ、人のお世話になり自由はきかず、身体的にも精神的にも若い頃の能力が欠落していく現状に、いつも悲嘆に暮れています。老人の施設にいる間に、末の息子の方が先に死んでしまいます。長男の健康が衰えてしまいます。友人の多くはすでに世を去り、もう自分の人生も、生きていく価値がないものと思うようになります。ある日、おばあさんは心の底から主に祈っていました。そして「もう神さま、あなたが私にさせようと思うことがないのでしたら、死ぬ準備はできています。さっさと召してください。」と。

すると神さまから、心に声が届きました。唐突に「刑務所にいる囚人に手紙を書きなさい」。まさか、こんなおばあさんがそんなことをすることはない。自分は胸臆もない、こんなに年を取っている、でも一通の手紙を近くの刑務所に出しました。「囚人の皆さん。私はあなたがたを愛しています。皆さんも、好き好んでそのような場所に収監されているわけではないでしょう。心から同情し、また心配もしています。もしよろしければ、私と文通をしませんか。私から返事を望んでおられたら、まず私に手紙を書いてください」。

この一通の手紙をもって、彼女は辛い境遇にいる人を励ますという働きを始めたというのです。その手紙は、アトランタの刑務所に届けられ、刑務所につとめる牧師が読んで、牧師はおばあさんに80人の囚人の名前のリストを送り返します。

数ヶ月、このご老人は遠く離れた全然違う州に住み、自分は高齢者の施設に入り、でもその小さな部屋の中から、一生懸命に会った事もない囚人の名前を思い浮かべて、しかも彼らの人生の背景を何一つ知らずに、日常的なことから初めて、何十通もひたすら手紙を書きます。

コルソンによれば、このおばあさんにとって、囚人に手紙を出すことは、彼女の喜びの半分に過ぎなかった。つまり、残りの半分の喜びは、次から次へと、返事が返ってくるのです。その手紙は、同じように暖かな思いで溢れていたそうです。返事を書く囚人は、このおばあさんの健康を気遣い、このおばあさんを励まします。中には、アトランタ刑務所に会いに来てほしい、という切実な願いもあったそうです。そうしておばあさんは、生きている喜びを見いだし、刑務所の囚人は更正して、世界に出て行く力を得たという話です。

『内なる人が新たにされる』というのは、突拍子のないことだとわかります。どこから吹いて狂ってくるか解らないほどの課題を神さまがポーンと送ってくださる。その課題に応えるということが、神さまが私たちのいのちを使い切ってくださることであり、課題に応え続けるということが、自分の人生を一滴も無駄にせずに使ってくださるという、主の道に歩んで行くことだと考えたら、私たちもまた勇気を失わず、いや勇気を失いそうになっても、パウロのように勇気を完全には失わずに、今日を生きられる。

Uコリント4:16をちょっと見て見ましょう。『新たにされる』とは受動態です。自分で新しくしているのではない。イエス・キリストが新しくしてくださる。内なる人に力を注いでくださるのです。どういう時にでしょうか?それは、「わたしはあなたの人生を使い切るよ」という主のチャレンジに、小さなチャレンジに応えて行く時に、新たにされ続けて行くのです。それはもしかしたら、ほんの少しだけ自分の伴侶者に優しくすることかもしれない。ほんの少しがんばって、自分と同じように他の人のことを気遣うことかもしれない。ほんの少しがんばって、自分の孫を励ますことかもしれない。もしかしたら、そのおばあさんのように、遠い刑務所にいる顔もわからない囚人を思い浮かべることではないかもしれません。でも孫のことでも、あるいは子どものことでも、あるいは主にある家族のことでも、私たちは同じように思い浮かべることが主の挑戦に応えることになるのです。

マザーテレサがノーベル平和賞を受けたときの有名な言葉があります。報道陣のインタビューがありました。「マザー、この世界が平和になるため、今私たちは何をすべきでしょうか?」と、ものすごく月並みな質問に、マザーは応えました。「家に帰りなさい。そしてもう少し家族を愛しなさい。それがこの世界がもう少し平和になるための第一歩です」。

私たちが『日々新たにされる』と言うことはいったいどういうことなのでしょう?家に帰り、もう少し家族を愛しなさいというような身近なことから、もしかしたら、見たこともない人物に励ましの手紙を書くこととか、あるいは教会の主にある家族を何かの形で励ますことができるのではないかと、はがき一通書くことに至るまで、主は私たちの人生を使い切ってくださると堅く信じたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、若い時にもさまざまな事情によって、さまざまな苦しみを通ります。もし自分がもっと不遇な環境に追い込まれたら、もっと深く悩み、もっと嫌気が差すような生き方であったなら、なんと月並みな何と世的な生き方でありましょう。行く手を閉ざされ、途方にくれることもあります。しかしそれでもあなたは私のような者を用いてくださり、そして地上で得たさまざまな患難を生き抜くことによって、天の栄光の報いを私たちに与えてくださるとの約束のゆえに、どうか勇気を失わずに、身近な者にも、遠くの者にも、私のいのちを差し出すことができるような者としてください。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


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