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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/28説教「パウロ(17)真の自由」使徒の働き16:16〜34

☆説教
しばらくパウロの生涯から学んでおりまして、今日は17回目。「まことの自由」と題して、使徒の働きの16章の少し長いですが、その個所(16〜34節)を開いてみたいと思います。

先週はそのひとつ前、特に16章の14節を見ていただきました。「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた」。「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」(9節)という幻を見て、第2次伝道旅行に出かけたパウロはマケドニヤ州へ、小アジアからギリシャ圏、やがてローマ圏へと渡って行きます。最初に伝道した町がピリピというローマ帝国の植民都市でありました。このことを見ていただきましたが、ユダヤ教の会堂がないこのピリピで、パウロは川岸の祈り場に行って伝道します。そこに、熱心にパウロの説教に耳を傾ける敬虔なルデヤという女性がいた。この女性こそが、これから始まる壮大なローマ帝国への伝道の最初のくさびとなった、という話をしました。二千年の教会の歴史で、おそらくすべての教会に、このルデヤのような敬虔で熱心に祈り、みことばに耳を傾ける女性がいた、そして高津教会にもいるということをお話ししました。

さて、この祈りの場に行く途中、パウロは今度はトラブルに遭います。16節「私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった」。占いの霊とは悪霊です。私たち神を信じる者は占いを嫌います。ほとんどの占いは当たらないということを前提にしていますので、まあそれなりの商売なのだろうなと思いますが、時々、当たる占い師がいます。神学的にいえば、当たらない占い師は単なる商売人と思えばいい。しかし当たる占い師は怖いです。当たらない方に行きなさい。(笑)しかし当たる方は、霊の働きですから、本当はそちらの方が恐ろしい。

人間以上の力を授けられ、そしてかなりの的中率で商売は繁盛していました。1 7 節を見ますと、「彼女はパウロと私たち(使徒の働きの記者ルカも含まれている)のあとについて来て、『この人たちは、いと高き神のしもべで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。』と叫び続けた」。18節「幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、『イエスキリストの御名によって命じる。この女から出て行け。』と言った。すると即座に、霊は出て行った」。

この悪霊につかれた女は、パウロの一行のあとについて行って「この人たちはと、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と宣伝してくれるのです。イエスさまの時と同じでした。悪霊は霊的な存在がわかります。だから悪霊はパウロ、シラス、ルカの正体がわかる。そして宣伝することによって、これもまた様々な方法で邪魔をしようとします。イエスさまにとっても、パウロにしても、悪霊につかれた人から評価を受けることほど、やっかいな怪しげなことはなかったでしょう。こういう宣伝をしてもらうと、ますます怪しげになってしまいます。パウロは、この女から悪霊を追い出します。とたんに、この女から占いの効果は消えてゆきます。

19節「彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った」。営業妨害でパウロとシラスを訴えます。しかし20節の内容ですと、営業妨害だけでなくして、これはもう騒乱罪の適用も視野に入れて訴えます。
20〜21節「そして、二人を長官たちの間に引き出してこう言った。(***長官と言うのは、ローマ帝国の植民都市のピリピの上官です。イエスさが最後だったピラトのように、総督がこの町にいたと考えられます)。『この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております』」。
実はパウロはローマ人なのです。ローマ帝国の市民権を持っています。でも、長官たちはあっという間に、商売人たちの巧みな話術に乗せられて、群衆もこの騒ぎに乗せられます。
22〜23節「群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、二人の着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた」。

あっという間の出来事であったに違いありません。何の根拠もない。今の言葉で言えば、人権侵害です。市民権の重大な侵害をして牢に連れて行くというこの場面から、今日は2 つ覚えておきましょう。

1 ) 真の自由とは何か?
真の自由とは何かを考えたときに、真の自由を持っていない自分というのを考えなければならない。持ってるように見えても、この真の自由はいとも簡単に奪い去られる自分というのも考えながら、真の自由を考えて行きましょう。

事態は、全くの不当逮捕、そして厳しい処刑でした。私たちは冤罪事件にかかわったことがない。昔ありましたじゃないですか?バンコク経由でオーストラリア・ツアーに参加した人が、バンコクで荷物が出て来なかった。スーツケースがなくなった。旅行者の人は新しいスーツケースをあてがってくれた。親切な旅行社だなと思った。そこに新しく自分の荷物をもう一回詰め込んで、オーストラリアに渡って行った。税関で引っかかって、中から出てきたのはたくさんの麻薬で、彼らは10年(主犯格の人はまだ)刑務所に入っている間に自殺を試みた。大使館も手を尽くし、どんなに対抗手段を使っても結局解放されることはなかった。数年前にその内の数人が刑を終えて日本に帰って来ました。そして私たちの教会に来てくださいました大島先生を含めて、日本人の宣教師たちはあのメルボルンで伝道し、麻薬所持の冤罪で刑務所に入っていた内の一人はクリスチャンになりました。

パウロが置かれていた状況というのは何を意味しているのか?上着をはがされ、むちうちの刑を受け、そしてむちの中には、動物の骨や陶器やガラスのかけらが埋め込んでいますので、背中に何度もむちを振り下ろされれば、肉片がはがれます。そして、血だらけです。イエスさまが十字架の上でそんなに早く息を絶えてしまったのは、あのむちうちの刑によって、多量の出血をしていたからだと言われています。

2 4 節「この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた」。
しかし、2 5 節です。「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」というのが、今日目を留めていただきたい第一のことです。不当な悶々とした牢獄の中で、痛みに耐えながらも彼らは祈っていた。そして祈りが賛美に変って行った。

以前話したことがありますが、インマヌエルという教団の創設者である蔦田二雄先生が、戦時中、軍事政権の弾圧でキリスト教の牧師として、憲兵に捕らえられて東京拘置所での独房生活を2 年半過ごされました。当時の日記を読みますと、ある時拘置所の外で、大きなラッパの音で誰かが(インマヌエル讃美歌165)「いつくしみ深き友なる」を吹いてくれたというのです。誰かはわからない。先生が拘置所のどこに収監されているのかもわからない。しかし先生を励まそうと、信徒の一人が、塀の向こうで力一杯、賛美歌を吹いてくれたそうです。その賛美歌に、とっても先生の心は慰められたと昔の日記に記されています。

パウロ一人でなくて良かった。シラスもルカも一緒でよかったとも思います。しかし、今ここで、二人は三人は背中の痛みを感じながら、真っ暗な牢獄の一番奥で、足は鎖でつながれているけれども祈るのです。そして祈っている内に、信仰の力がわき起こり、感謝と讃美を捧げて歌を歌い始める。恐らく詩篇の歌でしょう。

私たちは、「自由」という言葉で何を考えるか?束縛からの自由、制度や規則からの自由、自由にやりたいことをする自由。しかし、信仰者が目指す最大の自由は、自分のしたいことをする自由ではない。私たちが願っている最大の自由は、極限状況におけるたましいの自由です。どんなに手足を縛られ、体の自由を奪われ、どんなに閉じこめられ、つながれていても、たましいは自由です。信仰による自由ですが、このことはとても考えさせられます。

私は青山学院でキリスト教を教えている大学生と、一番最後に映画を観るようにしています。それは、2〇〇5年か2〇〇6年にアカデミー賞を取った「ミリオンダラー・べイビー」。貧しい女の子がプロボクサーを目指して、ミリオンダラーを稼ぐようになる。ところがある試合で、後ろから殴られて、首の骨を折って、それからずっと・・・。最初は本当に、ミリオンダラーを稼ぐために貧しい女の子が、努力に努力を重ねて、とうとうチャンピオンになって行く映画かと思って観ていたのです。ところがそれは映画の半分にしか過ぎない。

後半はその女性が最後不随になって、自らの舌を噛み切ろうとする。噛み切れない。自分で自分が一つも決定できない。彼女は自分をずっと世話をしてくれたボクシング・トレーナーに、チューブを抜いてくれと頼む。そして最後になかなか迷う。でも夜中の病院に忍び込んでチューブを抜いてしまう。私はあの映画を観たときに、それはもう絶句ですし、そういう展開になるとは全然知りません。でもあれがアメリカでアカデミー賞を取ったというのがすごくよくわかる。それは、あの映画の最大のテーマは自由だと。そして最後に、そういう形で自分の生涯を終えることが本当に自由の行使になるかどうかは別として、しかしどんなことがあっても、神に信頼しながら自分の人生の結末をこういう形で迎えたい。そしてその自由が阻まれることがあるとするなら、それが一番辛い。

自由をテーマに物事を考えるというのは、これは別にアメリカ国民だけでなくして、私たちキリスト者はいつも考えています。イエスさまはペテロに言いました。「あなたは若い時には自分の好きなところに行きますが、しかし年を取ったら人に帯されて、自分の行きたくないところに連れて行かれます」と(ヨハネ21:18参照)。人間必ずそういう中を通る。自分の予定、自分の計画が全部崩されて、そういったときに、果たして自分は何をもって人間としての尊厳、たましいの自由を手にするのか?

小さな事とは言いません。小さなことというのは私たちにはない。小さな子どもにすれば、大事なお人形の首がもげただけでも大事件です。これは別に小さな事ではない。しかし小さな子供からお年寄りに至るまで、こうした小さな事というのはたくさんある。だから私たちは刑務所の映画が好きなのです。(笑)それは人間の人生というのは、ある意味刑務所だというのを知っているからです。

ナチス・ドイツがオーストリアを占領していたころ、ユダヤ人たちがただユダヤ人であるという理由だけで捕らえられて、アウシュビッツに収容され、惨殺されていきました。ウイーン大学の精神科医をしていましたビクトル・フランクルも、アウシュビッツにユダヤ人であるがために収監されました。周りの同胞の死を見、やがて彼は生き延びて「夜と霧」という本を出して、体験を描いています。

彼は、ある日、死を前にした若い一人の女性と話をします。この女性は、フランクルが精神科の医者である事を知っていて、死を前にして「感謝」ということばを語ります。(暴虐の中で、彼女は心の自由、精神の自由に目覚めたことに感謝するのです)。

毎日、わずかなスープで強制労働につかされて、毎日何百人がガス室に送られて、ブルトーザーで掘られた穴に放り込まれる。人間の油で石鹸を造っていたような世界です。体力を失い、考える力もなくなっていた彼女は、ある時、ふと窓の外の木を見ます。太陽の光をあびて、さんさんと輝く葉をつけている木が目に飛び込んできました。その瞬間、一筋の光が彼女の心の中に入ってきた。この女性が、バラックの窓の外を指して、精神科医のビクトル・フランクルに言います。

「ほら、あそこにある木は、ひとりぼっちのわたしのただ一人のお友だちなの。」「あの木は、わたしに語ってくれました。わたしは、ここにいる。わたしはいるのだ。永遠のいのちだと」。一本の木が語りかけたということは、それを通して神が語りかけたということでしょう。そして彼女のたましいを解き放った語りかけのことばは何だったのか?それは神さまの「わたしはここにいる。永遠のいのちだ。」というこのことばです。

それを聞いたフランクル自身が悟るのです。そのまま文章を読みます。「この、一見絶望的な強制的な状態の下でも、精神の自由が内的に存在できるのだ。あらゆる束縛に蹂躙され、人間性を失ってしまうこの環境において、たましいの自由が存在し得ることに、私は驚嘆した。自分は、どんなことがあっても鉄条網に向かって走らない。どのような拷問にも、どのような苦役にも、どのような飢餓にも耐え忍び通し、どのような絶望的状態にも希望を失わず、幾百、幾千と死んだり殺されていく、今のここで、私は神以外には、世界中の何者も恐れる必要はない。私は精神の自由を得た」。

私は、先ほど申し上げました「ミリオンダラー・べイビー」という映画の中で、舌を噛み切って死のうとする女性、医者に止められて、さるぐつわをされて、舌も噛めない。そして自分のトレーナーにチューブを抜いてくれと頼む女性に、とてつもない自由を感じます。それは舌を噛み切るという行為は、必ずしも絶望に屈する行為としては写らない。そこがあの映画のおかげです。どこまでもその持てる強さを失っていない。まあ、話の種は言ってはいけないのが、映画を観る人のモットーですけれども(笑)、そういう視点でもう一回見ていただきますと味があると思います。

パウロとシラスは、牢獄の奥で、真夜中に祈った。祈りが讃美に変わった。暗闇の中で、主に顔を向けた時、彼らは主の声を聴いたに違いない。その声があるとしたら何か?それは「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイ14:27、ヨハネ6:20)ですね。イエスさまが水の上で弟子たちに語りかけた、「しっかりしろ、わたしがここにいるではないか。」でしょう。これこそが、私たちがあらゆる場面において、一番気が付かなければならないことです。それはいったい何か?イエスさまはともにいてくださる。うまくいかない時に、自分の願ったことが叶わなかった時に、人に罵倒された時に、友達を失う時に、誤解される時に、イエスさまはあなたとともにいてくださる。そしてあなたの手を握って「しっかりしろ、わたしはここにいる。」と言ってくださる。それがたましいに自由を与えるのです。このイエスさまの声なくして、決してたましいに自由はない。私たちはもっぱら自分の周りで起こるさまざまなことに振り回されるだけです。

2 ) では、この自由はどのようにして得られるか?
ちょっと先を見ていただきたいと思いますが、パウロとシラスが賛美していると、突然地震が起こります。26〜27節「ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした」。すべて神さまの働きです。囚人は責任を感じたのでしょう。
2 8 節「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」。
29 節「看守はあかりを取り、駆け込んできて、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏した」。
30節「そして、ふたりを外に連れ出して、『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った」。
31節をご一緒に読む。「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った」。

これは味わいが、ものすごく味わいがあります。看守は、「先生がた、救われるためには何をしなければならないか?」これも奇妙な問いかけです。この出来事を通して、看守は自分が救われなければならない存在であることが分かった。詳しいことは書いてありません。事態は説明もしたのでしょう。自分たちが何者かということも話したのでしょう。しかし最終的にはどうしたら救われるのでしょうかということは、自分は救われなければいけない(ということに気がついたのです)。

看守は自分の仕事の落ち度で責任を追及され自害させられる、というものの発想から来てるわけです。ああよかった。誰も逃げていない。じゃあもう一回、二人を牢獄に入れて、これで一件落着です(笑)。だけど話の最後はそこに行っていないです。救われるためにはどうしなければいけないか?ここまで行くことが大切だということがよくわかっていただけると思います。

教会には人生相談のためにいらっしゃる方は五万といる。お金の無心にいらっしゃる方はもっといらっしゃる(笑)。神さまを求めて、助けを求めて教会に来る人はたくさんいると思います。だけど、最終的に自分が救われなければいけない存在だということに気付いてくれない限り、教会に来た意味は全くないです。500円握って、何か温かいものでも召しあがってください。だけど500円握って帰っていただく以外にない。なぜなら、自分は救われなければならない存在だという自覚が全くないから。大体そのことのために教会に来たわけでもない。その話をしたらすぐに帰ってしまいます(笑)。私たちの考えていることが、よくよくわからない。

でももっと面白いことは、それを聴いたときにパウロが言った答え。パウロの答えは、何ともシンプルです。あんまりにもシンプルだということを、改めて考えてほしい。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」というのは、えっ、そんなことでいいのか?もちろん主イエスが、あなたの救い主であること、あなたの罪を十字架で担い、あなたのために死を打ち破り、あなたの人生がどんなに小さく無意味と感じていても、神はあなたを愛し、あなたのためにご計画をお持ちであり、あなたをご自身の栄光のために用いてくださる、とそういう説明をしたのかもしれません。しかしパウロは最終的には、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と、パウロは最も単純な回答を出して来ました。それはイエスさまが出してきた回答と同じです。あの最後の晩餐の席上で、複雑な問題が飛び交う中、イエスさまは最後におっしゃった。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)。それだけでいいのか?それだけでいいのです。

先日、ある友人の牧師から、こんな話を聞いたということで話を終わりにします。これは私は笑えました。そして考えさせられました。
その先生のお姉さんはクリスチャン、お母さんは病気のことで悩んで、よく事情はわからないのですが、お姉さんに「治るように神社で代わりにお参りをして来て」と頼まれたんです。お姉さんは、クリスチャンです。でも、お母さんの切なる願いで、苦しんでいるから行ってあげることにした。それで、出がけに、ついでに「家内安全」も祈願してきてねと言われました。

神社に行って、祈祷を申し込みました。病気が治るように、それから家内安全も。すると受付の方が、だったら二つですから、ご祈祷のお値段は二倍になります。そしたら、お姉さんは、「じゃあ、結構です。家内安全の方は取り消してください」。(大笑)受付の人も、「なんじゃい、この人は? 」と思ったでしょうね。「病気をお祈りしてください」と来た人がですね、「家内安全もよろしくお願いします」。値段は二倍です。「じゃあ、家内安全の方は結構です」と(笑)。結構なのか!?

私は、このお姉さんが好きですね。この話一つでこのお姉さんが好きになりましたね。(笑)こういう人はオッケーだと思いますよ。なぜかと言えば、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)、それだけなのです。お母さんがそんなに言うのなら、神社で頼んであげる。でも、最初からそんなのどうでもいいのです。だからお願いを二つにしたら値段が二倍になるなんて、だったら家内安全は取り消します、と。(笑)なぜ、取り消すんですか?それは、救いはイエス・キリストから来ると固く信じているからです。あとのものは取って付けたようなもの、それ以外からは来ない。だからそれ以外はどうでもいい。

人生、そういう風に思って生きることができたら私は楽だと思います。その楽だというのがたましいの自由です。最終的には、「からだを殺しても、たましいを殺すことのできない人間なんか恐れるな」(マタイ10:28)と言いますでしょう。

イエスさまにすべてを委ねること、そして、このイエスさまに我が身を委ね、自分の最も大切なものを委ねる、それを信仰と呼ぶと言ったら、(私たちクリスチャンも多くの者がでしょうか?T・Y)「ああ、信仰薄き者よ。」です。救われて天国に行くことのためには、イエスさまにお願いするけれども、しかしそれ以外の日常のさまざまな問題に関しては別にイエスさまにお願いしないのです。パウロが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」というのは、これは全部のことです。別にたましいの救いのことだけではない、人生すべてのことについて「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」と(言われているのです)。あなたの名誉も、あなたの働きも、あなたの計画も、家族もいのちもすべて、大切なものであればある程、主イエスに委ねなさい。それこそ、あなたが自由に生きることができる唯一の方法です。そして神さまはあなたの信仰をよきにしてくださり、よみして(ほめて)くださり、あなたを受け入れてくださり、祝福してくださる。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたが心から私たちに与えようと願っておられること、それはたましいの自由ではないかと、考えさせられます。あなたは私たちにおっしゃいました。「この世にあっては艱難があります。しかし勇敢でありなさい。すでにわたしは世に勝ったのです」(ヨハネ16:33後半)。あなたは何もない平々凡々とした世界を私たちにくださるというのではなく、むしろ艱難を通して信仰を学んでほしい。艱難を通してすべてを支配しておられる、善にして善をなしたもう神の恵みを味わってほしいと、(おっしゃるのでしょう)。主よ、それがあなたの願いであるならば、私たちはそのすべてを委ねて、あなたの、全能者の、陰に身を寄せ、そこに住むことができるように私たちを導いてください。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。



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DATE: 2011.03.26 - 23:17
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