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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   とりなすアブラハム(祈りのシリーズ5)
とりなすアブラハム

「主はこう考えられた。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか』」(創世記一八・一七)。

 こうして神は、ソドムとゴモラを滅ぼす計画をアブラハムに語ります。そして、アブラハムは神と滅び行く町の間に立って、とりなしの祈りをするというのが今朝の聖書の箇所です。

                  ●神の訪れ

 まず、この偉大な祈りが、アブラハムの日常のひとこまから生まれていることに注目しましょう。それは、普通の日でした。そこに神が突然現れたのです。
 「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた」(一節)。
 目を上げると、三人の人が立っていました。アブラハムは、自分の天幕に神の使いを迎えます。彼は神の使いをもてなして、話しをして、帰りに送っていく――そういう日常的な状況の中で、祈りが描かれています。お客さんを迎えて共に語らうように、神を迎えて祈る。日常のひとこまの中に神が降りてこられ、私たちは神をお迎えして、語り合う。それが祈りです。
 小学校の先生の家庭訪問というのがあります。子どもたちは、先生が自分の家に来てくれることを心待ちにします。そわそわして、先生が来るの待っています。最近では、先生が家に上がってくださいません。もちろん、先生の側の配慮があるわけですが、玄関で簡単に話して帰って行かれます。昔はお茶とお菓子を用意していたものですが、いまはそんなものは不要なのでしょう。あっという間に終わってしまいます。昔は違いました。親も子どももどきどきしながら、先生という特別なお客さんを迎えるために緊張しながら、楽しみにしているのです。一生懸命に家をきれいにして、先生をお迎えして、親しく語るのです。そういう日常的な感覚で、神はアブラハムを訪問され、語り合っている――そこに祈りがあるということをまず覚えておきましょう。

                ●素通りしないでください。

 そのとき、アブラハムは神に対してどのような姿勢を取っているのでしょうか? 
 「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください」(三節)。
 人との関わりを疎ましく思うとき、私たちは人との関わりを素通りします。相手に対して、「どうか素通りしてください」と言わんばかりの態度で接します。それが神に対してもそうなのです。主がすぐそこにおられるのに、私たちのところを訪ねようとしておられるのに、忙しさにかまけて、できたら素通りしていただきたい、と神の訪れを疎ましく思っていては、祈ることはできません。私たちは祈るたびに、「主よ、どうかあなたのしもべのところを素通りなさらないでください」という、主の訪れと交わりを心から歓迎する思いで祈るのです。
 「ダビデの子よ、あわれんでください」と目の不自由な乞食のバルテマイは、道ばたで叫びました。周囲の人々がどんなに彼を押さえつけても、主が振り向いてくださるまで、叫び続けました。心に悩みをいただいたエマオの途上の二人の弟子たちは、夕暮れ時、「主よ、おとどまりください」と自分たちが泊まろうとしている宿に、共に歩んでおられたお方をお迎えしました。
 次に見るのは、いじらしいまでに主に仕えているアブラハムです。
 「アブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな小牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを調理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに料理した小牛を持って来て、彼らの前に備えた。彼は木下で彼らに給仕していた」(七〜八節)。
 喜んでもらおうと、おいしいと言ってもらおうと、一生懸命に給仕しているアブラハムです。いじらしいまでに一生懸命なのです。
 やがて主の使いは、食事が終わり、語り合いが終わり、帰っていきます。そのとき、アブラハムは彼らを送り出すのです。
 「その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす方へ上っていった。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていった」(一六節)。
 ヘブロンから四キロぐらい行ったところに、視界が開けてソドムが見渡せるところがあるそうです。そこへと上っていく神の使いとともに、アブラハムは静かに歩んでいきます。そして、共に歩んでいくうちに、神はソドムに対するさばきの計画をアブラハムにうち明けられます。

                               ●摂理を明かす神

 「素通りしないでください」と神を迎え、いじらしいまでに喜んで神に仕え、神を見送るために共に歩いているアブラハムに、神もまた親しく接してくださいます。
 「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(一七節)。
 まるで友だち同士のように、アブラハムにだけには隠さずに話しておこう、というのです。
 神は、隠す神です。箴言二五・二に「ことを隠すは、神の誉れ」とあります。私たちは隠された神のご計画を「摂理」と呼びます。摂理とは、本来、その意図も目的も隠されていて、後になってようやくわかるものです。事の真相が隠されるということは、辛いことです。しかし私たちの人生に起こるほとんどの出来事が、その意味も意図も結果も、全部隠されています。日常生活に起こる様々な出来事や試練が神の制つりであると信じていたとしても、それが隠されている限り、結局は、摂理に翻弄される以外にない――それが人間の一生のように思います。
 しかしそうではないのです。ここに祈りがあります。祈りの中で、つまり神を迎え、神に仕え、神と共に歩むうちに、「アブラハムに隠しておくべきだろうか?」とおっしゃった神は、私たちにも御自身の意図、お考え、ご計画をしずかに徐々に教えてくださいます。

                                ●とりなすアブラハム

 神が明かしてくださった計画が、私たちの納得のいかないこともあります。アブラハムの場合はそうでした。
 「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて思い」(二〇節)と,神はこの町々を滅ぼされるというのです。
 それを聞いたアブラハムは、この罪深い町のためにとりなしました。
 「あなたは本当に正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか」(二三節)。
 アブラハムは、もしや正しい者が五〇人いたとしたら滅ぼさないでくださいととりなし、神は聞き入れられます。しかし現実に五〇人いませんでした。そこで、四五人、四〇人、三〇人、二〇人、最後は、一〇人に至るまで、「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」と、この町のためにとりなします。
 とりなしの祈りは、二二節の「アブラハムはまだ、主の前に立っていた」という言葉で始まりますが、まさにそのとおり、手短な祈りではありませんでした。「まだ……立っていた」という言葉の通り、神との長い語り合いでした。主と共に歩んできたアブラハムは、主の前に立ち続けてとりなしました。
 しかし、かないませんでした。最後、「主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家に帰っていった」(三三節)をもって、物語は閉じられています。
 かなわずに祈りを閉じたアブラハムです。しかし、そこには静かな力強さを感じます。それは、主と共に歩み、主の摂理を知らされ、それをくつがえそうと必死に主の御前に立ち続けてとりなし、最後は義人が一〇人さえもいないソドムの厳しい現実を知らされて、口を閉ざしたアブラハムです。しかし、彼の心に残ったのは、主の真実さと親しさでした。主の語りかけもアブラハムの訴えも、一つの区切りをつけて、アブラハムは家に帰っていきます。重い現実を背負いながらも、とりなしの祈りをやり遂げ、神にすべてを託した静かな力強い信仰をもって、帰っていきました。

                 ●重い現実を背負うように招かれる

 先日の礼拝後、高津教会の大西姉から、姉妹を高津に導いてくださった叔父さんの才門兄の親友が末期ガンで危ないという話しを聞かせていただきました。お祈りします、そしていつでも病院に伺うことができますと申し上げました。才門兄は、高津教会の礼拝にときどき出席されるので、みなさんもよくご存じでしょう。
 先週、才門兄からお手紙をいただきました。最後に、ご本人の許可をいただきましたので、この手紙をそのまま読んでみたいと思います。私の説教で何をお伝えしたいのか、分かっていただけるでしょう。
 
 昨年十一月末に、親友が突然ガンで入院し、最新の治療を受けるために、一月十四日上京しました。東京でその受け入れの準備、入院の手配等喜んでお手伝いし、毎日、通ったのですが、残念ながらその甲斐空しく、二二日に帰らぬ人となりました。ガン発覚からたった、二ヵ月のいのちでした。
 ノンクリスチャンでしたが、ある日、突然に、医者から一ヶ月の命と宣告された友人に、聖書や牧師先生のことは言い出せませんでした。ただ、十字架とマザー・テレサの写真、マザー・テレサの数冊の本(神さまのすべての人への愛、主ととの愛を通した交わりを伝えたいために)、そして、レーナ・マリア、また、カリタス修道会のコーラステープ、そして、高津教会の説教テープを、渡しました。彼は、テープを聞き、マザーの本は奥さんに読んでもらい、マザーの写真と十字架は枕の下に入れてくれていました。
 東京へ転院の際、寝台車を準備して、羽田空港へ迎えに行きました。友人が運ばれてくるのを寝台車の横で、立って待っていたとき、一台の軽のワゴンが、私の前に割り込んで停車したのです。なんと、クルマの横には、「神の愛の宣教者会」の文字、あのマザーテレサのサリーをまとったシスターが二人乗っていました。長崎から帰ってくる管区長を出迎えるために来られたのだそうです。
 シスターがわたしが立っているのを見て、驚いています。「こんなところで、お会いするとは……」。シスターに、事情を説明しているときに、友人が、車いすで運ばれてきたのです。シスターは、駆けよって、友人に「奇蹟のコイン」を数枚、手ににぎらせ、「これは、マザーから直接いただいたものです。回復するよう、お祈りしています。」とやさしく語ってくださいました。
 こんな、タイミング! 神さま以外に、だれが、設定できるでしょう! その奇蹟に友人と奥様がどれほど、力づけられたことか!
 彼は、医者が信じられないと、驚いたほど、すい臓ガンの痛みに耐え、最後までモルヒネを使用しませんでした。腹の中で、悪魔が暴れまわっているようだと、まさに、拷問のなかでも、わたしが、手を握ると、微笑み、もらった奇蹟のコインを「幸せはひとり占めしてはいけないよね。だれかにわけてあげないと」と言うのでした。
 最後の数日は、一呼吸、一呼吸に全力を投入し、まさに、十字架のイエスさまの苦しみの表情を思わせました。彼は、洗礼を受けるには至りませんでした。けれど、まちがいなく、今、パラダイスにいると確信しています。
  まだ、明けきらぬ早朝、故郷へ帰る彼の遺体と家族を見送り、病院他の後始末を済ませました。

 私は思うのです。末期ガンで苦しむ友人を才門兄に託されたのは、イエスさまではないかと。
 彼は、私たちと同じように主を素通りさせない、主を愛する兄弟です。私たちと同じように、主にいじらしいまで仕えます。主とともに歩んでいるうちに、主がご計画をうち明けてくださるのです。その現実は、厳しく悲しいものでした。末期ガンで苦しむ友人のことを「あなたに知らせないわけにはいかない」と主が彼を託してくださったのです。
 才門兄は、生と死の狭間にいる友人のために、できる限りを尽くし、自分の身体を張って主の御前に立って祈ったのです。イエス・キリストのことはほとんどわからない友人に代わって、彼は祈ったでしょう。
 苦しみの中で地上生涯を閉じました。とりなしの祈りによって友人が体験したのは、病の癒しではなく、病床の苦痛で味わった神の愛でした。それは「奇跡」であったと才門兄は言うのです。数週間前には、「どうして、おれが、こんな目にあわなければならないんだろう」と訴えていた友人が、今は死ぬと分かっていながら、そして、モルヒネも使わぬ痛みと苦しみの中で、マザーのコインを握って、「幸せはひとり占めしてはいけない。分けてあげなければ」と言えること自体、奇跡だというのです。私もそう思います。それは才門兄の祈りに答えて、神の愛が苦しみと不安にもがく友人を被い包んでくださったのです。
 神は、御自身とソドムの間に、あえてアブラハムを入れました。アブラハムを招き入れて、その重い現実を見せ、背負わせました。それと同じように、私たちもまた、神とこの世界との間に、神と人との間に、招き入れられ、その重い現実を見せられ、祈るように導かれます。 
 その祈りはむなしく終わることはありません。アブラハムのとりなしの故に、ロトの家族はソドムの町から救い出されました。才門兄が間に入ったが故に、友人は神の愛と出会い、キリストにすがることを学び、死線を越えて、天の御国に入れられたのです。

 主よ、ねがわくは、私を招き入れてください。あなたとこの世との間に、あなたと人との間に。私はあなたを素通りさせませんでした。あなたを迎え、あなたに喜んでお仕えしてきました。ですから、この世界の重い現実を私にお話ください。どうか私をとりなし手として招き入れ、あなたの御前に立たせてください。立ち続ける、祈り続ける力を与えてください。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2003.02.03 - 12:54
LAST UPDATE: 2003.02.07 - 21:23

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