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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/4聖餐式の説教「ひとつの民となって聖餐に与かる」詩篇23篇
☆礼拝への招きの言葉
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100編)

☆初めのお祈り
私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫びの声を心に留めてください。主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。(この日の交読詩篇5編から1,2,3節)

恵み深い天の父なる神さま、10月の第一の聖日、最後の3ヶ月を始めるに当たり、私たちは聖餐の恵みに与かる為にこの場に集いました。すがすがしい一日を与えてくださり、この秋の多くの恵みを期待しながら、ここに座しております私たちの声を聞き取ってください。

それが叫びの声であれ、賛美であり、うめきであり、願い事であり、私たちは真実にあなたを信頼し、一心にあなたに向かい、この心をあなたに向けています。どうかみ顔の光を私たちの顔に輝かせてくださり、私たち自身があなたから光を受け、栄光から栄光へと姿を変えて行くことができるように、あなたご自身が私たちの前に立ってください。そして心にありますさまざまな不安や、悩みや、悲しみや、苦しみを、あなたの御前にお預けすることができるように、そして私たちの心の内に、勇気と平安と愛を満たしてください。

今日さまざまな事情で、この礼拝に与かることのできない多くの方々を覚えます。特にそれらの方々が病んでおられましたら、助けて癒して同じ恵みを以って届いてください。もし仕事やさまざまな用件でお出かけでありましたら、その行きと帰りとを守ってくださる主よ、どうか助けてください。

今週には、O姉がイギリスから帰っていらっしゃいます。どうかその道のりを祝福し、ありとあらゆる災いや事故からお守りください。さまざまなことを考えながら、特にインフルエンザの危険を考えながら自宅におられる方もいらっしゃいますでしょう。どうかこの小さな群れを、さまざまな病の流行からお守りください。あなたの感謝に溢れてクリスマスを迎えることができますようにお導きください。

この時をあなたの御手に委ねます。どうか私たちの固き心を砕いて、あなたのみ声を聞くにふさわしい者と整えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

☆説教
今朝は聖餐式のために、連続して学んでおりますパウロの生涯から、少し足をはずして、そして詩篇23篇を見て頂きたいと思います。この詩篇23篇に入る前に、私は長い導入をいたしますので、辛抱して聞いていただきたいと思います。

1)映画のあらすじ
先週、久しぶりに良い映画を見ました。しかもとっても信仰的な映画でしたので、この説教のために2回見ました。1 9 4 1年、ナチスドイツがソ連の国境を攻めていきます。舞台はベラルーシの森。ここには隣国ポーランドから、ナチスに追われたユダヤ人たちが安全を求めて多数逃げ込み、さまよっていました。

主人公は、トヴィア・ビエルスキ。他の二人の弟も一緒です。(この兄弟は戦後アメリカに移住し、だんだんこの話が明らかにされて行きますけれども、あまり語り継がれることはなかったと映画の最後に書いてありました)。両親を殺され、このベラルーシの森に逃げ込んで来ます。身の安全を図りながら、食糧を確保し森の生活を始めます。周辺の村では、地元の警察といっしょにユダヤ人狩りと虐殺が始まっています。自分たちの身の安全・食糧確保だけで精一杯なのに、しばらくしたら同じように森を隠れ家として、ユダヤ人たちが助けを求めてきます。気がついてみると、トヴィアはみんなのリーダーになっていました。実話です。

なんと彼らの助けになった人びとの数は数万人といわれ、戦争が終わったときには、このベラルーシの森でトヴィアを中心に生活していた人は1 2 0 0 人。映画では150人ぐらい、丁度この教会の人数ぐらいしか出てきません。私は、はじめ普通のナチスに対する勇敢な抵抗運動の映画だと思っていました。しかし、中身は違いました。

タイトルは、ディファイアンス。英語の意味は、抵抗、しかし単なる抵抗ではなく、英語の感覚から言いますと、勇敢な確固たる抵抗です。そして、物語は実に見事に、聖書の出エジプトの出来事に重ねて描かれていました。ですから、この映画のおもしろさは、日本ではクリスチャンしかわからないでしょう。

原作者は、このベラルーシの森を、イスラエルの人びとがさまよった荒野のように描いています。追ってくるナチスは、いわばエジプトの軍隊です。主人公のトヴィアは、民を率いるモーセです。はじめはトヴィアは自分たちの食料の確保と安全のために、人を増やさないよう厳しく命じます。しかし、そこに女性も子どもたちも老人も、病人も逃げ込んできます。トヴィアたちは、こうした同胞を見捨てることがでませんでした。共同生活が始まります。

はじめは、両親や妻と子どもを殺されたトヴィアは復讐に燃えます。地元の警察の家族を殺しに行きます。しかし、それによって弟のいのちが危なくなり、彼は心に決めます。やつらが動物になっておそってきても、我々は絶対に動物にはならない。復讐には意味がないことに気がつきます。

しばらくしたら、森の人びとは食料のことで争います。ナチスとの銃撃戦、森への空爆、それらのなかでいのちを失い、疲れ果てて、トヴィアに文句を言います。神に絶望し、不平を言います。それはある意味で、イスラエルの民と同じ展開でありました。やがて、ユダヤ人大勢がこの森に隠れていることが発覚して、ナチスは軍隊を送り込みます。小さな共同体は、食料だけをまとめて逃げます。数名の者たちが銃を手にして、迫り来るナチスを食い止め、死んで行きます。

ところが、逃げた者たちを待っていたのは、広大な湿地帯でした。うしろにはナチス、前には広大な湿地帯。それは紅海を前にして、後ろからはエジプト軍が迫っている、絶体絶命のイスラエルの民と同じです。人びとは、トヴィアの指示を仰ぎます。しかし打つ手はありません。トヴィアは、戦う以外にないと考えます。いや、絶対に勝てるわけがありません。恋人に渡していたガンをもう一度確認して、もし捕まったら自決しろと言い渡すのです。勝てない戦を前に疲れ切った共同体、女性も老人も子どもも、呆然と立ち尽くします。いや、一番呆然としているのは民のリーダーでありましたトヴィア自身です。

そのときナチスを食い止めていた青年が、後方から走りついて言います。「こんなところで何をしているんだ。早く渡るんだ。みんな、ズボンのベルトを集めろ。それで、互いの身体をつなげ。おぼれると思う者は、それで誰かにしがみつけ。モーセの時には、神は紅海を二つに分けてくださった。しかし、今回、その奇跡は起こらない。だから、互いをベルトでつなぎ止め、みんなで一つとなってこの大河を渡ろう。必ず渡れる、絶対に生き延びる」。と確信を持って励まします。

呆然と立ち尽くす人びとは、この言葉に励まされて、互いをベルトでつなぎ止めて、広大な湿地帯を渡っていきます。紅海を渡るように、ヨルダン川を越えていくように、静かに黙々と互いにしがみついて、広大な湿地帯を渡っていく様子が、この映画のクライマックスであったと私は思っています。

映画は決して、一人の英雄による勝利ではありませんでした。この青年の言葉、「モーセの時には神は紅海を2つに分けてくださった。しかし、今回はその奇跡は起こらない。しかし必ず神さまは助けてくださる。ここで犬死することを神さまはお許しにならない。だから私たちは今ベルトで互いと互いをつなぎ合わせ、一つとなってこの湿地帯を渡って行くという方法を選択しよう」。それは神を信じないという発言でなく、むしろ神を信じるという発言でありました。

渡り切ったところで、トヴィアの学校の教師であり、もう老いてしまった老人が倒れこむようにして寝てしまいます。そして「私の最期の言葉を受け取ってくれ。」とトヴィアに言った言葉があります。「私は自分の信仰を失いかけていた。もう少しで、失う所だった。でも神に感謝します。神はお前を助け手としてモーセのように天から送ってくださり、我らは一体となってこの湿地帯を渡り切ることができた。」と信仰を告白します。

2)お互いの心を共有し、祈りを一つにして進む共同体が神の民の概念。
私はこの映画によって大変な感化を受けました。この映画によって、旧約聖書の語る「民」という概念が、戦後平々凡々として生きているひとりの牧師として、初めてわかったような気がしました。

同じ言葉を話す者、同じ歴史を共有する人びと、というだけではありません。民とは、神に救われ、神に導かれ、森の中を、湿地帯の中を、川の中を進んでいく共同体です。共同体には、子どももいれば年寄りもいる。勇気ある者もない者も、腕っ節の強い者もいれば、机にしか向かっていない者もいる。銃が使える者も、銃など見たこともない者もいる。力のある者もない者もいる。サバイバルできるガッツのある者も、そんな体験をくぐったことのない裕福な者もいる。しかし、互いを一つにつなぎ止め、だれひとりとして落ちることのないように、一つとなって湿地帯を渡っていく、渡り切るのが民なのです。

森の中では、わずかな食料を共有して、家族が空爆で死んでしまうとその悲しみを絶望を共有し、きっと神さまが道を開いてくださるというその希望をも共有し、祈りを一つにして進んでいきます。それが聖書が語る、民、神の民であるとわかります。描かれているのは、英雄による勝利ではありません。先頭にいる者も、最後尾にいる者も、ベルトでつなぎ合わせて一つになって、小さな子どもは父の背中に背負われて、一人として失われることのないように、互いを守って、この人生という川を渡っていくのが民です。

3)詩篇23篇の解説
詩篇23篇は、ダビデの賛歌と題されています。私という言葉が何度も出てきます。「私」と「主」しか出てきません。ということは、ここにある「私」とは、ダビデなのでしょう。

1節、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」。ダビデは、まさにこのような人生を歩んできました。

羊飼いであるイエスさまに連れられて、時に2節にありますように、「緑の牧場に伏」せていただき、草を食み、ゆったりと休み、豊かに食事をし、「いこいの水のほとりに伴われ」て行きます。

しかし時に3 節にあるように、魂が沈んで、消え去るような悲しみや苦悩の中を経験します。「たましいを生き返らせ」ということはたましいが死んでいたということです。いや、ウリヤの妻バテシバとの出来事は、彼の魂が死んでしまうほどの事件でした。しかし、イエスさまはダビデのたましいを生き返らせ、3節後半、私の為ではない、あなたご自身の「御名のために、(再び)私を義の道に導かれます」。

4節、ダビデは何度「死の陰の谷を」通ったことでしょう。サウルに追われて荒野をさまよったとき、放浪の果てにペリシテの村に逃げ込んだとき、自分の子どもアブシャロムにいのちを狙われたとき、何度も死の陰の谷を通過しています。しかし振り返ってみると、4節後半、「私はわざわいを恐れません」。主がいつも「ともにおられ、あなたのむちとあなたの杖」、---敵から守ってくださり、穴から落ちた時には自分を引き上げてくださる杖---をもって、私に「慰め」、励ましを与えてくださった。

死の影の谷を越えて、明るい未来へと導かれたのでしょうか。そういう時もありました。しかし、この詩篇では次に出てくるのは、明るい未来ではありません。

5節、ダビデは死の影の谷を越えて、「敵の前」に立たされます。「食事をととのえ」というのは、食卓を用意するという意味です。後片付けをする意味ではありません。テーブルを出して、クロスを敷き、食器を並べ、食事を用意してくださる。

「油を注ぐ」というのは、油を塗るという意味です。預言者や王や祭司が油を注がれるというのではない。油を塗ってくださる。髪の毛に油を塗り、つややかな身だしなみに整えてくださる。頭に油を塗られたならば、その塗ってくださる神さまの御手の感覚が私たちに伝わり、なんともいえない平安へと導いてくださるのです。そしてこれから戦うと言うときに、ふと見ると、神さまが注いでくださった「私の杯は、あふれて」いました。

私たちは今日これから、主ご自身が用意してくださった主の食卓を前にしています。そして、私たちは主ご自身が私たちに必要なすべての恵みを与えるためにこの食卓を用意してくださったこと、それは敵の前であっても、死の陰の谷の中を行くような時であっても、主はすべての敵から私たちを守ってくださり、私たちに必要なものを備えてくださり、私たちを義の道に導いてくださるということの証しです。

同時に主は私たちに油を塗ってくださる。もっと力を受け、「やめよ、私こそ神であることを知れ」(詩篇46:10)。さまざまな仕事の悩み課題も主に一旦預けて、もう一回わたしの手の中で、それらを見つめて考え直しなさい。自分自身が切羽詰っていると思うならば、わたしがあなたの人生という杯にどれほどの恵みを注いでいるのかを良く考えてみよ、と言いながら。

4)キリスト教の信仰生活は荒野における寄留
私たちは今朝、後ろからエジプトの軍が迫り、あるいはべラルーシの森を食料かすかに生き延び、そして最期は湿地帯を渡って行くようなものかもしれません。そしてそれが信仰生活なのでありましょう。

谷昌恒( まさつね) さんというクリスチャンがいます。終戦後すぐに、堀川愛生学園というの福祉施設を作り、戦災孤児や浮浪者の世話をするようになる。その後、貧しい子どもたち、親のない子どもたちを集めて、北海道家庭学校という学校の五代目校長になります。この先生は、こんなことをおっしゃいました。

「キリスト教の精神を一言でいうならば、それは【砂漠】に生まれた宗教につきます。それは灼熱の緑の国から生まれた仏教などには全くないものです。宗教は心の平安を説きます。しかし、激しく回っているコマが静かに立っているように、またせわしくペダルをこいでいる自転車が倒れずに走っているような、そういう平安をキリスト教は説くのです。無事がいいのではないのです。試練がないことだけがいいのではないのです。神の支配を信じながら、【砂漠】という厳しい現実の条件の中におかれた民族の宗教は、元々、このように激しいものだったのです」。(注***砂漠にすみつきカッコを付けています)。

【砂漠】と言うよりは、【荒野】と置き換えて言った方がいいでしょう。ディファイアンス(defiance 抵抗)、私たちはせまり来る危険や、自分自身に降りかかるさまざまな難題に抵抗しながら、確固たる信仰を守り通してパレスチナの荒野を渡り切るイスラエルの民のように、ベラルーシの森をさまようあのユダヤ人たちのように、この人生をかけて、いのちをかけて旅をして行きます。私たちはいろんな場所に寄留するでしょう。しかし、それはアブラハムやヤコブの人生もそうであったように、また40年間荒野を旅したあのイスラエルの人々の人生がそうであったように、あくまでどこに留まっていても寄留にしか過ぎない。天国の家を目指して、羊飼いである主の手にひかれて、荒野のような世界を渡って行きます。

荒野にあって、問題課題に迫られ、後ろには敵の手がせまり、前には大きな湿地帯が広がり、行き場所を失い、どうしたらいいだろうかという時、イエスさまは、食事を整えてくださいます。それがこの聖餐のテーブルです。そこで割かれるパンは、主の身体。永遠のいのち。そこで注がれる杯は、主の十字架の血潮、私たちの罪を赦し罪をきよめ、とこしえの契約へと導いてくださる主の恵みです。後ろの敵、前の湿地帯は、私たちには到底なすことの出来ない問題課題であり、呆然と立ち尽くすだけの私たちに、主は食卓を整え、さあここに座りなさい。わたしがあなたを守る、あなたを導く、あなたを助ける、とおっしゃいます。(注***イザヤ41:10、13参照)

5)詩篇23篇は神の民がひとつとなって歌う、私たちの信仰告白
さて、ここです。覚えておくべき事があります。先ほどの23篇は、ダビデは個人的な証しを込めて、「主と私」でこの詩篇を歌いました。しかし、この詩篇に心を合わせて唱えるのは、ダビデ一人ではありません。旧約聖書の神の民が一つとなって、この詩篇を歌うのです。また神の民である私たちも心を一つとして、この詩篇を歌う。今朝の礼拝への招きの言葉は詩篇の100篇でありました。『私たちは主のもの、主の民。その牧場の羊である』。そこでは「私たち」です。

「私」「私の信仰」ではありません。ここにいる一同が、「私たち」です。神の民です。(ここで先生は詩篇23篇を力強く、「私たち」バージョンに変えて読み進められました)。

『主は私たちの羊飼い。私たちは、乏しいことがありません。主は私たちを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私たちのたましいを生き返らせ、御名のために、私たちを義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私たちはわざわいを恐れません。あなたが私たちとともにおられますから。』

私たちは同じ食卓に与かることによって、互いをつなぎ止めます。幼い者も年老いた者も、力のある者も力のない者も、信仰の勇気にあふれる者も信仰の乏しい者も、誰ひとりとして、この世界の沼地に足を取られて、いのちを奪われることがないように、病んでいる人を担い、倒れた者を引き上げ、迷う者を引っ張り、疑い深き者を諭し、不信仰な者の信仰を強め、私たちは愛というベルトで互いをつなぎとめ、一つとなってこの世界を渡っていくというイメージで、この聖餐に与かりたいと願います。

☆終わりのお祈り
まことに敵の前で、あなたは私たちのために食事を整え、私たちの頭に油を塗り、ふと見ると杯は溢れているほど、あなたは私たちの危機的な状況をご覧になり、私たちを導き助けてくださるお方であります。願わくは、私一人がこの聖餐に与かるのでなく、皆が一つとなってこの聖餐に与かることによって、苦労している者にあなたの恵みを祈り、寂しき者に愛を注ぎ、落ちこぼれそうになる者を引っ張り上げ、そして私たちは一つとなってこの人生の大河を渡って行くのだという、深い民としての一体感を今朝の聖餐式に与えてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 22:21
LAST UPDATE: 2011.04.03 - 16:57

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