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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/3説教「おりにかなった助けを得る」へブル4:14〜16
☆説教
新約聖書のへブル人への手紙の4章、この聖書のみことばを今年の聖句といたしました。
4章16節「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。

「おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこう」、これが私たちの一年間の標語です。そしてこの聖句の解説を私は元旦礼拝と今日の2回をもって致します。元旦礼拝は「大胆に恵みの御座に近づく」というタイトルで致しました。信仰の大胆さとはどういうものなのかというお話をしました。今日は「おりにかなった助けを得る」ということに心を集中したいと思います。

元旦はあまり時間がなかったので、へブル人への手紙の詳しい説明は致しませんでした。
ヘブル人への手紙とありますように、この手紙は、ユダヤ教の中からキリスト教に回心したヘブル人つまりユダヤ人に書かれたものです。書かれた年代は、おそらく紀元60年代と言われています。ローマ皇帝ネロの迫害が激しくなります。紀元64年にローマで大火事が発生します。この火事はネロによる放火だという噂がひろまります。この噂を消すためにネロは、放火はクリスチャンによるものだとして、大規模な迫害を始めます。コロシアムにクリスチャンを集め、飢えたライオンを放ちます。ローマから東に向かうアッピア街道には、十字架で処刑されたクリスチャンが電柱のように並んで建てられたといわれています。

そういう状況下で、信仰はゆらいだでしょう。信仰に挫折する者も、捨てる者も出たはずです。そうした中で、ヘブル人への手紙のテーマは、一貫して、あなたの信仰生涯をしっかりと走り抜こうです。たとえば、
4:14をご一緒に読む。「私たちの信仰を固く保とうではありませんか」。
12:1もご一緒に読む。「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」。
揺らぐことも、挫折することもあります。しかし、
12:12を読む。「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい」。

信仰が揺らぎ、心が騒ぎ、ぐらついてしまう中で、この手紙の記者が一貫して、訴えているのは、必ずしも、しっかりしなさい、がんばりなさいではありません。訴えていることは、キリストを見つめなさい、です。それが、
12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」。
イエスを見つめる、これ以外に方法はない。

先日、テレビでシルクドソレイユというサーカスの練習模様の特集をしていました。世界中のオーディションをくぐり抜けた精鋭です。少し運動に自信があるレポーターがその練習の一端を味わっていました。一番単純なところで綱渡りです。棒を持ってバランスを取りながら練習を始めます。こういう指導をしていました。「綱を渡っていて、ぐらつかないわけがない。どんな人でも絶対にぐらつく。そのとき、棒でバランスを取ろうとするな。大切なのは目線。いつも綱の張られた先を見ろ。他を見たら、揺れは止まらなくなる」。信仰にはそれと似たようなところがあります。

キリストは、私たちの先を行かれた方です。
12:2後半「ご自分の前に置かれた喜びの故に、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」。この方を見つめるのです。

この人生がレースであるとき、そのレースを先に走った多くの信仰の先輩がいます。アブラハムもモーセも、ダビデもバプテスマのヨハネも、預言者エリヤもエレミヤも、たくさんいるのです。それが11章に記されています。その先輩は、雲のように私たちを取り囲んで、(12:1)応援してくれます。ですから、イエス・キリストを信じて走りぬくというレースを、あなたがたは応援の声を受けながら最後まで走り抜け。必ず自分の信仰の偉大な創始者であるイエス・キリストを見つめて、何とかバランスをとって最後まで走って行きなさい。これがへブル人への手紙の中心的なメッセージです。

さて、4章に戻りましょう。この方は
14節「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから」ということは、この方は、この地上の生涯を先に走って、天におられ栄光の座についてしまわれただけではないのです。
15節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではない。」ということは、同情してくださる。それは、天という離れたところにおられながら、あなたの傍らにおられるということです。あなたの傍らにおられるから、あなたに同情できるのです。

大祭司は、いつも民の側に立っています。あまり祭司という言葉は教会では使いません。旧約聖書には、よく預言者と大祭司が出てきますが、神と人との間に立って、なすべき仕事を大別しています。預言者は神の側に立ち、神のことばを、みこころを私たちに説き明かします。上から下ですね。しかし、祭司は民の側に立ち、民の罪を背負い、とりなすために、民に代わっていけにえを捧げ、罪深い民のために赦しを乞います。祭司は下から上で、私たちの側に立ち、私たちに同情し、私たちの罪を背負い、神に向かってとりなしを致します。

この人生のレースで、私たちはゆらぎます。迷います。苦しみ、悩み、焦り、傷つき、倒れます。そういう中で、キリストは栄光の座についてしまわれたというのではなく、この方はあなたの傍らにいて、あなたのためにとりなし、あなたの罪を背負い、神に赦しを乞い、神の助けを与えてくださる大祭司だ、というテーマで(へブル書は)描かれています。短く3つのポイントでお話します。

1 ) 試みに会われた大祭司
4:15「罪は犯されせんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みにあわれたのです」。
試みにあわれた、でも罪を犯さなかった、そういうイエスさまが、本当にあなたに同情できるのか? と思わないわけではありません。つまり私たちは試みに会ってすぐ罪を犯しちゃいます。イエスさまは全然私たちと違うので、私たちの気持ちがわかるのか、同情できるのか?それは昔からの質問です。でも、1950-60年に活躍しました、英国人キリスト教作家のC.S.ルイス、よく話をしますが「キリスト教の精髄」の中で、こんなことを言っています。とっても鋭い視点です。よく聴いていてください。

善人は誘惑の厳しさを知らないというばかげた考えがまかり通る。善人は誘惑の厳しさを知らないなど、全く嘘である。なぜなら誘惑に必死で抵抗した人たちだけが、誘惑の強さを知っている。たとえば、ドイツ軍と戦った人たちだけが、ドイツ軍の強さを知っているのと同じである。ドイツ軍に降伏した人びとにはドイツ軍の強さはわからない。風の強さを感じるのは、風に対抗して歩いているときであって、寝ているときではない。誘惑にかられて、5 分もしないうちに負けてしまう人に、誘惑の強さはわからない。その意味で、悪人こそ、悪の恐ろしさを知らない。悪に屈することで、人生を守ってきたのだから。私たちは、自分の内側にある誘惑と戦おうしない限り、その誘惑の強さなどわからない。キリストは誘惑と徹底して戦われたということは、逆に誘惑の強さを現実的に最もよく知っておられる。だからこの方はその誘惑に一生懸命戦っているあなたのことも、また時に負けてしまうあなたのことも一番よく分かっておられる。

イエスさまは誘惑に負けてしまいそうな私たちを「助けることができる」とは書いてない。もちろん助けることができるのですけれども、助ける前に「同情することができる」と一番最初に書いてある。気持ちを一つにせずに助けてくださるのが、イエス・キリストではない。私たちが人から、馬鹿にされ、理解されずに、自分の苦労をほんとに誰もわかってくれないという状況の中で、私たちは不平を言います。時にそれが誘惑になるかも知れない。時にそれがクリスチャンとしての信仰の落とし穴になるかもしれない。イエス・キリストは分かっていてくださる。私たちにすれば、助けてくださる前に分かっていてほしいのです。主は助けてくださるのですけれども、ここで強調されていることは、同情してくださることです。

19世紀、イギリスのモネと呼ばれた、ジョセフ・ターナーという画家がいます。1700年の後半から1800年ぐらいまで40年ぐらい活躍した、モネやマネの画風で有名なのですけれども、海や嵐、自然にまつわるテーマをたくさん描いています。嵐にさかまく海を描いた作品がありますが、こういう話が残っています。

彼はその作品を描くために、わざわざオランダの海岸に渡って、地元の漁師に依頼しました。「次に海がしけるとき、船を出してほしい」。そして大しけの日に海に出ます。彼は、船員に自分を一番太いマストに固く縛り付けてくれと頼みます。少し船の高いところから、その高いところを越えて襲って来る波しぶき、揺らぐ船、大風、それを全身で受け止めます。大波のしぶきが顔にたたきつけます。息をするのも苦しい、船全体が大きな波に飲み込まれそうに揺れます。ジョセフ・ターナーは、その体験を通して、はじめて大しけの海の絵を描いたと告白しているのです。

私たちが見るのは大しけの海だけです。でも私たちがその話を聞きますと、ジョセフ・ターナーという人物は、絶対にこの大しけの海の厳しさを味わったのだなぁということが分かります。それが描かれているというだけでなく、描いた人がそれを分かっているかどうかで、それによって私たちが受けるところの助けは全く違いますでしょう。

「おりにかなった助けを得るために、恵みの座に近づこうではありませんか」。おおよそ近づくことのできないような私たちを、可能にしてくださるのは大祭司イエス・キリストの存在です。イエス・キリストは私たちと同じ人となられただけではなく、私たちが通ったこともないような試練、はずかしめ、誘惑、苦しみ、そして十字架を味わわれた。だからこの大祭司は、あなたに同情できる。そして、私たちの大祭司は、あなたを助けることができる。
2:18をご一緒に読む。「主は、ご自分が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」。

イエス・キリストは全能な方なので、あなたを助けることができるとは書いていない。イエス・キリストはご自身も辛い目に会われたので、あなたを助けることができる。キリストの全能さは当然です。しかし、この方は全能であるが故にあなたを助けるのではない。あなたの苦しみを本当に理解してくださる者として、あなたを助ける。それがヘブルの手紙に一貫して強調されている、大祭司キリストの助けの特徴です。

2 ) 従順を学ばれた大祭司
5:8〜10まで声を合わせて読んでみましょう。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」。

キリストが神の御子であるならば、何も学ぶ必要はないでしょう。イエス・キリストは神の栄光に包まれた、御子です。しかし、この方は従順を学ばれた、と言うとき、それはご自身のために学ばれたという以上に、私たちのために学ばれたのです。つまり試練の中にあってもなお信仰を捨てずに、神に従順である者がどうあるべきかをご自分で学ばれた。

試練や苦しみや誘惑の中にあるとき、私たちは絶望します。涙を流します。叫びます。神さまなんか、本当におられるのか、おられるとしたら何を考えているのかわからない。皆叫びます。旧約聖書のアブラハムもモーセもヨブもエレミヤも叫びました。そして、主イエスご自身もその叫び声をおあげになったと記されています。
5:7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

これもまた不可解です。(祈りは)聞き入れられたのでしょうか?いいえ、それは実際には聞き入れられなかった。イエスさまは十字架にかかる前の晩ゲッセマネの園で、「父よ、あなたにおできならないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)というあのお祈りを一時間なさった。常識的に考えれば、最初の50分は、「どうかこの十字架という盃をとりのけてください。あなたのおできにならないことはない。どうかこの杯を取りのけてください。」と50分は祈ったことでしょう。そして最後に「私の願うところでなく、あなたの御心のままを、なさってください。」と、イエスさまはゲッセマネの祈りの中で、従順を、私たちのために学んでくださった。

すると、おりにかなった助けを受けるために、恵みの座におおよそ行く資格がない私たちが、行くことができる、しかも大胆に行くことができる。そこにはイエス・キリストがおられる。そのイエス・キリストというお方は私たちの苦しみが分かるのか?私たちの弱さ、情けなさ、つまらなさがよくわかっておられるお方なのか?しかし、ご自身もそういう中で自分の願いが通らず、従順を学ばれたお方で、私たちに従順に神の御心に従うことを教えてくださる大祭司が、神に喜ばれる人となる模範を示して、私たちの傍らにおられるのです。大胆に恵みの御座に近づくたびにその事を覚えてください。

3 ) 私たちの心を分かってくださるキリストがおられ、分かりながらも私たちを従順に導いてくださるキリストがおられ、そして私たちは、大胆に、遠慮せずに、はばかることなく、恐れず神の御座に出ていく。何のために出ていくのか?16節を読む。
4:16 「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。

この“ために”“という言葉は、3つ全部にかかるかのように、恵みの座から受けるものが3 つあるかのように思います(つまり、あわれみ、めぐみ、そしておりにかなった助け)が、3つ全部にかかっていないです。もう少し正確に訳しますと、受けるのは憐れみと恵みなのです。「あわれみと恵みを受けるために恵みの御座に行く。そして受けるあわれみと恵みはおりにかなった助けになる。」と原語には記されています。
ですから、「一番最初、私たちが礼拝に行く時に、あわれみと恵みを受ける。それがおりにかなった助けとなる。その事のために、大胆に恵みの御座に(礼拝に)行こうではありませんか。」と訳した方が正確でしょう。

おりにかなった助けと言いますと、具体的にすぐそこに解決できる助けがある。それを神さまから受け取るために神さまのところへ行く。そして礼拝のたびごとに、いろいろな問題課題を神さまにお話しして、どうか具体的な解決を私に与えてくださいと言う、でもへブル人への手紙はそうは書いていない。

あなたが恵みの座に行くときに、あわれみを受け、恵みを受ける( とっても霊的なことです)。これこそが、おりにかなった、実際的な助けに変えられるということです。それをいただくために礼拝しなさいということはこういうことです。こういうことですという話が少し長いのですが、(笑)よく聴いてくださいそれで終わりにいたします。

熱気球に乗っている移動していた男が、迷ってしまいました。高度を下げて、地上に女性がいるのを見つけます。さらに高度を降ろして、気球のかごから叫びます。「すみません。助けてもらえません? 迷ってしまいました。いったいどこにいるのかわからないんです」。

地上の女性が答えます。「あなたはですね、熱気球に乗って、地上約2 5 メートルのところを浮遊しています。位置を申し上げますと、おそらく北緯4 0 度から41 度、西経5 9 度から6 0 度というあたりじゃないでしょうか」。(笑)

熱気球の男性は言いました。「ひょっとしてあなた、技術系のお仕事についてます? 」(笑)「はい、そうですよ。なぜわかったのですか? 」「まあ。君が教えてくれたことは、情報として正しいと思う。でも、君からもらった情報をどう分析して良いのかわからない。今現在、道に迷っているんだよ。なんとか助けてくれない? どうにかしてくれない? 」と強い口調で言います。

地上の女性は答えました。「あなたは、ひょっとして経営のお仕事をしてらっしゃるでしょう? 」「そうですよ、でもどうしてわかりました? 」「だって、自分がどこにいるのか、どの方向に行くべきかわからないでしょう。あなたには目的地があるんでしょうけど、大体そこにたどり着けない。自分が悪いんだけど、それでいて、目下の者にどうにか解決してくれと、命令する。いつのまにか、あなたの話し方によると、悪いのはあなたじゃなくて私の方だと言わんばかりじゃないですか。大体経営者って、そんなものですよね? 」(笑)

自分で自分の人生を経営し始めると、こんな風になっていくのではないでしょうか。自分でゴールを設定し、いつの間にか見失い、いや最終的には自分がどこにいるのかもわからず途方に暮れる、失望する。神さまに助けを求める。でも、欲しい助けが得られないと、いつの間にか、悪いのが自分ではなく、悪いのは神の方だと言わんばかり。

でも、へブル人への手紙が教えているのはそんなことではない。人生の経営者はあなたではなくて神だ。大胆に神に近づくことが許されるあなたは大胆に信仰を表せ。大胆に神を礼拝せよ。そして、神から得るものがあるとすれば、具体的な情報でもなく、対策でもない。恵みと憐れみを受けなさい。そしてそれがあなたにとっての、具体的な助けに変えられるように祈れ。「自分の経営が行き詰った。だから経営方策を考えるために礼拝にやって来た。しかし、聖書の言葉は自分の経営方策には何の役にも立たなかった。」と言う人、それはそうです。ここは経営講座ではないです。

しかし覚えておくことがあるとしたら、あなたの人生の経営者は、あなたではない、神だ。そしておおよそ神にふさわしくないあなたが、神の御前に招かれ、あわれみと恵みを受けることができる。神さまがあなたをあわれんでくださる。あなたに恵みを与えてくださる。それが私たちにとって、途轍もない勇気になり、力になる。そして、迷って失望している私が、神のもとに招かれ、赦され、愛され、勇気を与えられ、癒され、力を授かる。それが、おりにかなった助けとなるような毎週でありますように、祈っています。私にとりましては、皆さんがどういう人生の戦いと格闘しておられるのか、さっぱりわかりません。でも神さまのあわれみと恵み、必ず皆さんの人生の具体的な形として形成されることを心から信じています。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、今年も一年間、礼拝に通います。自分がまず第一にあわれみと恵みを必要としている者であることを教えてください。自分は本当に汚れていて、足りなく、あなたにふさわしくない者であることを教えてください。
そして、そんな私のために、十字架にかかられた、いやそれだけでなく、私の痛みを、挫折をすべて知っておられるイエス・キリストが傍におられることを知っています。
どうかあなたの前に大胆に近づいたのですから、大胆にこの信頼をすべてあなたに傾け、あなたに委ねる信仰を与えてください。

そして自分自身が人生の経営者ではなく、あなたが私の人生をすべて支配しておられ、さまざまな出来事を私たちの周りに起こし、しかしすべてのことを働かせて益としてくださる力を持っておられ、どんなことからも、どんな辛いことからもあなたは何かを教えようとしておられる、礼拝で受けた恵みはすべて具体的な力へと変えられる、その事を信じて一年間礼拝を全うすることができるように力を授けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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