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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/28パーム・サンデー説教「キリストの十字架を信じる信仰」ルカ23:33〜49

☆説教
ルカの福音書の23章、十字架の記事は4つの福音書によって書かれていますが、恐らく一番私たちの心に留まる記事を今日は選びました。なるべく淡々と聖書を解説します。それを時に目をつぶって聞きながら、自分自身がこのゴルゴタの丘に立っているかのように場面を想い浮かべ、ここに登場します犯罪人のひとりに自分自身を重ね合わせて、短く聞いていただければ感謝であります。

二人の犯罪人が十字架につけられるために、ゴルゴタの丘に向かって行きました。イエスさまも一緒です。ですからゴルゴタの丘の十字架はこの日3つありました。十字架はローマに反逆する政治犯や極悪非道な犯罪を犯した人物だけに執行する極刑でありました。あまりに厳しい刑罰なので、ローマの市民がこれによって死刑にされるということはありませんでした。

この二人の犯罪人がどのような罪を犯したのかは聖書には書いてありません。恐らく当時頻繁にありましたユダヤのテロリストたち、すなわち革命ゲリラ犯であっただろうと言われています。二人はこれまで十字架を何度か見たに違いありません。しかし今日は様子がまるで違います。自分が十字架にかけられ、そこに異様な人だかりが集まって来ました。そして、前を行くナザレ人を嘲りつばきをかけたりします。

ゴルゴタの丘は、エルサレムの外にありました。エルサレム市内全部を引き廻され、ゴルゴタの丘にたどり着くまで時間がかかりました。前を行くイエスは鞭打たれ、背中は真っ赤で背中の骨が見えていました。(力尽きて)何度も彼は道端で倒れます。犯罪人たちも自分の十字架を背負って放心状態で歩きます。ほんとうにこれが自分の人生の最後なのか、まだピンときません。これから釘づけになる痛みを考えただけで気が遠くなります。

丘の上で、担いできた十字架を地面に置き、着物をすべてはぎ取られ素っ裸で、それから痛みを和らげる酸っぱい葡萄酒をがぶ飲みし、十字架の上に寝かせられます。それから太い長い釘が一撃のもとに手首に打ち込まれ、激痛と共に激しい叫び声を上げます。もがいて兵士に抑えつけられ、そしてもうひとつ手首に、次に横に押し広げられたかかとに、またもうひとつのかかとに釘が打ち込まれます。

打ち終わりますと、十字架は大地に立てられ、体の重みで肉が裂けて行くのが分かります。残された力で苦しみの叫びを上げることだけが、痛みをほんの少しでも緩める効果でありました。気絶してはさらに強い痛みに起こされ、犯罪人は十字架の上で、これから長い、永遠とも思える長い最期を遂げて行きます。イエスの右側に自分が、真ん中にナザレ人のイエスが、その向こう側に革命の同志が磔(はりつけ)にされています。

十字架の上から彼は霞み行く目で何を見、何を聞き、何を考えたのか、それが今朝のメッセージです。

1)彼は自分自身を恥じる思いに至る

ひとりの犯罪人が隣のナザレ人を見ようと顔を横に向けました。その瞬間、釘で打ちつけられたかかとの片方に力がかかります。そして、全身痙攣を起こす痛みに襲われ思わず叫びます。ちらりとイエスを見た時に、イエスと目が合いました。それは純粋な目で、同時に計り知れない英知と権威に満ちた目でした。革命ゲリラとして闘ってきた彼は権威というものを知っていました。権威は経験を通して掴むもの。社会の波に揉まれて、時にねじられて、ずる賢くなって行くもの。でも彼はナザレ人はどうしてこんなに罪のない目をしているのだろうか?その目を見た時、彼は目をそらしました。

イエスと自分との間には、多くの共通点がありました。しかしまるで違う原則で生きて来ました。イエス・キリストは、暴力に訴えることを完全に拒否しました。国の力も軍隊や政治の力も彼には無用でした。「あなたの敵を愛しなさい。」(マタイ5:44、ルカ6:27)と教えます。「剣を取る者は剣で滅びます。」(マタイ26:52)ともおっしゃいます。「柔和な人は幸いです。その人は地を相続します。」(マタイ5:5)----革命ゲリラにとって、そんなことはナンセンスでした。地を相続したのはローマではないか。ローマが柔和である訳はない。力が剣がものを言う。ローマを剣で倒すことだけが地を相続することができる方法だ。

彼は自分が家を飛び出して、革命軍に加わったあの青年の日のことを思い出しました。それは、彼が男になった日です。友人も親も優しい思いもすべて捨てました。ローマに対する憎しみだけが自分を支えて来たのです。しかし隣の十字架にかかっているナザレ人イエスの目を見たとたんに、彼は自分の苦々しい体験が何かとても醜いものであるかに見えました。「俺の生き方には恥ずべきことが沢山あったのだろうか?」即座に自分に言い聞かせました。「いやいや、そんなことはない。俺は国のために闘って来たのだ。その結果がこれか。なんという敗北だ」。激痛に耐えて彼は、もう一度イエスの方に顔を向けました。

人々の嘲笑う声が聞こえます。「おい、おまえは民を救ったのだろう。ほんとに神のキリストなら、どうして自分を救わないんだ。選ばれた者ならなぜ自分を救わないんだ」。ローマの兵士も屈辱の挑戦をしかけます。「おまえはユダヤ人の王なのだろう。だったら自分を救ってみよ」。十字架の上で男は思いました。「ナザレ人よ、なぜあいつらに黙っている。あいつらを呪ってやれ。自分を呪うものには呪い返してやれ」。その時この犯罪人は、イエスの唇が動くのが見えました。34節「父よ。彼らをお赦しください。(彼らは、何をしているのか自分でわからないのです)」。

そのことばを聞いた瞬間、彼は耳を疑いました。同時に、突然自分が醜く、汚れて、裸であることを感じました。自分の人生が恥ずかしい。心の憎しみが恥ずかしい。鞭打たれ、晒し者になっているから恥ずかしいのではない。人々の非難を受け、裁きを受けているから恥ずかしいのでもない。理想を掲げながらそれを遂げることができずに、この世を去って行くことが恥ずかしいのでもない。この犯罪人は今まで自分が体験してきたいかなる力よりもはるかに強い権威の前に、自分が裸にされていくのを感じた。キリストの姿を前に、今自分の体を引き裂いている激痛よりも、さらに厳しい痛みがたましいを刺し通すのを感じました。

その時、もう一人の革命の同志が十字架の上からイエスを嘲ります。39節「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」。----「おまえはキリストなんだろう。自分と俺たちを救え」。息する力もなく、絶望と苦痛しか残っていないこの男の中に、いまだに憎しみと呪いだけは漫然として生きている。その嘲りのことばに、残された力を振り絞るように食ってかかって、もう一人の犯罪人が40節でこう言います。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。(だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ)」。十字架の刑罰に等しい自分の罪深さというものを、彼はイエスの十字架を前に初めて認めた。

私たちは人の罪深さをいとも簡単に見抜く。自分を傷つけ、自分をおとしめるような人の罠をいとも簡単に見抜くのに、自分自身の罪深さをどうして見ることができないのか。それは恐らく、イエスさまの十字架の前に自分を立たせたことがないから。いや中には、キリストの十字架を前にしながら、「おまえがキリストなら自分を救い、俺も救ってくれ。」と毒づく犯罪人もいる。つまり一生涯、最後の最後まで自分の罪深さを分からない人もいる。しかしここに出てくる犯罪人はイエスを前にして、自分は十字架刑に等しいほど罪深い人間であるということを認めた人間であり、私たちは受難週どこかでそういう自分に出会うことでありましょう。

(この犯罪人が十字架の上で隣に十字架に掛けられているイエスを見つめながら考えたことの2番目、)

2)絶望と恥の中で彼はイエスを見、イエスにすがる。

42節を見てください。「そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください』」。“イエスよ”という呼びかけで始まっていますが、それは先生でも、ダビデの子でも、尊い先生でも、主イエスでもありません。恐らくこの犯罪人は、イエスの教えも、力あるわざも何一つ知らなかったことでありましょう。初対面でこの時が初めてです。しかし彼はこの方がユダヤ人の王であることを確信しました。

「ユダヤ人の王」という立て札がイエスさまの十字架の上に付いていました。すべての人にとって、それは嘲りの立て札でした。しかし、この革命ゲリラの男だけには、それが冗談には見えなかった。しばらくすれば、この方は神の位に着くことを確信しました。「もしあなたが神の国の位に着くなら、私を思い出してください。」ではない。「あなたが(神の国の)位に着く時に、私を思い出してください」。

そして自分のために彼は祈りました。「私を思い出してください」。哀れで汚れた死にかけている自分のために祈ります。「(あなたが御国の位に着く)その時が来たら、私を思い出してください」。(と祈ったのです)。十字架の苦しみから救ってくれと言うのではない。嘲る者を滅ぼしてくれというのでもない。向こう側にいる革命同志のためでもない。こういうことが頻繁になされるユダヤの国情とそしてロ−マ帝国のためでもない。世界平和のためでもない。自分のために祈る。しかも自分のための些細な出来事ではなくして、自分のたましいのために祈る。これが(私たちに)なかなかできない。

先ほど申し上げました。人は人の罪深さを簡単に見抜きます。でも自分の罪深さに関して言うならば、おおよそそれは分からない。イエス・キリストの十字架と本当に向き合わない限り分からない。人は(他の)人のためには簡単に祈る。自分に起こる周囲の出来事のためには祈ることができる。家族のためならなおさら祈る。しかし自分のたましいのためにはなかなか祈らない。

彼は単純に主にすがりました。私を思い出してください。私を覚えていてください。私を忘れないでください。私を捨てないでください。あなたの心の隅のどこかに私を引っ掛けておいてください。驚く答えが返ってきました。主はあたかもこの犯罪人の口から出てきたその祈りを、長〜いこと忍んで待っていたかのように、イエスさまはすっぱりと、43節「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。犯罪人として処刑された男でありました。その手は多くの人の血に染まっています。そしてイエスという名前以外にはほとんど何にも分からないこの男。しかしこの男の過去をすべて赦し、彼を一瞬に救い天国に連れて行かれるイエス・キリストの権威、その権威を信じ、その権威にすがったこの彼の信仰。これが十字架を信じる信仰です。

今週、自分のたましいを危機的な危険におとしめるような出来事は起こらないかもしれない。何事もなかったかのように普通に一週間を過ごすかもしれない。しかし私たちは十字架を前にして、自分の罪深さを覚えると同時に、その罪深さを解決することができるとしたら、このキリストの権威にすがるよりほかない。そしておおよそ自分の口から出てくる中で、イエスさまが一番待っている祈りは、世界平和の祈りではない。自分の家族のための祈りでもない。あなたは先ず自分のたましいのことを案ぜよ。もう少し自分のたましいを心配した方がいいのではないか?そしてその心配を胸に私のところへ来い、(とおっしゃるでしょう)。イエスさまは長いことその祈りを待っていたかのように、「あなたを赦す」(と、)罪深さがろくろくわかっていない私を赦してくださる。

3)十字架を信じる信仰、それは委ねる信仰

すでに午後を回っていました。この男は一瞬自分の目の前が真っ暗になるのを覚え、これが最後かと思いました。しかしそういうことではなかった。自分の目が真っ暗になったのではなく、実際空がだんだん暗くなってきました。太陽は光を失います。もう目を開ける力もだんだん(なくなり)残ってはいませんが、それでも周囲が不気味に暗くなって行くのが分かりました。

イエスは叫びもせず、細々とした声で下に集まってきた女に何かことばをかけていました。そして最後に、大声で体を震わせながら叫ぶ声が、イエスの唇から発せられました。それが46節「父よ。わが霊を御手にゆだねます」。そう叫ぶと、体は単なる釘で磔になった死体になりました。自分の隣で十字架にかかり「父よ。彼らを御赦しください。」と言ったイエスのことば、そして「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいます。」と権威をもって約束されたイエスはもうおられない。死体となって、ひとりの人物の肉体が十字架にかかっているだけです。あたりは真っ暗。大地は揺れ動き、群衆は逃げて行きました。時は(お昼の)3時ごろ。

ところが、この男にとってはここからが問題でした。鞭打ちの刑で半分いのちを失っていたイエスさまが、先に息を引き取るというのが一番大きな問題です。「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいる。」とおっしゃったイエスが先に死んだら、じゃあ自分はどうなるのか?あの約束は何だったのか?あなたが先に息を引き取られたら、私はどうするのか?ここからが犯罪人にとって長〜い時間であります。彼は一人十字架の上に残された。

これから先はチャールズ・コルソン、私はよく引用しますが、彼は想像を入れながら、実に見事に描いていますので、それを引用して今日の説教を終わります。実に見事に想像を入れながら描いています。

犯罪人はたった一人残された。一人だった。イエスはすでに息絶えておられた。いつまで続くかしれない死に損ないの苦痛の中で、この男が握っていたのは、自分がイエスと同じパラダイスに行けるのだという約束だけだった。しかし彼は今どうやって死んだらいいのか分かった。イエスの最後のことばがそれを彼に教えてくれた。

祭司長と兵士たちの話が聞こえて来た。日暮れとともに安息日がやってくる。それまでに死体を十字架から引き降ろさなければならない。祭司たちは十字架にかかっている者たちがすぐ死ぬように、彼らの向こう脛を斧で断ち切るように頼んでいた。人間はなんと残酷な形で人間を処理することができるのだろうか。彼は会話を聞きながら改めて人間の残酷さを知った。しかし、それを責めることはできない。自分がもしその立場にいたなら、自分もそうしたであろう。

そのような残酷な仕方で行動できない方を、彼は一人だけ頭に思い浮かべることができた。それが隣で息絶えられたイエスであった。兵士は先ず向こう側の同士の足元に近づき、鉄の重々しい斧を一気に振り上げると彼の向こうずねを切り落とした。わずかの痙攣だけで叫び声はなかった。彼はすでに死んでいた。

続いて真ん中のイエスの所に回った。最初に息を絶えたのは彼であった。死が確実と見られ、兵士たちは脛を折らず、代わりにわき腹を槍で突いて死を確かめていた。兵士がゆっくりこちらに歩いて来た。十字架の下で、大きな斧を持っている兵士と死にゆく自分の目が合った。斧が大きく振りかざされるとき、男は目を閉じ静かに口を動かした。「イエスよ。わが霊を御手にゆだねます」。その祈りの通り、彼はイエス・キリストに手を取られて、パラダイスの門をくぐった。

この男の信仰は、自分の恥じいる罪深さを感じながら、ひたすら自分のたましいのために祈ってイエスにすがっただけではなかった。先に息を引き取られたイエスにどうすがったらいいのか、自分は本当にイエスとともにパラダイスに行くことができるのか、その悶々とした思いの中で、彼はイエスさまから最後の祈りを教えてもらった。イエスさまの祈りは「父よ。わが霊をみ手にゆだねます」。ただ、イエスが教えてくださった「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいます。」というこの約束のことばだけを握って、この男は自分のたましいもいのちも、明日のことも、過去のことも、自分の矛盾も不安も恐れも、すべてをイエスのみ手にゆだねて目を閉じ、彼は死の門をくぐり、やがてパラダイスの門をくぐった。

一週間、受難週が何のためにあるのか、受難週はキリスト教徒にとって、ただ一つの目的のためにあります。それはイエスの十字架に自分を重ねることです。十字架にひたすら向かって行き、私のために十字架にかかられたイエス・キリストに自分自身を重ねることです。あるいは先ほどの讃美(聖歌400番「きみもそこにいたのか」、インマヌエル讃美歌426「血潮滴る主の御頭」など)のように、ゴルゴタの丘に自分も立ち、イエスの十字架を見つめることです。見つめたら見えて来るのは人の罪ではない。自分の罪でしょう。その罪が見えたならば、「父よ。彼らをお赦しください。」とおっしゃる権威にあふれたイエスの姿以外に置かない。そして私たちは自分の持てるもの、自分のたましいも不安もいかにしてイエスの御手に委ねるか、それを受難週の課題として一週間を過ごして行きたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたは私たちをみもとに引き寄せるために、こんな罪深い私たちが大胆にあなたの御前に出ることが可能になるために、あなたは御子を地に送り、私たちが想像もできない形で御子イエス・キリストを十字架にかけ、私たちの罪を処分してくださいました。どうか、あなたの愛が分かるために自分の恥じ入る罪深さを先ず見せてください。あなたの柔和で優しく、しかし権威にあふれたみ顔を仰ぐことによって、自分がいかに罪深い者であるかを悟らせてください。

そして日頃私たちは、周囲の者のために、家族のためにたくさんの祈りを捧げますが、果たして自分が本当にパラダイスの門をくぐることができるのだろうか、自分がもしこの犯罪人のように、次の瞬間死ぬ者であったとしたならば、自分は果たして天国に行けるのだろうかということを考えながら、「私を思い出してください。」と、あなたに一切のことをかなぐり捨てて信頼します。

そして、あなたから戴いた「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいます。」というこの力強いみことばを握り、「(神が)すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)という力強いみことばを握り、「もし神があなたの味方であるならば、誰があなたに敵対しようか」(ローマ8:31)という力強い約束をこの手に握り、すべてをみ手に委ねる信仰を私たちに授けてください。イエス・キリストのみ名によってお祈り致します。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 23:23
LAST UPDATE: 2011.04.02 - 21:15

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