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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/11説教パウロ(7)「励ましの子バルナバ」使徒の働き11:19-30
☆初めのお祈り
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。(この日の交読詩篇より65篇2,3,4節)

恵み深い天の父なる神さま、晴れやかな日曜日を感謝します。日頃忙しい私たちにとりましては、この連休が休みになりますでしょう。肉体を休めるとともに、たましいを休め、あなたの大庭に住むひとりとして、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りることを感じさせてください。

私たちは咎が圧倒するような小さき者ですが、しかしあなたは私たちのそむきの罪を赦してくださいます。あなたによって赦されていることの素晴らしさ、あなたによって神の子どもとされていることのありがたさ、幸いなことよ、世の中が提供する幸いとは違い、まことに私たちの内なる人を生かしめる、どんな時にも私たちを希望につなぎとめるこの幸い、あなたがいてくださるから、また十字架があるから、私たちは味わうことができます。どうか、赦されて生かされている者にふさわしい礼拝を捧げることができますように、主よ、私たちが今十字架の前に座っていることを覚えさせてください。そして、小さな弱き哀れな私を、覚えていてください。

久しぶりにO姉を迎えることができたことを感謝します。あなたが大いなる発見をプレゼントとして備えてくださり、またチャレンジとしてくださり、日本の隠れたキリストと呼ばれる歴史を表に明らかにすることによって、これが伝道の励みになり、クリスチャンの心となることができますよう、あなたが姉妹の働きを用いてください。

今日初めていらっしゃった姉妹、また久しぶりに来られた兄姉の上にも、等しく恵みを届けてください。また今日さまざまな所に出かけておられて、この礼拝を守ることのできない方々、お仕事の方々の上にも、同じ恵みを授けてください。イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。

☆説教
パウロの生涯から学びを続けていますが、今日はその7回目、「励ましの子バルナバ」。使徒の働きの11章の19節〜30節を見ていただきたいと思います。

レナード・バーンスタイン、ニューヨークフィルの有名な指揮者・作曲家が、ある時こんな質問を受けました。「オーケストラの楽器の中で、何を演奏するのが一番難しいと思いますか?」彼は即答しています。「第二バイオリンでしょう」。私は正確には、第二バイオリンがどのような役割を、オーケストラで果たすのかはわかりません。しかし、バーンスタインの言葉は有名になりました。そしてその感覚はわかります。

いつも人目を引く、全体のリーダー的な第一よりも、バイオリンであれ何であれ、サブリーダーでリーダーを支える第二の存在は、隠れているようで、実はとっても大切だというのでしょう。聖書の中で偉大な信仰者、ぬきんでた神の人を見ますと、必ずその人を支える第二バイオリン的な存在がいます。モーセにはアロンがいました。エリヤを支えたのはエリシャです。荒野をさまようダビデを励ましたのは、ヨナタンでした。彼らには映画で言うならば助演男優賞、助演女優賞というような賞はありません。しかし、第二バイオリンの存在なくして、第一の活躍はない、それは聖書の物語でも同じです。

パウロを考えるとき、彼を励まし、支え、パウロの脇役に徹した人物がいたとしたら、それはバルナバです。彼の本名は、ヨセフ。しかし、クリスチャンの仲間の中では、バルナバと呼ばれるようになりました。それは、新改訳聖書では『慰めの子』と訳していますけれども、『慰めの子』ではなくして、『励ましの子』です。短く3つの点から、彼はいかにして励ましの子であったのか、私たちはいかにして励ましの子になれるのかを今日はお話をしたいと思います。何度か、このバルナバは礼拝で見ていただきましたが、今日はまた違った視点からも見て行きたいと思います。

1 )自分の中のエネルギーを喜んで他者に差し出す、『励ましの子』バルナバ
使徒の働きで、初めてバルナバが出てくるのは、4:36-37 です。交読する。「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」。

イエス・キリストが十字架にかかり、復活されてしばらくして教会ができますが、その教会は貧しい者たちの集まりでありました。まだまだ力のない弱い集まりでありました。バルナバは自分の持っていた土地を売って、その代金を使徒たちの足下におきました。これは大きな励ましになりました。自由に、教会の必要のために使ってほしい。その一部は貧しい人を助けるために、その一部は宣教の働きのために使われたことでしょう。額はわかりませんが、問題ではないでしょう。彼が自分の持てるものを持ってきて、教会のために使ってくださいといった時に、丁度教会の中で外からの迫害が始まっていました。内は乏しく、外からは圧迫され、バルナバの献金はどれほど大きな励ましとなったことでしょうか。

先日、ある教会の先生とお話をしていました。大変辛い所を通っておられる、几帳面で有名な先生です。その先生は、3年前に長年奉仕した教会を離れて、全く別の地方の教会に移って行かれました。ご夫婦で几帳面で、教会堂はいつも整然としてきれいでした。ところが転任された教会は、かなり雑然としていました。

それから2 年かけて、ご自分で教会堂を修繕しました。かわいそうにこの先生は腰を痛め、心を病み、疲れ果ててしまいました。年会でお会いしたときには、別人かと思うほどでした。苦労が報われないね・・・ と天を仰いでいました。

ところが、教会のあるおばあさんが、新しい教会堂のためにと、大きな金額を献金してくださったそうです。先日そのことを、嬉しそうに話しておられました。それで教会がすぐに建つわけではありません。まだまだ必要は大きいのです。しかし、この献金は先生方のご苦労に対する神さまからの励ましだと言うのです。このおばあさんが神さまになさったことが、、ご夫婦ともに弱っておられた先生方の心に、再び火をともしてくださったということです。小さな教会です。ましてそんな形で献金がなされるとは誰も想像していないし、誰も期待していない。しかし神さまは不思議なことをなさる。

バルナバが捧げた土地がどれほどの金額だったかはわからない。しかし自分が持っていた土地を全部お金に変えて、それを捧げ切ったという行動に、迫害に悩まされ、貧しさに悩まされたイスラエルの教会の人々は何かエネルギーを感じた。

人を支える、人を助けるというのは、時には、損な結果になるかもしれません。激しい雨の降る夜、クリスチャンの夫婦がぐっすり寝室で寝ているところ、玄関のドアを叩く音がしました。ご主人は、目をこすり、何事かと思って、一階に下りていきます。ドアの外をのぞいてみると、びっしょり雨に濡れた男が立っています。「すみません。車を押してもらえませんか。バッテリーが上がってしまって、エンジンがかからないんです。だから何とか、後ろから押してください」。

こんな遅くに、冗談じゃない。よくみると、少しお酒も入っているようです。いくら雨でも、真夜中でも、こんな男を助ける方がおかしい。彼は玄関のライトを消して、ドアを開けませんでした。寝室に戻って、「どうしたの? 」と聞く妻に事情を話しました。「あなた、なんてことをするの!ずぶ濡れで、車が動かなくて、困っているのよ。あなたもクリスチャンなら、助けてあげなさいよ」。「おまえ、そうは言うけど、ずぶ濡れになって後ろから車を押すんだぞ、この真夜中に」。そんなに言うなら、お前がやれよと言いたいところ我慢して(笑)ぶつぶつ言いながらも、レインコートを着て外に出ます。

「おーい、だいじょうぶか? どこにいる? 」すると、庭の暗がりの中から、返事がありました。「ここだよ。」男は、酔っぱらって、楽しそうに庭のブランコに乗りながら、時間をつぶしていました。助けてくれと言われ、手伝ってくれと言われ、何とかしてくれと言われ、このざまです。そういうこともままあると思った方が良いかもしれません。

実はこの話はアメリカの神学校の牧師先生から聞いたのです。君たちも牧会すると、こういうこともあるよと、でもめげてはいけない。助けてくれと言われ、手伝ってくれと言われ、何とかしてと言われて、このざまかというようなことを君たちはよく体験する。しかし、それでも助けに行かなきゃならないのが牧師だよ、と言われたことが昨日のことのように思い出されます。ともあれ、バッテリーが上がってしまったら一大事です。車は動きません。

私は今年の春にカルフォルニアに行って、娘が運転している車に乗りながら、ああ、車事情も変わったなと思いました。2 0数年前、アメリカの車の必需品は、ジャンプケーブルでした。どんな人もトランクに入れています。車検がない、定期点検がない国で、車に関わる第一のトラブルが、バッテリーが上がってしまうことなのです。そして、近くにガソリンスタンドもない、助けを呼んでもそうそう来ない、携帯電話などない時代です。ジャンプケーブルで他の車から電気をもらってエンジンをかける、こんなに頻繁に起こるトラブルもない。このケーブル一つで、助けることもあり、助けられることもあります。励ますというのは、そういうことです。

バルナバは自分の財産を処分しました。しかし、励ますということは、それほど大きなことでもないのです。励ますというのは、自分のバッテリーの中に入っている電気を、バッテリーが上がってしまって動かない車につないで、力を送ってあげることです。そんなに辛いならお茶でも一緒に飲むか、時には長い電話の話を聞いてあげることもあるでしょう。メール一本で、励ましのお尋ねのどうしてる?という連絡をすることでもあるでしょう。これで人は生かされるのです。もうだめだと思ったとき、人のエネルギーをもらって立ち上がるのです。バルナバは、喜んで自分の心の内にあるエネルギーを、枯渇している人物、必要としている人物に差し出すことのできた人でした。私たちは何も、自分の財産を全部売り飛ばして自由に使ってくださいと、そこまで大きなことをすることはないのかもしれない。問題は額ではなかった。大きな意味で当時のクリスチャンの心を励ました。だから彼は『励ましの子』と呼ばれた。

2 )誰も信じない時にも、自分の背景を利用して、パウロを信じ引き受ける『励ましの子』バルナバ
次にバルナバが出てくるところは9章です。26節と27節を交読。「サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた」。「ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した」。

状況はこうです。途中からユダヤ教から回心したパウロは、なんとかしてエルサレムにいるクリスチャンとの交わりの中に入ろうとします。しかし、考えても見れば、パウロは長い間教会を迫害する先頭に立っていました。教会は、パウロを殺人狂と見て来ました。ですから、本人が「回心して、これからクリスチャンになりました(宣教師になる)」といっても、誰も信じるものはいません。パウロはクリスチャンになったと嘘を言って、我々をスパイしに来るに違いない、いずれはすべての情報をローマ軍に渡して、我々を抹殺するつもりだ、というのが大方の考えでした。

誰もパウロを信じなかった時、バルナバは彼を信じました。バルナバはレビ族の出身、ユダヤ人の中でも最も保守的、その教育も育ちも最もユダヤ的、その背景を利用してパウロを引き受けました。人を信じるバルナバです。裏切られるかもしれない、期待はずれかもしれない、それでも人を信じるバルナバです。それが『励ましの子』です。

人は不思議なものです。私たちは往々にして考える。裏切られるかもしれない。期待をはずされるかもしれない。もう少し様子を見よう。バルナバはもう少し様子を見ようとは思っていない。彼は不思議なほど身が軽い。周りから驚かれるほどで、「えっ、そんなに簡単にサウロ(パウロ)を信じてもいいんですか?」と言われるほどで、『励ましの子』と言うのは、独特のものを持っている。それは落ち込んでいる人がいれば、自由にケーブルをつないで自分のエネルギーを注ぎ込むし、皆から怪しがられて本来持てる、神さまから与えられた素晴らしきものを活用できない人がいれば、私が引き受ける、私が保証人になると言って、パウロを送り出すことができる人生です。

3 )試練の中に好機を、明るい突破口を見出す『励ましの子』
これが今日のメインですが、11章を見ていただきたいと思います。11章19節を読む。「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外のものにはだれにも、みことばを語らなかった」。

19 節に、アンテオケ教会の事情が記されています。@アンテオケ教会は、基本的にエルサレムで起こった迫害の手を逃れてきたユダヤ人で構成されていた。Aそれらのユダヤ人はユダヤ人以外には、誰にもみことばを語らなかった。迫害の手から逃げることで精一杯、そして、ユダヤ人とギリシャ人という文化と言葉の壁、それを乗越える者はいない。アンテオケにあっても、ユダヤ人だけで集まって、キリストの福音を一緒に学んでいたのです。

20 節を読む。「ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた」。
21節を読む。「そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った」。なんとここから、ギリシャ人伝道が始まって行くのです。それで、
22節を読む。「この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した」。
23節を読む。「彼はそこに到着した時、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主に留まっているようにと励ました」。そして、ここから、
25節、助け手として、バルナバは「(故郷でくすぶっている)サウロを捜しにタルソへ行き」、パウロを表舞台に立たせて、なんとアンテオケ教会からバルナバとパウロがギリシャ圏への伝道旅行に出かけて行くという、その始まりの部分なのです。

アンテオケ教会の人々は、基本的に暗い過去を背負った傷ついた人々です。ギリシャ圏に教会が作られました。でも、国も文化も自分達のものをそっくりそのまま持って来ますから、アンテオケのコミュニティーと接点がない、ある意味、ハンディを負った人々の集まりでありました。そこから、全くユダヤ人とは違う、キプロス人クレネ人という、ギリシャ人に伝道する可能性が出てきました。

教会全体は、こうした新しい展開に飛びついたでしょうか?いいえ、そんなことは絶対にないです。私たちみんなユダヤ人だとしたら、ユダヤ文化とユダヤの食事、因習と旧約聖書とを私たちはみんな守っている。そして、イエスさまを賛美している。ある者たちは全然違う出身で、そこから伝道を始めようと言った時に、「いやそんな余裕はないでしょう。私たちの親族も友人もエルサレムで迫害を受けて、命からがらここまで逃げて来た。自分たちのことで精一杯だ。ましてや言葉も違えば、文化も違う、そんな世界に誰が飛び込んで行くのか?」みーんな役員会もそう決議したに違いないのです。

しかし、神さまのみこころは確実にギリシャ圏へと広がって行ったのです。その様子が、22節「エルサレムにある教会に聞こえてきて」、バルナバが派遣されました。そして、バルナバの単純な反応は「彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜んだ」。あまりにも単純な反応です。彼の頭の中に迫害から逃げてきた人々とか、あるいはギリシャ圏の中でのユダヤ人の教会とか、そんなことは全く関係ない。恵みの可能性がここにある。新しい転換点がここにある。今まではユダヤ人を中心とした福音伝道でした。でもこれからは違う。このアンテオケから、神さまは新しい働きを始めようとしておられるに違いないと、このマイナスの状況で、彼は全然違うプラスのことを見て、それを乗り越えていく。

『励ましの子』は、試練の中に好機を見いだします。『励ましの子』は、暗い問題課題の中に、何か明るい突破口を見ることができます。四面楚歌の状況の中で、それを打ち抜いていくところの何かひとつ新しいエネルギーを見出すことができます。確かに迫害によって、あなたがたは逃げてきた。しかし、この迫害によって散らされたことが、新しいチャンスだ。神さまは、とんでもない試練から、新しい展望を引き出そうとしておられるんじゃないかと、きっとバルナバは教会を前にして切々と訴えたに違いない。

コーリー・テン・ブーンの『隠れ家』の話は何度かいたしました。コーリーとベッツイーは姉妹です。父親が家の中に隠し部屋を作ってユダヤ人をかくまったかどで殺されます。二人の姉妹は、ナチスに捕らえられ、収容所に送られます。自分の家は隠れ家として提供し、ユダヤ人は生き延びます。しかし、この家族は家を失い、父は死に、私たち二人は収容所、でもそれをよしとします。『イエス・キリストこそ、私たちの隠れ家』という意味のあの本のタイトルは実に良くできています。

収容所で二人はシラミに悩まされます。ところが収容所で一緒に祈っていると、コーリーはベッツイーの祈りに「主よ、シラミを与えてくださって感謝します」という言葉を何度か耳にします。「やめてよ、どうしてベッツイーは、このシラミに感謝するの? どうして、いっつもその祈りをするの? 」「コーリー、わからないの?神さまが、このシラミを与えてくださったおかげで、収容所の看守は私たちに近寄らないのよ。このシラミがなかったら、とうの昔に私たちは強姦され殺されているでしょう。このシラミのおかげで、私たちは安全に保たれて、こうしてお祈りできるということがあなたにわからないの?」ベッツイーもまた、『励ましの子』です。

『励ましの子』は、妙なことを言います。みんなが大変だ大変だ、こんな問題課題とあたふたしているところに、『励ましの子』は妙にその中でろうそくの光を見出し、そして新しい展開を考え、そして到底打ち破ることはできないだろうと考えているこの課題の中で、きっと神さまは光を与え、突破口をくださると信じてしまうほどありがたい存在です。こんなパウロ信じられるかとみんな言っている中で、私が喜んで引き受けますよと『励ましの子』はパウロを引き受けます。『励ましの子』は、エネルギーの枯渇している人々を見ると、すぐにケーブルをつないで、その人物を励ますことができます。

神さまはパウロをこれから用いられます。しかし、『励ましの子』バルナバなしにそれはなかった。私たち皆はどこかでいつも神さまによって、『励ましの子』を備えられていなければならない。誰かが私たちを富ませ、だから私たちは今、春です。また私たちはどこかで『励ましの子』にならなければならない。教会がどんなに傾いたとしても、私たちの心がどんなに病んだとしても、それを信じ、私たちにエネルギーを注ぎ、そして絶望の中で、光を見せてくれる友人が、兄弟姉妹が必ずいるものです。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、バルナバがいなければパウロはいない。同じように、あの方がおられなければ自分はいないと、神さま、あなたはそのようにして、私たちを励まし私たちを導き、枯渇した私たちの信仰にエネルギーを注ぐ仲間を与えていてくださる恵みを感謝いたします。どうか私たちもまた『励ましの人』となることができるように、私たちにも人を信頼すること、暗がりの中で希望を見ること、そして枯れてしまった心の中に温かい言葉を、助けを送る勇気を備えてください。イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 22:22
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