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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/6説教「パウロ(11)生ける神に立ち返る」使徒の働き14:1-18
☆初めのお祈り
主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。(この日の交読詩篇よりルカ1:48)

恵み深い天の父なる神さま、今朝は共にマリアの賛歌を歌いながら、マリアを自分自身に重ねて見る信仰を私たちに与えてくださいました。マリアが世界中に知られるしあわせ者と思われるなら、マリアと同じように、あなたはこの卑しいはしために目をとめてくださり、あなたご自身の霊を私たちの内に宿してくださり、この教会に導いて下さり、今日このようにアドベントの礼拝を捧げている私も、またしあわせ者であります。

本来であるならば、あなたの恵みからは遠〜く離れて生きている私たちであります。私たちが教会を見出したのではなく、あなたが我々を迷える子羊だと見出してくださり、この教会の中へと導いてくださいました。今このようにしてここに集っている自分を覚えます。まさに、あなたご自身に手を引かれて、今礼拝を守っているとしか考えることができません。あなたに目を留めていただいたこの幸せをじっくりとかみしめるクリスマスでありますように。またこのキリストの家族の一員とされていることを、決して小さなこととして見逃すことがありませんように。

一年を振り返りますと、辛いこともうまくいかないことも、心と心がすれ違って悲しくなることもたくさんあったに違いありません。しかし、今日の私にとって一番のしあわせは、あなたによって目を留めていただき、あなたが私を愛してくださっていることであります。   クリスマスのイルミネーションを見て、きれいだなぁと思うときに、世の光としてこの世界に来られたばかりでなく、私の人生の光としてこの心に宿っておられるあなたに、思いを馳せることができますように、アドベントの一日一日を祝福してくださり、この心をお守りください。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆説教
(司会者の聖書朗読で)14章を見ていただきました。パウロの第一回の伝道旅行といわれる聖書の個所をしばらく学んでまいりました。
・パウロとバルナバはアンテオケの教会から派遣されすぐに、バルナバの生まれ故郷でありましたキプロスに渡ります。
・そして小アジア、現在のトルコに渡り、その内陸部の町ピシデヤのアンテオケで伝道をしたというのが、使徒の働き13章に書かれてあります。
・そこから場所を移しまして、イコニオムでの伝道が14章の1節に、「イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂にはいり、話をすると、・・・」と書いてあります。
・そして3節にしばらくふたりはそこに滞在して、「主によって大胆に語った。」とあります。
・しかしここでも迫害を受けた彼らは6節に、ルカオニヤの町であるルステラに渡って行った。そこで、7節に「福音の宣教を続けた」と付説されているのが14章でありますが、今日は8節からの個所に心を集中したいと思います。

8−10節を読む。「ルステラのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい。』と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した」。

聖書の中に多くの癒しの記事が書かれていますが、しかしここは独特な表現です。つまりパウロは彼に目を留めて、彼の内に『信仰がある』のを見た。おそらく彼の内の信仰というのは、彼の聴いている姿勢だと思います。あるいはその目つきだと思います。

今日私はある兄弟に、すれ違いざまいきなり「洗礼をお受けになりませんか?」という話を致しました。こういう話というのは、改めて電話をして、長い話をして「洗礼を受けませんか」というのは難しくて、まさにすれ違いざまに「洗礼を受けませんか」というのが、私のやり方です。今までそのようにして洗礼を受けた方々が、この中にはたくさんおられると思います。私は別に思いついたように、声をかけているのではないです。そういう方々が長い間教会に来られて、その方の内に『信仰がある』のが見えて来るからです。そして信仰があるのが見えて来たときに、牧師であるならば、声をかけざるを得ない。それはこの人物に、「自分の足で立ちなさい」と促したこの姿勢と同じであります。簡単に3つの点からお話致します。

1)『信仰がある』とはどういうことか?
私たちはここから、『信仰がある』とはどういうことなのかがよくわかります。それは、道端にすわっていた老人で、パウロの話に耳を傾けるのは初めてのことで、実はあんまりよくわかりません。しかし言えることは、教育もない、そんな人物でありますから、『信仰がある』とは、何か信仰の実績を積んだとか、あるいは聖書の話を充分に理解したとか、きよく正しい生活をして来たということではない。生まれつき足の不自由な人ですから、恐らく彼は盲人バルテマイのように(マルコ10章参照)道端にすわって、物乞いをしていたに違いない。そんな彼にパウロは信仰があるのを見て、声をかけます。彼はイエス・キリストによる神への信仰を受け入れる姿勢があった。それだけのことで彼には充分な信仰があるとされた。道端で同じように物乞いをしていたバルテマイは、「ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください。」と、人が「じゃまだ。うるさい。」とどんなに抑えつけても、ますます彼は大きな声でイエスさまの名前を呼びます。

私たちはともすると、ただ信じているだけで、その信仰に基づいて何かが出来なければ、その信仰に基づいて聖書を学ばなければ、あるいは世の人々のために何らかの奉仕が出来なければ、信仰がだめだと思ってしまいます。しかし本当の信仰とは、生まれつき足が不自由で自分では何もすることができないような状態においてこそ現れるのが、本当の信仰です。むしろ自分が何者であるかのように感じ、自分でさまざまな事が出来るかのように感じ、それに加えてキリストに祈り、キリストの力の助けをいただき何かが出来るのが信仰ではない。

何にも出来ない、ほとんど何も分かっていない、でもこんな自分であるがゆえに、イエス・キリストの恵みを受け入れる備えがある、受け入れたいと願っている、何とかキリストの恵みに与りたいと思っているということが、むしろ真実な信仰が表に出てくるときなのです。素直にパウロが語る福音のことばに引き寄せられるように主イエスを求めて、信じようとする姿勢がこの男に現れていたのを見て、パウロは彼を救いへと招くのです。

2)ルステラの人々の反応
人々は、パウロの語った恵みとその言葉に、またそれを信じた男の信仰にではなくて、奇跡の方に目を奪われます。10節から13節まで交読する。

10節***大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。
11節***パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言った。
12節***そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
13節***すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。

これは詳しく説明した方が解ると思います。11節に、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言い始めて、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと言います。ゼウスもヘルメスもギリシャの神々です。そして、ゼウスが一番おもだった神で、ヘルメスはゼウスの語る言葉を人に伝えるスポークスマン的な存在なのです。ということは、明らかに一生懸命語っていた方がパウロで、後ろでどんと構えていたのがバルナバだったということがよくわかりますね。

さてここでよく考えさせられることがある。つまりルステラというのは、今のトルコです。トルコというと、今の私たちにとっては、イスラム教の国というイメージがありますが、イスラム教が起こったのはこれから700年後のことで、この当時の小アジアはギリシャ文明が栄えていました。

ギリシャ文明というのは、日本と同じようにたくさんの神々を真じる多神教の世界。アテネでは人口の数よりも偶像の数の方が多いのではないかというギリシャ詩人の言葉が残っています。そしてギリシャの神々というのは、日本の神々と非常によく似ています。それは神々と人間との間の区別がとってもあいまいなのです。神は簡単に人の姿をとって、この地上に降りてくる。あるいは神の霊がその人の上に降りるという言葉を使います。日本でも、ある霊が人間の内に降りてきた、そしてその人物が神の言葉を語るという発想が日本にもありますでしょう。

ギリシャでも同じように、人間がさまざまな偉業を達成しますと、神として祭られますよね、日本でも。明治天皇が祭られるのは明治神宮だし、天皇のことを現人神(あらひとがみ)と言いますでしょう。なにか偉大な事をなしますと、神として祭られるというのはギリシャ神話でもそうです。ですからたくさんの神々がいるという点では、このルステラという町と日本の私たちとものすごく似ているのです。同じような感覚でルステラの人々はバルナバとパウロをゼウスとヘルメスとして崇めます。

もう一歩掘り下げてものを推してみましょう。ルステラにはこういう伝説があります。昔その地方の貧しい農夫の家を、ゼウスとヘルメスの二人の神々が、やはり人間の姿をとって訪れたことがあります。貧しい農夫の夫婦は、訪れて見知らぬ旅人としてやってきたこの神々を、神々であることを知らずに精一杯ゼウスとヘルメスをもてなします。しばらくしてこの地方に洪水が襲います。しかし、その洪水を彼ら夫婦は免れます。それがゼウスとヘルメスの助けであって、知らずにこの二人をもてなしたが故に、その地方を襲った自然災害から彼らは守られたという伝説が、当時存在していたのですね。この伝説を受け継いできたルステラの人々は、いつの間にか、ゼウスとヘルメスが人間の姿をとって、再びこの村にやってくるに違いないということを熱心に期待するようになった。だからパウロとバルナバによってなされた奇跡を見たときに、すぐに伝説と二人を結びつけて考えたというのが、詳しく説明した状況ですね。

そして13節を見てください。これはパウロとバルナバにいけにえを捧げようとしたのです。一体どういう心理か?私たちも洪水から守られて救いに与りたいと人々は考えた。神々をちゃんと迎えて、大切にもてなした者には恵みが与えられた。でも逆に、それをしなかった者は、洪水によって流されてしまうかもしれないような災いが来る。その災いに陥らないで、恵みに与るために、彼らはいけにえを捧げ礼拝をした。ここに彼らが神々というものをどのように見つめ、感じているかがよくわかります。

日本人の宗教観と同じです。ひとことで言いますと、神々というのは、きちっとおまつりをして粗相のないようにしていれば、お恵みを与えてくださる。でもちゃんとおまつりをせずに、ないがしろにしてしまったら、つまりご機嫌を損なうようなことになったら、恐ろしい災いがやって来る。日本人の護国豊穣の神というのはそういう神で、機嫌を損なうことをすれば、飢饉を与えるような神なのです。

私たちにとって、ご先祖様も同じですね。日本人はご先祖様が守ってくれるといいます。正しくご先祖様を祭れば、ご先祖様は守ってくれるけれども、その反面、私たちは「先祖のたたり」というものの言い方をします。つまり、先祖を祭ることをせずに、先祖に感謝を表すことをしなければ、やがて先祖のたたりがあなたを襲う。この宗教感覚は多かれ少なかれ、私たちの中にもはいって来るということを忘れないようにしたい。

今年、(来る年?)私たちは元旦礼拝しますけれども、帰りに皆さんは何にも持たずに帰る。私は昨年一月の仕事始めのあたりに、お茶の水に行って(教団の)本部の先生方と一緒に食事をしたのですが、そのエレベーターの中で周りを見たら、皆さん破魔矢を持っておられます。お茶の水のそばには神社が多いですね。そして、仕事始めで、まずはみんなで神社へ行って、初詣をして、それから破魔矢を持って、食事をして新鮮な気持ちで帰るという設定で、私たち牧師はみんな口を揃えて言いましたよ。「教会も破魔矢を出したらどうだろう?」(大笑)。牧師は誰でもそう思う。破魔矢を出したらもっと人が来るんじゃないか?破魔矢にみことばを書いて、そして「これが今年の破魔矢です。」と。するとなるほど教会に初詣に行ってよかった。元旦礼拝に行こうという感覚が出るじゃないですか?(笑)それはね、ある意味名案だと思うのです。(笑)

日本人的な宗教感覚がキリスト教の中にもはいってきます。そしてさまざまな用件があって、元旦礼拝を守らなかったら、今年一年間の恵みを逸したかのように、妙な不安と恐れを覚えるのです。私は万難を排して元旦礼拝に来られたらいいと思いますよ。でも、元旦礼拝にもまして大切な家族の用事があるならば、それを実行しても私たちの人生を追求されるような神さまではないですよ。神さまにとって大切なのは、ご自身が喜ばれる道を私たちが歩むかどうかなのです。何かものを差し出し自分の時間を捧げ、そのことによって、すべてが守られているかのように錯覚する、そして自分の人生が何とか無病息災で試練に遭わずに、むしろ一年間の護国豊穣をその豊かさを、破魔矢一本で自分の身に受けようとする思いがこれっぽっちでも働くなら、そんなことはしない方がいい。だから今年も(教会が破魔矢を出すことは)しません。(笑)

今、渡辺姉に何とか時を取っていただいて、元旦礼拝のときの来年の聖句のしおりをぜひ今年も作りたいという思いがあるのですが、あんまり後ろに行かないよう、なるべく早く元旦礼拝のみことばが与えられるよう、お祈り戴きたいと思います。

ルステラの人々は長い間ゼウスとヘルメスの再来を待っていた。そしてちょうど二人は、パウロがヘルメスのように雄弁に語り、バルナバがゼウスのように後ろでどっしり腰を構えていた。この二人が現れたときに、人々はまさに(神々が人間の姿をとって・・・)と思って礼拝を捧げようとしたのです。ルステラの人々にとって礼拝は、まさに恐れを鎮め、安心、平安を得るための手段であったということがよくわかります。

3)この事態に抗議しつつも、福音を積極的に宣べ伝えるパウロ。
14節と15節を交読。
14節***これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、
15節***言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。

14節の『衣を裂く』というのは、激しい抗議の表れです。
そして、15節は謙遜ですね。これはよくメッセージされることです。まあ、牧師がこれだけほめられれば立派なものだ。これくらいはほめてほしいという思いが牧師の中にないわけではない(笑)。さまざまに批判され、ひどく指を指されているとき、もう少しお手柔らかにと牧師は思うもので、パウロは偉いなと思います(笑)。でも実はですね、中心はそこにはない。

パウロは自分たちを崇めるなと言ってるだけでなく、むしろここで積極的に伝道するために、15節で「むなしいことをを捨てて」、「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返って」ほしいと言いました。

彼は、私たちは神ではないから礼拝などしないでくれ、と言ってるだけではない。むなしいことを捨てて、生ける神に立ち返ってほしい。『むなしいこと』と『生ける神』との違いです。新共同訳聖書では、『むなしいこと』を『偶像』と訳しています。偶像でもいいです。彼らのやっている礼拝というのは、偶像を拝むようなもので、ひとことで言えばむなしいこと。それを捨てて『生ける神』に立ち返ってほしい。

パウロはこの世界に偶像がどうしてあるのか説明します。パウロはこういう説明の仕方をします。神はこの天地万物をお造りになる。その天地万物を造るときに、人間に永遠へのあこがれ、永遠の神を思う心をもお造りになった。しかし人間はそんな神よりも自分の欲望を満たすことばかりを考えている。であるがゆえに、自分の欲望をかなえてくれるものを別に神とします。天地万物を造られた神を拝むよりはもっと簡単にもっと身近に、いかにも自分の願いをかなえてくれそうな存在を神とする。それが時には人である。イエスさまが偶像と呼んでおられる唯一のものは何だと思いますか?偶像だと言われる唯一のものはお金です。富は偶像であると考えられた。

私たちが偶像と考えると、お地蔵さまであったり、何か形をした像として思いがちですが、しかし私たちが神を神として崇めず、神以外の『もの』に自分の信頼を寄せるのも、偶像を崇めていることになるのです。それは本来、神が私たちに与えられたもので、必要のためにいくらでも使えばよい。しかし、それに心まで売り渡し、心まで仕えるとしたら、それはあなたの欲だと、もっと豊かになりたい、もっと自由に金が使いたい、自分の好きなことをもっと自由にやってみたいと思う気持ちが、偶像になって行くのです。

16節を読む。***過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
『許しておられた』ということはそのままにしておかれたということです。

17節を読む。***とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。

イエス・キリストを知らない人々であっても、神の恵みに感謝することが出来るではないですか?その恵みを与えておられるのは神さまですよ。天地万物をお造りになり、すべての生きとし生けるものにいのちをお与えになるのは神です。その神はあなたを愛しておられ、あなたを創造し、あなたを保ち、あなたを購うことがお出来になる。その神はあなたにその愛を示し、あなたの罪を購うためにキリストをこの世界に贈られた。それがクリスマスです。「むなしいことを避け、生ける神に立ち返れ」というのは、クリスマスに込められた、天からの語りかけであります。

クリスマス商戦が世界で一番早い国は日本だといわれています。11月にクリスマスはさすがに私たちは早いと思いますね。サラリーマンでありますが、自称クリスマス・イルミネーション・コンサルタントという男性が、先日ラジオに出ておられました。飾りつけは楽しいのですが、撤収が大変なこの作業を毎年クリスマスに飾られる、何十万もかけてというので、どうしてそんなにがんばるのかと質問されたら、「私はただクリスマスが好きなんです。」という単純な答え。私はそれを聞いて結構だなぁと思いました。でも好きだったら、せめてクリスマスに世の光としてお生まれになったキリストの誕生日であって、光をもって暗闇を照らし、暗い世界に温かな光をキリストのようにともしたいという希望をもって、私はこの家をこんなに電球で飾っているのですと、それぐらい言ってもらえたら拍手なのですが、(笑)まあ、ぜいたくな注文だろうと思いますが・・・。

でも間違っても死んだ人間を祭るような、拝むようなむなしいことは、やめようではありませんか。病や罪から、クリスマスというのは、生けるまことの神が、私たちを救うためにこの世界に来られた。その事を覚えて、生ける神に立ち返る。もし私たちの人生でこの生ける神に立ち返ることなしにクリスマスを祝うとしたら、それはアドベントになっていない。

最初に話を戻しますが、パウロは、その足のなえた人の内に信仰があるのを見た。アドベントにこの世界に来られるとイエスさまは一体何をご覧になるのか、この日本の社会をご覧になるのか、この世界のさまざまな争いをご覧になるのか、いいえ、そうではない。イエスさまはご自分に属する私たちキリスト者の心をご覧になる。相模原のイルミネーションに飾られたその家をイエスさまはご覧にならない。でもイエスさまは私たちの心をご覧になる。そこにこの足のきかない人のように、バルテマイのように、何もできなくてもただ、「主よ。」と叫ぶような信仰があるかないかをご覧になる。その事を覚えて、自らの信仰を省み、いろんなものがくっついた信仰ではなくして、ただ単純に、幼子のように、イエスに信頼する。それが順調な時も試練のただ中であっても、豊かな時も、貧しい時もイエスに心から信頼を寄せる。その意味でこの方に立ち返ろうではありませんか。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、私たちの前にもしバルナバやパウロのような出来事が現れたら、思わず、むなしいことと知りながら、そちらに心を向けるような愚かな者たちでありますが、あなたを造り、あなたを導き、あなたを贖い、あなたを保っているという生ける神に立ち返りなさいとパウロが熱心に説いたように、私たちもまたイエスに立ち返ることによって、クリスマスを祝うことが出来ますように。またそのようなクリスマスがこの日本で祝われますように。

パウロが一生懸命このギリシャ圏で伝道したように、私たちもまたこの日本で生ける神を宣べ伝えることが出来ますように、力を授けて下さい。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

☆感想をひとこと
今日の個所で、一番印象に残ったのは、日本のお正月の状況とこのギリシャ圏のルステラの出来事が似ているということでした。そして、パウロの連講でもあるし、またクリスマスのあるいはアドベントのメッセージにもなっていることを感謝しました。

思い出したことは、我が家の長男(34歳)が3歳のころ、大阪に住んでいて福岡に里帰りをした時、親戚のおばあさんと一緒に歩いた時がありました。そのおばあさんが、家の中の仏壇はもちろん、道端でお地蔵様とか、社のようなものがあると、必ずそこで足を止め、手を合わせて一呼吸してまた歩き出すのにちょっと驚いたのですが、息子がそれをいつの間にか、まねをするようになって、その後、長女が生まれてお雛様を飾った時も、いつもその前で手を合わせてお辞儀をして、なにやら「あっ」という声とともに、姿勢を戻すことを何度もやるので、おかしくてたまりませんでした。

その頃は、私と2つ違いの三重県の姉のところと、よく市外通話で子どものことなどを話していたものでした。姉はちょうどその頃信仰にはいって、教会生活を送っていた頃だったと思います。息子が何にでも、神さまと思うのか真剣にお参りをすると、ちょっと笑える話をして、「きっとあのおばあさんの信仰心の影響だと思う。」と言うと、「ふ〜ん、それが信仰心というの?何にも救いにはなっていないと思うけど。」とか、聖書にある(17章23節)『知られない神に』の話は、この姉から聞いたように、ぼんやりとですが思い出し感謝でした。その姉も今は仕事のために教会にもあまり行っていないようで、バリ島の姉にも、この姉にも、このクリスマス、神さまがまた光を差し込んでくださるように祈っています。

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DATE: 2011.03.26 - 22:32

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