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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/14説教「パウロ(19)アレオパゴス」使徒の働き17:16〜34
☆説教
高津教会ではずっと続けてパウロの生涯から学んでいますが、今日はその19回目、パウロがアテネのアレオパゴスで人々の前で説得している17章を見ていただきます。

先週は、ちょっと思い出していただきますと、「こうして教会は・・・」というタイトルで、第2回目の伝道旅行でパウロは小アジアからギリシャに渡り、そして初めて伝道した町がピリピ、次にテサロニケ、ベレヤという二つの教会を(先週は)見ました。私たちがテサロニケやベレヤの名前を知っているのは、それは聖書の中に、パウロがピリピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙と、教会宛に手紙を書いているからです。つまり、パウロは、それらの地方にキリストの福音を伝えただけではなく、教会を建てて行ったという話をしました。

「こうして教会は・・・」そのプロセスの中で、@ 聖書に基づいて語る者がいて、聖書を調べる者がいたこと、A それを退ける者もいるけれども、心からその福音に身を委ねて行く者がいたこと、そしてB たとえ、パウロが妨害されて、やがて町から追い出されたとしても、その宣教の情熱は引き継いがれて行った。つまり、やがて主のことばが、テサロニケの教会から出てマケドニヤとアカヤに響き渡っていったということは、教会はパウロを失っても、伝道の情熱を失わなかった、だからこそ教会が出来上がって行った、ということをお話ししました。

さて、パウロはギリシャの首都アテネに来ました。16節にこう始まります。「さて、アテネで二人を待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた」。二人というのは、同行者、シラスとテモテです。パウロだけ先に、アテネの町にはいりました。これから先の出来事はパウロがアテネの哲学者を前に、さまざまな論争をしている記事が書いてあります。

パウロはアテネの町に驚いたというよりも、1 6 節には「心に憤りを感じた」とあります。 町中が偶像だらけだったというのです。当時の歴史家は、その実状をこう伝えています。
パウザニウスという歴史家はは、パウロより5 0 年後にこう記しています。「アテネにある偶像の数は、残りのギリシャ全部を合わせた数に優る」。
ピルニーという当時の歴史家は、「ローマ皇帝ネロの時代、アテネには、2 万5 千から3 万の公の偶像があった。」― ― 彼がそう言った時に、パンテオンにあった偶像3 万体を除いての話ですから、公に設置されている偶像だけで、6 万体近くあった。
もう一人の歴史家は「アテネの人口より、偶像の数の方が多かった。」と記しています。
ありとあらゆる動物が像に刻まれて、町に据えられ、人々はそれを神として拝みました。勇壮な男性の神、あるいは女神、ライオン、猫、蛇、トカゲ、地上のさまざまな動物が神になる。

ある意味、日本と似ています。日本で生き神さまが一番多いのが奈良県の生駒山だとテレビで見ました。生き神というのは、私のような人間が神さまとして奉られることです。私が見たのは石切神社というのがあって、そのそばの薬局のおじさんが、「そうですね、私もそろそろ生き神さまになって、店を拡張します」と言っていました。(笑)その神社のそばにどういうわけか、男性が道ばたで用を足して、どんなに断り書きを書いても、どうしてもそうなる。そこで、誰かが名案を思いついて、賽銭箱を置こう、ということになった。すると、お賽銭がものすごく集まるようになった。(へぇ!)

私たちは占いが好きなのかも知れません。名前の字画にこだわるのかもしれません。さまざまな風水の占いに関心を寄せるのかもしれません。あるいは新興宗教の数、仏教系がいちばん多いですね。それから神道系もありますね。キリスト教系というのは、時々異端の宗教を生じますけれども、然し、圧倒的に仏教系神道系が多いのでしょう。

A.W.トーザーという有名な神学者で、深い霊的指導者が、こんなことを言っています。「私たちが神を考えるときに、何を思い浮かべるかということは、私たちにとって最も大切なことだ。人類の歴史を探ってみると、民族は崇拝する宗教以上に成長するということは有り得ない。その民族が、神をどのように考えているのか、それがその民族のあり方を決定する。人々が神を低く考えてみれば、礼拝は俗悪なものとなる。人々が神を高く考えていれば、礼拝は純粋なものとなる。この故に、教会にとっての最も真剣な質問は、神ご自身についてである。人があるときに何を言い、何をするのかではなく、その人の心の奥底で、その人は神をどう捉えているのか、それがその人物の人生と歴史を決定する」。

私たちは、自分の礼拝している神を乗り越えることは出来ないのです。俗悪な神を礼拝すれば、俗悪な人生に満足を得るでしょう。動物に宿る精霊を拝む人々は、それくらいの精神世界にとどまるでしょう。人間である天皇を崇拝して、私たち日本人は、アジアの人びとを虫けらのように扱っていた時期もありました。

さて、こうした日本の私たち、またアテネの人びとに、パウロは何を語るのかということを、今日も簡単に3つもポイントから見て行きましょう。

1 ) 神は万物の創造者であり、絶対者である。

23〜25 節を交読「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由な事でもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです」。

ひとことで言うと、 神さまを小さく考えてはいけません。神さまが人間の数以上に6万体あって、よろしく暮らしている、そのような方ではあり得ないです。神は、この世界とその中にあるすべての物を創造されました。アクロポリスだろうが、エルサレムだろうが、どんな荘厳な神殿を造ったとしても、神がその中に押し込められて、そこに住むわけではない。金の仏像を造ったとしても、それが神になるわけではない。おまじないや風水で、あなたの思い通りに人生が運ばれるのではない。神の方で何か必要なことがあって、その必要なものを人間から吸い上げるようなら、そんな存在は神ではない。おさい銭の額で、御利益がたくさんになるわけではない。神はすべての人に、いのちと息と万物を与えられた神である。パウロが伝えようとした神は、祝福してくださる神さま、与えてくださる神さま、あなたにいのちと人生と生きがいと喜びと、時に試練、時に悲しみを、その人生を与え導く神さまです。

イースターに片岡兄が洗礼を受けられますが、先週こんなことをおっしゃいました。自分は小さいころから絶対者なる存在を疑ったことはない。決してどこどこの宗教を信奉していたわけではない。兄弟はお嬢さんたちをミッション・スクールに送り出して、少しキリスト教と係わるようになりますけれども、だからと言って高津教会に来る前、どこかの教会に属していたわけではない。それでも自分はこの世界に絶対者なる存在がおられるという教理はわかっていた。だから、神棚に手を合わすでもなく、偶像を拝むでもなく、そこら辺に転がっている新興宗教に手を出すことはむしろしないと。

日本では、「自分は特別な信仰者ではない。自分は特別に宗教団体に属している訳ではない。教会に行っている訳ではない。でも自分はどこかで、絶対者なる神、この世界を創造され、万物にいのちと息をお与えになっておられる神がおられる、ということを信じている」人は割と多いのです。

2 )その神を、私たちが見いだすことが出来る。

2番目にパウロはこんなことを言います。2 7 節を一緒に読む。「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません」。
パウロは、私たちがその神を、絶対者なる神を見出すことができる、しかも『ひとりひとりから遠く離れてはおられない』ということは、ひとりひとりが見出すことができると言うのです。
2 8 節をご覧ください。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです」。
パウロはギリシャ詩人のことばを引用しながら、「あなたがたも神の中に生き、動き、また存在していることをわかっているのでしょう。その神をあなたがたは見出すことができる」と言うのです。

以前、全然違うコンテキストで話したことがありますが、北森嘉蔵という有名な神学者がこんな話をしています。
一人の男の子が、ある事情で小さいときから父親と生き別れたと仮定します。成長して学校に行くようになると、他の子には父親がいますから、それを見て自分にも父親をと願うようになります。その場合、その少年は、町で出会ういろいろな男性を見ては、それがもしや自分のお父さんではないだろうか、お父さんであってほしい、と考えたりして想像をふくらませるでしょう。そうしてこの少年の中で、父親のイメージが次々に出てきて、ああでもない、こうでもない、と父親像が行き巡るでしょう。

北森先生がおっしゃるには、人間はまさにこの男の子のようなものだというのです。父親の方が子どもから離れたという話をしましたが、神との関係ではその逆で、私たちが父親を捨てます。私たちが自分の人生を歩んでいくうちに、父親という神なる厄介な存在を捨ててしまう。それでいて、人間の内側には父親へのあこがれがある。人間はそのあこがれを捨て去ることがでずに、父親を欲しいと思うときには、いろいろな父親、つまりいろいろな神々を造り出すというわけです。これはパウロがロマ書の1章で言っていることです。

さて、ここなのですが、こうしてできた父親のイメージがどんなにたくさんあったとしても、父親は一人だという現実は変わりません。北森先生は、日本によくある宗教論議、すなわち、宗教はいろいろあるから、全部不確かだ、宗教はそこら辺にいくらでも転がっているから、全部まぎらわしいという結論は、あまりに短絡的過ぎると言うのです。その男の子がどんなにたくさんの父親イメージを描いたとしても、父親がいないということにはならない。父親はいるのです。 問題は、どうやってその父親と出会うかです。

パウロは、実は絶対者なる神は私たちから遠いところにおられるのではない、実に私たちはその方の手の中に生き、その方は私たちを見守っていてくださる、と言うのです。でも、この方の愛を知り、この方の力を知り、この方のそばに行くとき、私たちはキリストを通して行くというのが、パウロのメッセージでありました。

31節、ちょっと難しいですが、声を合わせて読んでみたいと思います。「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです」。

難しいですから簡単に説明しますね。『お立てになった一人の方』というのは、イエス・キリスト。『義を持ってこの世界をさばく』だけではなくして、キリストはご自身の十字架をもって、この世界を救われた。イエス・キリストの十字架を信じる者はその罪を赦され、この世界から救われる。しかし、やがてこの方は再び戻って来られ、この世界をさばく。『日を決めておられる』というのは、最も厳粛です。それは、その世界に終りが来るという日を決めておられるだけでなくして、私たちの人生もやがて終りが来るということを決めておられる。『そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって』というのは、キリストは復活された。キリストは死を打ち破られた。ということは、キリストを信じる者は、ともに死を打ち破るということを、アテネの人にパウロは話したのです。パウロがキリストの復活にこだわったというのは意味がある。

3 )パウロはキリストを宣べ伝えた。特によみがえりのキリストを。

そして、死者の中から復活されたキリストは、私たちをもよみがえらせ、この世界を裁かれることです。このことに焦点を当てたことには意味がありました。パウロがアレオパゴスで論じている哲学者たちは、エピクロス派とストア派です。

18節「エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じあっていたが、その中のある者たちは、『このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。』と言い、ほかの者たちは、『彼は外国の神々を伝えているらしい。』と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである」。

エピクロス派というのは快楽主義者です。彼らは、死後の世界を認めません。人生一回限り、この地上にあるだけです。だから、せいぜい楽しんで暮らしたい。退廃的というよりも、何か小市民的な幸せに満足する人たちです。私たちは誰もが幸せを願います。子どもはいい学校に行ってほしい。自分の仕事はうまくまとまってほしい。やがていい学校、いい仕事、そしてよい結婚に導かれ、家族みんなに囲まれ、孫は大きくなり、そして家族は・・。私たちは純粋に幸せを求めながら、いつの間にかエピクロス派と同じです。人生一回だけでこの世界でいかに幸せをつかむか、それしか考えない。

ストア派は、逆に禁欲主義者です。彼らは地上の人生は苦しむべきものとして考えます。どうしたら、苦しみを通して、自分の欲を除いて行くか、純粋になれるか?彼らは、苦行難行に専念する代わりに、人生の現実の課題に直視しようとはしない。苦行難行に励む代わりに、この世界の平和や、あるいは貧しい人々をどうしようか、そんなことは考えない。考えていることは苦行に逃避するかのように、自分のたましいだけを守って行くこと。

エピクロス派が退廃的なら、ストア派は虚無的です。さまざまな壁を突き破ることによって、私たちに忍耐が生まれ、また私たちがやがて復活のいのち、永遠の世界につながるということよりも、一生懸命自分自身のたましいを・・・これは極論です。彼らの哲学はもっと繊細で、純粋で複雑です。しかし、当時の人々、一般の人々はどちらかというと、これだけの偶像に囲まれながら、そしてものの考え方はもしエピクロス派的であれば、あるいはストア派のような禁欲的な考えになびけば、結局のところ、退廃的で虚無的で自らの幸せを顧み、自らの成功を喜び、何か試練があったら悲しむ、それだけでとってもそういう意味で、日本人の一般的な感性に似ています。どのみち一回かぎりの人生で、適当に楽しんで暮らそうと思っています。

「輪廻転生」ということを、時々口にします。前世、現世、来世、これはよく口にしますでしょう。だからと言って、来世をまともに信じている人などひとりもいないです。来世をまともに信じているインドの人なんか、50代過ぎたら、どれ程のボランティアをして、どれほどの人々を助けるかということを真剣に考えますよ。前世、現世、来世と考えているインドの人々は、スラム街で苦しんでいる貧しい人々など助けませんよ。なぜなら、助けてしまったら、彼らは来世、より良い人生と信じることができない。今苦しんでいるのは、前世の悪行のゆえで,その報いを正当に受けることによって、彼らは来世、より良き世界へと引きずることができる。これが、前世、現世、来世というものの、しっかりとした考え方で、日本の人たちは誰ひとりそんなことを考えていない。とっても宗教に気軽で、何とか宗教を気軽なものにしようとする。でもどこかで打算的でどこかで虚無的です。

もし私たちがパウロが語っているように、復活のキリストという世界を知らないとしたら、例えば私が神のことを全く考えない家庭で育ったとしましょう。貧しい家庭で、しかし努力してお金も稼ぐようになりました。人並みに結婚して、かわいい息子がいて、幸せです。子どもには最高の教育を与えました。親の誇りです。しかし、ある日、交通事故で乗っていた自転車もろともアスファルトにたたきつけられ、病院に運ばれ、脳挫傷。たくさんの管がつながれていて、しばらくすると脳死です。私たちの前には、死にかけている、自分の命よりも大事な子供が寝ています。何ひとつしてやれません。

想像してみてください。その私には、祈る神さえいないのです。今まで神を前提とする生き方なんかしたこともありませんし、何の慰めもなく、何の希望もありません。なぜなら、生まれてこの方、神なんかいないと公言して来たからです。あるのは、最高の医療でさえ救えない、この愛する子どものいのちという現実だけです。

哲学は理性を駆使します。しかし、どこかで神を見失う。生き方を説きますが、それ以上、なんら明確ではありません。理性を用いて、手探りで探求しますけれども、神ご自身がご自身を明らかにされるという手立てが哲学にはない。私たちはなぜこんなに聖書を尊ぶか?それは、聖書は啓示の書物と言いますが、これは人間がどれほど理性を駆使しても得ることができない、神ご自身が私たちにいかなる者であるかを明らかにしてくださった書物だからです。

だからパウロは(哲学者たちに言いました)。30節を見てください。「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」。
このギリシャの理性あふれた時代を担う哲学者を、パウロは「無知」と言っています。立派な建物を建て、立派な道路を造り、多くの詩人を生み出し、人間の理性を駆使してもやっぱりあなたがたは無知だと。

さて、パウロの熱弁の結果はどうだったでしょうか。興味深いです。3 2 節「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう。』と言った。」です。「いずれまた」と聞き流しておいたのです。私は、あざ笑うのはいいと思いますが、残念に思うのは、「いずれまた」と言う人です。教会に一度来た。でもその先は「いずれまた」。聖書を読む機会がある時あった。でも今は他のことで一生懸命だから「いずれまた」。

私は、以前にこんな話をしたことがあります。
寒い冬の湖で、一羽の鷹は餌を探して旋回します。あたり一面真っ白な雪で、鷹は氷の上をはねるウサギを見つけました。急降下でウサギの上に降ります。氷が割れて、ウサギは湖を漂います。鷹はウサギの息の根を止めますが、さすがに重かった。それをつかんで、はばたくことはできませんでした。割れた氷の上にウサギが、その上に鷹が、湖を流れて行きます。その先にある、大きな滝の音が聞こえてきました。鷹は余裕です。最後の最後までついばんで自分は飛び立てばいいのです。ぎりぎりまでうさぎの上に留まっています。そして最後の瞬間と思った時に、鷹は飛び立つことができなかった。ウサギの腹をしっかりとつかんでいた鷹の爪は、いつのまにかウサギの肉とともに凍り付いていたのに気が付きませんでした。そうして滝の水しぶきの中に落ちて行きます。

自分は人生の最後に神さまのことを考えればいいのだと思う、だけどそういう風には人生は運んで行かないですよ。パウロの熱弁を聞きながら「いずれまた」と言ってその場を去って行く人。あざ笑う人には恐らくチャンスはない。でも「いずれまた」と言う人には、もう一歩引きとめることができたら、もう一回関心を持っていただけたら、きっとパウロが言っていることが分かるに違いない。

3 4 節をご覧ください。「しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった」。
中には、人数は少なかったでありましょう、しかし信仰に入った人もいました。これが神を見いだした人々です。実は私たちひとりひとりと遠く離れてはおらず、私たちはこの神の手の中で生き、いのちと息とすべてのものをお与えになってくださった、神を見いだした人、天地の主を見いだした人。それが私たちでもある。私たちは聖書を信じ、キリストを知っていることを胸を張って賛美したい。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、日本の世界を見ますと、アテネの町とほんとに同じようだなと思います。パウロの勇気、必ずしも伝道は成功しなかったでありましょう。多くの人々が去って行ったでありましょう。しかし彼は勇気をもって自分が信じている福音をまっすぐに語りました。私たちにもパウロのような勇気を与えてください。
そして「いずれまた」という人々に何とか食らいついて、もう一度じっくり聞いていただけるような機会を備えることができるように、この教会をあなたが祝福してくださり、あなたを信じている者も、また初めてその福音に耳を傾ける者も、また何度も足を運ぶ者も、いつもあなたご自身がその手を引っ張って、恵みの世界へと導き入れてください。イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。アーメン。

☆感想をひとこと
日本と同じような状況のアテネでの伝道、これを失敗というのなら、私たちは毎週失敗続きではないでしょうか?状況は似ていても、私たちはパウロのように胸を張って、福音をまっすぐには語れていないと思います。教会に新しく来てくださった方に、自分の近くの席だったらまだしも、いつもどれだけの関心とか敬意が払われ、私たちの心の中で、次回またいらっしゃることができるように祈られているかと思うと、神さまに怠慢を赦していただきたいと願います。

鷹がせしめたウサギと共に滝に落ちて行く話は非常に象徴的でした。確か総督ペリクスとその妻ドルシラの前で呼び出されて説教をした時に、同じように「おりを見てまた呼び出そう。」と言ってパウロを帰したのでしたね。その時に先生が引用してくださった、印象深いお話でした。どんなによい説教も、心にやましい思いや恐れを持つ人には、悔い改めて救われるチャンスにはならないのだと残念です。しかし、神さまのやがて来る審判の時を想像すると、本当に神さまの目はごまかせないし、厳粛なものなのだと思います。今まだ猶予があるうちに、一回でも教会にいらしたということは求めておられ、何かしらの神さまのご計画があると思いますから、多くの人がそれぞれの罪や重荷から救われ恵みの世界へと招かれるように祈ります。

Uテモテ4:2にも「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」と、まことに適切な教訓が書いてありました。本当にパウロの勇気が私たちにも与えられるよう祈るばかりです。しかし、このアレオパゴスというところでは、ちょっとパウロも話の力点にイエスさまの十字架がなくて、死者の復活の話はあるものの、神さま中心になっているように思いましたが、これが臨機応変の伝道というものでしょうか?私たちももっと、いわゆるKY(空気を読む)ではありませんが、その人その人にあった伝道のことばと態度を使い分ける必要もあるかと思いました。


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