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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/13説教「パウロ(12)信仰にしっかりととどまる」使徒14:19-28  
☆初めのお祈り
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
(この日の交読イザヤ書11章1−10節より、1−2節と9節後半)

恵み深い天の父なる神さま、アドベント第3の聖日を、愛する兄弟姉妹と共に、賛美を聴き、また賛美をし、迎えることが出来ましたことを心から感謝いたします。一年間、さまざまな出来事がありました。さまざまな苦難、喜び、悲しみ、叫び、私たちの内側から時に空しいため息となり、時に熱烈な祈りとなり、あなたの前に告白してまいりました。
   
しかし改めて、麗しき、優しき幼子イエス・キリストの誕生をこの心に思い描く時、天の大広間から降りて来られ、嘆きの谷にいる私たちを、哀れな人間と等しくなって慰めてくださるあなたのみ恵みを心から感謝致します。私たちは依然として、嘆きと迷いの中にいるかもしれませんけれども、ひとしく憐れみに満ちたあなたが、私たちと心を一つにして、その谷間をともに歩んでくださっていることを覚え、そこもまた喜びの谷に変わります。

あなたは罪深き私たちのすべての負い目を代わりに背負い、十字架の上で償って下さいました。ですからこんなに弱い、哀れな私もまた神の子どもとなることが出来ました。イエスさま、どうか、それを心から喜びクリスマスを思い描くこの季節であらしめてください。何にもまして12月の忙しさが私たちを圧倒しますが、どうかそれらの中で、讃美歌のメロディーを聴くたびに、またみことばの霊想を心に祈るたびに、まことのクリスマスの恵みの世界を、小さな心の中に広げてくださり、生かされていることを喜び、また来年もあなたに信頼して進んで行くことが出来ますよう助けてください。

今日、ご高齢の故に病の故に、礼拝に来ることのできない兄姉を覚えます。特別に壊疽の病と闘っておられます小林兄を覚えますが、あなたは多くの癒しをすでに与えておられ、兄弟は一日も早く教会に来てその事を証ししたいと願っておられますが、その願いを聞きとめてくださり、あなたが無事に18日に手術を終えて、教会に来ることが出来るよう導いてください。

私たちは一泊修養会というこの教会初めての試みを来年しようとしていますが、互いにその交わりを深め、互いのために祈り合い、仲良く支え合う兄弟として、キリストの家族としてさらに育ててください。そのために実行委員会を立ち上げて行きますが、あなたが委員のひとりひとりを祝福して、よき修養会となすことが出来ますよう導いてください。

しばらくみことばに耳を傾けますが、この固い心を砕いて、柔らかなスポンジのように恵みを吸収することが出来ますように。すべてを御手に委ねて、イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

☆説教
今朝は使徒の働きの14章を読んでいただきました。先週の説教を思い出していただきますと、先週はパウロとバルナバがルステラという町で伝道した時の出来事でした。
14章9−10節、足の不自由な人に信仰があるのを見て、パウロは「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と命じます。癒されたこの男を見て、人々はバルナバをゼウス、パウロをヘルメスとして拝もうとします。パウロは訴えます。15節、「このようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返りなさい」と。これこそが、またクリスマスのメッセージではないか、とお話をしました。むなしいクリスマスのお祭りを捨てて、生ける神に立ち返り、キリストの降誕を祝おうではありませんか、と。

さて、今日の19節の場面は、同じルステラの町です。ここでもユダヤ人たちは、彼らを捕らえて、石打にします。
19節を読む。「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した」。パウロは死んだようにぐったりしていた、そして町の外に引きずり出された。淡々と書かれていますが、とても苦しい迫害です。

20節を読む。「しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった」。彼はその町を出ざるを得ない。そしてデルべに向かいます。

21節を読む。「彼らはその町で福音を宣ベ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、」と、彼らはそこでも福音を宣べ伝えて、信仰に入る者たちが多く与えられたと書いてあります。そこから再びルステラ、イコニオム、アンテオケと、今まで来た道を逆の順番に引き返して行きます。自分たちがどこにあっても迫害された町々に戻っていきます。なぜなら、それらの町々には、自分たちが福音を述べ伝えて、信仰に導かれた兄弟姉妹たちがいるからです。そして、その道のりで、パウロが語ったことに目を留めましょう。

22節を読む。「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』と言った」。

1 ) 教会は迫害の中にありました。
●パウロとバルナバは、この伝道旅行でどれほどの危機に遭遇したことでしょう。ピシデヤのアンテオケでは、ほとんど町中の人々が主の言葉を聞こうとして集まって来たのですが、ユダヤ人たちが妬み、口汚くののしって反対しました。(13: 44-45)
13章50節を読む。「ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した」。これがピシデヤのアンテオケ。
●ところが次のイコニオムでも、14章2節を読む。「しかし、信じようとしないユダヤ人たちが異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」。
●そして、見ましたルステラでも、石を投げられ、死んだようになって、町の外へ引きずり出されます。(14:19)

ということは、どういうことでしょうか?パウロとバルナバは、ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラと足を運んでいきますが、どこにおいても、彼らの伝道によって救われた人々がいた、そしてどこにおいても最終的にパウロたちは行った先々で迫害にあった。しかし、ここに記されていないのですが、同じように、彼らの伝道によって主イエスを信じた信仰者たちも、当然迫害にさらされていたということです。

私は、日本のキリシタンを考えます。1614年1月の「伴天連追放文」が公布され、2月には京都から宣教師が去り、長崎へと護送されていきます。4月には、京都に残り棄教を拒んだキリシタン達71名が津軽へ流罪となった。迫害は激しくなります。各地で宣教師や日本人信徒を摘発し、11 月には高山右近は一族と共にマカオに追放され、長崎の11の教会は焼かれます。
● 1619 年京都大殉教52 人火あぶり
● 1622 年長崎大殉教55 人火あぶり
● 1623 年江戸大殉教50 人火あぶり
● 1624 年東北大殉教109 人殉教
● 1624 年平戸大殉教38 人殉教

新井白石の書物によりますと、この1600年代の前半で、殉教したクリスチャンは20万人〜40万人と言われています。正確な数を弾き出すことはできない。初代教会の時代に一体何人のクリスチャンが殉教していたか?パウロが初め小アジアを伝道していた頃(今です)、迫害はこれほど激しいものではありません。しかし、やがてもう15〜20年しますと、ネロのようなローマ皇帝がキリスト教を迫害します。そして徹底的に教会を潰して行きます。焼いて行きます。あのアッピア街道(注***ローマからブルンディシウムまでの570キロ、幅4.8メートルの街道。聖書では使徒28:15の欄外にその名が出る。T・Y)に十字架が電信柱のように両側にずらーっと立ったという記録があります。

そういうことを考えると、私たちはこのパウロとバルナバがピシデヤのアンテオケで迫害を受け、イコニオムで迫害を受け、ルステラで迫害を受け、しかし自分たちが迫害を受けて来た道であるのに、もう一回そこへ引き返して、22節で彼らが「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧めた」意味を考えさせられます。

2)信仰は戦って守るもの
私の今朝の話の1番目は、教会は迫害を受けたということ。2番目は、であるがゆえに、クリスチャンは信仰の戦いを強いられた。教会やクリスチャンが迫害に遭うということは、すなわち信仰は戦いであったということです。迫害そのものが問題というよりも、信仰そのものが戦いであるということを、私たちはどこかで覚えておかなければなりません。

今年はプロテスタント宣教150年の年でありましたから、ご一緒に黙示録に出てくる7つの教会から、異教社会、迫害の世界において、どんどん社会の周辺に追いやられていく、あのクリスチャンたちと私たち自身を重ねました。60数年前、戦争中、日本の教会には同じように国家の弾圧によって殉教した牧師がいました。私たちも本当に簡単に忘れてしまいます。

今年は平成21年ですけれども、あの21年前、昭和天皇が容態が悪くなったのが11月、そして亡くなって大喪の礼が2月でした。私たち教会人は、世間から疑いの目がなくなったのはわずか20年前です。当時紅白歌合戦をやるかやらないかというのは、大ニュースになりました。私たちクリスチャンもクリスマス・キャロルをやめるべきではないかというような雰囲気さえあったのです。そして皆さんも覚えていらっしゃいますでしょう。

そのようにわずか20年前、どんどん社会が右に傾いて行くような時期に、明治学院、フェリス女学院それから他の2つのミッションスクールの学長が、あたかも天皇制が再びやって来たような日本の雰囲気に対して抗議の声明文を出した。そして公表したその週にフェリス女学院の弓削(ゆげ)先生の学院長室に銃弾が撃ち込まれた。わずか20年前ですよ。当時まだカラオケボックスがそんなになかった時代ですが、全部カラオケは閉鎖されました。天皇がご病気で苦しんでいるときに、歌を歌うとは何事だと。紅白歌合戦をやるかどうかというときに、教会がクリスマスに歌を歌うとは、一体どういうことだと。日本というのは、そういう世界なのだと思います。

数週間前に、小沢さんが、キリスト教は「排他的独善的で心の狭い宗教だ」という発言がありましたけれども、日本であのことを話題にしている人はごく少数です。でもあの小沢さんの発言というのは、ヨーロッパ列強諸国でアメリカで、大変問いただされています。 私たちは普通のこととして聞き流すわけですけれども、しかし海外では大変な騒ぎです。そんな日本とこれからどうやってつきあっていくのか?小沢さんが何百人もつれて中国を訪問する気持ちも何となくわかる。あの雰囲気では、ヨーロッパに小沢さんは行くことはできない。日本って一体どういう国なのだろうか?

60数年前、戦争中、日本の教会は、国家の弾圧によって、多く殉教していきました。公職から追われたクリスチャンがたくさんいました。戦後、そういう物理的迫害はないしにしても、信仰の戦いは同じように存在しているのです。

私たちが語る伝道の呼びかけを無視して、人々は一向に耳を貸しません。全国にミッション・スクールは2300あるのですが、子どもを入学させるために親たちはこぞって一生懸命になる。でも、子どもたちがキリスト教に染まるのを親は嫌がります。不思議なものですよ。ミッション・スクールでは毎日礼拝があります。教会でさえも毎日礼拝はないです(笑)。しかし一旦ミッションスクールに入れたら子どもたちは毎日礼拝に来る、そのことをよしとして、親は子どもを送り出すのですけれども、神の愛に触れて子どもが洗礼を受けようとする時には、ほとんどの親がそれを止めようとする。日本ってどういう国なのだろう?主イエスを信じて教会に繋がり、日曜日に礼拝を守りつつ生きることは、それだけで大変なことであり、常に無言の迫害を受けることになる。

そう思いますと、このパウロとバルナバによって救われた教会の人々と、私たちを思いやらざるを得ない。それは、まさにパウロが22 節で語っているように、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」。ヨーロッパのクリスチャンは、アメリカのクリスチャンは、アフリカや中南米クリスチャンは果たしてそうなのかどうか?神の国にはいることイコール多くの苦しみを受けることになるのかどうか、それは私には正確には分かりません。

しかし、信仰にはいるということは、信仰のために戦うということには変わりがない。苦しみから救われるために信仰にはいった。なのに、信仰にはいったとたんに、逆に苦しみを感じるようになったかもしれない。では、この苦しみは何なのか?祝福を期待して信仰に入った、そして試練が来ると、「こんなはずではなかった」と、信じることをやめてしまうということが実際に起るのが世界中共通しています。

でも、本当の信仰とは、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった神に立ち返ることです。そして神に立ち返ることを、サタンが最も嫌うのです。信仰というのが、神の子どもとなって永遠のいのちを与えられることであるならば、地上の御利益ではなく、神の国の幸いに生きることであるとするならば、そしてそれこそが、自分の人生の真実な支えであるならば、それを奪おうとする力、その道から惑わそうとする世の力、サタンの策略に立ち向かう戦いを止めてはいけない。迫害の中にあろうとなかろうと、信仰は戦わなければ守れないものなのです。だからある時に、そしてほかの書簡でも、パウロは「心を強くしなさい。そしてこの信仰にしっかりとどまりなさい」。(T・Yはテモテ書簡を特に思い出しました。Uテモテ3:11に、この地方での迫害のことが書いてあるからです。)

今日の説教のポイントの第1番目は教会は(パウロとバルナバだけでなく)迫害の中にあった。2番目は信仰は戦いなのだということ、3番目はこの信仰にしっかりととどまることが大切。

3 )信仰にしっかりとどまることの大切さ
ですから、パウロとバルナバは、その戦いの中にある兄弟たちを力づけるために、ルステラ、イコニオム、そしてピシデヤのアンテオケに、(伝道して迫害されて来た町へ順番に)再び戻って行きます。

パウロとバルナバが、今朝、高津教会に立っているとしたら、何をメッセージするでしょうか?このメッセージと同じだと思います。パウロ先生は日本の事情を少し訊くのです。パウロ先生はインターネットで日本のキリスト教を検索します。すると、キリシタンの迫害が出てきます。すると出てくるのは人口の1パーセントのキリスト教と出てきます。そして戦前、明治に入ってからの延々と続くキリスト教の迫害を見る。そしてやっぱりインターネットで見て、同じことを言うでしょう。「心を強くしなさい。そしてこの信仰にしっかりとどまりなさい。私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経ることになるでしょう。日本という世の中との戦いもあれば、またサタンとの戦いもあります。平々凡々と生きながら、信仰というのは守れるものではありません。信仰というのは戦いなのです」。

「信仰にしっかりととどまりなさい」と書いてありますが、新共同訳聖書では「踏みとどまりなさい」です。踏みとどまれとはしっかりと踏ん張って、足がずれないように頑張れ。これは、必ずしも私たちの努力で、自分の信仰をしっかり踏みとどまらせるものではない。信仰とは、先週学びました。生まれつき足の不自由な人物が一生懸命パウロの話すことに耳を傾けていた。パウロはその人物の中にある信仰を見て、癒しの恵みが注がれるように、「自分の足で立って歩け」と言います。その時、信仰ってどういうものか話しました。信仰というのは、自分が何がわかっているとか、出来るかではなく、神さまが与えようとしているものを喜んで受ける姿勢があるかどうかだと、言いました。

今日、もう少し言い方を変えますと、信仰というのは、私たちが神さまに対して、どういう心、どういう気持ちを持っているかではない。信仰の土台にあるのは、逆に神さまは私たちをどう思っておられるか。(私たちが神さまをどう思うかではなくして、)神さまが主イエス・キリストにおいて成し遂げられた救いの御業に顕われている、神さまの愛、神さまの憐れみ、恵もうとしておられる神さまの心。先にあるのは私たちの心ではない、神の心であって、信仰というのは、その神の温かな愛を、私が素直に子どものように受け取ることです。神さまが私たちに対してどのようなみ心を抱いておられ、何をしてくださるかに心を集中すれば、信仰に踏みとどまることが出来る。

逆に私たちが十字架の愛を見失って、そして自分たちに押し寄せるところのさまざまな問題課題に心を奪われたら、「神さまは果たして私を愛しておられるのだろうか?」と、私たちはとたんに信仰が崩れる。愛する者を天に送り、自分の事業がうまく行かなくなり、「ああ神さまは最早私から顔をそむけておられるのではないか?」と思うのは、自然なことです。ダビデもそういう祈りをしています。しかしそう祈りながら、彼は夜中に心を静めて、今まで神さまがどれほど偉大な愛を自分自身に注いでくださったかを思い出す。それは神さまの心に、神さまの愛に心を踏みとどまらせて、恵みを見失わないように踏みとどまっているのです。

へブル書の記者も言っているように、(へブル12:2)「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」ように。目を離さないということは踏みとどまる私たちに一番大切な、簡単にできることです。またパウロがガラテヤ書(3:1)で記しているように、「目の前にはっきりと示された、私たちのために十字架にかかってくださったイエスから目を離さない」ように。その十字架のキリストから目を離したとたんに、私たちは福音に踏みとどまることが出来なくなってしまう。パウロが「信仰にしっかりと踏みとどまる」と勧めているのは、主イエス・キリストによる救いのみ業によって示されている神さまの恵みのみ心のもとにとどまり続けることなのです。

私たちは、自分でいくら強い心を持とうと決意しても、それで自分の心を強くすることはできません。信じる気持ちを強く持とう、と思っても、そう思う自分の心そのものが弱ってしまい、力を失います。力づけられ、強くされるのは、主イエスの愛に踏みとどまる以外にありません。「私のためにご自身をお捨てになった御子を信じる信仰によって生きている。」(ガラテヤ2:20)というのがパウロの姿勢です。御子は私のためにご自身をお捨てになった、だとしたら、父なる神は御子といっしょにあなたに必要なすべてのものをお与えになります(ローマ8:32、ピリピ4:19、Tテモテ6:17あたりでしょうか?T・Y)、とイエスさまがおっしゃったではないですか?

パウロはバルナバとともにルステラにイコニオムにアンテオケに戻り、自分たちが迫害されたと同じように、教会として集まっている人たちが迫害されるのを見た。そして彼らを見ながら、彼らを励ました。「多くの辛いこと悲しいことがあるでしょう。でもそれを貫いて、信仰の戦いを守り通した者が神の国にはいることが出来るのです(Tテモテ6:12参照)。だからイエス・キリストの愛から心をそらしてはなりません。」と語った。

「一年間私たちは私たちなりに信仰の戦いをしてまいりました」ということが出来る、今日礼拝に来られている方々は幸せです。「礼拝に来ること自体が戦いなのです」という方もありますでしょうし、「週日忙しくて、頭が回らなくて、であるがゆえに日曜日の礼拝は本当に戦いでした、それほど忙しい一年でした」という方もおられるでしょう。でも心を強くして、主の愛にとどまる。それが私たちの人生です。

中南米コスタリカには雪が降りません。コスタリカから冬季オリンピックに連続して出場しているコスタリカ唯一のスキー選手がいます。名前はアート・キンチ。2006年のトリノにも出場しました。実際はアメリカ人で、両親がコスタリカへの宣教師で、彼はそこで生まれました。大学をアメリカで過ごしたときにスキーを始めて、なんとコスタリカにスキー連盟を作って、そこに所属して国際大会にクロスカントリーで出場していました。

キンチ選手は、ノルウェーではちょっとした英雄です。それは、ノルウェー最大のホルメンコーレン・スキー大会でのことでした。彼は50 キロのクロスカントリーに出場しますが、2時間半滑ったところで転倒して、尾骶骨を骨折してしまいます。でも、彼はなんとか制限時間5時間で滑りきろうと、コースにほとんど人がいない中ひたすら滑りました。

英雄美談は、必ずしも彼にポイントがあるわけではないのです。ゴールのスタジアムには続々と選手たちが帰ってきます。表彰式も行われ、メダル獲得者も共に、選手たちは着替えて、観客も帰ることができたのです。ところが、ノルウェーの王が貴賓室から立ち上がりません。彼は、制限時間最後に入ってくる選手に敬意を払おうと、いすに座ったままでした。従って6 万人の観衆もそのままです。制限時間ぎりぎりで最後にスタジアムに入ってきたのは、キンチ選手でした。

びっくりしたのは彼です。もうほとんど人はいないだろうと思っていたのが、スタジアムはびっしりです。しかもビリで入ってきた彼に、王も含めて6 万人の観衆が、1等で入って来たかのように、声援と拍手を送るのです。それは、彼のスキー人生で最高の栄誉でした。

私たちが天の御国に入る時も、そういう感じではないでしょうか?私たち自身は別に英雄ではない、トップで入るわけでもないでしょう。でも、失格したくない。だから骨折してボロボロでも、疲れて諦めかけても、制限時間ぎりぎりでも、何とかして失格にならないように、必死になってゴールを目指す。これが信仰に踏みとどまる、主の愛にとどまる、私たちの姿です。

驚くべきは、そんな私たちのために席を立たずに、待っておられるキリストです。最後に入ってくる私に敬意を払ってくださるキリストです。そして、先にゴールした信仰の先輩は大観衆となってあなたを待っています。主も、そして信仰の先輩たちも、私がレースを捨てずに絶対にここに戻ってくると信じているから、(神の国に入ってくるのを)席を立たずに待っていてくださる。だから、私たちは苦しみを味わったとしても、時に挫折をして骨折をして、もうだめかもしれないと思った時に、信仰のレースにしっかりとどまって、神の国に入るのです。その喜びと感動、驚きはやがて天に帰る日まで分からない。天に帰ったら改めて、自分のような者のために、誰一人として席を立たずに待っていてくださったということがよくわかると思います。

今年一年戦われた方もたくさんおられると思います。来年もそれは続くでしょう。でも私たちはキリストの愛からそれることなく、キリストの恵みに踏みとどまってこの地上生涯を送って行きたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、私の心、私の決意ではなく、あなたの心、あなたの決意が現れていたこのクリスマスでありました。あなたが私たちをどれほど愛しておられ、私たちの救いのために、御子イエス・キリストを貧しき馬小屋に誕生させ、天の大広間から涙と苦しみの谷に移り住まわせ、私たちの罪を購わせてくださった、あなたの愛に踏みとどまることができるように私たちを助けてください。

時に本当にこのレースがしんどくなり立ちつくします。転びます。しかし天の御国で私たちを待っていてくださるあなたに目を向けて、私たちの周りに大勢の愛する兄弟姉妹が、また信仰の先輩たちが、観客のようにして声をあげて応援している、その叫びに耳を傾けながら、先に殉教したクリスチャンのことを思い浮かべながら、また来年も走ることが出来るように強めてください。イエス・キリストの聖名によってお祈りします。アーメン。

☆感想をひとこと
「とどまる」という言葉が耳に残りましたが、それは以前にヨハネ15章のぶどうの木と枝のたとえで頻繁に聞いたところでした。9節に「わたしの愛の中にとどまりなさい」とか10節に「わたしの愛にとどまる」という表現がありました。そこになにか、今日のパウロが言いたかったことと同じ主のみ心のようなものを感じました。

<<<御子は私のためにご自身をお捨てになった、だとしたら、父なる神は御子といっしょにあなたに必要なすべてのものをお与えになります(ローマ8:32、ピリピ4:19、Tテモテ6:17あたりでしょうか?T・Y)、とイエスさまがおっしゃったではないですか?>>>

このイエスさまのおっしゃったというみことばとの関連が、福音書でどこになるのか想像してみました。そして、次の2個所が心に浮かびました。

●あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ15:7)

●だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ 6:33)

すべての学びを通して、少し前にも触れたことでしたが、信仰には私が神さまをどう見るかではなくて、まず先に神さまのみ心というか、神さま側からの愛と恵みなどがあるということがわかりました。それを私たちが神さまに心からアーメンと言う前に、同じように神さまがアーメンと言っておられるのですから嬉しい驚きでした。
それは人類の歴史や私たちの人生を貫くものですが、それが御子イエス・キリストに顕われた神の愛であり、神の真実であったのだということが、今回よくわかったような気がします。

迫害の地にある自分たちが伝道した人たちを励ますため、半殺しになった身でまた引き返すパウロとバルナバの姿に私たちは誰もが励まされ、どんなに迫害が苦しく、信仰が弱くなったとしても、十字架のイエスを見上げていれば救われているのだと確信しました。それが主の愛にふみとどまることだろうと。パウロとバルナバに「神が与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊(Uテモテ1:7)」を実感し、そういうものが彼らを突き動かしていたのだろうと、大いに励まされ感動したからです。でも私にはとても真似のできないことだと思いました。

昭和天皇の崩御にまつわる話も鮮明に思い出しました。あの頃日産車の宣伝で、井上陽水さんが「お元気ですか〜」と楽しそうに言っていたシーンがありましたが、それが自粛となったこととか、4大学の学長さんが抗議の声明文を出したこととか。本当に健全な、つまりテモテで言うと慎みの霊で行動していても、日本では理解されずに、肩身の狭い思いをさせられている、変な国だと思います。

説教の最後で、骨折してぼろぼろになった姿で、何とか失格にならぬように、天の御国にゴールインするのは自分のことのようで、信じて待っていてくださるキリストに目頭が熱くなってしまいました。


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DATE: 2011.03.26 - 22:34

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