名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 1333 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   1/24教会総会の聖日の説教「信仰という雰囲気」マルコ6:1〜6
☆始めのお祈り
エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
(この日の交読詩篇122篇6〜7節)

恵み深い天の父なる神さま、1月の第4の聖日、受験が始まろうとしているこの聖日、受験生の方々もともにこの礼拝に集まることが許され、心から感謝致します。どうかこの方々の心の内を祝してあげてください。心配な事、また試されるというすべての思い、寒さ、友達とのさまざまなプレッシャー、いろんなことがあるに違いありませんが、手を握ってくださるのはあなたであり、私たちの先を行って道を作ってくださるのはあなたであり、しかもあなたはベストの道を備えていてくださり、それがたとえ試練の道であったとしても、そこにおいてさえ私たちに愛を解らせてくださり、私たちに持てる以上の力を授けてくださるお方であります。

ですから、このようなときにはひたすらあなたに祈ります。あなたの愛を信じ、あなたの摂理を信じ、あなたの力を信じています。どうか受験生ひとりひとりのその苦労を守ってください。また体を守ってくださり、すべての人や、また風邪、インフルエンザ、他の病を遠ざけてくださり、自らのベストを尽くすことができますように、祝福してください。そして恵みを味わうことができるように。あなたの愛を心から体験するような一つの人生の恵みでありますように、あなたがこの一カ月を祝福してあげてください。

エルサレムの平和のために祈れ(詩編122:6)、私たちは教会の平和のために祈りに参りました。この城壁のうちに平和があるように、そして平和ゆえに繫栄があるようにと、祈って参りました。教会を愛する人が栄えるように。どうか私たちに教会を愛する心を授けてください。そして教会のために祈る教会総会でありますように、礼拝の後の総会をも導いてください。

寒い中ではありますが、入院しておられます小林武男兄の上に今日も届いてください。随分足の傷の回復が早まったと聞いておりますが、春に行くにつれて、ますます削られた部分が盛り上がり、元の足に復元することができますようにあなたが導いてください。清水姉のこともとても心配です。心配であるがゆえにあなたに祈ります。どうかこれから先の治療法に至りますまで、あなたが清水姉にかかわるすべてのことを、すべての人々を祝福してください。得られるベストの治療を受けることができるように、どうか導いてください。

これからの時をみ手に委ねます。どうかみことばを祝して、私たちのたましいにいのちを授けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆説教
マルコの福音書の6章の1節から読んでいただきました。「イエスはそこを去って、郷里に行かれ」(1節)ました。マルコの福音書でイエスさまが自分の生まれ故郷ナザレに戻っておられるのはここだけです。
(2節)「安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は」、逆に驚きます。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。」ということは、疑いと不信を込めた驚きです。
そして、3節に、「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずきます。
5節、それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。

というのが6章の頭に出て来ます。イエスさまは4章の終わりから壮大な奇跡を行われます。ちょっと4章に戻って、4章35節をみてください。
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸に渡ろう。」と(35節)こうおっしゃっいました。そしてイエスさまを乗せた船は、嵐に巻き込まれて、沈まんばかりになる。このためにイエスさまが立ち上がり、風を叱りつけ、海に向かって大声で命じられた言葉が、39節の「黙れ、静まれ。」です。今まで弟子たちが見たことのないようなイエスさまの姿をここで見ました。それは大自然の猛威を前に、イエスのひとことで一瞬にして湖に静寂が戻る、このキリスト・イエスという存在はいったい何だと言うのです。

5章にはいりますと、主イエスが、墓場に住みながら荒々しく叫び狂っている男と向き合っています。3節を見てください。「この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。」
(4節も読む)「彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである」。
それで彼は、夜昼となく、墓場で叫ぶ、山で叫ぶ、自分のからだを傷つける(5節)。この男には何百という悪霊が取りついていました。誰もがこの男を避ける。視線を合わせず、この男とは対面しない、恐れられている存在。その男のもとにイエスさまはまっすぐに歩いて行って、「汚れた霊よ。この男から出ていけ。」(8節)と、湖を一喝するように厳しくお命じになります。霊たちは近くに飼われていた豚の群れに乗り移り、湖に突進して死んでしまいます(13節)。描かれているのは不気味な男の姿。2000匹の豚は走っておぼれて行く様子、そして、悪霊と対決されるイエスさまの権威。こうした奇跡を前に、弟子たちは恐れおののく。

21節に入りますと、イエスさまのもとに、ユダヤ教の会堂管理者であったヤイロは、走ってひれ伏してお願いします。「娘が死にそうです。どうか助けてください。私の家に来てください」。イエスさまは憐れんで、彼の家に向かいます。ところがその途中、人だかりの中で出血が止まらない女性がすがるように、イエスさまの衣に後ろから触ります。するとたちどころに癒されて、女は自分の素姓をイエスさまに明らかにし、そして群衆もまた感動します。

この出来事で時間を奪われていた間に、ヤイロの家から逆に伝令が届きます。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ、先生を煩わすことがありましょう。」(35節)とは、もう遅かった、死んでしまったということ。ところが主イエスはヤイロにいいます。「恐れないで、信じ続けなさい」(36節)。家に着くと葬儀の準備が始まっていました。人々も家族も取り乱して泣いています。ところが、イエスさまは41節、少女に命じて言われました。「タリタ、クミ」(少女よ。あなたに言う。起きなさい)。

ずっ〜とこの話の連続なのです。自然を治め、霊界を治め、病を治め、死を治めるイエス・キリストが描かれている。大自然の猛威を一喝し、激しい力を持った悪霊を追い出し、病める女を優しく癒し、死んでしまった少女に「起きよ」と命じるイエス・キリスト。描かれているのは、自然災害であったり、また私たちの霊的な不安あるいはとらわれ、私たちを右往左往する諸問題であったり、病であったり、死であったり、その問題に取り囲まれて時に縛られる。鎖にしばられるように、この人生が縛られる、たましいが縛られる。時に、人生の労力をこの病の女のように使い尽くし、何とか病気を治していただこうと、持てる物全部を使い尽くし、しかし状況は却って悪くなるばかりであります。あるいは葬儀の前のように、悲しみの内に屈するより以外にないです。それが私たちの人生。描かれているのは、私たちの人生の諸問題でもある。その中にイエス・キリストは現れて、奇跡をもって答えてくださる。その事が次から次へ4章の終りから5章の全部に生き生きと展開されて行く。

すぐそのあとに、6章の一節ですが、実にまるで対照的な出来事が描かれています。故郷のナザレに行った。そこでどんな驚くことが起こったのでしょう?最後に「驚いた」という言葉が書いてあるのですが、6節を見てください。「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」。そして驚くようなことは何一つありませんでした。5節に、「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった」。4章の終りから連続して偉大なわざを繰り出しておられるイエス・キリストが、ナザレに来られると何一つ力あるわざを行うことができない、その理由は何か?それが6節の人々の不信なのです。問題はキリストにあらず、神にあらず、問題は私たちの信仰にある。

あの12年間病んでいた女性が、イエスさまと会ったことも話したこともない。でも癒していただけたのはいったいなぜか?この女の信仰は、5章の28節、「この方のお着物にさわることでもできるなら、私はきっと癒される。」と言う信仰。この方はよくわからない、でもその着物にさわることでもできるならば、私はきっと癒されるという、その信仰のゆえにこの女性は癒されるのです。

娘の悲報を聞きながら、ヤイロは主の言葉にすがりました。その主の言葉は、「娘は死んだというニュースを聴いているが、恐れないで信じ続けなさい」。イエスさまはヤイロの信仰を引っ張るように、恐れないで信じ続けなさいとおっしゃいます。5章に展開されていることは、自然の猛威であり、悪霊の縛りであり、病であり、死であり、私たち人間のさまざまな諸問題、その中でどうしようもなく、もがき苦しむ人々が描かれています。同時に、必死になってイエスさまにしがみつき助けを求める人々が描かれています。

ところが、イエスさまが一旦ナザレに足を踏み入れた途端、全く違った雰囲気が感じられます。故郷の人々はイエスさまをよく知っていた。どれぐらい知っていたのか?6章2節真ん中ぐらいに、「それを聞いた多くの人々は驚いて言った。『この人はこういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう」。3節「この人は大工ではありませんか。マリアの子ではありませんか」。この人、この人、この人・・・。ひとことで言うと、どれぐらい知っているか?こいつ良く知っている。子どものころからよく知っていると(いう感覚でしょうか?)。故郷に帰れば、近所のおばさんがイエスさまの姿を見て言います。「あらまぁイエスくん、大きくなって(笑い)、しばらく見ないうちに急に大きくなってすっかり変わって・・・」。よーく知っている、慣れ親しんでいる。慣れ親しんでいる人が、妙に立派な事を言う、いや聞いたこともないことを言う、力あるわざをする、いったいどうなっちゃったの?「こうして彼らはイエスにつまづいた」(3節)。ということはどういうことか?イエスを最もよく知っている人びと、イエスに慣れ親しんだ人びとが、イエスから最も遠いところにいたということですね。彼らはイエスに信仰を寄せるどころか、あまりにもイエスが普通で、明らかで、よくわかっていたがゆえに、イエスを信じる、期待するという思いがなかった。

よく言われることです。主イエス・キリストにとって現代のナザレはどこにあるのか?現代のナザレは教会なのです。よく歌う讃美歌、何の気もなくいつものように復唱する主の祈り、同じような説教、同じような奉仕、それがアフリカの教会なら、それが南米の教会ならまだ新鮮味があるかもしれない。しかし、それがいつも通う自分の教会ですと、礼拝の場からイエスに対する期待感がだんだん薄れて行きます。普段普通にやっていることでも、神さまにかかわる霊的な事柄に慣れてはいけない。これはよく私たちは知っている。慣れてはいけない。お祈りであっても、献金であっても、礼拝でも説教でも、聖餐式でも、奉仕でも、神さまにかかわることに慣れてはいけない。旧約聖書の世界では、神殿にかかわる聖なる事柄に慣れてしまうことないように、それを『神に対する冒涜』という。忠実な献金がいつの間にかそれが機械的な献金に変って行くということもありますし、自分は説教は聞く、賛美には参加する、けれどもあまり教会の中身に足を入れたくない。精神的に教会生活に疲れるということもありますね。これは地上の教会の弱みです。地上の教会の抱える人間関係です。私たちは皆愛にあふれ、信仰にあふれた人物ですが、一人ひとりその傾向性は違います。それはここ数回、使徒の働きから、パウロの生涯から学んで来ました。ひとりひとり違う。しかしその違いについていけないで、疲れてしまうということはいくらでもある。

あの先生の説教はとてもよくまとまっていて、そしてよくわかるのだけれども、ものすごく聖書講解的で時間が45分50分、まるで講義を聞いているようだ。もしそれを本で読んだらいいけれども、それを聞かされているだけでだんだん疲れて行くというのは、充分あるのですね。私たちはそれをよく知っていますから、しばらく教会の奉仕を休みたいという思いは尊重されなければいけないし、またこういうことを変えてほしいという気持ちもできるなら変えた方がいいでしょうね。でもどこかで、お祈りにしても、献金にしても、礼拝にしても、説教にしても、聖餐式にしても、奉仕にしても全部それが、自分が主体であって、自分の考えでどうにでもできるのだという気持ちになったら、それは『神に対する冒涜』です。それは厳しく考えた方がいいと思います。

キルケゴールは、「神さまにかかわる事柄に俗的に慣れてしまった、それが自分のものであるかのように慣れてしまった人々は、教会を劇場のように考える」と説明しています。礼拝でステージの上のパフォーマンスに献金しているのだろう。今日の説教は今一だった。今日の賛美歌はああだこうだといちいち、楽しませてもらったら拍手はするが、感謝はしない。しかし大したことがなければ、大したことがないと、つまらない顔をして劇場から足早に帰って行きます。

キルケゴールは「教会はそもそも劇場とは正反対なのだ」と言います。客席の私たちが、ステージを見ているのではない。ステージの中央におられる神があなたがたの礼拝をご覧になる。あなたがたの賛美を聴き、あなたがたの献金を見て、あなたがたの心をご覧になる。それが礼拝だと。こう考えますとね、礼拝に俗的に慣れた人がいれば、礼拝に、霊的にかかわるすべての事柄に、自分中心のものの考え方を入れると、私たちはステージの真ん中からイエス・キリストを降ろして、そこに自分が立って、自分の主張をとうとうと述べるようになる。時にそれが牧師です。牧師の説教から神の福音を感じないと言うならば、それはそこに立っている人間が、ステージの中央におられる神よりも自分自身の思いを語っているからでしょう。

日本にはあまりないのですけれども、アフリカの教会に行きますと、礼拝が2時間3時間ですね。その中で、説教と言うのは実はそんなに長くない。でも賛美の時間もそんなに長くない。何が一番長いかと言うと、特別賛美が10個ぐらいある。そして、学芸会のようにと言うと申し訳ないけれども(笑)次から次に、どこどこの者がステージに現れてパフォーマンスを披露するから、結果、礼拝の全部の時間が3時間にもなる。最後に最後の30分で説教が来る。その学芸会が厭な人は最後の30分だけ来れば礼拝がそれで終わってしまう。私たちの教会はそれとはほど遠いです。

しかし時に、説教にしろ、賛美にしろ、司会にしろ、いや会衆席に座っている皆さんにしろ、自分を主体において礼拝を考えると、いつの間にか、この賛美を聴き、この祈りに耳を傾ける中で、何かを語ろうとしているのは神ご自身なのだという新鮮な思いが全部消えて行く。そして郷里のナザレに帰られたイエスさまのように、イエスさまは私たちの信仰のなさに失望し、何一つ力あるわざをなすことなく通り過ぎて行かれる。

教会にも雰囲気があります。ナザレという町は伝統的で保守的な地方だったと言われます。昔の話はよくする。千年前の昔のこともよく覚えている。伝統を守り、父祖の信仰を思い出すことはすばらしいことですが、しかし皮肉なことに、たった今、自分たちの前に立っているキリストから、今日の自分に対して、神のわざがなされるとは想像もしなかったし期待もしていなかった。

神のわざは、特に小さな子どもたちが前で賛美歌を歌う。そこからでも私たちのたましいに届く。一生懸命楽器を演奏してくださった方がおられるなら、楽器が私たちの感覚ともしかしてずれていたとしても、そこからでも届く。あの証しもう少し短いといいのになぁ、あの説教もう少しまとまってるといいのになぁ、そりゃまとまっている方がいいに決まっていますが(笑)、しかしまとまっていなかったとしても、神さまのメッセージは届くんだというのが、教会に存在すべき信仰の期待感。私たちの教会はそういう意味で神への恐れと信仰にあふれた教会です。本当にそうです。

(高津教会は)見事なまでの聖歌隊があるわけではない。いつもプロ並みの演奏をしてくださるそのクラリネット奏者、トランペット奏者がいるという教会ではない。しかし持てるものを一生懸命練習して、それを一生懸命奉仕として主の前に表わそうとするときに、その演奏に感動するばかりか、その方の信仰に感動して自分の信仰が高められるのです。私たちの教会に神への恐れと信仰があるとすれば、それは説教のゆえではなく、礼拝の音楽の質の故でもない。私たちは聖なる神を礼拝の中心に招き、復活の主に期待をし、聖霊が自由に語ってくださることを期待しています。主は乏しい説教でも、乏しい音楽からでも、それをしてくださることを信じています。

私がよく引用する神学者のC・S・ルイスですが、彼の言葉を引用して終わりにします。C・S・ルイスは戦後の世界のキリスト教に最も影響力を与えた神学者だと私は思っています。ドイツ語圏ではカール・バルト、英語圏では間違いなくC・S・ルイス。彼はちょうど大学で中世文学を講じる無神論者でした。その彼が教会の素晴らしさに目覚めて信仰を持ちます。自分が教会の素晴らしさに目覚めたことをこういう風に記しています。

私は教会で歌われる賛美歌が大嫌いで、下手な歌詞に、さらに下手な曲がつけられているようなものだと、思っていた。だがそのうちに、私はその価値が見えてきた。教会の賛美歌が、ゴム靴を履いて向こう側の席に座っている年老いた聖徒によって、信仰と奉仕の気持ちを込めて歌われていることに気づいたのだ。
そのとき、自分にはその靴の汚れを落とす値打ちもないことに気がついた。それがわかったとき、ひとりよがりのうぬぼれた気持ちはぬぐい去られていった。

私たちは一人ひとりが謙虚でなければならない。そしてその謙虚さがあふれている高津教会は、感謝なことに、私が知っている教会でも珍しいとは言いませんが、争いのない教会です。時に誤解はあります。でも、私たちは最終的に主にある平和、主にある一致にたどり着いていく。最終的に主ご自身がこの群れを引っ張って行ってくださる。そして、互いの落ち度をカバーしながら、でも自分の意見を自由にいいつつも、最後は主にある一致にたどり着くことができる教会はどういう教会か?それは、神に対するの恐れのある教会。ぜひ教会総会の中では自由に尋ねていただき、こちらの方は、自由な質問や自分の考えを述べていただきたい。また今年も主は私たちの心に平安を与えてくださり、納得を与えてくださり、まっすぐにするところは主ご自身がまっすぐにしてくださる。人が曲げた物を無理やりまっすぐにするのではない。主ご自身が正すところは正し、不透明な部分は透明にしてくださる。このことを信じたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、この教会をあなたご自身に対する恐れと信頼、期待、信仰にあふれた教会となさせてください。もし初対面の方がこの教会にいらしたならば、何かを期待してこの教会にいらっしゃるでしょう。だとしたならば、毎週この教会に来ている私たちは、どれほど期待と信仰をもって、恐れをもって、賛美を歌い、祈りを聴き、メッセージに耳を傾けているかと言われると、いつの間にか、自分はあなたに代わってこの観客席の中心にいることを覚えます。

主よ、どうか私たちのおごった心を砕いてください。私たちはあくまでこの教会の生ける石の一つにすぎない、そして教会の頭はイエス・キリストである、この礼拝の中心には神がおられることを納得することができるように、信仰を強くしてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。



掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2011.03.26 - 23:10
LAST UPDATE: 2011.04.02 - 23:14

219.45.134.199 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 6.1; Trident/4.0; YTB730; GTB6.6; SLCC2; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 3.5.30729; .NET CLR 3.0.30729; Media Center PC 6.0; .NET4.0C)

Name   E-Mail   Password

 前文 「召されたことを確かなものとする」 2010...
 次文 1/17説教「パウロ(14)意見の対立」使徒の...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
250Simple view *^^*4/11礼拝説教「パウロ(20)恐れない... [1] T・Y 2011.03.26 22276
249Simple view *^^*4/4イースター礼拝説教「石をわきに転がす... T・Y 2011.03.26 4432
248Simple view *^^*3/28パーム・サンデー説教「キリストの十... T・Y 2011.03.26 4678
247Simple view *^^*3/21説教「聖霊を実感する(1)大胆に求め... T・Y 2011.03.26 3744
246Simple view *^^*3/14説教「パウロ(19)アレオパゴス」使徒... [1] T・Y 2011.03.26 17626
245Simple view *^^*3/7説教「パウロ(18)こうして教会は・・... [1] T・Y 2011.03.26 4296
244Simple view *^^*2/28説教「パウロ(17)真の自由」使徒の働... T・Y 2011.03.26 4971
243Simple view *^^*「さばかない霊性」 2010.2.14  須郷進... [2] DiceK 2011.03.26 26816
242Simple view *^^*2/21説教「主は私の心を開いてくださる... T・Y 2011.03.26 5647
241Simple view *^^*2/7説教「パウロ(15)神のご計画がなる」... T・Y 2011.03.26 4130
240Simple view *^^*「召されたことを確かなものとする」 2010... DiceK 2011.03.26 3632
239現在参照中の文章です...1/24教会総会の聖日の説教「信仰という雰... T・Y 2011.03.26 6347
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
本頁が先頭ページです前へ戻る 11  12  13  14  15  16  17  18  19  20 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*