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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   祈りをやめたら罪になる(献堂記念聖日)
祈りをやめたら罪になる――サムエルの使命感
(献堂記念聖日)

Tサムエル一二・二三「私もまた、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない」。

                               ●サムエルの告別説教

 旧約聖書には、士師記というのがあります。サムエル記の一つ前です。そこに登場する士師は、イスラエル部族の裁き司です。士師の時代、イスラエルは、全体を統括するようなモーセやヨシュアのような指導者はいませんでした。カナンに部族ごとに割り当て地をもらって、分散して居住していました。統率のない中、それぞれが思うままに生きていました。彼らは、さまざまな危機に直面する度に、神さまに祈って、神さまは彼らに答えて、彼らの先頭に立って、敵と戦う士師を備えてくださったのです。
 そうした士師の中でも、サムエルはイスラエル全体を統括するような働きをしてきました。しかし民は、近隣の諸国と同じように王がほしいと願います。ここからイスラエルの王制が始まります。そして最初の王はサウルでした。
 サムエルはこの機会に身を引き、王に国の統率を任せます。彼は今後も預言者としての活動は続けてますが、ここで第一線を退いて、サウルに国を渡すのです。それに当たって、彼は一二章で説教をします。いわばサムエルの告別説教です。

 二〇節「主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない」。
 二四節「ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい」。

                 ●サムエルの使命感

 告別説教の最後で、サムエルは民に約束します。
 二二節「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない」。
 一線を退くサムエルは、この告別説教で民を励ましました。そして同時に彼は、「私もまた、あなたがたのために祈ることをやめない。絶対にやめはしない」と約束するのです。そのとき、彼は実に強烈な表現を使いました。「あなたがたのためにいのるのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない」と。
 祈るのを止めたら、主に罪を犯すことになるというのです。民のために祈ることをやめてしまったら、私が民に対して罪を犯す、つまり民に申し訳ないことになる――そんなことを言っているのではありません。ここで祈るのを止めたら、私は、「神に対して」自分が罪を犯すことになるというのです。
 祈りをやめることは罪なのでしょうか? そんな律法があるのでしょうか? 祈りは、神との交わりです。祈りをやめてしまったら自分の霊的ないのちは枯渇する以外にありません。その意味で祈りは、私たちにとって不可欠です。でも、他者のために祈ることをやめたら、罪になるのでしょうか? ヤコブ四・一七に「なすべき正しいことを知っていながら行わないのなら、それはその人の罪です」と記されています。いわゆる、怠慢の罪です。サムエルは、そういうことを語っているのでしょうか? 
 サムエルが「主の前に罪を犯すことになる」と言ったのは、律法の問題ではないでしょう。それは彼が意識した、使命の問題だったのではないでしょうか。民のために祈ることは、預言者サムエルが主からゆだねられた大切な仕事なのです。そう意識したとき、もしここで祈りを止めたなら、それは、あのヨナがニネベに行くように神に言われながら、それを拒んだのと同じ深刻さがあるというのです。
 献堂記念の聖日、私たちは高津の地にキリストの教会があり、そこに集って礼拝できる恵みを心から感謝します。同時に、私たちは高津教会に与えられた使命を意識します。多くの使命があるでしょう。その使命の土台に中心に祈りの使命があるのです。

               ●教会を助けてください

 「いのちのことば」(二〇〇三・三月号)に、クリスチャン精神科医の工藤信夫氏の文章が載っていました。その中で、先生はある教会が年に一度、みんなで唱える祈りを紹介しておられました。その教会では、献堂記念の聖日を迎えるたびに、献堂式の時の祈りをみんなで復唱するそうです。すばらしい祈りです。

『教会を助けて、人生に疲れた者がいやされるところとしてください。教会を助けて、罪とさばきに打たれた者が、生きる勇気を得るところとしてください。教会を助けて、正義を求める者が起こされ、希望を失わないところとしてください。教会を助けて、むなしさを覚えて弱る者に、永遠の命に憩う姿をみせるところとしてください。教会を助けて、孤独な者が聖徒の交わりを楽しめるところとしてください。教会を助けて、闘争的衝動が、キリストの平和の証しへと変革される場としてください。教会を助けて、教会のエゴイズムに陥らないよう、あなたさまの真理の導きをえるところとしてください』

 工藤氏は、この祈りの「教会を助けて」というところに心が留まったと記しておられました。本来なら、教会が私たちを助けるのでしょう。しかし、そのような使命を教会が果たすことができるように、教会に属する私たちが「教会を助けてください」と教会のために祈るのです。
 それをサムエルのような使命感をもって祈ることができたらと心から願う者とさせてください。
「教会を助けてください」。「教会学校の働きを助けてください」。「教会学校の教師を助けてください」。この祈りをやめたら罪になる、というほどの使命感をひしと感じながら祈る者とならせてください。
                 ●伝道への使命感

 聖書の中に、普通の人が罪と感じないことを、罪と感じるほどの使命を抱いていた人が、他にもいます。それはパウロです。
 Tコリント九・一六「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいにあいます」。
 パウロは、ロマ一・一四では、ギリシャ人にも未開人も、知識のあるにもない人にも、福音を使えることは自分の負っている負債である、と述べています。これらはみな、パウロの伝道に対する重荷を物語っています。
 サムエルは祈ることに使命と重荷を持っていました。それと同じような意味で、パウロは伝道することに使命感を抱いていたのです。それは、パウロにとっては、どうしてもしなければいけないことでした。コリント人への手紙第一の九章を見てみますと、パウロは一節で自分の「自由」を主張しています。また、四節からでは「権利」を主張しています。「自由」「権利」という言葉の目立つ中で、こと伝道に関しては、伝えなかったら、わざわいに遭うと告白するほどの、使命感を抱いています。もちろん、「おまえが伝えなかったら、罰を当てると」イエスが、彼を脅しているのではありません。それは彼が受けた使命感でした。

                ●ニーメラーの夢

 マルチン・ニーメラーという有名なドイツの牧師がいます。彼について詳しい宮田光雄氏は、岩波新書『ナチ・ドイツと言語』のなかで、ニーメラーについて興味深い話しを書いておられます(二〇二〜〇四頁)。
 ニーメラーは、ナチ政権成立前後から、ドイツ教会闘争の指導者として活躍し、ナチ政権が倒れた後には、ドイツの教会復興の指導者となった人物です。一九三四年のはじめ、ドイツの教会指導者たちがヒットラーに対して抗議の覚え書きを手渡すために、首相官邸に出かけていきます。そこで、ニーメラーをふくめ数名の指導者たちは、ヒットラーと激しい論議を交わしました。最後にヒットラーは「ドイツ国民のことは私に任せて欲しい」というのですが、それに対してニーメラーは「いやそれはできない。いかなるものであれ、神が教会に課せられた国民に対する責任を、渡すことはできない」と反論しました。
 このようにヒットラーと面と向かって論争した人は、ナチスドイツの全期間を通じて、ニーメラーたったひとりだったといわれています。彼は一九三七年に国家反逆の容疑で逮捕されます。裁判は、無罪でした。しかし、釈放されて帰ってきてみると、待ちかまえていたのは秘密警察です。彼はそのまま、「ヒットラーの特別囚人」という名目で、敗戦の日まで8年間ダッハウの強制収容所に入れられます。
 一九四五年五月、ナチスドイツは降伏し、ニーメラーは自宅に帰りました。ところが、その年の六月から七月になかばにかけて、彼が何度も見た夢があるそうです。

 私は白い雲の中から発するまばゆい光をじっと見つめていなくてはならなかった。首を回したり、目を動かしたりすることはできない。光と共に一つの声が響いてくる。その声は、私の傍らをかすめて、誰か別人に向けられている。しかし私は、首を曲げて、それが誰であるかを見ることができない。 その声はこう尋ねている。『おまえは、何か申し開きをすることはないのか』。そして、それに答えている声を聞いた時、私は仰天してしまった。「はい、私には、かつてなんびとも福音を語ってはくれませんでした」そう答える声は、まさしくアドルフ・ヒットラーのものであった。
 私は驚きのあまり目覚めたが、雲間から聞こえてくる次の声が、今度は私に向かって尋ねてくるのを、はっきりと予感できた。
「おまえは、なぜ、この男に福音を語らなかったのか。おまえは、かつてたっぷり一時間もこの男と一緒にいて、口論し、罵倒し合ったではないか。それらのに、おまえはこの男に福音をつげはしなかったのだ。」

 敗戦後、二ヶ月、ニーメラーは、繰り返しこの夢を見ました。それは、彼の心にあった伝道への重荷です。収容所でも、そしてその後の彼の人生でも、彼が持ち続けた心の痛みでした。ああ、あのとき、主の福音を語っていれば……。
 もちろん、ヒトラーは、福音を容易に受け入れることはないでしょう。しかしニーメラーにはわかっていました。福音が語られない限り、ヒットラーに救いはないのです。のみならず、福音が彼に語られ、彼とドイツの行く先が変えられることを、どれほど多くの人々が祈り願っていたことか、それをニーメラーはわかっていました。
 パウロと同じです。「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいにあいます」――そう言わせるほどの伝道への情熱が、ニーメラーにもありました。そして、私たちにも、この情熱が与えられますように。

 祈りの人、伝道の人に私たちを造り変えてください。

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DATE: 2003.02.11 - 22:19

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