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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/21説教「聖霊を実感する(1)大胆に求める」ルカ11:5〜13
☆小島神学生のお証し
おはようございます。昨年のイースター礼拝以来、一年ぶりでまた高津教会の礼拝に出席して、このようにお証しできる恵みを感謝します。皆さんにはいつもお祈りとサポートをいただきまして、本当にどうもありがとうございます。

始めにみことばをお読みします。ヨハネの福音書4章42節です。「そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです』」。

私はこの一年でようやくイエスさまを自分のうちに感じることができるようになりました。それまでは天の父や、聖霊を感じることはあっても、イエスさまご自身をはっきりと感じることはありませんでした。それは私がパウロを通じてイエスさまを信じたために、いつもパウロが一枚噛んでいたからではないかと思うのです。つまりパウロが信じたイエス・キリストを私も信じる---そういう形になっている訳です。でも今はイエスさまを直接感じることができます。今のみことばで言えば『もう私は、パウロが書いたことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。』ということになります。

私の信仰がこのような順番になった原因は、明らかです。2001年の8月、私は近所にあった高津教会を初めて訪れました。そしてその日が藤本満先生による「ガラテヤ人への手紙」の連続講解説教の初日だったのです。信仰に熱心になればなるほど、逆に心は神さまから離れて行ってしまうことがあるという説教の内容を、新鮮な驚きを感じ、その続きが聞きたくて次週以降も礼拝に欠かさず出席し、その年のうちに洗礼を受けるに至りました。

こんな風にしてパウロを通じてイエスさまを信じた私でしたが、そんな私でもイエスさまは私を新しく生まれ変わらせてくださり、平安で満たしてくださいました。それで私はこの平安が与えられたことで充分に満足してしまい、それ以上イエスさまのことを深く知ろうとはしなくなっていました。その事を示されたのは、昨年の春学期に神学院で学んだ、K先生の「キリストの   」でした。神としてのイエスさまよりも、受肉した人間としてのイエスさまと、もっと徹底的に向き合う必要性を強く示されました。そこで私は神学院の男子寮の祈祷会の説教では、昨年の秋からはしばらくの間、ヨハネの福音書から説教をすることにしました。ヨハネの福音書には「ブドウ園の主人」のようなたとえ話がないので、他の福音書に比べて、実在のイエスさまにより一層迫ることができると思ったからです。

さらに私はイエスさまの話したことば、そのものに注目するよう導かれています。ですからこのヨハネの福音書からの説教の第1回目の準備では、冒頭の「初めに、ことばがあった。」などは一切飛ばして、いきなり1章38節の「あなたがたは何を求めているのですか。」と39節の「来なさい。そうすればわかります。」の思いめぐらしから始めます。これは素晴らしい導きでした。「あなたがたは何を求めているのですか。来なさい。そうすればわかります。」これは、イエスさまがバプテスマのヨハネの2人の弟子に向かって言ったことばですが、私には復活したイエスさまが私自身に、直接語りかけてくださっているように感じます。

こうして私はヨハネの福音書についての思い入れが精通して、イエスさまとの関係を深めて行くことができました。これはほんとうに素晴らしい恵みでした。最初にお読みした聖書の個所では、人々はサマリヤの女が話したことによって信じ、それでイエスさまから直接話を聞きました。私たち神学生が伝道の畑に出た時も、人々は先ず私たちの口からイエスさまのことを聞くことになります。そうしてイエスさまを信じる決心をした方々を、今度はイエスさまと直接交わりが持てるよう、私たちは引き続き助けて差し上げなければなりません。また、すでにイエスさまを信じている人でも、以前の私のように、イエスさまを内に感じる素晴らしい恵みを、まだ実感しておられない人もいらっしゃるかと思います。そのような方々に対しても、同じようにイエスさまと個人的な交わりが持てるように助けて差し上げなければなりません。そのためにはどうしたらよいのかを、しっかりと考えて行かなければならないと思います。

今私が個人的に考えているのは、やはりヨハネの福音書を最大限に用いることです。ヨハネの福音書の20章、21章には復活したイエスさまのことが書かれていますが、私はこの福音書の読者には、私と同じように1章から復活したイエスさまを感じてほしいと願っています。あまり大きなことを言ってはいけないのですが、何年かしたら私は、そのための字引書のような本が書けたらいいなぁと思っています。タイトルは「聖霊とともに読むヨハネの福音書」というのはどうでしょうか?(どこからか「いいですねぇ」「待ってます」とのサポーターの声に本人照れ笑)。

復活したイエスさまを感じるのは聖霊が働いてくださっているからです。ヨハネの福音書を聖霊とともに読むとき、イエスさまとの親しい交わりを感じることができます。そういう素晴らしい恵みに浸ることができるための手引書をぜひ書いてみたいと、今私はそんなことを考えながら神学院での日々を過ごしています。

霊的な思いめぐらしをするには、聖宣神学院はほんとうによい環境だと思います。イエスさまに従いたいと思っている方々が、もっともっと聖宣神学院への入学を志してほしいと願っています。今後とも聖宣神学院の働きと神学生のためにお祈りをどうかよろしくお願い致します。(拍手)


☆始めのお祈り
我が力は弱く乏し 暗きにさ迷い道に悩む 天つ風を送りたまえ さらば愛の火は内にぞ燃えん

我がすべては主のものなり 主は我が喜びまた幸なり 主よ御霊を満たしたまえ さらば永遠(とこしえ)の安きを受けん
(この日の賛美インマヌエル讃美歌565番「主よわれをばとらえたまえ」より3〜4節)

恵み深い天の父なる神さま、あなたは時にこの世界にあらしを吹き、地の表を一掃されます。昨晩の風を治め、またこの道も草木も建物も私たちのたましいも洗い流してくださり、春の日差しを受け新鮮な思いで、礼拝に出ることができました恵みを心から感謝致します。

私たちの力は弱く乏しく、暗きにさ迷い道に悩みます。聖霊の息吹を送ってください。そうすれば愛の火は内に燃えます(565番3節)。私のたましいを捕えてください。そうすれば私のたましいは解き放たれます(1節)。時に私たちのたましいは心配に囚われ、不安に囚われ、忙しさに囚われ、しかしもしあなたが私のたましいを捕えてくださいましたなら、私のたましいは解き放たれて行きます。

憐れみ深い天の父なる神よ。今日の年度替わりの忙しい時期に、また教会によりましては、牧師が交代するこのさまざまなアップダウンの中で、どうか受難週を迎えようとしております私たちのたましいを捕え、その事によって私のたましいを補って下さい。みことばに耳を傾けます。そして午後には修養会に出かけて行きます。行く者もまた残る者も、あなたは等しく恵みを加えてくださいます。ですから、今度のパーム・サンデーには皆がまた揃い、晴れやかな、しかし厳粛な思いで、受難週を迎えることをどうか許してください。

今日さまざまな事情で礼拝に集うことができない方がいらっしゃいましたならば、あなたが等しく届いてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆説教
教会ではパウロの生涯から連続で学んでいます。予定で行きますと、今日が20回目でありますが、今日の修養会、せっかく午前と夜に2回集会がありますので、私は「聖霊を実感する」というタイトルで、大体骨子ではありません。もう少しきちっと聖書を読みながら、聖霊について、特に祈りについて学んでみたいと願っています。

ルカの福音書の11章を開いていただきたいと思います。このイエス・キリストのたとえには前の話があります。それが11章の1節目「さて、イエスはある所で 祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。(バプテスマのヨハネですが)ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』」。そうして『主の祈り』が始まります。

『主の祈り』はマタイのバージョンとルカのバージョンがあります。ルカの方が短いですが、私たちの教会では基本、マタイの福音書に出てくる主の祈りのバージョンを使っています。ですから、“罪をおゆるしください”ではなくして、“負い目をおゆるしください”になっています。世界中の教会がどちらかですね。“罪”であるか“負い目”であるか、それはルカの福音書を取るか、マタイの福音書を取るかのどちらかです。

1)主の祈りで独特なことば「父よ」。

主の祈りの内容はよくご存じだということを踏まえ、(藤本先生は突然【】を思い出されたように、お知らせが入りましたが)、【今、祈祷会では古川先生による『主の祈りの連講(注***連続講解説教の略)』が始まります。】その中で何が独特かと言うと、間違いなくこの「父よ。」(という呼びかけという意味でしょうか?***T・Y)です。

先週アレオパゴスにおけるパウロの説教を致しましたが、パウロはあの偶像にあふれているギリシャの人々に対して、天地万物をお造りになった神は、人の手によって造られたその神殿や宮にお住まいになる、あるいは偶像の中に宿るということはない、という説教を致します。

旧約聖書でいけにえを用いた詳細な儀式を経て、大祭司が祈りを捧げる。ソロモンはその神殿を献納する時に、神に捧げる時に、そこを祈りの場所として制定しました。神殿は祈りのためにある。神と人との係わりで最も大切なのは祈りです。最も厳粛な精神生活の営みは何かと言えば礼拝もそうでしょう。しかし、祈りです。人間の生活の局面で祈りほど密接に神さまに係わることはない。なぜなら、祈る時に、私たちは神の恵みの座に出て神に向き合うから。

でもその神なるお方は天地万物をお造りになり、私たちにいのちと息と万物とをお与えになった神さまに祈る時に、イエスさまは「父よ。」と言いなさい(と教えられた)。父よ、お父さま、お父さん、お父ちゃん、(どういう言い方であれ、)「父よ。」というのは独特ですよ。

昔私の娘が幼稚園生だった頃に、近所のゆかちゃんという子が我が家によく遊びに来ていた。私に会いますと、我が家では息子と娘がアメリカで生まれたので、お父さんと言わないで、独特な言い方で「ダディ」と直樹も愛香も言うんですけれども、ゆかちゃんは私を「ダディ」と呼ぶんです。(大笑)ゆかちゃんにしてみれば、幼稚園の年中さんぐらいで、何と呼んだらいいか分からないのでしょうね。「おじちゃん」と呼べばいいんですけれども、「ダディ」と、こう呼んでくれるわけですね。すると、私はゆかちゃんが自分の娘であるかのように可愛く思える。「お父さん」と知らない子に呼ばれますと、皆さん独特な感じがしますよ。まず第一にこの子はいったい何者なのだろうと(大笑)。私のことを「お父さん」と言う。でも次の瞬間、この子は私のことを「お父さん」と言うと思うと、この子に対して独特な思いに駆られる。それほど「お父さん」とか「お母さん」とか呼ばれるということは独特ですよ。

よく言うじゃないですか?途中で結婚してお父さんが変わった。そして子供はなかなかその人のことを「お父さん」と呼ばないんですね。ところが、ある出来事を経てふとした瞬間に、「お父さん」って呼んでくれる。そのお父さんの感激ってあるでしょう?私たちは今まで、天の神に向かって「お父さま」なんて呼んだこともない。呼ぶ側も躊躇があるかもしれない。しかし、もし私たちがお父さんと呼んだ時に、天の神さまがどれほどの心を動かして、「よくぞ私のことをお父さんと呼んでくれた。」とおっしゃるかは、想像するに難しいことではないです。

さて、イエスさまはそのお祈りを教えてくださった後に、5節からのこのたとえをするのです。簡単にお話しいたします。まず第一にこのたとえを整理します。こういう風に始まりますが、5節「また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、「君。パンを3つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。」と言ったとします』」。ある日、旅の途中の友人が突然夜中にやって来た。旅の行程を損なったのでしょう。到着したのは夜中だった。もう自分はパジャマに着替えて、顔も洗って、電気も消して寝入ったところにドンドンドンとやってくるわけです。最初は無視ですね。でも並々ならぬその叩き方で、しょうがないから目を覚ます。すると友人がいた。旅人をもてなすことを大切にするお国柄ですから、おなかを空かしている友人に食べ物を出すものが何にもない。冷蔵庫も空っぽです。もう参ってしまって、私は近くの折井さんの家に行くわけです(笑)。すると、さもありなん、私が折井さんのピンポンを鳴らしますと、折井さんは「こんな夜中にどなたですか?」「藤本ですけれども、何か食べ物余っていませんでしょうか?」(笑)。すると「先生、いくらなんでも勘弁してくださいよ。もうみんなお風呂に入っちゃって、私もパジャマを着て、いろんな所ももう真っ暗で、子どもももう寝ていますよ。先生、大丈夫ですか?その程度のことで、先生、頭おかしくなったんじゃないですか?」(笑)折井さんは必ずそう言いますよ。(笑)折井さんは常識的な方ですから(大笑)。これはね、イエスさまも認めているのです。

ちょっと8節を見てください。「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」。
彼は友だちだからということでは、起き上がって何かを与えるという、そんなことは誰もしないでしょうと(イエスさまもおっしゃる)。ところが、8節の後半には、「あくまで」頼み続けるなら、そのためには起き上がって、しぶしぶ必要なものを与えるでしょうと(イエスさまは言っておられるのです)。ここで、「あくまで」ということばのもともとの意味は「恥知らず」という意味です。真夜中に友だちを訪ねて、恥知らずにも家の扉を叩き続け、助けを求めてくる人の姿をイエスさまは描いています。

そして、持ってきた課題というのは、実はそんなに大きな課題ではない。例えば私が「圭子が倒れた」と言うのであれば、折井さんは飛び起きて何か介護をしてくださるでしょう。しかし、何も食べ物がないから少し分けてくれと言う(笑)。真夜中に友だちを訪ねて、恥知らずにも、まあそんなに大きくない課題を持って行くわけですね。出してあげるご飯もない。子供が寝ている中、こんな夜中に勘弁してくれという声がする。それでも叩くというのは恥知らず、これがたとえ話の内容です。

2)イエスさまはこの恥知らずの大胆さが祈りの心だとおっしゃっている。

祈りの心というのは、こういう恥知らずの大胆さがなければいけない。つまり天地万物をお造りになり、すべてをおさめておられる聖なる神に向かって、私が子どものことや、孫のことや、自分が批判されて人に傷つけられて、食欲が進まないとか、寝られないとか、人を傷つけるようなことばを言ってしまったとか、悩んでいるとか、悔いているとか、仕事がうまく行きますようにとか、日頃の小さな事、つまらないことを天地万物を治めておられる神の所にわざわざ持って行くのです。普通でしたら、「その程度のことは自分でやったらどう?」(と言いたいところでしょう)。神さまどうか、私は中学校は一年生2年生と結構勉強していましたが、中3部活が終わってわずか2カ月で馬力を上げました。どうかこの高校に合格しますようにというお祈りを持って行くのです。普通でしたらですね、「そのお祈りを今頃持って来る前に、まず1年間2年間じっくり勉強したかどうか、自分の胸に手を当ててよーく考えてみなさい」。普通だったらそういう言葉が返ってくるじゃないですか?神さま、どうかあの美しい女性と結婚することができるようにと一生懸命祈るわけでしょう?普通だったら、神さまは「君ねぇ、自分の胸に手を当てて(笑)、鏡に自分の顔を映して見て(大笑)よーくそれが可能かどうか考えてごらんなさい。」と言いますでしょう?

イエスさまはですね、そうはおっしゃらない。9節を見てください。「求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」。どういうことか?

私たちは一般的に求める努力、捜す努力、叩く努力という風に理解する。どこまでもあきらめずに求める、捜す、叩く、すると努力が報われて神さまが開いてくださる。でもそういう解釈は誤っています。そういう意味ではない。迷惑を承知で求めよ、捜せよ、叩け。恥知らずになって、あくまで叩き続けなさい、あくまで頼み続けなさい。イエスさまはおっしゃった。なぜなら、神さまには開ける用意がある。神さまにはあなたの日常的な小さな事に耳を傾ける用意がある。だから安心してやりなさい。恥知らずだと思って遠慮せずに、安心してやりなさい。なぜでしょうか?11節、12節、13節を交替に読みましょう。13節はご一緒に。「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか」。「卵をくださいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう」。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」。

ここに聖霊が出て来ますが、今の文脈でイエスさまがおっしゃったことは、神さまはあなたのお父さんであり、あなたは子どもなんだよ。魚を欲しがる子どもに蛇を与えるお父さんがいるか?卵を欲しがる子どもにさそりを与えるお父さんがいるか?子どもを愛する父なら子どもに向かって「恥知らず、そんな身分不相応な願いごとを私の所に持って来るな。」と怒るお父さんがいるか?もっとも、おおよそ子どもが望まないような仕打ちをする父親もいることは事実です。でも天の父はそうではない。そうではないということを、心に留めながら祈りの世界に入って行け(とイエスさまは言われる)。

祈りに入って行け---皆さん教会にいらっしゃるようになって、クリスチャンになられる時に、皆さんになかなか乗り越えられないギャップがあるとしたら、礼拝に毎週来るというギャップよりももしかしたら、毎日、毎食後、毎食前、また朝起きた時に、夜寝る前に、お祈りするかどうか、これがなかなか身に付かないと、神さまに向き合うということができない。信仰に入る前と信仰に入った後と、不安や問題課題に向かって行く姿勢が以前と全然変わらない。

だいぶ前に話したことがありますが、チャールス・ディケンズという人が「二都物語」というロンドンとパリの話を書いています。あるお医者さんが出てくるのですが、20年間牢獄に入れられるのですけれども、牢獄の苦労を忘れようと、彼は牢獄で靴の修理を習います。20年間小さい暗い牢獄で毎晩、囚人の仲間の靴の修理をする。とうとう革命によって、彼は晴れて自由の身になるのですが、一向に外に出たがらない。20年間小さな部屋にいたので、その彼はとうとう自分の部屋に屋根裏部屋を造り、そこをちょうど牢獄と同じ大きさにして、毎晩彼はその部屋に入って外から召使に鍵をかけさせて、その部屋でようやく安心して生きて行けるという悲しい物語です。

自由の身になって、自由に神さまの前に出るように、キリストの十字架を信じたにもかかわらず、自分を閉じ込めて行く姿。イエスさまはそういう姿から私たちを解放するために、『主の祈り』に「父よ。」ということばを先ずお入れになり、それからこのたとえをされているのです。「叩きなさい。そうすれば開かれます。」というのは、どれくらい叩くか、あなたの努力次第によって、神は働いてくださるという意味ではない。私たちは遠慮して叩かないのです。あるいは過去に祈りが答えられなかったという体験を引きずりながら、びくびくして大胆な祈りを前に出すことができない。イエスさまは、神さまには扉を開く用意がある。だから心配するな。びくびくするな。恐れながら祈らなくてもよい。安心して求めなさい。大胆に父の恵みの座に近づきなさい、という意味で、このたとえを注釈なさいました。

アメリカの話ですけれども、3歳の男の子がお母さんと一緒にスーパーに行きました。スーパーに入る前に、お母さんは息子を立ち止まらせて、お母さんはしゃがんで言い聞かせました。「今日はお母さん、絶対にチョコレート・スティック買わないから。『買って』ってお願いするだけ無駄よ。よーくわかった?みっちゃん(笑)」。そしてスーパーに入りますと、男の子はカートに乗せられて、車の後ろに回ります。カートはお菓子の棚を通ります。すると、男の子は自分の大好きなクッキーを見ながら「ねえ、お母さん、ねぇ、お母さん」と(叫びます)。お母さんは、「だから言ったでしょう。絶対に買わないから、お願いするだけ無駄よ」。お母さんは黙って他の棚に行きます。ところが、またそこに近づくと男の子の目はクッキーをじっと眺めて、お母さんに「ねぇ、お母さん、お願い」。お母さんは厳しい目で睨みます。それ以上何も言わないでと(言わんばかりです)。すると男の子は「ねぇ、お願い。イエスさまのみ名によってお願い」(大笑)。そう言われると弱い。そんな手があったのか。お母さんは男の子にクッキーを買っちゃった。私はいい話だなと思いますよ。

そんな恥知らずの願いごとが私たちにあるのですね。私たちは、そんな願いごとをするなんて、その前に事前の努力をしなさいとか、それなりの積み上げがあってからその願いが聞かれるでしょうとか、私たちは最初からもしかしたらこの扉は開かないんじゃないだろうかという前提で祈る。そうすれば、イエスさまがおっしゃった「たたきなさい。そうすれば開かれます。」というのは、開くも開かないのも、あなたの叩く努力次第ですよという風に私たちは聖書のことばを読んでしまう。でも今申し上げました物語の流れを見ますと、そうではないということが分かりますでしょう。

父なる神は、寛大で愛にあふれたお方で、安心して大胆に祈りなさい。大胆に恵みの座に近づいて折りにかなった助けを得るようにしなさい、そしてそのために、わたしの名を使って大胆に祈りなさいとおっしゃった。

3)求める者に父は聖霊を下さいます。

それが13節の後半に出て来ます。「とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」。ここで聖霊が出てくるのはちょっと唐突ですが、でもとっても意味があります。求める者に聖霊を下さる。聖霊は何を教えてくださるのでしょうか?聖霊は何をしてくださるのでしょうか?今日の礼拝ではロマ書の5章の5節を一緒に読みたいと思います。ルカの福音書の次がヨハネ、それから使徒の働き、その次にロマ書が出て来ます。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。

聖霊は私たちの心に神を愛することを教えてくださる。つまり聖霊が来て私たちは「父なる神さま」と言うこの父が分かる。聖霊なくして父の愛もわからないし、私たちも父の愛に応えて父を愛することができない。聖霊はいったいどんな働きをするのか。聖霊はあなたの心に神の愛を注いでくださる。聖霊を与えてくださいと祈り、その聖霊とともにいる時、祈る時、聖霊は私たちの心に何とも言えない、主の前に座る平安な納得を与えてくださいます。そんなこと言うもんじゃないと怒鳴られたり、手痛いひどい仕打ちを受けるのではないかとびくびくしながら、聞こえないような祈りを祈るものではない。神に願いたいこと、訴えたいこと、聞いていただきたいことは、安心して神さまのみ前に出してよい。聖霊は私たちの手を引っ張って、あなたがどんなに神さまに愛されているか、愛されているがあまりに、父なる神は御子イエス・キリストを十字架にかけ、あなたの罪を贖い、あなたを子どもにしてくださった。その事実を私たちに教えてくださる。

小島兄の証しでものすごく私の心に理路整然と響くのは、神を知り、聖霊を知り、しかしイエス・キリストの愛は、どこかでパウロを介在していた。そしてイエスさまが最初におっしゃったように、「あなたがたは何を求めているのか。」そして「来なさい。そうすれば分かります。」とイエスさまは弟子たちに声をかけた。それは紛れもなく、私に声をかけてくださった。そしてイエスさまについて行った時に、何か漠然と神の愛がもやもやとしていたのが、あたかも私の前に、手を取って引っ張って行ってくださる羊飼いのお姿がここから実感することができたと。聖霊は何を教えてくださるのか?イエスさまはおっしゃいました。聖霊はイエスが語ったことばを、あなたの心のうちにずっさりと届けてくださる(ヨハネ14:26でしょうか?***T・Y)。聖霊は会ったこともないイエス・キリストがあなたを愛し、あなたのために十字架にかかってくださったことを、あなたが心から分かるように導いてくださる。聖霊を与えてくださるように、その聖霊を求めて祈る。このことを心掛けて頂きたいと思います。この聖霊を求めて祈る態度は人間的な熱心さではない。静まって、十字架の愛、自分がどれほど神さまから愛されている神の子どもかということを祈る前に、心を静めて、自分の心から先ずそれを浸透させて行く。ばたばたばた祈りに行かない。

チャールス・スウィングルという牧師が、ある日食事が終って、娘が自分の所に来て、「ねぇ、お父さん、聞いて」と、何か慌てふためくように、学校でお友達とこんなことがあったということを、早口で喋りまくりました。娘に「お前なぁ、お父さんはここにいるんだから、そんなに独りでばたばたと話すことないだろう。」と言うと、「だったらお父さん、ゆっくり聞いてね。」と言われたとか。ゆっくり----その時、心に責めを感じた。そういえば娘の真剣な訴えに自分は足を留めて、ゆっくり聞いたことがないと。

神さまという方は、ゆっくり向き合って、扉を開いて、私たちの祈りに耳を傾けてくださるお方であるということを、聖霊が教えてくださる。だから「父よ。」と言うときに、私たちはひとりでいて、聖霊は私たちは神の子であり、自分が祈ろうとしている相手は自分のお父さんなのだということを認識して祈りを始めない限り、私たちの祈りはいつまで経ってもばたばたばた-----(と、さ迷うばかりで祈りに成熟を見ないのでしょうか?***T・Y)。聖霊を実感するには祈る以外にない。そして聖霊を求めなさいと言うときに、もちろん、聖霊の力を求める場合もあるでしょう。しかし何よりもまず聖霊が教えてくださる。私は神の子どもです。イエス・キリストの十字架によって神の子どもとされ、私はどんな恥知らずの祈りを持って行っても、主はそれを受けてくださる。耳を傾けてくださる。聖霊によって注がれた神の愛は私たちを大胆にさせる。

ロマ書の8章の14節と15節をともに声を合わせて読んで終わりにしたいと思います。ちなみに15節にアバと言うのは、アラム語(イエスさまが当時話されていた言語)で「お父ちゃん」という感じです。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます」。

☆終わりのお祈り
(説教の最後、ロマ書8:14〜15を受けて)、
恵み深い天の父なる神さま、「父よ」、子としてくださる御霊を受けた私たちは、御霊によって、この天地すべてを創造し治めておられるあなたの前で、「お父さん」と呼びかけられるこの恵みを感謝します。それは単なる呼びかけではなく、現に私たちは神の子どもであり、あなたは子どもを慈しむように、私たちの日常生活で起きるさまざまな出来事を慈しみの眼差しをもって見ておられ、世話してくださり、導いてくださり、守ってくださり、必要な物を与えてくださり、悪い物を退けてくださる。

そのあなたの前で、心を静めて、「ああ、お父さま。あなたは本当に私を愛しておられるのですね。」と、心から肯いて祈りを始めることができますように。そしてそのように祈り始めることによって、聖霊が我が内にあり、私の死せるたましいを生き返らせ、死せる体をも聖霊が支えてくださるということを私たちが知ることができますように助けてください。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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