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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/10説教「パウロ(13)エルサレム会議」使徒の働き15:1〜21
☆お知らせ
ここに(週報に)出ておりますのは、1月の集会予定まででありますが、2月の第2の聖日は献堂記念の聖日です。管野姉の弟さんである、東京フリーメソジスト教団の理事長をしておられますが、須郷先生を迎えて礼拝の講壇がありますので、ぜひ2月14日を覚えてください。

☆説教
今朝はもう一度パウロの生涯に戻ります。パウロの生涯を学んで13回目になりますが、アドベントの12月の聖日では、使徒の働き14章の15節から学びました。少し復習をして始める事がいいと思います。14:15で「あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている」パウロに注目しました。

クリスマスを楽しむこと、またそれに興じることが、罪深いことだとは必ずしも思いません。しかし、神の御子が、罪深い私たちを救うために人となり、貧しく生まれ、また最後は私たちの罪を背負って十字架にかかられた、ということを全く知らずにクリスマスを祝っているとしたら、それはパウロが言う「むなしい」クリスマスです。日本の文化の中にいつの間にか溶け込んで行ったクリスマス、それはそれで良かったと思います。しかし、私たちがクリスマスに訴えることは、むなしいことを捨てて、生ける神に立ち返るように、ひたすら真のクリスマスを宣べ伝える事でした。

その次の聖日には、年末を意識して、14:22 「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧めている」パウロを見ました。ずっと13章、14章と、アンテオケ教会からバルナバと共に派遣されたパウロは、小アジア、ギリシャ圏のどこに行っても、迫害に会います。しかしそれは、この二人の伝道者が迫害に会ったと言うだけでなく、この二人の伝道によって救われた人びと、誕生した教会も迫害の中にあったことを覚えました。ユダヤ人の迫害に会い、ギリシャの風習や土着宗教の狭間に揺れるクリスチャンに向かって、いや日本というキリスト教が依然少数派で、どこにあっても行き詰まりを経験しているような日本の教会に向かって、パウロは信仰にしっかりと踏みとどまるように訴えています。そして、私たちは確かに踏みとどまっていることを覚えました。

そして、今日は15章です。使徒の働きで有名なエルサレム教会会議が開かれている場面です。パウロとバルナバは伝道旅行を終えて、14章26 節でそもそも派遣された教会であるアンテオケに帰ってきました。
この二人がギリシャ圏に伝道を展開して、そしてアンテオケ教会に戻ってきたときに、大問題が持ち上がります。15:1 「ある人びとがユダヤから下って来て、兄弟たちに、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』」と語り始めたのです。

ちょっと詳しく説明致しますと、割礼というのは、ユダヤ人が4000年前から今に至るまで実行している習慣であります。生まれて8日目の男の子の赤ちゃんは、男性生殖器の皮を切り取らなければならない、これがユダヤ人に課せられた一つの契約のしるしだと、そして、それをしなければ、たとえ十字架を信じ洗礼を受けていたとしても、あなたがたは救われないと、アンテオケの教会はもう一度ユダヤ教の習慣を持ち込もうとした。

私たちの教会は、以前「ガラテヤ人の手紙」で、徹底的にその事を勉強致しました。私たちクリスチャンも時に旧約聖書の厳しい教えをクリスチャンに持ち込もうとする。せっかく、『救いはキリストの十字架を信じる信仰のみによる』、『恵みのみによる』というこの大原則を打ち立てていながら、それを守るため、キリストに忠実であるために、聖書を心から信じそれを実行するためと言いながら、古い本来はもう捨て去って然るべきの古い教えを、どんどん自分のクリスチャン生活の中に組み込んで、最終的に自分を裁き、他人を裁くことになる習慣が、クリスチャンには多分にあるのだということを、パウロとバルナバはその習慣を厳しく退けた。

モーセの習慣の中ではエビ、カニは食べてはいけないとか。ですから今でもユダヤ教の人の家では、そういうものを食べない。私たちは絶対にユダヤ教にはなれない。(笑)皆さんね、ユダヤ教の人の食事に関心があれば、飛行機に乗る2日前に飛行機会社に電話して、【コーシェル】の食事を申し込むと、どんな人でも食べられます。それは絞め殺したものを食べてはいけない。とモーセの律法に書いてありますので、鳥であるならば絞めない。ということは鳥を逆さに吊るして、あるいは鳥が走り回っている間に首を切るのです。それも動いている間に切りますので、血が全部吹き出て外に出ます。(T・Yには耳を覆いたくなるようなお話でした)。その後で血の多いたとえば腿の肉は水につけて、あるいはいっそ腿の肉は食べない。ささみだけにするという風に、徹底的に食事の規定があり、安息日には労働しない、旅行しない、電車に乗らない、車に乗らないとか、女性が生理の問題が来ますと、その期間中一週間は部屋から一歩も出ないなど、もう私たちには考えられないほどの規則があるのです。

アンテオケの教会のクリスチャンに対して、エルサレムで救われたクリスチャン、同じクリスチャンなのですが、そのクリスチャンの文化をエルサレムから、ユダヤ教という名のもとに持ち込んで、強要しようとする。(そういう時)それは普通だということを覚えなきゃならない。決して責められるようなことではない。(この文の主語は異邦人のクリスチャンがと理解してよいのでしょうか?T・Y)

今でも、宣教師の先生方を見ますと、非常にアメリカの中西部の古いタイプの宣教師の方ですが、女性の方は髪の毛をお団子状にまとめて後ろに留めます。あの髪形を見ただけで出身の教団が分かります。(笑)そういう方はズボンを履かない。膝が出るようなスカートをはかない。自分が宣教師である限りはどんな宣教地においてもそういう恰好をするというのは、母国の文化をキリスト教と一緒に持ち込んで強要している訳です。土台、そんな恰好をすること自体が奇異ですよ。ですが、それが信仰と敬虔の表れだという名目で持ち込んでいる。

結論から言いますと、11節を見てください。「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」とは、ペテロの言葉ですが、「救いは主イエス・キリストの恵みによる外なし(11節)。だからそうした重荷は彼らには課さない(28節)」と、言うのです。

2節に、ユダヤから下って来た人々と、パウロとバルナバの間で激しい対立が起こります。やがて、この論争はエルサレム教会に持ち込まれて、大きな会議が開かれます。6 節「使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった」。これが、二千年の教会歴史の中で、初の教会会議です。

私たちも小さな群れの総会を2 4 日に迎えようとしていますが、今日は、このエルサレム教会会議から学んでみたいと思います。

1 ) 教会の歴史には、対立もあれば、議論も、話し合いもある。
2節「激しい対立と論争」「話し合うために」6節「この問題を検討するために集まった」7節「激しい論争があって後」とずっとこのような言葉が続いて行きます。
ちょっとした対立が起こっただけで、役員会であろうが、教会総会であろうが、例会であろうが、一瞬険悪なムードが教会全体にただようことは避けられないでしょう。そして教会の中がそんなムードなら、伝道の妨げになります。せっかく新しく来た人も幻滅するでしょう。ですから、対立はない方が良いに決まっていますが対立は避けられない。そして、つまらない、どうでも良い事柄で対立することは愚かなことです。躓きの原因となります。しかもそれが、単なるエゴイズムの対立なら罪深いことです。

しかし、それらすべてを一掃したとしても、やっぱり対立はあります。エルサレム教会会議は、つまらない、どうでもいいことのために議論をしたのではありません。教会の生命線だと思うような、大切なことには、必要なことには、議論や対立を恐れずに行ったということです。

これは、ともすると対立を避ける日本人には考えさせられることです。私たちはなるべく穏便に済ませようと、険悪なムードが出て来るのをなぜか抑えようとして、妥協しますし自分の意見を呑みこんでしまいます。初代の教会は、議論や対立を通して、正しい信仰とは何かをはっきりさせました。そして、長い目で見ると、教会のさらなる成長、発展、伝道の進展につながって行きました。教会の歴史はそういうことの繰り返しです。

必要な対立や議論を避けて通らないで、いろんなものを出し合って、それを乗り越えて行ける、という気持ちが初代のクリスチャンにありました。なぜでしょうか?それは、彼らが教会はイエスさまのものであり、それを導いておられる主イエスと父なる神さまが、人間的な意見の相違など、みんなまとめて必ず決着させてくださると、信頼していたからではないでしょうか。どんなに議論しても、主は導いてくださるという深い信頼があってこそ、議論ができるのだろうと思います。

2 ) 学ぶべき事は、対立の解決方法です。
対立は起こらない方が良い、といくら主張しても、それは現実的ではありません。必要な対立があるとしたら、私たちは何かをこのエルサレム教会会議から学ぶ事ができるはずです。

議論は収拾がつかないほど、紛糾したのでしょう。その時に、7節「激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。」と、初代教会の重鎮でありましたペテロの言葉が記されています。イエスさまの弟子、そして使徒を代表してペテロが話します。その結論として、先ほど見ました11 節に、私たちユダヤ人クリスチャンは、律法で救われたのではない、割礼で救われたのでもない、ただ『主イエスの恵みによって救われた』とアピールします。

『ただ恵みによる』、それはペテロが痛感していたことです。主に「私は死ぬことになったとしても、あなたを知らないとは言いません」と、忠誠を誓い断言したペテロが、その夜、三度「イエスを知らない」と否みます。彼が否んでいるとき、他の弟子たちはどこにいたのでしょうか。みんなイエスを捨てて、逃げてしまいました。

弟子たち、使徒たちでさえ、立派でもなく、何かできる訳でもなく、いのちをかけて信仰を守った訳でもなく、もし私たちが救われるとしたら、それは恵み、つまりイエスさまのの一方的で圧倒的な愛以外になかったじゃないですか。そう、ペテロは述べているのです。

そのあとで、13節、ヤコブが話します。主の弟子のゼべタイの子のヤコブではなく、マリヤ・ヨセフから生まれたヤコブ、つまりイエスさまの家族に当たります。彼はエルサレム教会にあって、ペテロと並んで中心的な存在でした。

そして、ヤコブは、旧約聖書(アモス書9:11−12)のみことばを引用して話をします。このヤコブは聖書をよく知っていた。15節「預言者たちのことばも、これと一致しており」つまり、ペテロはこれまでの経緯と自分たちの体験から話をし、ヤコブは聖書の預言から立証しようと努める。

ペテロとヤコブ、というエルサレム教会の最も責任ある立場の人間の発言によって、最後はすべて決まった、ということなのでしょうか?いいえ、そうではないでしょう。こう考えるべきではないでしょうか?

1 . 責任ある者が、熟慮した理解に立って、責任ある発言をした。
私たちの教会には役員がいる。役員の方々は社会的にもさまざまな中を通って経験を経て来られた。必ず良く聖書を学ばれ、健全な信仰理解に立ち、教会のためにひたすら祈る方です。役員が教会を壊すような発言をする教会は壊れます。それは役員の意見によって壊れるのではない。単純に教会のトップにいるような信徒は、その程度の教会理解、聖書理解、しかも愛のない発言をするような教会は所詮立ちゆかないです。その意味で、私たちは安易に役員を選任している訳ではない。役員、責任ある者は、熟慮した理解に立って、責任ある発言をするものです。

2 . 彼らはフェアーであった。パウロとバルナバを新参者と見下すことなく、彼らが所詮エルサレム教会の中心的な立場ではないと退けず、よく意見を聞いて、パウロとバルナバにフェアな主張をした、ということではないでしょうか。
私は、これが教会のあるべき姿だと思います。責任ある人物は、それなりの力量がなければならず、それが例会の幹事であったり、係であったりするのですが、そして、その職に応じた力量を発揮するのですが、そこには偏見もなく、自己主張もなく、フェアで、しかも新しい考え方にも胸を開いている。一番の長老が、福音のなんたるかを、教会がどうあるべきかを捉えている、というところにすばらしさがあるのではないでしょうか。

教会が伸びないもうひとつの原因は、役員の方々が古い体制、古い体質に凝り固まっている。新しい牧師を迎えてこういうことをやりましょうと、牧師が言いますと、いやいや、うちの教会はこのやり方でずっとやって来ましたと全く聞かない。(笑)そうすると、教会は30年前と同じことをやる。そこには新しい方々が入り込んで行って、ともに礼拝を捧げる余地がない。

ペテロとヤコブはともに実に胸の開かれた人物でありました。そして彼らは福音の何たるかを捉えて、そこに素晴らしさを感じます。決して経験を積んでいろんな中を通って来ただけではない。つまり、経験値が高く、重たい存在であったというだけでなく、彼らは主のみこころの新しい発見に実にオープンであった。この二人の存在によって、対立は解決に導かれた。この二人がいなければ対立をもって、教会は割れて行ったでしょう。さまざまな意見が出され、そして論争論議がされるところで、最終的にこのような人物の存在はやはり見逃すことはできない。最後彼らは多数決で決めたわけではない。このフェアーな、しかし重要な意見を通してみんなが納得をしたでしょう。

3)(エルサレム教会から学ぶべき)主にある一致
これが一番大切です。議論はありました。激しい論争でした。しかし、最後、エルサレム教会会議は、混乱することなく、一つの結論にたどり着きます。それで28節をちょっと見てください。

ちょっと先に25節。「そこで、私たちは人々を選び、私たちの愛するバルナバおよびパウロといっしょに、あなたがたのところへ送ることに衆議一決しました。」というのは、エルサレム教会の決定を全教会に送る、知らせる。しかもパウロとバルナバをそのために派遣するということを皆で一決した。

で、説明する訳ですけれども、説明文の中にこの言葉があります。28節「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました」。29節「すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」という文章を送ります。

救われるのは、キリストの恵み以外にない。救われるのは、キリストの恵みによるのです。でも、29節に、「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けてください」。これは、まあ不品行を避けるのは当然ですけれども、どの教会にあっても、ユダヤ人を配慮してあげてくださいということです。すべてのことは自由だ、すべてのことは恵みだと言ったらば、ずぅ〜っとある種の食物を避けてきたユダヤ人は、その教会に行けなくなってしまいます。ですからある程度、伝統を引き継いだ人たちを配慮してください。私たちは皆一緒なのですから。でも救われるのは、何によるかと言えば、割礼によるのでもなく、食事律法によるのでもなく、モーセの律法も関係なく、それは全部恵みによる、十字架を信じる信仰によると言ったのです。

でもその事を彼ら、会議に出席した人びとは、有名な28 節「聖霊と私たちは… …と 決めました」という表現をとりました。主にある一致をもたらしたのは、聖霊でした。正しい結論にたどり着いたのは、聖霊の助けがあったからです。それは紛れもなく、彼らが聖霊の助けを仰ぎ求めた、ということの証しでしょう。聖霊が導いてくださるという彼らの信頼の証しでありました。

教会総会の前も最後にも、私たちは祈ります。それは人間的にベストを尽くしますが、しかし会議そのものは、聖霊の導きによってなされ、最後、さまざまな意見が出されても、聖霊によって私たちはそのことを決議するということは、こういうことではないかという話をしまして、それで説教を閉じたいと思います。

第二次世界大戦の時、ドイツのヒットラーは、すべてのキリスト教の教団教派を一つに統合して、自らの管理下に置くという政策を打ち出しました。これがドイツの教会の中に問題を生むことになります。ヒットラーの政策におもねった(追従した)グループは、戦時下で優遇されます。しかし、信仰を国家によって統制されることを嫌った団体は、逆に冷遇され迫害を受け、中には閉じられてしまう教会もあれば、収容所で殉教した牧師もいました。ドイツと日本は、教会事情がよく似ています。

問題は、敗戦後、どうやってドイツの教会が建ち上がって行ったかです。冷遇された教会は、ヒットラーになびいた教会を敵対視します。こうした教会同士の不和を解決しようと、ドイツで教会会議が開かれました。

それぞれの団体のリーダーが融和を求めて、修養会を開きました。しかし、そのぎくしゃくした雰囲気がいっこうに解消されない中、時期尚早、自分たちの心は、死んでいった牧師、閉鎖された教会のことを考えたら、まだ一緒にやっていけるような雰囲気ではないと、話し合いをやめました。しかし、リーダーたちは祈ることに集中しよう、それぞれの部屋に戻って、そして自分たちの心を聖霊の光に照らして探ってみようと結論しました。

有名な神学者フランシス・シェーファーは、そのときのことを友人に話すと、友人は尋ねました。「それで、どうにかなったのか? 」「ああ、その後、私たちはようやく一つになった。再び集まったとき、私たちは互いに抱いていた敵意や不満や憎しみを神さまに告白した。そして、主に委ねた。すると聖霊が、私たちの中に一致の霊を与えてくださった。愛が心に満ち、憎しみは溶けて行った」。

私は、この使徒の働き15:28の「聖霊と私たちは、… … と決めました」という言葉の中には、そういうプロセスがあったのではないかと思います。つまりあれほどいがみ合って、激しい論争と食い違いのあった、主にある仲間です。何も心に残らないということはあり得ないのです。頭でわかっていても、心ではなかなか一つになれない、という会議ではなかったのではないでしょうか。そんなに私たちは潔くないのです。そして一度出してしまった言葉は、覆水盆に返らず。出してしまったのですから、人の心の中に留まっていて、いやいやこれからは仲良くしましょうと言ったところで、あの時の言葉は人の頭の中に傷となって残ってしまっている。きっと、そういう心を彼らは主の前に注ぎだして、祈り合ったに違いありません。聖霊が一致の霊を与えてくださり、愛によって仲たがいを溶かしてくださり、再び、教会が一つになれるように、祈ったに違いないのです。

そのとき、一致を与えてくださったが聖霊で、このことは恐らく家庭にあっても大切な事かもしれない。自分の心の中にあるさまざまな不安な思い、憤りの思い、これは一度出してしまった言葉は鞘に収まらないのです。傷となって残る。そして、それをどうしようもなく抱えて、やがてコミュニケーションの断絶のもとに消えて行く。それは職場にあってもそうだし、近所付き合いにおいても、家庭でもそうです。私たちはそういう時に、『お互いのコミュニケーションを取ろうね』というのも、もちろん大切です。しかし、私たちは『聖霊を与えてください』(と祈ることが一番)。フランシス・シェーファーの言葉によると、この聖霊は私たちの心を刷新してくれたのです。新しい心を造り、心の内に神の愛が満ち、憎しみが溶けて行った。なぜあの人はあんな言葉を発したのだろうか?悶々とした思いが聖霊の助けによって、溶けて行った。この聖霊を求めて、ドイツの教会の指導者たちは話し合いよりもむしろ、祈りに入ったということは、私は考えさせられます。

日常の生活でさまざまな不和があると思います。教会の中でも時に対立があると思います。そして時に論じなければいけない、時に指摘しなければならない、考えてもらわねばならないことはたくさんある。それを避けて恐れてはならない。でもそれによって、何か心の内に不和が生じるなら、聖霊の助けを請い求める時が来たと思うことではないでしょうか?

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、私たちは日頃から、『聖霊の導きに従って』『聖霊の助けを得て』『聖霊の取りなしによって』という言葉を発していますが、実際に本当に自分の弱さを覚え、自分の問題を考えさせられて、聖霊の助けを呼び込んでいるかと言われれば、この心の内に聖霊の働きがなされていない現実に絶望し、聖霊を遠ざけていることもあり得ることを今日は考えさせられました。

どうか主よ。ここに座っておられるおひとりおひとりの祈りを聞き留めてあげてください。言葉は心の中に留まり、傷となって存在しているならば、聖霊さま、あなたが触れてくださり、それを圧倒するところの神の愛を心の内に注いでください。平安の内に、憎しみや敵意や矛盾や苦々しい思いが心の中から消えて行くことができるように、主よ、どうかその方の肩に手を置き、たましいに触れてください。イエス・キリストの聖名によってお祈り致します。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 22:45
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